水曜日, 12月 14, 2005

森澄雄小論・・・花眼のひと澄雄・・・



森 澄雄小論・・・花眼のひと澄雄・・・

  澄雄の第二句集『花眼』(昭和二十九~四十二年)は、つとに名声を博した句集である。そこで、澄雄は、“花眼”とは、中国語で“酔眼または老眼”の意であるが、“年齢の豊膩(ほうじ)と孤独の中に 自然の美しさとともに 人生の妖しい彩りの美しさが見えてくる眼”でもあるとし、この句集で、“人間は生きている時間のうちに 何を見、何を喜び、何を悲しんできたのか、いわば人間の生の時間を見つめようとした”と記している。
  澄雄の俳句は、一見すると、非常に平明で、かつ淡く、流れるような美しい調べをもっているが、その底流にあるのは、非常に洞察力に優れた、味わいの深い、哲学的な、人間の根源にかかわることを、その主題としている、ということに気付いてくる。
  そして、その底流に流れているものは、けして、表面には出てこない。それは、やさやさしく、さりげなく、その対象物のタト形のみを、一句に仕立てているように詠み取れるのである。 ところが、その澄雄の俳句を、自分の言葉で翻訳して見ようと試みると、これは大変なことで、底の深い、したたかな強靭性をそなえた、ある意味で形而上学的なことを内容としている、ということを思い知るのである。
  澄雄は、その第一句集『雪櫟』(昭和十五~二十年)のあとがきで、“その問俳壇では俳句における社会性の論議が喧しかったが、黙穀して、自らの生活に執した”と記している。昭和二十八年の、中村草田男の『銀河依然』の践文によってひきおこされた、この戦後の大事件ともいえる“社会性俳句論争”に関して、この毅然たる態度は、澄雄の真骨頂を示すものとして、その俳句を理解する上においても、重要なことを含んでいると、特筆に値するものと思われる。 かつて、澄雄は、“語りうる悲しみから語りえざる悲しみ”ということを語っている。これらのことについて、“花眼の眼を持つ澄雄”を、その俳句とその俳論から、澄雄の、その根底にあるものを、探ってみたい。

     俳句における抒情性(その一)

 澄雄に 「抒情と造型」という俳論がある。その中で、「自然を題材にしょうが、日常的現実を詠もうが、社会的現実を詠もうが、そこにはきびしい詩精神の働きが要求される。抒情の造型もおそらくそのうちにあろう」と、澄雄は言っている。
 俳人は、一般に抒情(特に短歌的な抒情)というのを、排斥する、排斥したい、と常に考えているところがある。澄雄の「短歌と俳句との間——『戦後新鋭百人集』を読んで」という俳論は、めんめんと、このことを主題にし、このことを論じている。
 しかし、短歌にしろ、俳句にしろ、一番の根底にあるものは、抒情そのものではないかと、常々、思っており、この抒情を、みそもくそも、切り捨てるという風潮に 何か悲しい気持ちすら抱くものの一人である。そして、澄雄が、排斥してやまない、“しめっぽい精神的風土、としての“`抒情的なもの”、それすらも、何故、許容することができないのかと、大変にいぶかしむものの一人である。いや、それだけではなく、澄雄の俳句というのは、抒情そのものではないのかと、澄雄には、奇異に思われるかもしれないが、そう感じられてならないのである。
 そして、それは、澄雄のいう、“詩精神”の原型として、抒情があると、理解するからにほかならない。そして、その“詩精神の原型としての抒情”が、詠嘆的になろうが、懐旧的になろうが、メローディアスな流露になろうが、それは、“俳句における抒情性、ということおいて、本質的なことがらではない、そのように理解したいのである。要は、その抒情の発露が、鍛練につみかされた、“詩精神”に裏打ちされたものであるかどうか、この一点にこそ、俳句創作上の`“`真の抒情”の存否を問う、という方向で理解をしたいのである。この意味において、わたしは、澄雄の多くの作品に、この、鍛練に裏打ちされたところの、“詩精神の原型としての抒情”をその根底としていると理解をしたいのである。

○  冬の日の海に没る音をきかんとす

 澄雄の、処女句集「雪櫟」の冒頭の句である。実に美しい句である.実に気品のある句である。実に静謐な句である。実にメローディアスな句である。真に格調の高い句である。
 そして、こういう作品は、それが、短詩であれ、短歌であれ、はたまた、俳句であれ、永遠に 一個の文学作品として、語りつがれていく、そういう生命力を持っている、と、そういうことを、教えてくれている、と、理解したいのである。
 そして、このような“生命力”を、この句に与えたものは、まさしく、鍛錬に裏打ちされたところの澄雄の“詩精神の原型としての抒情”にほかならないと、理解したいのである。
 そして、これは、まさしく、澄雄の俳句なのである。短歌でもなければ、短詩でもない、まぎれもなく、澄雄の俳句なのである。そして、それは、澄准は、詩を作ろうとしているのではなく、短歌を作ろうとしているのでもなく、まさしく、俳句を作ろうとしている、俳句という、永い伝統に裏打ちされた、俳句というジャンルで、澄雄の.“詩精神の原型としての抒情”を詠いあげているのである。
 その作品が、短詩であるのか、短歌であるのか、川柳であるのかは、それぞれの、そのジャンルの、永い間に蓄積されているところ、“きまり”なり、“精神”なり、“型”なり、それらに対する作者の意識の度合いと、それを受け止める、詠み感受性の度合いによって、伝達される、そういうものと、理解したいのである。
 この澄雄の作品は、五七五という定型、“冬の日”という季語、そして、芭蕉以来の俳句精神というものが宿っている。

○ 暑き日を海にいれたり最上川   芭蕉『奥の細道』(泊船集)

 この芭蕉の精神が、澄雄の句に 色濃く宿っている。そして、その芭蕉の世界の中で、澄雄は創作している。そして、その詩精神が、詠む人の心を強く打つ。そして、この詩精神の根底にあるのは、“物に傾き、物とともに揺らぐ、蕉風的な抒情の詩精神にほかならない”と、理解したいのである。

     俳句における抒情性(その二)

澄雄に「格調と伝統・・・あるいは憂愁と含差」という俳論がある。ここで澄雄は、現代の俳句を創作する人達には「物に傾き、物とともに揺らぐ浸透性が足りない」と指摘している。
  この「物に傾く.物とともに揺らぐ」とは、“人間として、いいようのない、喜びとか、悲しみとか、おかしさとか、はずかしさとか”といった心の動きが、一木一草にいたるまで、痛いように 手にとるように 共感的に伝わってきて、いてもたってもいられないような、そういう心情に近いものを指しているように思われる。それは、“驚き”にも似た、名状しがたき、心の動きともいえるものなのかもしれない。
  そして、この名状しがたき。心の動きともいえるものは、実は“詩精神の原型としての抒情”と一体となっていて、それは、密接不可分のものといえるものではなかろうか。このような意味で、短詩型文学の一ジャンルである俳句にあっても、最も、根底にあり、最も重要なファクターは、この“詩精神の原型としての抒情” そのものであると指摘することは、飛躍した指摘になるのであろうか。
  それは、決して飛躍した指摘ではなかろう。それが正しい見方であると確信する。そして、その見方は、澄雄が嫌うところの、あまりにも、ぎらぎらしすぎる“主観的情感や情緒そのものの抒情”とは、近いところにはあるが、それとは、異質な、澄雄のいうところの、“人間の尾(ぴ)てい骨”のような、その不可思議な、名状しがたき、人間の心の奥底の襞から発信するところの抒情であり、澄雄の抒情観の一面を、強調しているにすぎないといいたいのである。
  そして、澄雄の俳句の中に 非常に 洗練された形での、この“俳句における抒情”の一典型を見るのである。それは、“淡白な、押し殺した、自己陶酔の稀薄な、(比較的乾いた、
どちらかというと、男性的な)、そして、感情をあらわに述べず、物に即して感情を語らしめるような抒情”と、言葉をかえていうことが出来るのかもしれない。

○ かんがへのまとまらぬゆゑ雪をまつ              
○ ちちろ虫師に母ゐます健やかに
○ 紅梅に牛つながれて泪ぐむ
○ 力抜けゆく枯草にふる雪みれば
○ 家に時計なければ雪はとめどもなし
○ 除夜の妻白鳥のごと湯浴みおり
○ 犬吠えて峡は雪山すぐ応ふ    

 澄雄の、処女句集『雪櫟』からのいくつかの句である。ひとつの“澄雄節”が、ここにある。そして、これが、まさしく 澄雄の俳句なのである。俳句という、永い伝統に裏打ちされた、俳句というジャンルで、澄雄は、嘘偽らざる“詩精神の原型としての抒情”を詠いあげている。
  そして、この詩精神の根底にあるのは、“`物に傾き、物とともに揺らぐ蕉風的な(澄雄の)抒情精神にほかならない。” 
“かんがえのまとまらぬ”’ことと、どうして、“雪をまつ”が結合するのか。、どうして、“紅梅につながれて”、“牛が泪ぐむのか”。どうして“時計がないこと”と“とめどもなく降る雪”とが結びつくのか、これは、澄堆の、最も根底に位置する‘`詩精神の原型としての抒情”がなせる技なのであろう。“ちちろ虫”に “師や母の健やか”を願う心の動き、‘`枯れ草に降る雪“ を見て、自己の虚脱感を感じる心の襞、“除夜の妻'’と“`白鳥”、“犬の遠吠”と‘峡は雪山“との連想、ここに 澄雄の、最も根底に位置する“詩精神の原型としての抒情”が存在するのであろう。

       俳句における抒情性(その三)

澄雄の「格調と伝統・・・あるいは憂愁と含差」という俳論の中で、飯田蛇笏に関しての次のような記述がある。

○ 地雲してこずゑにとほく春鶫 (蛇笏)

・・・蛇笏句集をひもとけば、これほどの句はいくらでも見つかろう。だが、これらの句にも、「渓流をへだててやや嶮しくそそりたってゐる後山に、朝な夕な、濃いにせよ淡いにせよあいたい(注・原文漢字)する雲霧を眺めて、少しも 美しいとはおもはないけれども、眤(じ)つと眺めてゐると、何かものがなしく、むせび泣きたいやうな気持になって、われとわが身のありかたをこよなく愛しまうととするのである」という、その憂愁をいだいて、自らと家郷の風物にちかぢかと息をよせていろ、そうする者のみが発見できる美しさがある。・・・
そして、澄雄は、見事な批評をする。“・・・孤独という抽象的な言葉には、もはや蛇笏のいう憂愁という言葉のもつ沈痛な心の地色はない。・・・また、蛇笏のここにいう憂愁とは、家郷山盧(ろ)に青春の一切の希望を埋めたという過去への痛恨でももはやないであろう。まして、たんなる現実生活の憂愁でもない。いってみれば晩年とともに深まる、生それ自体の、いいようのない憂愁、そうしたずっしりとした重みでそれは響いてくる。さらにそれを作家としての面に極限していえば、その憂愁の根にひそむものは、「吾れ王言其出でずして死せんか。哀しい哉」という嘆きではなかったか。”
澄雄は、続けていう。“・・・人は他人(ひと〉の憂愁には容易に気づかぬ.僕もまた作家としても名声すでに確立し、その簡勁菅古くかんけいそうこ)の格調をもつ幾多のこ  の作家の作品を読みながら、迂潤(うかつ)にもその憂愁を推し測ったことは無かった。だがひるがえって己にその憂愁があったか。なるほど、僕らは憂愁という言葉をほとんど使わなくなった。憂愁という言葉の与える語感のなかに、ぼくらは一種の甘さをかぐせいもあろう。また憂愁という言葉には明治の自然主義文学 ― それ自体一種のロンチシズムを伴う ― を経過した、いかにもこの作家らしいにおいをかがないわけではない。・・・”
ながながと、澄雄の、飯田蛇笏に対する、思いいれの強い文章を引用したが、ここにいう、蛇笏の“何かものがなしく、むせび泣きたいやうな気持、― われとわが身のありかたをこよなく愛しまうとする〈気持)― ”それは、まさしく、‘`詩精神の原型としての抒情”そのものではないのか。‘`晩年とともに深まる、生それ自体の、いいようのない憂愁”とは、それは、まさしく、“澄雄のいうところの、人間の尾〈ぴ)てい骨のような、その不可思議な、名状しがたき、人間の心のひだから発信するところの抒情”そのものではないのか。“だがひるがえって己にその憂愁があったか。なるほど、僕らは憂愁という言葉をほとんど使わなくなった。憂愁という言葉の与える語感のな
かに、ぼくらは一種の甘さをかぐせいもあろう”という、この憂愁は、まさしく、“抒情”という言葉に置き換えられる、そういうものではなかろうか。

○  手をたれて春鳥をきく山の上
○  曼珠沙華みな山に消え夜の雨
○  年われを過ぎつつしばしとどまれり
○  山越えてみを雲ゆくや西行忌,
○  紀の国の黒き夜けさは鷹を見き
○  しぐれつつ我を過ぎおりわれのこゑ
○  さきがけのまぼろしの朴一つ咲く
○  白をもて一つ年とる浮鴎

 これらの澄雄の句は、いずれも、その第三句集「浮鴎」に収められている。見事な佳句である。見事な“澄雄節”である。これらの句には、まさしく、澄雄自身のいうところの“「何かものがなしく、むせび泣きたいやうな気持になって、われとわが身のありかたをこよなく愛しまうととするのである」という、その憂愁をいだいて、自らと家郷の風物にちかぢかと息をよせている、そうする者のみが発見できる美しさがある。”

      語りえざる悲しみ

 澄雄の「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)という俳論の副題は、「語りえざる悲しみ」とある。
ここで、澄雄は、「現代俳句は、作品も評論も.語りうるものを、あまりにあからさまに語りすぎるということだ。なぜ、自ら、『我を拊でて語り能わざる』ものに堪えようとしないのか。読者もまた、論理の筋を追って一つの概念に達するより、文学が人間を根底とするものなら、語ろうとして語りがたい作家の精神の表情を見ようとしないのか」という。
かって、澄雄は、「格調と伝統 一 あるいは憂愁と含羞」という俳論の中で、飯田蛇笏に関して、「・・・また、蛇笏のここにいう憂愁とは、家郷山廬(ろ)に青春の一切の希望を埋めたという過去への痛恨でももはやないであろう。まして、たんなる現実生活の憂愁でもない。いってみれば晩年とともに深まる、生それ自体の、いいようのない憂愁、そうしたずっしりとした重みでそれは響いてくる。さらにそれを作家としての面に極限していえば、その憂愁の根にひそむものは、『吾れ王言其出でずして死せんか。哀しい哉』という嘆きではなかったか」という。
この尭臣の「懐悲」という漢詩の一節の「我を拊でて語り能わざる」ということと、孔子の「大戴冠礼記(だたいちいき)」の巻頭王言篇にあるという「吾れ王言其出でずして死せんか。哀しい哉」という、この二つの言葉は、およそ、俳句といわず、すべての創作するもの(ここでは、正確ではないが、『詩人』という言葉で置き換えておく)の、もっとも大切なことをいっていると、これ以上の言葉はなかろうと、ただ、ただ、澄雄の眼識に恐れいるばかりなのである。
およそ、詩人にとって、その果てしない戦いは、ここでいう「王言」、すなわち、澄雄のいうところの「`生涯におけるもっとも重要な言葉」の模索といってよいのであろう。
そして、その模索は、その挑戦は、語ろうとして語りがたい「我を拊でて語り能わざる」という混沌とした世界の内に存するであろう。この混沌としたカオスの中で、詩人は「王言」を模索しつづける。それは、悲しき定めといえようか。それは、かなしき性といえようか。それは、悲しき職業といえようか。
 ひるがえって、蛇笏の憂愁・・・、単なる現実生活の憂愁からほど遠い、・・・、晩年とともに深まる、生それ自体の、いいようのない憂愁、そうしたずっしりとした重みの憂愁の、それが形をなしたるもの、それは、いわば、そのときどきの「王言」の定立といえるものではなかろうか。
 そして、それでもなお、憂愁はその影を大きくして、詩人の心をかきたてる。それは、語ろうとして語りがたい「我を拊でて語り能わざる」という、人間の悲しい性が、そうさせるのであろうか。

○ 蜀葵(たちあおい)人の世を過ぎしごとく過ぐ

 澄雄の第二句集『花眼』の中の澄雄の代表作の一つである。この句に関して、平井照敏の詩がある。

「澄雄の見た花が 紅であれ白であれ紫であれ 雨期をのみ盛りとする花がひとつの翳りであったことはまちがいはない 澄雄の翳りがこの翳りにとけこんで そしてはなれはなれて澄雄がどのように変貌していったか ぼくはただこの蜀葵の変貌を通じて 翳りの国の澄雄の貌を感じとるほかはない その貌はぼくらにありありと見える だがどうしてもことばにならない」

 「だがどうしてもことばにならない」、・・・、この平井照敏の呟き、この呟きこそ、澄雄の「語りうる悲しみから語りえざる悲しみ」に対しての呟きであり、その澄雄のいう「我を拊でて語り能わざる」ものへの問い掛けでもあろう。そして、それはまた、その「吾れ王言其出でずして死せんか。哀しい哉」という、澄雄の、その「王言」の定立に寄せる、平井照敏の呟きでもあろう。

    鞘(さや)のごときもの

 澄雄の「「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)という俳論の中に、安藤一郎の「鞘(さや)
のごときもの」という詩と楸邨のその詩に関する感想並びにその詩に関しての芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」との感想とが記述されている。

      鞘(さや)のごときもの   安藤一郎
 ・・・・                                    
      ぼくたちの存在を確証して
      そこから  脱出する勇気と
      そこまで到達する安らぎの
      両方を  ともどもに与えてくれる
      信仰も 母国語も
      いっしょになっている
      鞘のごときものは
      ついに  ぼくたちには無縁なのであろうか
       「鞘のごときもの」について  加藤轍邨・・・・

 私はとにかくこの詩を読みながら、芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の句が思いだされ、もう一度その世界をふりかえってみたくてしょうがなくなったのであった。
 それは何故だったろう。恐らく、この「鞘のごときもの」のような収結へと、脱出へとの同時にはたらく力関係を通して芭蕉の「夢は枯野をかけめぐる」の世界が呼びかえされたためではないかと思う。
 この芭蕉の不安のめざめてくる力関係は、こう言いなおしてもよいのではなかろうか。一つは人生のかたわらにほっと息をぬいた安心の場と、あくまで人生の真中で汗にまみれようとするけわしさとの相剋であると。「かけめぐる」には、究極の安定を求める、かぎりない不安定が、声調に滲み出しているような感がある。
 私はつくづく思う。俳人の最大の不幸の一つは、固定したできあいの「鞘」が用意されていることではないか。それは感受の仕方にも、詩としての外型にもそこへすっぽりはまりこんで、ぬくぬくとしていられる「鞘」である。・・・・
 俳句の「定型」も、・・・・ 「鞘のごときもの」として、無限に追いもとめられなければならない。「鞘のごときもの」は逃げ場ではない。「鞘のごときものは、ついにぼくたちには無縁なのであろうか」という安藤さんの嘆声に似た呟きは、私には、安藤さんがどうしてもあきらめないで、無限に求め、執していく、「不易」の場のように聞きとめられるのだが。

 澄雄は、師・楸邨のこの感慨に、これ以上「いうべき言葉を知らず」とし、重ねて、「『ぼくたちの存在を確証して、そこから陀出する勇気とそこまで到達する安らぎの、両方ともどもに与えてくれる』もの、あらゆる矛盾をふくみながら、あるひそやかにして切実な願い、― いわばこの詩自体にあるもの、『鞘のごときもの』あるいは『鞘のごときもの』への渇望は、俳句にならないものか」と、しみじみと述懐している。

○ 声出さねば胡桃になるぞ霜夜にて   楸邨

  楸邨先生より墨筆長文の書簡を頂く。末尾に
  「声出さねば胡桃になるぞ霜夜にて」の一句
  あり
○ 胡桃割つてみつみつの声霜夜にて   澄雄


      華やぎと蕭条たる孤独

 澄雄は、「病中花眼妄想」という俳論の中で、執鋤に 芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」について、追い求め続ける。それは、凄まじいものである。
そこで、楸邨の「『鞘のごときもの』について」で論究されている芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」(「蕭条たる枯野」観)についての感慨をも、切り捨てようとしている。それは、澄雄の「無限に求め、執していく『不易』の姿」を見る思いで、読むものに戸惑いすら与える。まさに「花眼妄想」という感じすら抱かせるものである。

澄雄は、能勢朝次、加藤楸邨、岡崎義恵、高橋庄次、山本健吉、安藤次男らの、芭蕉の、この「蕭条たる枯野」観について言及する。さらに 古典の、其角の『枯尾花』、支考の『笈日記』、蕪村の『夢中吟』らについても、深く考究する。そして、次のような澄雄独自の「蕭条たる枯野」観を樹立する。

「 芭蕉は己の悲寥の孤独をかみしめながら、一瞬はるばるとしたもののはなやぎを見ていなかったか。このはるばるとしたもののはなやぎによって、この一句の悲寥の思いはいよいよ深まると言ってよい。「旅に病んで」も、 いはぱそうした-句ではなかったか。「旅に病ん」だ心もとなさと、末期の自覚のなかに「夢は枯野を駈けめぐる伝その夢と幻覚の蕩揺のなかにあわただしった己の苦闘の生涯もかけめぐる。だが、いまは素直によしとして、『夢』も『枯野』も、あるはるばるとしたはなやぎとして芭蕉の目にうつる。・・・『夢心』と座五に置いて改革を試みた芭蕉の心のくばりにも、たんに作品としての安定をはかるほかに なにかこのはるかなはなやぎの思いが動いていたのではないか。そう読んで、詠みみ終わった芭蕉の平安な呼吸が僕にはきこえる。これは、病中花眼の、あえない希求的妄想であろうか。」

 澄雄の俳句が、一見して、みずみずしい、唯美的な匂いすら、ひとに感じさせるのは、この「はなやぎ」ということを、その俳句の底流に秘めているからではなかろうか。「このはるばるとしたもののはなやざによって、この一句の悲寥の思いはいよいよ深まると言ってよい」という、この「華やぎと蕭条たる孤独」ということは、実は、澄雄の俳句の特色といってもよいのではなかろうか。
そして、俳句を創作するものにとって、この「華やぎと蕭条たる孤独」ということは、もっともっと意識すべきことがらではなかろうか。

○ 七輪あふぐ女の尻を枯野に向け       (雪櫟)
○ 目ひらきて夢は枯野を阿修羅神       (花眼)
○ 年の夜の夢に入りたる山の雨        (浮鴎)
○ 旅は日を急がぬごとく山法師        (鯉素)
○ 赤らみてもう安心(あんじん)の青木の実(満方)
○ 発心の紅さしそめし青木の実      〈空艪)

昭和二十八年刊行の『雪櫟』から、昭和五十八年刊行の『空艪』まで、澄雄の、詩人の魂の根底にあり続けたもの、それは、「華やぎと蕭条たる孤独」ではなかったのか。澄雄は、けして、声を大にして、それを言はない。それは.人間の「憂愁と含羞」ということに対して、心底、「創作するものの〈詩人の〉最も根源的なもの」と感じとっているからにほからない。

 澄雄の俳句は、平明で、淡白で、唯美的で、何の変哲もない、メローディアス的な句と理解されがちであるが、とうして、どうして、底の深い、したたかな、形而上学的な(時間や空間といったことをも内容としている)俳譜性をも漂わしている、大変に個性的な、したたかな強靭性をかねそなえた、現代俳句の一典型といえる、そういうものと、私には思われてならない。


      花眼三部作・・・ほろびゆくものを見据える・・・

 澄雄には、「『花眼』について」(昭和三八・二)、「病中花眼妄想」(昭和三八・七、八)そして「花眼独断」(昭和三九・四)という花眼三部作の俳論がある。
 そして、昭和四十四年に刊行された、その第二句集『花眼』(昭和二十九~四十二)は、現俳壇の重鎮と目される著者の創作者としての境地を確立した句集として、澄雄にとっては特筆されるべき句集といってもよいであろう。
 澄雄の「花眼」とは、中国語の「華眼〈ホワエン〉」から由来し、「酔眼または老眼」の意であり、「年齢の豊膩(ほうじ)と孤独の中に、自然の美しさとともに、人生の妖しい彩りの美しさが見えてくる眼」でもあるとしている。
 この句集で、澄雄は、「人間は生きている時間のうちに、何を見、何を喜び、何を悲しんできたのか、いはぱ人間の生の時間を見つめようとした」と記している。
 澄雄の俳句は、一見すると、非常に平明で、かつ淡く、流れるような美しい調べをもっているが、その底流にあるのは、非常に洞察力に優れた、味わいの深い、哲学的な、形而上学的な(時間と空間などを内容としている)、人間の根源にかかわることを、その主題としている、ということに気付いてくる。
 そして、その底流に流れているものは、けして、表面には出てこない。それは、やざやさしく、さりげなく、その対象物の外形のみを、俳句にしていると読み取れるのであるが、それは、語ろうとして語りがたい、人間の言いようのない「憂愁と含差」ということを、創作者(詩人)の根源的なものと感じとっているからにほかならない。

○  父死ぬか百日紅も古びたり   (『花眼』― 優曇華 ― )
○  優曇華や父死なば手紙もう書けず( 〃  ―  〃  ― )
○  父死後のむらさきの木橦何の意ぞ ( 〃 ―  〃  ― )
○  父死後や面影も死に桃咲くか  ( 〃 ―  花杏  ― )
○  桐咲くや父死後のわが遠目癖  ( 〃 ― 〃 ― )
○  青天の辛夷や墓のにおひする  〈 〃 ― 綿雪 ― )
○  朴の花父母の写真の父は死にき ( 〃 ― 薔薇の季 ― )
○  父の遺影ありてくつろぐ若葉の夜( 〃 ―  〃   ―  )

 かって、澄雄は、「昭和三十年代後半、自ら花眼(老眼)の年齢に達するとともに 三十八年父の死に際会した。戦場で多くの戦友の死に直面したが、身近に人間の死という実感で立ち会ったのは初めてであった。その意味で、人生にとっても、従って私の俳句に対する考え方の上でも影響するところ、まことに大きかった」と述べてる。
 続けて、「この期間、・・・人間は生きている間に 何を見、何を喜び、何を悲しんできたのか、いはば人間の生の時間を見つめようとしたからであった。その思いを、俳句の単なる技術論ではなく、俳句と人生の関わりとして書いたのが、花眼を冠する幾篇かの随想的評論である。それらは、たとえば『花眼について』では悼亡詩、『病中花眼妄想』は、芭蕉の死、そして『花眼独断」では父の死を、というふうに死に関するものが多いが、花眼の意図したものは、死をそこにおいて、むしろ、生のよろしさであった」と言っている。

「花眼の意図したものは、死をそこにおいて、むしろ、生のよろしさであった」・・・、「生の賛歌は、死という厳粛なことと対比して、はじめて、それが浮き彫りにされる」・・・、これが、花眼三部作をとおして、澄雄が.揮身の力をこめて、主張したかったものではなかろうか。

「華やぎと蕭条たる孤独」・・・、この両極端にあるものの、その融合、・・・、それと同じように、「ほろびゆくものを見据えて、そこに生の賛歌を発見する」・・・、これが、花眼三部作をとおして、澄雄が、探求し続けたものではなかろうか。


      漂泊の魂 ・・・ 旅人の賦 ・・・

○ 水飲んで湖国の寒さひろがりぬ  ( 浮鴎 ・・・湖国 ・・・ 昭和四七 )
○ 秋の淡海かすみ誰にもたよりせず (    〃  〃      〃    )
○ 雁の数渡りて空に水尾もなし (     〃  〃     〃    )
○ たまのをの花を消したる湖のいろ(   〃  〃      〃   )
○ 稲秋の星を低くし湖の国    (   〃   〃     〃    )
○ 湖に陽のひかりをつめて冬に入る (    〃  〃      〃    )
○ 白をもて一つ年とる浮鴎    〈    〃  〃     〃    )

「子規の近代は、芭蕉のもっていた無常も造化も切り捨てたが、それはそれとしていいとしても、現代俳句は未だそれに代わる大きな思想も哲学ももちえていないのではないか。ことに戦後の俳句は自我の定着という方向にその新しさと鋭さを増したが、この『行春を近江の人とおしみける』の芭蕉のおおらかで豊かな呼吸を失ってきたこともまた事実であろう。
ぼくは度重なる近江の旅の間、この行く春を惜しんだ芭蕉の一句を放さず持ち歩き、また『去来抄』の『湖水朦朧として春を惜しむ便有ぺし』の-句を呪文のように胸につぶやいていた。いはば、この芭蕉がもつ、やさしくしかもはるかなものをかかえこんだその豊かなを呼吸を、もう一度自分の作品の呼吸として呼び込んでみたかったからだ。」

 これは、澄雄の、昭和五十年の「芭蕉の近江」の一節である。澄雄は、昭和四十四年に、第二句集『花眼』を刊行して以来、「`昨年句集『花眼』を出して『花眼』の仕事に一段落をつけた。以後句は一向に出来ぬ。人間の死につながる生の時間を意識した花眼の暗い空洞をそこに措いて、新しくたたらを踏むように潤達に山河の空間にでてみたい思いもあるが、いましばらく口をつぐんで、自らの予望を秋空流れる白雲にのせてながめておきたい」と、しみじみと独白している。
 そして、それまでの、「『「華やぎと蕭条たる孤独」・・・、この両極端にあるものの、その融合、・・・、それと同じように、『ほろびゆくものを見据えて、そこに生の賛歌を発見する』というような、人間の生々流転という、生きざま、死にざまというような意識、あるいは、無限の時間というような主題」を脱却して、それを育む、「その生の空間、その風土というようなこと、その自然の豊饒さということ、一木一草ということ、その雪月花の在り様というようなこと、その人間の在り様の空間のひろがり・・・」などに、澄雄の目は向いていくのである。
ここに、澄雄は、芭蕉の近江を、心の故郷と定め.ここに 漂泊の魂を、さまよえる旅人の賦を詠うことになる。すなわち、第三句集『浮鴎』の誕生である。

「『秋の淡海かすみ誰にもたよりせず』、四十七年作.この夏、ソ連中央アジアのシルクロードの町を歩く旅をしたが、その旅の一夜、静かな床上の心に『行春を近江の人とおしみける』の一節が思い浮かび、深々と胸を打った。打ったのは、日本の詩歌の伝統をつつみ、写実を超えてて、琵琶湖をかかえる近江の風土と人間をつつむ、そのはるかな大きな呼吸であろう。以来、この芭蕉の近江にひかれて、何回なく淡海(琵琶湖)への旅を重ねているが、これはソ連から帰って直後の作。
・・・ 堅田から大津に出て、はじめて義仲寺に詣で義仲と芭蕉の墓に線香を供えて、あるしんとした心の静まりを覚えながら、その帰りあの小さな電車の吊革を握ってゆられている時、ふうっと、胸から咳きがのぼるように、この一句が浮かんで、やや心の飢えを終息させる思いが在った。・・・ 」

 これは、澄雄の自解である。
 澄雄の俳句には、いいようのない漂泊感がただよっているのだが、それは、無限に求め、執していく、「不易」の澄雄の姿勢に由来すると理解できこととあわせ、近江の人、芭蕉を、心の故郷と定めていることに、より多く由来しているからと理解することも、甚だ容易なことであろう。


       俳句における虚と実

俳句といわず、一般に詩歌を創作するうえにおいて、真実あるいは事実ということと嘘あるいは虚構ということとの関連について、一度は検討しておくべき課題なのかもしれない。
澄雄の初期の俳論「石田波郷論一批評と戯作」の中で、「`芭蕉は『虚に居て実を行うべし。実に居て虚を行うべからず』とはっきり心得ていたのだ。 一本の所伝によれば『実に居て虚にあそぶことはかたし』とあるが、これは 僕を信じさせるに足りぬ」との記述がある。
また、山本健吉の「虚構の衰退」の「・・・本人が生の希望を棄てなかった時、俳句は死を覚悟している。実生活より作品の方がいっそう真実を貫いている。生活は俳句に追いつかないのです」との、俳人で健吉の妻の石橋秀野に関する記述がある。
澄雄は、この俳論をとおして何を訴えたかったのであろうか.この解答は「去来抄」の次の一筋にあるような気がする。

「  行く春を近江の人と惜しみけり 

  先師曰く、尚白が難に 『近江』は『丹波』にも、『行く春』は『行く歳』にもふるべし、と言へり。汝いかが聞きはべるや。去来曰く、尚白が難当たらず。湖水朦朧として、春を惜しむにたよりあるべし。殊に今日の上にはべる、と申す。先師曰く、しかり。古人もこの国に春を愛すること、をさをさ都に劣らざるものを。去来曰く、この一言、心に徹す。行く歳.近江 にゐたまはぱ、いかでこの感ましまさん。行く春、丹波にいまさば、もとよりこの情浮かぶまじ。風光の人を感動せしむること.真なるかな、と申す。 先師曰く、汝は去来、ともに風雅を語るべきものなり。とことさらに悦びたまひけり。 」

この芭蕉と去来との解は、さまざまにいわれるけれども、澄雄の「石田波郷論・・・批評と戯作」の問題意識で考えると、次のようなことがいえるのではなかろうか。

(一)それぞれの土地の風光にはそれぞれの固有の生命というものがあり、その「風光の真」、それをとらえることが、創作者にとって一番肝要なことである。
(二)そして、研ぎすまされた心をもって、物の本情に肉薄する。そして、本当の本情いうものに到達したならば、それは普遍性を帯びてくる。
(三)創作する上において、真実と虚構とは、表裏一体をなすものであり、生活する上での事実の背後に その事実にあらざる、その意味で虚構の、真の真実(本情.本然)が存在し、それを把握することが、創作者の任務である。
(四)その真の真実に根ざした作品は、普遍性と同時に 事実としては見ることのできない、その虚構としての、生命を持つようになり、その創作者を離れて、永遠に生きながられることになる。

 こんなことを、その「石田波郷論・・・批評と戯作」で澄雄は言いたかったのではなかろうか。さらにつけ加えるならば、昭和二十三年の「石田波郷論・・・批評と戯作」から十六年後の昭和三十九年の「花眼独断」での次の記述があげられるのではなかろうか。

「 芭蕉が『奥の細道』の冒頭に「月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり、船の上に生涯を浮かべ、馬の口をとらへて老を迎ふる者は、日々旅にして旅を柄とす」と書き、船頭や馬方をあげたのは、単に旅の理念・・・虚・・・を書く文飾としてあげたのではない。彼らの代表とする庶民の実人生のなかに 詩人がつねに反省せねばならぬ重い現実の根があるからだ。そこからしか幻は生まぬ。 」

 このように 澄雄の問題意識といのは、一貫して、俳句の本質にかかわる深い洞察の上に、構築されているということを、痛いほどに思いしらされるのである。

○ 空也忌の木を伐る虚空抜けにけり  〈 鯉素 )


      俳句における季語

俳壇おいて、「有季論」と「無季論」との論争というのも、よく目にするもの一つである。澄雄の俳句は、伝統的な、有季の定型を重んずる俳句と位置づけられるのであろう。しかし、澄雄の俳句は、これらの、有季とか、定型を重んずるとか、というようなことは、澄雄の意識には、「とりたてて論争する必要もない」と感じとっていると理解できるのである。
澄雄の関心事は、澄雄自身言っているように「人間は生きている時間のうちに 何を見、何を喜び、何を悲しんできたのか」という、いわば、「人間の生死にかかる時間」とか「その人間の生死にかかる空間」とか、あるいは、「人生とは何か」とか「おのれにとって俳句とは何か」とか、深く、人間の根源にかかわること、その本質論や、形而上学的な命題などが、より多くその関心事なのだと受け取れるのである。
 したがって、その季語に対する認識も、独特のもがある。澄雄に 「季語・・・村野四郎・金子兜太両氏の論から・・・」と「日本人の季節感」という俳論がある。この二つの俳論から、澄雄の季語観について見ていくことにする。

「  こがらしやゆくもかへるも犀の角   楸邨

・・・前衛俳句が多く独創的な個的な場から、言葉の実質の上に現代詩風の象徴性を求めるのに対して、この『こがらしや』の表出は.初めからその独創的な視点を放棄し、目を俳譜共通の『あそび』の地点に解放している。季語の約束がもつ『虚』と、そのあそびの空間に 切実な楸邨のかなしびがのり、犀の無心の滑稽と一句の諧謔がひろがるといってよい。虚実皮膜のあいだの、これはひろやかな現代の風狂であろう。だが、このあそびも風狂の姿勢も前衛・伝統を問わず現代作家にとって、もはやたいへん危険な思想であろう。が、俳句がその独自の性格を失って、単なる現代詩の一片に近づくことを僕はひどく惧れるのである。(『季語・・・村野四郎・金子兜太両氏の論から・・・』) 」

「・・・山本健吉氏は、本稿と同じような『日本文学と季節感』の末尾の結論を次のように書く。『 歴史の進展が、少をくともわれわれの生活の表層においては、急激に、破壊的に行われている時代においては_人々の季節感は鈍磨してくるのは当然である。季節感に依存している現代俳句の存在が危うくなって来たのは、当然であろう。かって、暦日の循環だけがあって、歴史がなかった時代には、われわれの時間観念とは季節盛に外ならなかったが、今日のように、歴史の進展の激しく意識される時代には、時間観念は歴史意識のなかにあって季節感にはない。文学における季節感は、もはや今日の文学では、第一義的意味を失ってしまったのである。』
 私もそれを否定しない。俳句もまた季節感のみを弟一義とする文学ではなかったし、ない。だが、一人の作家の、ある『花眼』の年齢のなかで人生とともに、自然も季節もいよいよ深く美しいものになってきたとすれば、それはまた別の話である。(『 日本人の季筋感』) 」

 この「俳句がその独自の性格を失って、単なる現代詩の一片に近づくことを僕はひどく惧れるのである」という澄雄の指摘は、澄雄が、季語を大切にしたい、というように受け取って差し支えなかろう。
この「一人の作家の、ある『花眼』の年齢のなかで人生とともに、自然も季節もいよいよ深く美しいものになってきたとすれば、それはまた別の話である」という、この指摘は、彼は、季語の持つ季節感あるいは風土の質感といったものを大事に扱いたい、と独白しているように受け取って差し支えないであろう。
 澄雄は、「その人間の生死にかかる空間、即ち、風土や自然や宇宙」に限り無い関心をよせている。それは、固有の意味で、「純粋俳句」あるいは「諷詠・風景俳句」という範囑に 彼の俳句は位置づけられるのかもしれない。
 その彼が、それらの範疇の根源に位置するといえる季語を等閑視するはずがない。彼は、虚実皮膜のあいだに 季語を位置づける。彼は、「花眼」の人生とのかかわりにおいて季語を大切にしたいと念じる。しかし、彼は、断固として、杓子定規の形式的な季語重視の、いわゆる「なまくら有季俳句」は、本質的に受けつけることが出来ないという、そういう立場であろう。


   俳句の定型・リズム考(その一)

○ 炎天より 僧ひとり乗り 岐阜羽島
  entenyori souhitprinori gifuhashima  (六・七・五)

① 炎天や 僧ひとり乗り 岐阜羽島
  entenya souhitorinori gifuhashima (五・七・五)

② 炎天に  僧ひとり乗り  岐阜羽島
  entenni souhitorinori gifuhashima (五・七・五)

③ 僧ひとり 炎天に乗り   岐阜羽島
  souhitori entennori gifuhashima (五・七・五)

 この掲出句は、澄雄の第四句集『鯉素』の「六・七・五」の字余りの一句である。「五・七・五」の定型のリズムのものもさまざまに考えられる(①・②・③)。何故、澄雄はそれらのリズム考の中で、わざわざ「六・七・五」の字余りの破調の句にしたのであろうか。
 澄雄は、「俳句の定型」あるいは「俳句とリズム」ということに関して、まとまった論稿というものはものにしていない。しかし、その「「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)という俳論の中で、安藤一郎の「鞘(さや)のごときもの」という詩とその詩に関連しての芭蕉の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」との感想の記述があり、そこで、「俳句の定型」ということに関連して、次のような澄雄の師の加藤楸邨の言葉を引用している。

「私はつくづく思う。俳人の最大の不幸の一つは、固定したできあいの『鞘』が用意されていることではないか。それは感受の仕方にも、詩としての外型にもそこへすっぽりはまりこんで、ぬくぬくとしていられる『鞘』である。」
「俳句の『定型』も、・・・・ 『鞘のごときもの』として、無限に追いもとめられなければならない。『鞘のごときもの』は逃げ場ではない。『鞘のごときものは、ついにぼくたちには無縁なのであろうか』という安藤さんの嘆声に似た呟きは、私には、安藤さんがどうしてもあきらめないで、無限に求め、執していく、『不易』の場のように聞きとめられるのだが。」
(加藤楸邨「鞘のごときもの」)

 この加藤楸邨の「鞘のごときもの」の「鞘」こそ、楸邨もそして澄雄も胸中に抱いている「俳句の定型」(そして「俳句のリズム」)観ともいえるものではなかろうか。これに関して、俳句実作者であると同時に、屈指の俳句評論家でもある平畑静塔は、「不実物語」という俳論の中で、要約すると次のような論理を展開している。

「俳句とは、自然や季節に対する挨拶といってよいが、十七字の俳句の定型こそが、挨拶の本義にかなう型であり、この定型は、実でない不実をその本体とする。その不実である定型をもって、いかに、実であるところの自然や季節を、それらとの挨拶を表現するか、それが俳句作家の仕事である。言葉をかえてするならば、俳人は歌手(または作詞家兼歌手)であり、曲譜は十七字型そのものである。この曲譜の不実が何故か人間の心をとらえて離さない。この曲譜をどう工夫して歌いこなすか、これが俳人の責務である。」
(平畑静塔「不実物語」)

 加藤楸邨・安藤一郎の「定型という鞘のごときもの」といい、平畑静塔の「定型の不実」といい、定型という摩訶不思議なものの実態に迫ろうとしているのだが、澄雄硫に換言するならば、「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)とでもなるのであろうか。それは、「俳句というのは、五・七・五の十七音字の定型そのものであり、その不実の定型のリズムが、その実である俳句の対象となるものの実態を探り当て、それを実としてではなく、不実の形で、虚構そのものとして、語り伝えてくれる」とでもなるのであろうか。
 冒頭の掲出句で、このことについて換言するならば、澄雄の眼に映ずる実としての「炎天」・「一人の僧」・「岐阜羽島」は、不実としての「俳句という十七音字の定型」(ときにその定型の破調)という不可思議なリズムによって、「宇宙の不可思議な空間という永遠性や、象徴性の世界」へと、この句に接する者を誘ってくれるとでもなるのであろうか。そして、また、堂々巡りになるが、どうも、「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)ということであり、その実感が、その定型の持つ不可思議さ、その定型の持つリズムの魔神(デーモン)が、澄雄をして、この「炎天より・ 僧ひとり乗り・ 岐阜羽島」(六・七・五)とを口伝させたという理解である。
 これらのことを、芭蕉語録ですると、「句調(ととの)はずんば舌頭に千転せよ」ということであり、そして、静塔流にいえば、澄雄という俳人は、その曲譜の十七字型の不実を知り尽くした、天性的なリズム感を持った一流の歌手(詠み手)ということになる。


   俳句の定型・リズム考(その二)

○ 日ざす 落葉松  昃る  落葉松  雪を敷き   (雪櫟)
  hizasu karamatsu kageru karamatsu yukiwoshiki
三   四     三   四      五     十九字 
○ ヒメジョオンが  さびしくなりぬ   白河越え    (花眼)
  himejyonga sabishikunarinu shirakawakoe
  六          七        六      十九字
○ ねむたくて  まぶしくて   欅     芽吹前     (花眼)
  nemutakute mabushikute keyaki mebukimae
五      五     三      五       十八字
○ 秋の  淡海  かすみ  誰にも     たよりせず    (浮鴎)
  akino oumi kasumi darenimo tayorisezu
三   三   三    四 五       十八字  
○ おんだ祭   をとこ  をみなは    昔より (鯉素)
  ondamatsuri  otoko ominawa mukashiyori
   六      三     四       五       十八字
○ よきこゑに   ささやきゐたり     古女かな      (游方)
  yokikoeni sasayakiitari   gomamekana
五        七           五       十七字
○ 法然寺   より  春の山       春の海       (空艪)
  hounenji yori harunoyama harunoumi
五     二   五          五       十七字

 澄雄の独立した俳論の中で、「俳句の音楽性」・「俳句のリズム」あるいは「俳句の定型」については、直接的には言及していないが、その実作の面においては、上記のとおりさまざまなリズムを持った破調の句などに遭遇する。澄雄は加藤楸邨を師とする「寒雷」系の俳人であるが、こと、その定型感覚によるメローディアス的な情緒的リズムの句作りにおいては、最右翼の俳人といってもよいであろう。そして、それは、芥川龍之介をして「嘆かひの俳諧師」ともまで称せられた昭和俳壇の異才・久保田万太郎、そして、「俳句は切字なり」と喝破して、俳句が本来有していた格調あるリズムを現代俳句に再現して、森澄雄をして、「石田波郷論」を書かしめ、「波郷俳句は彼の情感の頂点で発止(はっし)と打ち出される。まさに発止であって、その間いわゆる抒情という曖昧な要素をさしはさむ余裕はない」昭和俳壇の寵児・石田波郷との、両者の申し子のような存在とも位置づけられるであろう。
 即ち、一見、澄雄の定型観・リズム感というのは、極めて、万太郎的なメローディアス的な情緒的「澄雄節」のような装いをしているのだが、その内容は、澄雄をして、その石田波郷俳句を、「抒情という曖昧な要素をさしはさむ余裕がない」とて゜もいわしめるような、澄雄俳句それ自身が、「非抒情・非メローディアス」的な、その装いとはまるで異質なものを主題にし、その定型という器とそれに盛られた内容とが、いわゆる、「俳句における虚実論」と相俟って、その定型の不実さを突き抜けて、実の遙か後方の「実の本然」ともいうべきものを、澄雄俳句に接する者に察知させるような、極めて、装いとその中身とがアンバランスな、そんな本姓を兼ね備えているように思えるのである。
 さらに、その装いと中身とがアンバランスということと相俟って、澄雄俳句は久保田万太郎の「余情俳句」という世界をも排斥し、さらに、石田波郷が意識して駆使していた「切字の効果」の「余響」的な世界をも排斥して、独特の、いわば、静塔流にいえば、「定型という不実」に焦点を当て、「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)という胸中の不可思議さを模索しつつ、その胸中のものに一番適したものを探り当てるように、いわば、芭蕉語録の、「句調(ととの)はずんば舌頭に千転せよ」という下での作句とう趣なのである。



   虚空燦々・・・とらわれないこころ・・・

○ 大年の法然院に笹子ゐる  (鯉素)

 この掲出句については、澄雄の次のような自解がある。
「昭和五十一年作。法然は、源信・明恵・親鸞・道元とあげてみて、中でも僕のもっとも好きな名僧。たとえば『諸人伝説の詞』に伝える
  現世をすぐべき様は、念仏の申されん様にすぐべし。
  ひじりで申されずは妻(め)をまうけて申すべし。
  妻をまうけて申されずばひじにて申すべし。
  住所にて申されずば流行して申すべし。
  流行して申されずば家に居て申すべし。
という法然の言葉は、早く青年の日から心に沁みたが、また乱世、貧しい庶民たちの素朴で切実な問いに答えた『一百四十五箇条問答』の中の、
  『にら、き(葱)、ひる、しゝをくひて香うせ候はずとも、つねに念仏は申候べきやらん』
   答『念仏はなにもさはらぬ事にて候』
  『月のはばかりの時、経よみ候はいかが』
   答『くるしみあるべしと見えず候』
といった法然の言葉(答)は、いっそう法然の言いようのないやさしさとしていまの世苦
に丈けたおのれの心にしみる。
 句は歳末、寒気のきびしい一日、田平龍胆子の案内で、哲学の途を歩き法然院に詣でた
折りの作。大年のこととて参詣人はなく、ひっさりと静まり澄んで、庭に寒椿が咲き、木
立のどこかに笹鳴らしいこえがきこえた。句の簡素な仕立てが、自ら法然にちなんで気に
入っている。他に法然忌の句として『行春の旅にゐたれば法然忌』。」

 また、『鯉素』の「あとがき」に次のように記している。
「集名『鯉素』は『鯉魚尺素』の略で手紙の謂。前二句集(『花眼』・『浮鴎』)が時間と空
間を主題にしたのに対し、所詮人間の分別、人間の案ずる時空を超えれば虚空燦々ではな
いか、と考えた。併せて古典俳諧がもっていた自在と『俳』の回帰を。」

 澄雄は、これらの自解でいっているように、時間と空間というような形而上学的な主題
が、常につきまとい、それを無限に求め、執していくという「不易」の姿勢が、澄雄の澄
雄らしいところともいえるであろう。そして、それらの人間の生死にかかる、その時の流
れと、その場としての空間を、執拗に追い求め、そして、いま、その半世紀をふりかえり、
澄雄は、「所詮人間の分別、人間の案ずる時空を超えれば虚空燦々ではないか」ということ
に到達する。そして、同時に、「法然の言いようのないやさしさ」、一切のことを、そのあ
りのままに認め、受け入れようとする、人間の分別とか情とか知恵とか理屈とか、そうい
う人間の性を、そのまま受容し、しかも、それらに「とらわれないこころ」の存在という
ものに到達する。
 なににも「とらわれないこころ」、自由無碍の心、自由自在の心、この「こころ」は、古
典俳諧がもっていた自在性と「俳」の「こころ」に相通じているということに、澄雄は気
づいてくる。しかし、もはや、その「とらわれないこころ」を、無限に、執拗に追い求め
続けはしない。それは、法然のように一切を認容しようとするのだ。そして、その姿が、「句
の簡素な仕立てが、自ら法然にちなんで気に入っている」という、この言葉をして、澄雄
は表現しているのであろう。
「所詮人間の分別、人間の案ずる時空を超えれば虚空燦々ではないか」」という、この澄
雄の述懐は、何かしら、私達に希望を抱かせる。そして、澄雄の均斉のとれた、どちらかというと耽美主義的な抒情的な装いは、何時しか、その「澄雄節」と相俟って、法然のような「こころのやさしさ」となって、その句に接する者に安らぎのようなものを沈殿させてくれるような思いがするのである。

○ ぼうたんの百のゆるるは湯のやうに (『鯉素』・昭和四八年)
○ 比良の雪春はけぶりてきておりぬ  (『鯉素』・昭和四九年)
○ まぶたよりこころのとどく春の嶺  (『鯉素』・昭和五〇年)
○ ふり出して雪ふりしきる山つばき  (『鯉素』・昭和五一年)


   「俳」への回帰・・・軽みについて・・・

 澄雄は、第四句集『鯉素』の「あとがき」で、「集名『鯉素』は『鯉魚尺素』の略で手紙の謂。前二句集(『花眼』・『浮鴎』)が時間と空間を主題にしたのに対し、所詮人間の分別、人間の案ずる時空を超えれば虚空燦々ではないか、と考えた。併せて古典俳諧がもっていた自在と『俳』の回帰を」をと記した。続く、第五句集『游方』の「あとがき」で、次の「明恵伝」(西行の弟子喜海の著)の次の一節を引用している。

「紅紅たなびけば虚空いろどるに似たり。白日かがやけば虚空明らかなるに似たり。然れども虚空は本明かなるものにあらず。又いろどれるにあらず。我も又此の虚空の如くなる心の上において、種々の風情をいろどると雖も更に蹤跡なし。」

 澄雄は、「虚空」といい、「虚空燦々」といい、「然れども虚空は本明かなるものにあらず。又いろどれるにあらず」、それは「虚空の如くなる心」の在りようなのだと、微妙な己の関心事の推移を手を替え品を替え克明に記している。そして、第六句集『空艪』で、「『また湊へ舟が入るやろう から艪の音が ころりかりと』(閑吟集)の小歌があるが、から艪は唐艪、つまり唐風の長い艪の説もあるが、いずれにしても湊の遊女が男を待つはかないつぶやきのやうな歌。わが句には空艪がいい」と記している。
 もはや、澄雄は、銀河系宇宙のはるか彼方の「虚空」のさらなる彼方へと心は移っている。そして、それは、もはや「主題のない、主題のないことが主題」のような、何とも不可思議な「游方」の世界である。この「游方」の世界は、無限に執していく世界ではなく、それは、とりたてて意味のない「軽み」の世界であり、「俳」の世界といってもよいであろう。それには、「ころりからりと空艪」で行くのが一番似合うというのである。今までの、全ての、知的なもの、観念的なものと訣別して、軽々とした、何にもとらわれない、自由自在の、天衣無縫な、自然流ともいうべき姿勢が、何よりも要求される世界なのであろう。

○ あるときはこの世かるしと木槿咲く (『游方』・昭和五二年)
○ こほるこほると白鳥の夜のこゑ   (『游方』・昭和五三年)
○ 亀鳴くといへるこころをのぞきゐる (『游方』・昭和五四年)
○ 野遊びと世は異ならず白遍路    (『空艪』・昭和五五年)
○ めつむりてひらきておなじ春の闇  (『空艪』・昭和五六年)
○ 水もまた山落つる白秋あらた    (『空艪』・昭和五七年)

澄雄の目指している世界とは・・・・。「意味づけもなく、意味づける意識もなく、おかしみでもなく、悲しみでもなく、勿論、象徴の世界でもない。風狂や、風雅の世界でもない。思想でも哲学でもなく、文学という大それたものでもない。滑稽でもなく、風刺でもなく、日常性でもない。それは言葉ですることができない」。それは「拊我不能語」(われをなでてかたるあたわず)の世界なのであろう。「軽く、ふわふわとして、どこにでも飛んでいけるような、無重力の世界」、そういう魂の浮いているような世界なのであろう。それはまた、「生命の証」、次から次へと、次の世代に引き継がれていく、人間の無窮の営みにも似た世界なのであろう。


  花眼遊想・・・手ばなしでうたう世界・・・

 澄雄は、昭和六十一年(六十七歳)、第七句集『四遠』を刊行する。第六句集『空艪』(昭和五十八年刊行)から、この『四遠』を刊行するまでに、病気療養などを強いられるが、その第一句集『雪櫟』(昭和二十九年刊行)からして、三十余年の歳月が経過している。その第一句集の中の「松」は、昭和十五年十月の作から収載されている。それからすると実に四十五年余の年月を経ていることとなる。

○ 旅にをるおもひに折るや女郎花   (『四遠』)
○ おのれいまおのれのなかに草紅葉  (『四遠』)
○ わが生や風呂吹に身の温もりし   (『四遠』)
○ はるかまで旅してゐたり昼寝覚   (『四遠』)
○ 寝てより落葉月夜を知つてをり   (『四遠』)

 澄雄の言葉に、「手ばなしでうたう世界」というものを目にする。これについての、まとまった俳論はないが、「句が自然に出てくる。浮かんでくる。無心に口ずさむ。作ろうと意識せず、躊躇することなく、自然に語りかけ、それが句となる」というようなことになるのであろうか。「手ばなし」ということは、「頭ではなく、手が、耳が、口が、華が、それらの五感が、言葉となり、句を生んでいく」、これが、澄雄のいう、「手ばなしでうたう世界」の意味するところのものであろか。
 それはまた、「俳句遊想」といおうか、「花眼遊想」とでもいおうか、自由自在に、自然や宇宙の本情や本然に出入りして、それは、あたかも、法然の説話のように、「億年の時空に存在する生の証」を綴る・・・、そういう遊想の中の自己をみつめる、そういう姿勢を、澄雄はいおうとしているのではなかろうか。

「考えてみますと人生というものは若いときは先がまだ豊かにあって、それが若さの豊かさだと思いますが、また年をとって六十なり七十歳になると、先が短くなるけれども、後ろは六十、七十年生きてきたという豊かさがあるんです。二十歳の人は先にありそれが豊かさだといっても、それは確かな豊かさじゃない。三十で死ぬか四十で死ぬかわからないからです。その点では、皆さんが、六十年、七十年生きてきたということはこれはもう確かなことなんです。そして、その確かさこそが大変な宝だと思うんです。その宝を生かして俳句を詠んでほしい。みんな宝物をもっているんです。人生の経験がそれだけ豊かだし、先が短いだけに物を深く、しかもしみじみと感じることができる。」(「杉」昭和六三・三)

 澄雄は、実に半世紀にもわたり、「俳諧は写生の芸ではなく、人生の芸だ」として、文字どおり、それを実践し、さらに、精進を重ねている。しかし、澄雄の先人の俳人達で、このような実践や精進を重ねてきた者は、澄雄以外にも数多く目にすることができる。澄雄のそれらの先達者と相違する点は、法然の「億年の時空に存在する吾が生の証」を、「たんたんと、平明に、豊に、美しく、力を抜いて」、それは、「ぎらぎと、いどむように、はげしく、自我むきだし」の世界とはまるで異質の、澄雄の言葉でするならば、「手ばなしでうたう世界」を、その生涯をとおして実践し、いまなお、その実践をし続けているという、この一点であろう。

 この澄雄の、終始、大変な理解者でもあった、俳句評論家の山本健吉が、平成の時代を見ることなく、昭和六十三年五月七日に永眠する。澄雄は次の追悼句を捧げる。この「失ひし」は、澄雄の「手ばなしでうたう世界」の絶唱でもあろう。

○ 桐の花あきらかに師を失ひし   

金曜日, 12月 09, 2005

金子兜太の俳句(その一~その十五)



金子兜太の俳句(その一)

○ 粉屋が哭(な)く山を駈けおりてきた俺に     句集『金子兜大句集』
 
 「海程」創刊同人で「朱夏」主宰の酒井弘司著『金子兜太の一〇〇句を読む』での、掲出句の解説は次の通りである。

「初出は、「俳句」昭和三十五年十月号。『海程』と題して発表した一○○句より。風頭山の凧(はた)揚げは、長崎ならではの名物といわれているが、ここで凧揚げをしたあと、山を下ったとき成った句。この句について兜太は、次のように書いている。

 山をゆっくりと下りてゆくうち、ふと、この山麓に、れいの製粉所のおやじがいるのではないか、と思いはじめた。まったく突然そう思いはじめたのだが、その連想は、おそらく、山を下りるリズミカルな歩調と、山の陽に焼けた爽快な野生の気分とから織り出されたものにちがいない。(略)すぐ俳句ができた。何故、そのおやじが泣くことになってしまったのか分らない。ただあの楽天的で元気のよいおやじは、実は泣いているのだ、という逆説的な気持がぼくのなかにあったことは事実だろう。(「俳句誕生」「俳句」昭和三六年九月号)

文中の「れいの製粉所」というのは、勤め先からの帰途、よく見かける一軒の製粉工場。煤けた電燈と鈍く響く機械の音。通勤途上でよく見る製粉所の情景が、凧揚げのあと山を下る心地よいリズム感のなかで咄瑳に呼び覚まされたのだろう。前掲の「俳句誕生」では、〔いつか郷里の秩父の町を思いだす〕とも書いていた。」

 この掲出句について、五島資質氏の「金子兜太小論」の中で、小西甚一氏と原子公平氏との相対立する以下のような二つの評を紹介している。

「この句が作られた当時、小西甚一は、『わからなさ』にもいろいろあって、右の句は、良い句にならない種類の『わからなさ』であり、そのわからない理由は、現代詩における『独り合点』の技法が俳句に持ち込まれたからだと批評した。つまり小西氏の批判はまさに〈粉屋が哭く〉の句における自我中心的一面に向けられていた。一方、原子公平は、〈粉屋が哭く〉の句の魅力は異質な運動感覚の同化作用にあるとし、他者にも共有可能な詩的感覚の存在を認めている。つまり、小西説における自我とは個別的自我であり、それはあくまで小西氏という個別的自我から見た金子氏の個別的自我に過ぎない。それはまさに主客二元論的見解である。一方、原子説による自我とは間主体的自我であり、それは原子氏という間主体的自我から見た金子氏の間主体的自我なのである。ここに、二つの相交わらない自我論的テクストを垣間みることができる。もっともそれぞれの論説はそれぞれのテクストにおいて間違ってはいない。しかし、あくまで私の独断ではあるが、自我の深化という意味ではどうしても後者の立場を支持しなければならない。」

http://www.geocities.jp/haiku_square/hyoron/touta.html

 この五島資質氏の「金子兜太小論」はどうにも解り難いのであるが、兜太俳句の中核となっている「造形俳句」(作品を創造する過程において、対象と自己との中間に『創る自分』を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造形しょうとするもの)について論じていて、小西甚一氏のように、「創り手の他者」(他者の個別的自我)と「読み手の自分」(自己の個別的自我)との主客二元論的な鑑賞以外に、「創り手の他者」(他者の間主体的自我)と「読み手の自分」(自己の間主体的自我)との主客一元論的な鑑賞こそが、この掲出句の鑑賞のような場合は必要となってくるということようなのである。
 これらの是非論はともかくとして、とにもかくにも、金子兜太の「前衛俳句」なり「造形俳句」というのは、小西甚一氏の評のように、「良い句にならない『わからなさ』」ということを痛感するとともに、絵画における抽象画に接したときのような、創作人・金子兜太の心象風景のようなものが、混沌としたままに、この句を創作したときの、その創作人のイメージそのものが、伝達されてくるようにも思えるのである。これは、一種の共感的なイメージなり伝達であって、それが共感なり共有されない関係下にあっては、どうにも、小西甚一氏のように、「良い句にならない『わからなさ』」のみの相互に拒絶感のみが主張し合っていって、それは交差することなく、ますます距離感を大きくしてしまうような、そんなことを実感するのである。

金子兜太の俳句(その二)

○ 彎曲し火傷し爆心地のマラソ ン     句集『金子兜太句集』

酒井弘司著『金子兜太の一〇〇句を読む』での、掲出句の解説は次の通りである。

「 初出は、「風」昭和三十三年四月号。年譜では、[一 月、長崎支店に転勤。隈治人に会う。原爆被災の浦上天守堂に近い山里の行舎に住む。『彎曲し火傷し爆心地のマラソン』を得。真土、山里小学校に転校。皆子雀を育てる。稲佐山の夕景、グビロヶ丘、原爆忌俳句大会。春、飯田龍太来、晩夏沢木夫妻、太郎、西垣脩、小田保来。『短歌長崎』主宰小山誉美に会う。五島列島、雲仙、唐津、佐世保、門司、 野母半島にゆく〕とある。兜太三十九歳。三十五年四月まで、二年半にわたる長崎での生活で あった。
長崎の行舎に住むようになってからは、時間を見つけては爆心地周辺を歩き、いたるところに被爆の傷あとが残っているのを見聞してつくったのが『彎曲し』の句。
兜太はこの句について、次のように書いている。
                 ‐
  ある晩、なんとなく国語辞典を繰っていた私は、ふと『彎曲』という文字に気付いて、眼が離れなくなった。しばらく見つめているうちに、さらに、『火傷』ということばが出てきた のである。そして、その二つのことばを背負うように、長距離ランナーの映像があらわれて、その人は、いまこの地帯で生活している人々と重なった。しかし、次の瞬間、その肉体は『彎曲し』そして『火傷』をあらわにしたのだった。
   (「定型と人間」『わたしの俳句入門』昭和五二年 有斐閣・刊)

『造型』の方法が鮮明な句である。『創る自分』の意識活動が活発に行われ、イメージの重層 が見られる。 それは『彎曲し火傷し爆心地の』と、原爆投下の地という強烈なイメージとリズムを重層さ せることにより、爆心地としての長崎の惨状を浮かびあがらせ、そこに『マラソン』を配することで、時間を現在へと引き寄せ、長崎の街をマラソンランナーが体を曲げて、喘ぎながら力 走していくイメージを二重写しさせている。
そして、このマラソンランナーのイメージは、また原爆投下の惨状へと遡行し、時代を経ても消えない精神の傷痕に訴えてくる。『彎曲し火傷し』に、なまなましい現実性と飛躍したイ メージが重なっている。『火傷し』は、『かしようし』と読む。」

 この掲出句に対する上記の酒井弘司氏の解説は、兜太の「造形俳句」の説明としては解り易い。そして、この兜太の掲出句は、兜太の「造形俳句」の代表作とされている。
例えば、ネットの世界で、この掲出句は、芭蕉の「古池や」の句に匹敵するような、兜太の最高傑作と絶賛しているのに出合う。

「最高である。俳句の歴史を通じて、これほどの句は他にない。俳句とか文学とかのジャンルを超えて人間の精神史に屹立した作品とさえ言える。
 芭蕉には多分これに匹敵する句がある。例えば『古池や・・・』である。しかしそれはまったくジャンルが違うと言ってもいい。芭蕉は言わば出家者として世界を眺めた人物であり、兜太は世界に飛び込んでいる状態に世界に同化した状態に身を置いている人物だからである。だから芭蕉の句は世界を眺めているニュアンスの強い句であり、兜太の句は世界そのものであると言える。つまり芭蕉に於ては自己と世界のわずかな分離感があるが、兜太に於ては自己がすなわち世界なのである。
 そしてこの句の大きさは、原爆という人類のもっとも愚かで悲惨な事実を見つめる、いや見つめるというよりは我が身に同化させるという事から立ち上げている点である。だからこの句は地獄をも含んでいる。地獄をも含んでいながら美しく、しかも恍惚感さえある。三昧の状態とも言える。
 この句に表明されている事実を把握することは人間にとって大きな希望でありまた力となる。この句に表明されている事は世界の一元的な把握だからである。地獄も天国も含めて世界は一であるという把握だからである。」

http://aea.to/tota/TOTA.171.html

 ここまで、この掲出句の創作者(金子兜太)とこの句の鑑賞者(田中空音)とが、相互に共感し、交響し、そして、その世界を共有しあう現実を目の当たりにすると、金子兜太の世界というのは、これは、小西甚一氏のように、「良い句にならない種類の『わからなさ』」と決めつけて、それを一顧だにしないという姿勢は、どうにも頑なにも思えてくるのである。

金子兜太の俳句(その三)

○ 銀行員等朝より螢光す烏賊のごとく     句集『金子兜大句集』

 この「造型俳句」論に基づいた最初の成果となもいわれている掲出句についても、酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』を見てみたい。
「 初出は、「俳句」昭和三十一年七月号。
前頁の「朝はじまる」の句と一緒に発表された(註: 「朝はじまる海へ突込む鴎の死」の句)。この句について兜太は、「俳句の造型について(續)」(「俳句」昭和五年3月号)で、制作過程を次のように書いている。

 前日、尾道から帰ってきました。尾道では向島にある水族館をみましたが、烏賊が青白い光を体内に発光しつ、泳いでいる様子が至極印象的でした。朝、潮風と日焼でやゝ粘々した皮膚に健康感を覚えながら銀行へ出勤します。(略)店内は天井は高いのですが壁が多いため薄暗く、一人一人の前の蛍光燈がつけられ、その光に依存します。静かに、朝のきれいな空気のなかで、しかも薄暗いなかで、みなやゝ背をまるめ (規程集など・・・筆者註) 読んでいます。深海に蛍光を発しつゝたゝずまう烏賊のような状態・・・僕はそう結論します。(略)僕は座席に座って、これは俳句にしないといけないと思いはじめました。                  
(略) 新聞を読んでいるふりをしてその感覚の吟味に収りかゝりました。僕の「創る自分」が活動を開始したわけです。(略)暗い朝の店内の人達は、一人一人がわびしく蛍光を抱き、しかし魚族特有の生々した肢体で、イメージのなかに定着したのでした。これでよし、と僕は田慣ました。銀行員等・・・の「等」も従って必然の言葉なのです。群としての銀行員が大切なのでした。
 この句は、兜太が唱えた「造型俳句」論に基づいた最初の成果となった句である。
 造型論の目指すところは、従来の方法はいずれも対象と自己との直接結としての素朴な方法であるとみなし、これに対し「造型」は、作品を創造する過程において、対象と自己との中間に「創る自分」を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しようというものであった。
 また、〔感覚を通して自分の環境(社会といってもよい)と客観的存在としての自分との両方に接触しつゝ、意識に堆積されてくるもの〕を「現実」として尊重し、これを表現するのが現代俳句の新しい在り方とした。」

これらの金子兜太の「造形俳句」というのは、畢竟、「造型論の目指すところは、従来の方法はいずれも対象と自己との直接結としての素朴な方法であるとみなし、これに対し『造型』は、作品を創造する過程において、対象と自己との中間に『創る自分』を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しようというもの」ということになろう。しかし、「この対象と自己との中間に『創る自分』を設け、その意識活動を通して、主としてイメージによって作者の内面意識を造型しよう」とする姿勢は、多行式俳句を樹立した高柳重信などの姿勢と相通じるものであり、必ずしも、兜太の独壇場ということではなかろう。兜太もこのことを意識しているのかどうか、重信らの姿勢を「想像力による造形」とし、兜太らのそれを「現実からの造形」と大雑把に分類しているようなのである(高柳重信「『「薔薇」俳壇閑談』)。そして、さらに、兜太と重信の共通項は、比喩(特に、暗喩=メタファ)によるイメージ化ということなのである。このことは、こと、兜太・重信の俳句に限定することなく、前衛俳句の多くが、それによっており、そのことを中心に据えて鑑賞すれば、小西甚一氏のように、「良い句にならない種類の『わからなさ』」と決めつけなくて、より、彼等が意図したものが接近してくるように思われるのである。
さしずめ、掲出句などは、烏賊の暗喩の句(「ごとく」の直喩の句というよりも内実は暗喩の句)で、小西甚一氏の「良い句にならない種類の『わからなさ』」の句ではなく、斬新な、批判精神の旺盛な、シニカルの句として、拒絶するのではなく、大いに、これを歓迎したいという衝動にかられてくるのである。

金子兜太(その四)

○ 霧の村石を投(ほ)うらぱ父母散らん  句集『蜿蜿』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「初出は、「海程」昭和三十七年六月・第2号。 兜太は、故郷の秩父での幼年時代を回想して、次のように書いている。
                  
 昭和元年、国神村から、荒川(隅田河=ママ)の上流を越えて、皆野村の小学校に入学した。皆 野には父の親や妹たちがいたが、対岸の国神村にひとまづ開業(診療所・・・筆者註)したのである。私は、山の迫った谷川の橋を渡って、一人で通学した。小学校まで、優に五粁はある。(略)そんなことが数ケ月つづいたあと、皆野の祖父母の家に預けられ、翌年、町制が敷かれてから間もなく、父は皆野のその家を改造して、そこに開業した。いま思うと、長い道を通ったときの川の音や山の近く暗い影が実に鮮明に私の感情の中に刻まれているのを知る。
 (「俳句以前・・・中学の頃まで」扉句研究」昭和四二年六月号)

 つづけて、中学時代になってのことも、〔祖母と叔母たちが集まると何となく矢が母に向う、その〈家〉のもつ生理が気に入らなかった。(略)〈家〉というものを暗く感じだした〕とも書いていた。「霧の村」の句。兜大の生い育った秩父は、山峡なので秋になると霧が深い。文字通りの霧の村の出現といってよいだろう。兜太にとっては、今も胸中で生き続けている原郷の風景である。
 この句に込められた作者の思いは、故郷への愛憎である。山国を出ることなく暮らす老いた父母には、憐れみをもった眼差しで「石を投(ほ)うらば」と書く。石を投げたら飛び散ってしまうほどなのに、というのだ。また老いた父母の背後には、山峡の人々の貌も見えてくる。父祖の霊を含めての故郷への愛憎が、この句には込められている。それは長子として家業を継がず上京した作者にとって、血に繋がる父母への断ちがたい思いと、古い因習によってしか日常生活が動かない村落共同体への反発という、両面の愛憎といえよう。
 だから、この句は、一度故郷を出た者でなくては書けない句でもある。そこには、故郷への母胎憧慢への思いと、故郷を撃つ形姿とが二重写しに見え隠れしている。  .
 ちょうど、第一次産業の解体が進みはじめた時期の作。」

 この掲出句などは、「前衛俳句」とか「造形俳句」のレッテルを貼らなくて、「霧」・「村」・
「石を投(ほ)うる」・「父母散らん」と、この用例の駆使で、酒井弘司氏の解説を待つまでもなく、「故郷への母胎憧慢への思いと、故郷を撃つ形姿とが二重写し」との兜太の作意がダイレクトにイメージ化されてくる。兜太らを巻き込んだ「社会性俳句」の残滓の「第一次産業の解体が進みはじめた時期の作」ということは、あえて触れる必要もなかろう。そして、兜太のこの傾向の句は、例えば、「朝顔や百たび訪はば母死なむ」(永田耕衣)や、「霧の夜父が出てゆき何か起こる」(安田安正)などの、「造形俳句」というフイールドを離れて、兜太が狙っている作句の傾向と軌跡を一にする佳句を多く目にすることができる。ともすると、兜太は「論」の人であり、その「論」に固執する余り、例えば、芭蕉の「不易・流行」の「不易」などを度外視する傾向が見られるのであるが、この掲出句などは、そういう「俳諧・俳句」が本来有しているものを見事に抉りだしている一句のように思われる。こういう句は、小西甚一氏の「良い句にならない種類の『わからなさ』」とは無縁の、兜太の本来的な(そして、それは晩年の兜太の句に濃厚となってくる古典との共有の世界でもある)、もう一つの世界のもののように思われる。
追記 これらのことは、兜太のこの句集『蜿蜿』の後書からも察知される。 
 ・・・この句集を編みおわって、私は〈一人の連句〉ということを思った。〈最短定型のイメージ〉を追い、それの豊かな〈形象〉を求めて、むしろ一句一句の独立に執心して作句してきたわけだが、一冊にまとめてみると、あたかも、連句の席に会した人たちが激しく付け合ったように、私は、自分ひとりのなかで、自分の句に向って、ときに反発し、ときに響和しながら、気合いをもって相対し、相関わりつつ、次々と句を作りだしていたことを知るのである。

金子兜太(その五)

○ 霧に白鳥白鳥に霧というべき か    句集『旅次抄録』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「初出は、「俳句研究」昭和五十年一月号。「山湖一連」と題して発表した二十句より。
 この句が発表された前年の年譜では、〔九月三十日、日本銀行を定年退職。感想を求められ、「衆の詩」(朝日新聞)を書く〕と記している。兜大の誕生日は、九月二十三日。この年、五十五歳。「衆の詩・・・〈日常〉を見なおす」(「朝日新聞」昭和四十九年九月六日夕刊)では、

 日常を、とくに即物的日常を離さずに、俳句の内質として重視しようとする私の姿勢を刺激した事情がいくつかあった。その一つは、私自身も含めての前衛的営為の成果と反省(成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ。反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)である(略)。それらの事情のなかで、〈衆の詩〉としての俳句の特性をおもわないわけにはゆかなかった。 遍歴のあと「軽み」にいたった芭蕉晩年の思案の態をおもい、「荒凡夫」一茶の日常詠がもつ存在感の妙味にひかれたのも、そのためである。

 と書いた。季語と十七音定型の見直しなども含め、この頃より古典と競い立つ気概のもとに小林一茶、種田山頭火などの評論の発表も多くなった時期である。
  この一句、九州の九重高原での作。いちめん霧に覆われた山の湖。その霧の中に白鳥がいて、白く立ち込めた霧に一瞬まぎれてしまいそうでもある。この風景、白鳥をより美しくきわだたせるために霧が集まってきたとも受けとれる。
 眼前の光景を「霧に白鳥」と捉え、一呼吸おいて「白鳥に霧というべきか」と書く。霧が流れ、光が流れ、刻の流れる白一色の静澁な山湖。白鳥と霧に感応している兜太の至福の時間が見えてくる。定年退職で解放されたことにもよろうか、作品にも自在さが窺える。

    山 越 え の 悲 鳴 ひ と す じ 白 鳥 に
    白鳥二ついや三ついるもぐらない                    」

この酒井弘司氏の解説で、金子兜太自身が自らが記している、「前衛的営為の成果と反省(成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ。反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)」の、その「反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)」ということは、金子兜太の句業の変遷を辿る上で、一つのエポックとして位置づけられるものであろう。さらに、「季語と十七音定型の見直しなども含め、この頃より古典と競い立つ気概のもとに小林一茶、種田山頭火などの評論の発表も多くなった時期である」ということも、兜太俳句を知る上で是非承知しておくべきことであろう。
 ともすると、金子兜太の句業は、兜太自身の言葉ですると、これらの「衆の詩」としての句業以前の、「前衛的営為の成果と反省」のその「成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ」に因るところの、兜太前半(大雑把に五十五歳以前)の句業が過大に一人歩きしているきらいがなくもないのである。

金子兜太(その六)

○ 暗 黒 や 関 東 平 野 に 火 事 一 つ     句集「暗緑地誌」

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり(後半一部略)。

「初出は、「海程」昭和四十四年二・三月合併号。
 熊谷に居を移してからの兜太は、日銀本店まで電車で通勤をする生活に変わったが、それは、関東平野の一端に居をかまえ、関東平野を電車で通勤するという生活でもあった。通勤電車速度は、兜大の句づくりのリズムと合っていたのか、『俺の俳句は、通勤電車とトイレの中なんだ』といった話を、ときに耳にしたことがある。句帳は使わず、メモ用紙に句を書いていた。この句について、兜太は、次のように書いている。

(略)こういうまったく想像の句を多作している。これは、関東平野を走る、真昼間の列車のなかでとびだしてきたものだが、(略)この、現実に向って想像力がのびのびとはたら  く時間に、私は自分自身の〈自然〉を感受することが多い。
          (「自作ノート」『現代俳句全集二』昭和五二年立風書房・刊)

 ここで、「想像の句」と書いているが、単なる想像の句と受け取ってしまってはいけないだろう。四季を通して、体内に蓄積してきた関東平野の夜景が、瞬時、句のかたちとなっ再化されたのである。なによりも、この句、上句を「暗黒や」と大きく切って、下旬を「火事一つ」と体言で終止する。具体的な言葉で直裁に書いているところが効果的。
 関東平野は、兜大の故郷・秩父にも隣接するが、その広大な関東平野に、深く厚い夜の闇がたち込めている。その闇の彼方の一角に、夜空をこがして燃える火事。広大な暗黒世界のに一つ火事を発見することで、関東平野の空間的なひろがりと、闇のぶ厚さの質感を、あざやかに捉えている。」

 金子兜太が傾倒した俳人は、加藤楸邨と中村草田男の二人であった。兜太自身の言葉ですれば、「楸邨氏を人間および句の師と考え、草田男氏を句の師と考えている」(「楸邨俳句の『人間』」「寒雷」昭和五三年三月)とし、兜太の「寒雷」の楸邨選のものには、この掲出句の「上五や切り」のものを目にすることができる。

 葭切りや屋根に男が立ち上がる(「寒雷」昭和一七年一〇月)
 リルケ忌や摩(さ)するに温き山羊の肌(同上)

 兜太の俳句のスタートは、まさしく、これらの人間探求派(草田男・楸邨・石田波郷)のそれを一つの目標として、そして、それを止揚せんとする兜太の試みが、兜太の前半生(五十五歳)の句業だったように思われる。なかでも、石田波郷の「草田男の散文化傾向に対する韻文化の強調」ということには、兜太は「旧き因習を引きずっている」ものとして、それには見向きみせず、逆に、草田男俳句の傾向を是認し、「表現要求をむきだしにして散文化していく俳句の非韻文性の俳諧」の道を選んだのであった(「人間探求派の功罪」『俳句の本質』)。そして、その傾向は、昭和四十二年(兜太・四十八歳)の「埼玉県熊谷市に転居。初めて自分の家をもつ。以降、定住漂泊の地と定める」(酒井・前掲書の「年譜」)の頃を一つの区切りとして、この掲出句に見られるように、古典への再接近とあわせ、「俳句の韻文性」をも受容する「何ものにもとらわれない」という姿勢への転回というものも垣間見ることができるのである。そして、草田男俳句が晩年になればなるほど、「ひとりごころ」の世界に沈殿していくのに対して、兜太俳句は、兜太自身の言葉でするならば、「ふたりごころ」の世界へと脱皮していくように思われるのである。さらに、この掲出句の上五の「暗黒や」については、兜太が好きな作家としてあげている「金子光晴・野間宏・中島敦」の、兜太と同じような強烈な戦争体験を経験し、それを主要なテーマとした野間宏の「真空地帯」などと同じような問題意識のものとして理解したい。ということで、例えば、田中空音氏の次のような鑑賞は是としない。

「意味の上から言えば、『暗黒』『火事』などという負の要素が書かれているのだが、私の受ける感じは、むしろ安らぎにも似た空間である。生暖かい皮膚感覚をともなった安らぎのある空間、たとえば子宮の中のような。そしてこの空間にはエネルギーが内在している。そんな感じがするのである。」

http://aea.to/tota/TOTA.251.html

金子兜太の俳句(その七)

○  人 体 冷 え て 東 北 白 い 花 盛 り   句集『蜿蜿』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「 初出は、「海程」昭和四十二年八月号。 前頁の「鹿のかたちの」の句と一緒に発表された。青森へ旅したときの句。五月四日、十三湖から弘前を経て、秋田へ向かう途中での作。津軽は花の真っ盛りの季節。兜太には東北を旅しての作品に佳句が多いが、霊気や生命力をもらう土地なのであろうか。
上句の「人体冷えて」という捉え方から、冷えぴえとした体感を通して、東北の初夏の風土のもつ美感が清例に捉えられている。 また、明治以降、使われるようになった「東北」という固有名詞を、兜太は意識して効果的に使っている。この「東北」という言葉には、日本の中心からみて奥地を意味する「道奥(みちのく)国」と呼ばれた、大化改新(六四五年) の時代からの言葉の伝統も、潜んでいることを承知しておき たい。 青森の五月は、関東地方よりも一足遅く、待っていたように作から初夏の花が、いっせいに開花する。「白い花盛り」からは、桜、辛夷、白木蓮、コデマリ、林檎、梨の花を思うが、ある一つの花でなく、これら一連の白い花を次々に眼にしたという理解のほうが、このの句には似つかわしい。長く厳しい冬を耐えて開花した花の白さが、肉体の冷えを通して冷えぴえしたものとして体感されているのである。また、「人体」という詩語になりにくい言葉をうまく生かした。
  兜太は、句集『蜿蜿』の後記で、

(略)眼前に岩があり、その岩の肉体の温さと等温のように自分の肉体が、ここに息づいていることに気付く。青空が自分の体内の細胞一つ一つに冷たくしみ込んでいることも知る。 突然、遠い時代の祖先が、髭むしやで草原を走る。神楽歌がとびこむ。
 だから、たとえば〈自然〉と言っても、こうした、自分の肉体で承知した自然しか信用しなくなる。眼でみ、耳で聞き、鼻でかぐだけの自然では十分ではない。    ’

 と書いていた。じかに体感し、肉体を通して確かに承知したもの。兜大の自然観を、ここに見ておいてよいであろう。
  句集『蜿蜿』の時代に入って、表現も平明化してきている。」

 この掲出句は、兜太の第四句集の『蜿蜿』の末尾を飾る句で、「東北・津軽にて 七句」のうちの一句である。兜太俳句といえば、それは、伝統的な花鳥諷詠的な俳句に対して、
前衛的な社会性俳句・造形俳句とのレッテルのもとに呼称され、そして、鑑賞されるのが常であった。その特徴は、「季語を十二分に尊重しつつ、それを約束とせず、最短定型(十七音)に立ちつつ、それが弾力的活用を図り、ともすると、思想性や社会性と無縁の閉鎖的な『個我』のみに終始することなく、進んで、思想性や社会性との関連で、現実というものを見据え、諷詠的描写的傾向の俳句を排して、探求的象徴的傾向の主体的・造形的傾向の俳句」(角川・『現代俳句辞典』の関係項目)を目指すものというようなことが、大雑把な表現方法ですればそのような言葉で置き換えることも可能なのかも知れない。しかし、そういう「論のための論」による鑑賞ではなく、現に、掲出句のような兜太俳句の鑑賞において、まず何よりも、兜太の、「東北という風土」に対する思い入れ、そして、この句を作句した当時の兜太の関心事の「定住漂泊」という観点から、これらの句は鑑賞されるべきものと理解をしたいのである。そういう観点から、兜太の「眼前に岩があり、その岩の肉体の温さと等温のように自分の肉体が、ここに息づいていることに気付く。青空が自分の体内の細胞一つ一つに冷たくしみ込んでいることも知る。 突然、遠い時代の祖先が、髭むしやで草原を走る。神楽歌がとびこむ」という、この句の背景が、この句に接する人に、ダイナミックに語りかけてくるのである。兜太は、極めて、兜太を巡る「定住漂泊」の様々の「土地・地誌・地霊・風土」の、いわば、「神楽歌」のようなものを探りあてることにおいては、稀にみる俳人の一人であるということは、その兜太の句集を繙いていくと、つくづくと実感するのである。

金子兜太の俳句(その八)

○ わが湖(うみ)あり日蔭真暗な虎があり   句集『金子兜太句集』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり(後半一部略)。

「初出は、「俳句」昭和三十六年二月号。「虎」と題して発表した八句より。
 この年は兜太にとって多事の年であった。総合俳句誌「俳句」一月号から六回にわたり、〈造型俳句〉論の総決算ともいうべき「造型俳句六章」を連載。『金子兜太句集』を風発行所より上梓。といった意欲的な取り組みを示す一方、兜大も選考委員をつとめた現代俳句協会賞の選考が揉め、協会が分裂。十二月に俳人協会が発足した。その渦中で、中村草田男と朝日新聞紙上で二回にわたって論争をした。この句について、兜太は次のように書いている。
   
長崎から東京に移って、どこかの山湖に出かけたときの句。初夏。湖は厚い緑で囲まれ、
その日蔭に虎をひそませることは容易だった。想像のなかで、湖は自分の領域となり、虎は待機の姿勢を充実させて、黒黒と伏せていた。
 待機といっても、次の行動への野心といったものではない。私の場合、社会的行動はすでに頓挫していて、もっぱら自分いちにんに執し、その〈主体の表現〉を俳句にもとめていた。方法を〈造型〉と名付けて書いているうちに、いつのまにか「前衛」というものになっていて「啓蒙家」といわれ、(略)私にとって、〈自由〉こそすべてで、自ら〈自由人〉たらんとして俳句をいじりまわしていたのに、なかなかツポにはまった渾名がもらえなかったようである。(「自作ソート」「現代俳句全集二』昭和五二年 立風書房・刊)」

 上記の酒井司氏の解説では、「兜大も選考委員をつとめた現代俳句協会賞の選考が揉め、協会が分裂。十二月に俳人協会が発足した。その渦中で、中村草田男と朝日新聞紙上で二回にわたって論争をした」との簡単な紹介に止めているが、中村草田男の年譜においては、次のように記されている。「昭和三十五年 五月 現代俳句協会幹事長となる」。「昭和三十六年 現代俳句協会の幹事長の職を辞す。十一月、同志と俳人協会を発足させ、初代会長となる」。この背後には、草田男と兜太の両氏における、目指す俳句観の決定的な対立があり、草田男は兜太の「造型俳句」を、「造型俳句といわれているものなど、十七音の短形式が、暗示の伝達性を十分に発揮することができなくて、徒に難解となってしまって、このままいけば、俳句大衆との連結が絶たれてしまう」(、「潮流の分析と方向をさぐる」(『中村草田男全集第一四巻』所収の座談会記事)として、それが故に、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」と、兜太を「敵」とみなすようになるのである。兜太は草田男によって認められていった俳人といってもよく(中村草田男指導の「成層圏」から本格的にスタートとした)
、そして、草田男を俳句の師として、直接・間接を問わず、兜太は草田男を目指して、共に、現代俳句の牽引車として活動してきたのであるが、この昭和三十六年の「現代俳句協会」の分裂にともない、もはや、両者は歩むべき道を異なにしたのである。そして、草田男が、兜太を敵として、「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」との句を残しているように、兜太もまた、当時の心境を、この掲出句の「わが湖(うみ)あり日蔭真暗な虎があり」のように、一匹の「虎」に喩えているのである。この「虎」は、まさしく、当時の兜太その人の自画像と理解したい。そして、この虎の背後には、兜太が好きな作家としてあげている「金子光晴・野間宏・中島敦」の中島敦の『山月記』などの「虎」のイメージが横たわっているようにも思えるのである。

金子兜太の俳句(その九)

○  梅咲いて庭中に青鮫が来ている  句集『遊牧集』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「 初出は、「海程」昭和五十三年四月号。
第七冊目の句集『遊牧集」では、雰頭の「青鮫抄」に収録されているが、青鮫を素材にした 作品は、他に二句ある。

     霧の夢寝青鮫の精魂が刺さる
     青鮫がひるがえる腹見せる生家

  三句のうち、最初に置かれているのは「霧の夢寝」の句。二番目が「梅咲いて」。最後に「青鮫が」の句。作者が並べた順に読んでいくと、青鮫の着想は、夢の中で得たものとも思えるし、 梅の咲いている庭は生家とも思える。
「梅咲いて」の句は、白梅の花が咲き、早春の光が淡い陰影をつくっている庭の中を、精悍で檸猛な青鮫が、何匹も悠々と泳ぎまわっているというイメージが湧く。このような光景は現 実にはありえないが、この句、生々しく新鮮なリアリティがある。早春の明るい日差しの中の 梅の白い花と、その日差しの中をゆらめく青鮫の背のかげりのある青さとが、微妙な陰影をかもだしている。
 ここで書かれた世界は超現実的な世界である。にもかかわらず、リアリティをもちえたのは、〈実〉に重心をおいて書くという兜大の作句法に負うところが大きい。「梅咲いて」の句は、そ の一つの成果と見てよいだろう。
この句が発表された「海程」の「熊猫荘寸景」で、兜太は、

 「虚実皮膜の間」というときの実の面が私たちの目標で虚の世界はあくまでも従ということである。◆虚の世界を十分に知り大いに活用はするがそれは実の表現のための手段ということ。◆現俳壇にはこびる虚の第一義化とは全く反対の立場を確認することでもある。

と書いていたが、ちょうどこの時期、俳壇では〈軽み〉が言われるようになった時期でもあり、危機感をもっての発言というように受けとめておいてよい。」

 この酒井弘司氏の解説のうち、兜太の「現俳壇にはこびる虚の第一義化とは全く反対の立場を確認することでもある」及び「ちょうどこの時期、俳壇では〈軽み〉が言われるようになった時期でもあり、危機感をもっての発言」については、兜太と同じ「寒雷」の出身で、兜太と同じ年代の、そして、兜太を無視し続けていたといっても過言でない評論家・山本健吉に激賞され続けていた、「杉」主宰の森澄雄へに対する兜太の痛烈な批評的主張と解して差し支えなかろう。同じ、加藤楸邨門において、金子兜太と森澄雄とでは、両極端のような立場で、そして、当時の俳壇においては、山本健吉を始め、多くの先達的な方々は、森澄雄の立場を是として、ともすると、兜太はアウトローのような立場を余儀なくされていたといっても、これまた差し支えなかろう。このアウトロー的立場の兜太を理解するとき、兜太が好きな作家として上げている「金子光晴・野間宏・中島敦」の、詩人・金子光晴が想起されてくる。反骨、反戦、抵抗、放浪、風狂…。そんなさまざまな言葉を冠せられた詩人・金子光晴には、日中戦争が始まった年に、全体主義的な社会を鋭く風刺した詩集『鮫』を世に出している。兜太もまた反骨、反戦、抵抗、漂泊、風狂のリベラリスであることは、詩人・金子光晴に勝るとも劣らないであろう。そして、その金子光晴の傑作詩集『鮫』は、兜太にとってどんなに刺激的なものであったかは想像に難くない。兜太は、金子光晴が死亡したとき(昭和五十年六月三十日)、次の二句を句集『旅次抄録』に残している。

  緑悦の虚無老い声の疳高に
  突出の鬼色曼珠沙華朽ちて

 兜太には、この掲出句以前にも「鮫」の句はあるが、それらをひっくるめて、兜太の「鮫」の句の背景には、兜太が愛して止まなかった詩人・金子光晴のイメージ、なかでも、その傑作詩集『鮫』のイメージが横たわっているように思えるのである。いや、兜太にその意識がなかったとしても、その金子光晴の、そして、その「鮫」のイメージで、掲出句の「鮫」の句を鑑賞したいのである。


金子兜太の俳句(その十)

○  冬 眠 の 蝮 の ほ か は 寝 息 な し 句集『皆之』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「 初出は、「俳句研究」昭和六十一年一月号。
「雨に養蚕」と題して発表した五十句より。他の作品には、

     日 本 海 秋 は 星 座 の 唾(つば) が 降 る
     雨 に 養 蚕 鮎 錆 び て 叔 父 た ち
     禿頭や尖(と)んがり山や紅葉四五分

がある。-句目の「日本海」の句は若狭での作。産土の地、秩父の山峡への思いには、切々
としたものが窺える・兜太、六十七歳。なによりも兜大の句でよいところは斬新なところ。
「冬眠の」の一旬。冬眠の蝮(まむし)に寝息があるわけがないが、こういわれると、なにやら聞こえてくるような錯覚につつまれるから不思議である。妙なリアリティをもった句。暖かなに俗性を、鋭い感性感覚で包みこんでいる。
兜太は自解で次のように書いている。

冬の山はじつに静かだ。葉の落ちた木木(きぎ)のあいだに射しこむ陽の光もし-んとしている。 その根を埋めるように積もった落葉も、人や獣が来て踏まないかぎり音を立てることはない。常緑樹も、襄震と篭と沈黙している.ときに罵声あるの。・・・そんな、山中で蛇たちも冬眠にはいり鎮まっている。しかし、アクの強い、それこそ存在感十分のマムシだけは、その 寝息が聞こえてくるような気がするのだ。いや、たしかに聞こえる。
    (『兜太のつれづれ歳時記』平成四年 創拓社・刊)

蝮は、蛇の仲間でも、華麗な紋様があり存在感がある。クサリヘビ科の毒ヘビ。全長六十センチ内外。樹木は葉を落とし、静まりかえった山麓の唇一間。冬眠中の動物は、ほかにもたくさんいるだろうが、寝息が聞こえてくるのは蝮だけ.「蝮のほかは寝息なし」・・・この一見、豪放磊落な蝮は、兜大の自画像のようにも見えてくるから不思議である。」

 この掲出句の背景は、この解説で十分であろう。しかし、この句に接していたら、金子兜太にとっては、「俳句の師であったり、後にはその師から敵とも見なされていた」中村草田男の次の句とその前書きが思い起こされてきた。

 蝮の如く永生きしたし風陣々  草田男(昭和四十四年)

この草田男の前書きには、「文部省関係の官公立学校職員の文芸修業誌『文芸広場』二百号に達せるを以て、委員等記念の寄せ書きをなせるその最後尾、即興的に次の一句を誌す。石川桂郎氏二十四年以前戯れに、当時の吾が新妻に対ひて、『貴女の御亭主は蝮の性(さが)と宣(のたまい)りたる一言耳底に遺れるがゆゑなり』」。 金子兜太が、掲出句の蝮に遭遇したときに、草田男のこの句は意識下になかったであろうが、されど、この兜太の掲出句の「蝮」を、草田男その人の比喩と理解しての鑑賞もまた「楽しからずや」という思いが去来するのである。

金子兜太の俳句(その十一)

○ 猪 が き て 空 気 を 食 べ る 春 の 峠  句集『遊牧集』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
                      
「昭和五十五年の作。
 句集『遊牧集』の作品は、昭和五十二年の早春から五十六年春までの四年間の作品から一七四句を抄出したもの。兜大五十代後半から六十一歳にかけての作品。旅吟の多い兜太句集のなかで、常住の日常での作を中心に選んでいる。居住する熊谷と故郷の秩父での作が多い。この句集とともにあった四年間は、兜太にとって作句上でも大事な時期であった。朝日カルチャーセンターで俳句講義を始めるなど、多くの草の根俳人との接触を通して、俳句を大衆消費社会の文化として押し出していった。
 また、一茶への考えを成熟させ、評論『ある庶民考』(昭和五二年)、評伝『小林一茶・・・漂鳥の俳人』(昭和五五年)なども発表した。
 『遊牧集」のあとがきでは、

 一茶から教えられて、自分なりに輪郭を掴むことのできたく情(ふたりどころ)〉の世界
を、完全に自分のものにしようと努めてもきた。そのせいか、〈心(ひとりどころ)〉を突っぱって生きてきた私は、〈情〉へのおもいをふかめることによって、なんともいえぬこころのひろがりが感じられはじめているのである。

 と書いていた。この〈情(ふたりどころ)〉は、外(自然と人間)に向かってひらいてゆくこころの世界である。

『猪がきて』の句。『猪』は、この句では『しし』と読む。山国に春が訪れる頃になると、
 山の動物たちも活動をはじめるが、冬のあいだ、民家の近くまで来て畑を荒らしていた猪も、峠にもどって、春の澄んだ空気をおいしそうに吸いこむ。中句で『食べる』と置いたところ、いかにも木の芽がふくらみはじめた山々を見まわし、春の仕事で忙しくなった集落のあたりを見下ろして、空気を吸っている情景が見える。〈情 重たりどころ)〉の読み取れる句。そこには、アニミズム的交感がみられるという言いかたもできよう。アニミズムは、自然界のすべての事物を生命あるものとし、そこには精霊あるいは霊魂が宿っていると見る。『空気を食べる』猪に、春の峠の精霊を感じ、そのさわやかな春の大気に兜太自らも接し、自身も『空気を食べ』ているのだ。」

 この「猪」は、「曼珠沙華どれも腹出し秩父の子」(昭和十七年作)の傑作句をものにしている、兜太自身の言葉ですると、「山影情念ということばで、山国住民の内ふかく蟠(わだかま)る、暗鬱で粘着的な実態」(「秩父困民党」『思想史を歩く 上』)の、古代の「知々夫国」(秩父)で生を享けた、兜太その人のイメージであろう。上記の酒井弘司氏の解説での、兜太自身の『遊牧集』の「あとがき」の、「一茶から教えられて、自分なりに輪郭を掴むことのできたく情(ふたりどころ)〉の世界を、完全に自分のものにしようと努めてもきた。そのせいか、〈心(ひとりどころ)〉を突っぱって生きてきた私は、〈情〉へのおもいをふかめることによって、なんともいえぬこころのひろがりが感じられはじめているのである」という、兜太俳句の転回点を見事に表出している一句として、これほど、後半生の兜太の俳句の傾向を分かり易く伝えるものはない。そして、それは、実に、酒井弘司氏も指摘するごとく、「アニミズム的交感」のもとでの「自然界のすべての事物を生命あるものとし、そこには精霊あるいは霊魂が宿っている」とする、いわば、兜太が到達した新しい「アニミズム俳句」の世界のものといってよいであろう。

金子兜太の俳句(その十二)

○ 河の歯ゆく朝から晩まで河の歯ゆく    句集『狡竜』
                 
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「初出は、『俳句とエッセイ』昭和四十八年八月号。
『河の歯』と題して発表した三十句より。
 この一句・〈かわ〉は川ではなく『河』。野川の類ではなく、山地に源を発し、平地を悠然と流れている河である。その大河の流れ、生きもののような波を、『歯』という楡で捉えた。白く波打つ『歯』の河は、絶えることなく『朝から晩まで』河口を目指して流れてゆく。この句の構成は、『河の歯ゆく』と『朝から晩まで』の二群の言葉から出来あがっているが、上旬の『河の歯ゆく』を下旬でもリフレインさせることによって、リズムのある円環的な読みを可能にした。
 兜大の作品は、どちらかといえば言葉が多いが、この句は簡潔に書かれていて、読者に種々のことを想起させてくれる。
 この句に触れて、兜太は、次のように書いている。

 冬の北海道に数日の旅をして、この日は、札幌市内のレストランで遅い昼食をとっていた。一人旅の気やすさもあって、窓のむこうをながれる豊平川の川面をながめながら、ゆっくりと食べていた。(略)その河面には荒れ気味の無数の河波が立っていた。ときどき白い波がしらがのぞき、それがつぎつぎに重なってながれてゆく。河波を河の歯だとおもう。
            (『中年からの俳句人生塾』平成十六年 海竜社・刊)

 良い俳句は、どこかしら生死(しょうじ)をはらんでいるが、兜大の俳句は〈生〉を強烈にうたいあげているところに特徴がある。この句も単純化された表現のなかから、自然の交響するいのちを感得することができよう。
 句集『狡童』は、単独の句集としては未刊であるが、『金子兜太全句集』に収められたもの。                                 
 句集名の『狡童』(こうどう)は、中国最古の詩集『詩經國風』のなかの「鄭風」(ていふう)に出てくる詩句。昭和四十七年の終わり頃から四十九年十月までの兜太五十代前半の作品一八七句を収録。旅吟が多い(全句集には、未刊句集『生長』と『狡童』を収録。それ以外は、『少年』から『早春展墓」までの五冊を収めている)。」

 兜太のこの掲出句には「季語」はない。「季語」はないけれども、その土地の「地魂」のようなもの、「霊魂」(アニマ)のようなものを訴えてくる。この句は、句集『狡童』の中では「北海道 四句」の前書きのある句の一句で、この句の前には、同時作の次のような句が収載されている。

  冷雨に濡れる百頭の歯を剥く牛馬
  雪の町少女集まり仮面作る
  状況原野屋上庭園ら向き蟹折る

 これらの掲出句を見るとき、兜太は作句するときに、いわゆる『歳時記』の「冷雨」・「雪」・「蟹」とかの「言葉で書かれたもの」は排斥して、「実景とその実景よりのイメージ」のみで一句を創り上げていることであろう。そして、その「実景とその実景よりのイメージ」が、見事に、その土地の「地魂」のようなもの、「霊魂」のようなものを探り当てているのである。そして、これらの「アニミズム」(事物には霊魂(アニマ)など霊的なものが遍在し、諸現象はその働きによるとする世界観)というのは、兜太等が排斥した『歳時記』の「季語」の根底に流れているものといってもよく、その意味では、『歳時記』の抽象的な「季語」は排斥しているけれども、その抽象的な「季語」の中核に存在している、「事物の霊魂(アニマ)」には、極めて、鋭敏な俳人であり、逆説的にいえば、兜太は、「兜太の眼に映る真の季語」を中核に据えて作句しているといっても過言ではなかろう。これらのことについて、兜太は次のようにいっている。
「私の句作りは、景を見、その景にからまるように自分の想像力をひろげてゆく。そこにできてくるイメージを追ってゆくのである。ただ、最近では、表現行為が形だけにならないように、情の熱さを注ぎこむ努力をしている。(略)それといま一つ。イメージのなまなましさを保つために、日常からの汲みあげに努めている」(「情の熱さ」「寒雷」昭和五〇年三月号)。

金子兜太の俳句(その十三)

○ 潮 か ぶ る 家 に 耳 冴 え 海 の 始め   句集『蜿蜿』
酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
                                
「初出は、「海程」昭和三十七年四月・創刊号。
 創刊号に発表された五句の巻頭に置かれた作品。俳誌「海程」に賭ける思いが、ひしひしと 伝わってくる句である。兜太四十三歳。同時に発表された四句は、次のような作品であった。

    魚群のごと虚栄の家族ひらめき合う
    だれも口美し晩夏のジャズ 一 団
    違い一つの窓黒い背が日暮れ耐える
      (富沢赤黄男の死)
    知己等地の弾痕となる湖の死者
                      1
 「潮かぶる」の句。「海程」という俳句同人集団を旗揚げする決意が、海辺の家に託されて、ひしひしと伝わってくる。下句を「海の始」としているが、数年にわたって神戸・長崎という海辺の街に住んだことや、「海程」という俳誌名のことも念頭に置いての一句といえよう。昭和三十四年には、高浜虚子が逝去。三十六年には、現代俳句協会の分裂、俳人協会の誕生とつづいたが、その翌年の「海程」創刊であった。
 代表同人の兜太は「創刊のことば」で、現代俳句の拠点づくりへの抱負を語っている。
 
 現代ただいまのわれわれの感情や思想を、自由に、しかも一人一人の個性を百パーセント発揮するかたちで(略)、また約束(季語・季題)というものに拘泥したくない(略)。自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい。」
 
 創刊同人は三十名。芦田淑、丼倉宏、大井雅人、小田保、金子兜太、河本泰、隈治人、小山清峯、境三郎、上月章、酒井弘司、佐藤豹一郎、島田輝子、鷲見流一、 谷口視哉、津田鉄夫、 出沢珊太郎、仲上隆夫、八反田宏、林田紀音夫、藤原七兎、堀葦男、前川弘明、益田清、嶺伸六、柳原天風子、山口雅風子、山崎あきら、山中葛子、米沢和人。  
 創刊号の裏表紙には、五十音順で住所録が掲載されている。」

 兜太が俳誌 「海程」を創刊したのは、昭和三十七年であった。その前年に、兜太が師と仰いだ中村草田男が、現代俳句協会の会長を辞し、俳人協会を立ち上げ、ここに、兜太と草田男とは袂を分かつこととなる。この現代俳句協会の分裂が、兜太らをして、この俳誌 「海程」の創刊へと踏み切らせた直接の原因とも解せられる。以後、草田男は兜太を公然と「敵」と見倣し、草田男は自分が主宰する「萬緑」のみにその活動を絞り、いわゆる、俳壇活動からは身を退くこととなる。また、兜太は兜太で、まっしぐらに己が信ずる道を往くこととなる。兜太のもう一人の師の加藤楸邨が、この現代俳句協会分裂の際のときの身の処し方は、また、実に楸邨らしいそれであった。「私(楸邨)自身が私自身の身を置く現代俳句協会を否定することとなり、その幹事会(現代俳句協会)の中にいる私の最も信頼する多年の後進(兜太を指している)を否定することとなる。これは立場上不合理であり、情に於ても耐えがたいことである」(「寒雷」昭和三七年三月号)として、草田男らとは行を共にしなかったのである(俳人協会の会長は草田男が就き、楸邨はその幹事に推されていたが、楸邨は俳人協会には加わらなかった)。こういう兜太を巡る背景なども加味して、掲出句やこの掲出句の酒井弘司氏の解説を見ていくと、実にリアルに訴えかけてくるものがある。そして、兜太らの、いわゆる、前衛俳句の拠点と見倣されていた、その俳誌 「海程」は、上記のとおり、「約束(季語・季題)というものに拘泥したくない(略)。自然とともに、社会の言葉でも装ってやりたい」との、伝統的・因習的な「季語・季題」との訣別する世界でもあった。そして、それは、兜太のその後の「アニミズム俳句」の世界への先鞭をつけるものでもあった。

金子兜太の俳句(その十四)

○ 父亡くして一茶百五十一回忌の蕎麦食う   句集『遊牧集』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。
                      
「初出は、『海程』昭和五十三年一月号。
 初出では、『父亡くて一茶百五十一回忌の蕎麦食う』と発表されていた。同号では、次の句も掲載されている。

  父 死 ん で 熟 柿 漬え て 朝 ぼ ら け

 父、金子伊昔紅(いせきこう)(本名・元春)は昭和五十二年九且三十日死去。八十八歳であった。俳句は大正十一年頃から「ホトトギス」に投句。昭和初期から「馬酔木」に拠り、のち同人・自らも昭和十四年には『若鮎』(のち『若あゆ』)を創刊、没時まで主宰した。また、『秩父音頭』の復興のためにも尽力した。
 兜太俳句に言及するとき、父、伊昔紅のことをぬきに考えることはできない・少年の日、
父・皆野町の生家で、開業医の父を中心に俳句仲間が集まって句会を開くのを目の前にしていたが、その当時のことを兜太は、次のように書いている。
 『馬酔木』と『若鮎』はいつも誰かの膝にあり、あるいは炬燵の上に置いてあったから、
これは読めた。同人紹介とか随筆、幾人かの同人の作品ぐらいしか読まないが新鮮で甘美な上昇気流を感じていた。私が、こうした雰囲気をまづ俳句に知ったことは、その後に大きく影響している。俳句がくすんでもいず、ぢぢい臭くもなく、観念的で佶屈なものでもないものとして私に印象付けられたわけなのである。
 秋桜子や篠田悌二郎といった人を覚えている。秋桜子が、秋陽の深く当る縁側に一人腰を下して、じっと庭をみていた事がある。障子越しに、私はその横顔を眺めていたものだ。波郷も白絣できた。
        (「俳句以前・・・中学の頃まで」「俳句研究」昭和四二年六月号」)

 父、伊昔紅の亡くなった直後、信州・柏原の小林一茶百五十一回忌俳句大会に出て、霧の深くかかった上質の蕎麦を食べながら、看取った父のことを思い、兜太は柏原の一茶堂の天井板に、この句を残している。父を彼岸に送った心情が切々と伝わってくる一句。」

 金子兜太が師として仰いだ二人の俳人の、その一人の加藤楸邨が「芭蕉の申し子」のような俳人であるとすれば、もう一人の中村草田男は「郷土を同じくする正岡子規により再発見された蕪村の句業を再点検した」俳人であったともいえるであろう(正岡子規・中村草田男編『俳句の出発』など)。そして、兜太は、この師らの「芭蕉・蕪村」ではなく、兜太の言葉でするならば、「人間まるだし」の俳人・一茶に深く傾倒したのであった。そして、兜太は、自分の俳句を「アニミズム俳句」のものとの言葉は呈していないのであるが、一茶に関して、「一茶の句には、談林風の戯(ざ)れもむろん多いが、しかしかなりの句のイロニーのしぶとさと、フモールの豊かさを支えるものは、煩悩具足の叙情である。アニミズムの天真さがあり、生理的感応のふるえるような柔らかさがある。いかにも庶民らしい、ユーモラスで、皮肉っぽくて辛辣で、しかも純真な世界がひらけている」(「露をはらってあらわれる一茶俳諧」『俳句の本質』)との、「アニミズムの天真さ」という言葉を一茶に捧げているのである。兜太は「詩としての俳諧の庶民らしい実現」(「衆の詩」)ということを目指して、その実現を目指した俳人が一茶であるとして、その一茶の俳諧を高く評価した。そして、兜太の後半生の俳句は、この一茶の「衆の詩」、そして、その「アニミズムの天真さ」を、その前半生の「社会性俳句」や「造形俳句」の信条より以上に、その作句の中核に据えてきたということもいえるであろう。そして、それは、前半生の「ひとりごころ」の俳諧(俳句)から、後半生のそれは「ふたりごころ」の俳諧(俳句)への脱皮をも意味しているともとれるのである。掲出句の兜太の句は、「馬酔木」系の俳人であった父親への追悼句ではあるが、同時に、一茶への追慕・追悼の句でもある。ここで、もう一度、兜太が「荒凡夫」・一茶に捧げた「衆の詩」(「朝日新聞」昭和四十九年九月六日夕刊)についての一文を、酒井弘司氏の著書より再掲しておきたい。
「日常を、とくに即物的日常を離さずに、俳句の内質として重視しようとする私の姿勢を刺激した事情がいくつかあった。その一つは、私自身も含めての前衛的営為の成果と反省(成果・・・伝統詩形を戦後の現実に投じ、徹底して現在の場からとらえなおそうとしたところ。反省・・・過度な詩法を求め、詩を非日常のものとする図式に執着しすぎた=筆者註)である(略)。それらの事情のなかで、〈衆の詩〉としての俳句の特性をおもわないわけにはゆかなかった。 遍歴のあと「軽み」にいたった芭蕉晩年の思案の態をおもい、「荒凡夫」一茶の日常詠がもつ存在感の妙味にひかれたのも、そのためである。」

金子兜太の俳句(その十五)

○ 酒止めようかどの本能と遊ぼうか    句集『両神』

酒井弘司著の『金子兜太の一〇〇句を読む』の解説は次のとおり。

「初出は、「海程」平成元年十一月号。
 句集『両神』では、「痛風抄(六句)」として収録している。他の句には、

   梔子や痛風の足切り捨てようか
   痛 風 は 青 梅 雨 に 棲 む 悪 党 な り
   滝澤馬琴も痛風と聞き微笑む夏
   朝ひぐらし痛風も癒えしかなかな

 がある・四句を順に読んでいくと、梅雨に入るまえは大変だった痛風も、梅雨が終わり盛夏を迎えるころには痛みも消え、鯛の声に耳を傾ける余裕も生まれてきた推移を読み取ることができる。『酒止めようか』の句は、『朝ひぐらし』の前に置かれている。
五十代後半の兜太は、『酒の功徳』という文章で次のように書いている。

酒といえば日本酒で、それ以外はピンとこない。すこし間をおいて、ああ、これも酒だなとおもうていどである。そのくせ、ここ数年常用の酒は、ウイスキーかビールなのだから矛盾しているわけだが、これは健康上の要請で止むをえない。
  しかし、機会さえあれば日本酒をとおもう気持はかわらないから、酒どころにゆけば、ここの酒は特別だからと自分にいいきかせて、それをいただくことにしている。
                 『俳童愚話』昭和五一年 北洋社・刊)

  六十代に入ってから、兜大のことばに従えば『急につけがまわってきて』、歯槽膿漏に腰痛、 痛風には四回悩まされるという災難に見舞われ、好きな酒と牛肉をやめて養生、七十歳を過ぎて回復したが、さて、『酒欲』と食欲を制限して、もう自分をよろこばせてくれる欲がない。どんな欲で自分を元気づけようかという思いが、この一句から感得できる。
  そうはいっても、どこかにこの句、余裕が感じられるのは、家族と、俳句、その俳句に連なる連衆に恵まれていることによろう。俳句と遊ぶ極上の楽しみが兜太にはある。」

 金子兜太は、これまでに、十四冊(未完句集二冊を含む)の句集を世に出している。その収録句数は、三千九百十一句で、兜太をよく知る、「海程」創刊同人・現「朱夏」主宰の酒井弘司氏が、百句を選び、『金子兜太の一〇〇句を読む』(飯塚書店)を、平成十六年に刊行したのであった。これまでに、兜太を論じたものとしては、『金子兜太論』(牧びでを著・永田書房)、『金子兜太』(安西篤著・海程新社)そして『鴎の海・・・兜太百句抄』(大岡頌司著・端渓社)の三冊に過ぎないということである(酒井・前掲書)。これらのことに関連するのかどうか、兜太俳句というのは、その俳誌 「海程」に関連する、いわゆる、前衛俳句と称せられる俳人達では高く評価され、そして、その前衛俳句以外の俳人達の中では、例えば、外国でも活躍している名うて国文学史の碩学者であり、連歌・俳諧・俳句にも造詣が深く、そして、兜太と同じく「寒雷」で兜太を熟知している、小西甚一氏にすら「良い句にならない種類の『わからなさ』」との酷評すら受容しているというありさまなのである(小西甚一著『俳句の世界―-発生から現代まで―』)。しかし、その前半生の「社会性俳句」・「造詣俳句」と呼称せられていた、兜太の言葉でするならば、「ひとりごころ」によるものはともかくとして、その後半生の「ふたりごころ」の俳諧・俳句を意識したころのものは、この掲出句のように、まさに「俳諧自在の境地」に至ったといえるであろう。これらのことについて、先に見てきた、兜太の一茶への賛辞の言葉を一部借用するならば、「兜太の句には、一茶的な『荒凡夫』としてのイロニーと、フモール(真のユーモア)に充ち満ちており、その底流に流れている叙情と、季語・季題の底流に流れているアニミズムを把握する鋭敏な感覚と、さらには、天然自然と一体となって交流できる天真さがある。と同時に、『衆の詩』として、常に、雅と俗の、日常の『俗』の現実を直視する姿勢は、まさに、その前半生の創造する人としての主体性に裏打ちされたもので、やはり『俳諧自在の境地に至った、そして今なお前衛俳人たり続けるようとしている真のリベラリストの名に恥じない俳人』というような、やや、褒め過ぎの嫌いもなくもないが、小西甚一氏らの酷評に敢て異を唱えて、酒井弘司氏の兜太鑑賞の続きのようなエールの兜太礼賛といたしたい。