土曜日, 6月 03, 2006

平井照敏の俳句


加藤楸邨と平井照敏

平井照敏の俳句(その一)

俳句評論家として、俳誌「槇」主宰者として今後の俳壇をリードする一人として嘱目されていた、平井照敏氏が、この平成十五年九月十三日に逝去していたという。この照敏氏については、ネットの世界での情報というのは極めて少ない。氏の句集は、『猫町』(昭和四九年一二月刊)、『天上大風』(昭和五四年二月刊)、『枯野』(昭和五七年一〇月刊)そして『牡丹焚火』(昭和六〇年八月刊)の四冊が公にされている(この四冊の句集の他に『多摩』『春空』『石涛』『夏の雨』の句集がある)。そして、この『猫町』から『枯野』の所収の句については、別に、自註現代俳句シリーズ(俳人協会刊)の一つとして『平井照敏集』が、氏の手によって自選と自解という形でなされている。ここは、そのままの形で、それらの自選と自解との幾つかを見ていきたい。

一  鰯雲子は消ゴムで母を消す(昭和四二)
自解  句集『猫町』の一番古い句。仲人の家へ年始に出かける前、子供が妻と喧嘩して「ママなんか消ゴムで消しちゃえ」と言った。鰯雲を上五に置いた。

二  誕生日午前十時の桐の花(昭和四二)
自解  実景を見て作ったわけではない。詩から入った私の句は多く几案に成る。誕生日の午前十時の爽やかさと「桐の花」の語感の快さを思いあわせた。

三  紅蟹やぜんまい満ちて駈けだしぬ(昭和四二)
自解  当時俳句がおもしろくてならず、日に百句ほども乱作していた。蟹をぜんまい仕掛けのおもちゃと見たらと発想したことがこの句の出発点になった。

四  木の股に妻の目があり庭落葉(昭和四二)
自解  友人の彫刻家、掛井五郎は、あまり俳句に関心を示さないが、この句だけはほめてくれた。木の股の目にダリかキリコのような造型を見るらしい。

五  子らのみな梨を持ちゐる大井町(昭和四二)
自解  大井町は田園都市線の発駅。「寒雷」東京句会の会場のある町。私の仲人や楸邨先生の住む町も近かった。電車に乗って川を越えると梨畑がある。

六  かまつかや地獄草紙の鶏あゆむ(昭和四三)
自解  「寒雷」二度目の巻頭句。一度目は「木の股に」「子らのみな」で取った。『地獄草紙』の焔を吐く鶏のイメージはすごい。かまつかの焔の濃淡。

七  生き作り鯉の目にらむまだにらむ(昭和四三)
自解  写生句に見えようが想像の句。忘れられないと言ってくださる人にまだ出会うが、「生き作り」と書き出したらひとりでにまとまってしまった句。

八  今日がある激しく蟻が角ふる時(昭和四三)
自解  谷川俊太郎の『六十二のソネット』から「今日がある」をもらい、蟻の活発な活動をそれにあわせた。夏休みに私はよく蟻を見る。活気が伝わる。

九  父の手のひとつ突きでて寒の棺(昭和四四)
自解  前年十二月三日の父の死は交通事故によるもので私の人生観が変る程の打撃だった。よい追悼句が作りたかった。死を直視するほかなかった。

一〇 蝌蚪死んで腹中の足死ににけり(昭和四四)
自解  理屈っぽい作り方だが、これも父の死の影響であろうか。足の出る前の蝌蚪には、すでに足となる細胞の働きがはじまっていよう。その可能性の死。

平井照敏の俳句(その二)

 平井照敏氏には、講演の口述のもなどをまとめられた評論集『蛇笏と楸邨』という著書がある。その中に、「鎮魂の俳句」というものがあり、この自選・自解の「九・一〇・一一・
一三・一四・一五」などの父の事故死関連などの句が幾つか紹介されている。そのうちの一つに、次のようなものがある。
○ 雪満天逝きたる父は微塵にて(「鎮魂の俳句」)
「父を火葬にしましたよね。そのあとから、空を見上げますとね、微塵の父が見えてくるのです。あの『智恵子抄』の中でも、智恵子が死んだあと光太郎が空に智恵子を感じていますよね。先日、光太郎が疎開をしていました花巻の奥の高村山荘へ行きましたけど、光太郎は裏山に登っては、自分のまわりは智恵子の微粒子でいっぱいだってうたっています。あれとおんなじことを感じちゃうんです。ですから、空を見上げると、父がいっぱい微塵になって、浮いているという感じを持ったんです。」

一一 月光の針のむしろの貝割菜(昭和四四)
自解  川端茅舎の貝割菜の句が頭にあって、それにさからう形でまとめている。月光を極楽的にではなく地獄的にとらえてみた。父の死をいつも思った。

一二 ひとりぼつちのふたりぼつちや桜桃(さくらんぼ)(昭和四四)
自解  ひとりぼつち、ふたりぼつちということばを重ねて、そのリズムをたのしんでみた。さくらんぼの形とたのしい語感を十分に利用している。青春。

一三 雲に帰れば流るるばかり渡り鳥(昭和四四)
自解  渡り鳥は私の好きな季題で、ひとりでに情感がうごく。その上、死者の魂が渡ってゆくという気持にもさそわれる。茫々無限という思いを描いた。

一四 検屍室凍てつき父の睾丸見ゆ(昭和四四)
自解  どぎつい句だが、父の死をのりこえるには、その事実にひたと向いあうことが必要だった。一年後にやっとそうすることができるようになった。

一五 入棺の父のかかとや胼(ひび)われをり(昭和四四)
自解  事故死のために、入棺は葬儀屋がやった。私は見なかったが、父の足が生前どんなふうだったかが思い出されて、こう作った。やはり一年後の作。

平井照敏の俳句(その三)

「父が死ぬまでは、私は生きてるものの側からすべてりものを見ていた。しかし父が死んでからは、死の側からすべてのものを見るようになった。そのことを、宗(註・宗左近)さんは『マイナス符号への踏み込み』って言っているんです。平井さんは死を恐れないで、死の側から、マイナスの側からものを見るようになった」(『蛇笏と楸邨』所収「鎮魂の俳句」)。

一六 死んだ児は風光る遠い雲のはし(昭和四五)
自解  姪が死んだ。心臓に孔があいていて、手術しなければ二十歳で死ぬと言われていた。親が決断して東大で手術したが、痰がつまって死んだのである。

一七 桜散る骨(こつ)となりては誰も泣かず(昭和四五)
自解  姪の火葬がおこなわれた。煙突の煙。満開の桜が忘られない。小さな骨灰をみなで壺に入れた。みな異様な顔をしていた。泣く者がなかった。

一八 ありまきのあおき脂(あぶら)や父は亡し(昭和四五)
自解  六月に「寒雷」同人に推された。その時の特別作品の一句。父は植物が好きだった。菊作りまでやった。そんな父のある時を描いた。死こそ主題。

一九 青芒より現れぬ猫の顔(昭和四五)
自解 秋から在外研究員として一年パリに行くことになった。楸邨先生が送別の旅に誘ってくださった。羽前赤倉に行った。帰路の句会での楸邨選の句。

二〇 皮剥ぎし兎の頭目ばかり(昭和四五)
自解  パリ・モンマルトルての一人暮らしがはじまった。句作は勝手がちがった。日本語と異質の世界だった。ものをしっかり見るほかに方法がなかった。

二一 気違ひ茄子の夕闇白し廃僧院(昭和四六)
自解  前年イタリアをめぐったとき、どこかで見た花である。この花はダチュラとも言う。作例が少ないためか、山本健吉氏の歳時記に例句として採られた。

二二 秋の夜の足音もみなフランス語(昭和四六)
自解  パリでの生活がはじまった頃のフランス語ノイローゼを思い出して作ったもの。読者は全部これを美しい句と読むようだ。それも仕方あるまい。

二三 落ち柿のつぶれし沈黙の部分(昭和四六)
自解  私が詩から俳句に関心をひろげたのは、詩におけることばと沈黙の関係を考えてみたかったからだった。沈黙の語るところに真実がひそんでいる。

二四 雪満天逝きたる父微塵にて(昭和四七)
自解  焼津で「寒雷」の鍛錬会があった。そこへ行く車中の小句会で作った。死んだ人は微塵となって空にひろがっている。雪と共に降ってくるのた。

二五 窓ひらくことばの中の花杏(昭和四七)
自解  モーランの小説「窓ひらく」というのがあったが、さわやかさを象徴する。そこから「杏が咲いた」と聞えるのだ。季節の会話の季感の会話の新鮮さ。

平井照敏の俳句(その四)

「森澄雄さんは『虚にゐて実を行ふべし』という芭蕉の言葉をですね、あの虚というのは自分の考え方、感じ方なんですよね。そしてそれが大きな宇宙観になる。大きな宇宙観をもって、その中で目の前の小さなこと、自分の人生にかかわりのある小さなことですね、それをうたってゆく。俳句というのは結局人生をうたうものだということですね」(『蛇笏と楸邨』所収「鎮魂の俳句」)。

二六 花石榴夜々落ち顔の中に落つ(昭和四七)
自解  庭の石榴の花が、実を結んでくれと願うのに、朝起きて見ると、たくさん夜の間に落ちている。夜見ていると、目の前で落ちる。頭の中に落ちる。

二七 秋霧に濡れて目のなき防波堤(昭和四七)
自解  出雲崎で「寒雷」の鍛錬会があり、海沿いの宿での句会で作った。楸邨選に洩れたが、あとで、採りそこねたが良い句だったと言っていただいた。

二八 金木犀の香の中の一昇天者(昭和四七)
自解  近くの神社の金木犀が満開だった。シャガールの絵のように、その香の中を昇天する人を想像したが、友人の夫人が同じ頃金木犀を抱いて昇天した。

二九 月明の石段ばかりのぼりきし(昭和四七)
自解  山王書房の関口銀杏子とよく歩いた。大森、池上、鎌倉など。そのある時の散歩での作。石段をのぼることがなにか永遠に人生の比喩と思われた。

三〇 黄落を他界にとどく影法師(昭和四七)
自解  松本雨生と会津若松に旅した時の作。黄落の中に立つもの影や人影が、長くのびて、死の国に触れているように感じた。影の国が死の国に接する。

三一 雪国の夜来る前の夜の暗さ(昭和四七)
自解  会津若松は雪が降ったあとだった。宿に入る前にもううす暗くなった。雪国のきびしさを知らせるような暗さだった。「雪国」の本意がわかった。

三二 雲雀落ち天に金粉残りけり(昭和四八)
自解  多摩川の土手を二子玉川まで歩いた時の作。塚本邦雄がこの句をほめるが、塚本宇宙にぴったりの感じの句である。この頃の句には金が似合う。

三三 前の世に見し朧夜の朧の背(昭和四八)
自解  前世を信じているわけではないが、朧夜に見た人の背をどこかで見たと思っているのだ。前世で見たのかもしれなかった。朧夜の雰囲気である。

三四 夏河原生死(しようじ)の時間なかりけり(昭和四八)
自解  夏に旅をして、車中から見たある風景のあっけらかんとした感じが忘れられなかった。そこには生も死もなかった。ただ夏の河原だけが光っていた。

三五 リヤ王の蟇(ひき)のどんでん返(がえ)しかな(昭和四八)
自解  この頃から、作句に気力が充実するのをおぼえた。「リヤ王」と「蟇」が結び合った後半はひとりでに満ちた。説明しようがない句だが魅力がある。

平井照敏の俳句(その五)

「でもやっぱり物をしっかり見て作りたいといつも思いますけれども、ちょうど絵かきさんが絵がうまくいかなくなったとき、初めからデッサンをかき直して出なおすみたいに、句がうまくいかなくなったときは物をしっかり見て出なおそうとするのです。だけれども物だけを見ていると、さっきみたいに物に引きずられちゃうから、物を超えて物の向こう側というか、命みたいなもの、自分の心に響いてくるものをつかまないとだめですね」(『蛇笏と楸邨』所収「師楸邨の思い出」)。

三六 吹き過ぎぬ割りし卵の青嵐(昭和四八)
自解  卵のぷりぷりした黄味、白味の上を青嵐が過ぎるのだ。微妙な光の効果がある。楸邨先生がこの句をめ、句集を作れとすすめられた。記念の句。

三七 石榴咲き天に高熱かがよへり(昭和四八)
自解  日野草城の「高熱の鶴青空に漂へり」が頭にあったことはたしかだが、この句では花石榴のために天が高熱を出しているのだ。万物交感の世界だ。

三八 海の底より子どもの声す無月なり(昭和四八)
自解  茅ヶ崎の海がよく目にうかぶ。仲人の家からよく散歩に行った。海底に遊ぶ子供たちとは異様な想像だが、私には真実感があった。死んだ子の声か。

三九 鶏の首ころがり秋の薄目なり(昭和四八)
自解  楸邨先生が「寒雷」の句会で、こうした「秋の」の使い方はいけないが、この句の場合はゆるせると言ってほめてくださった。想像の句である。

四〇 軟体や蛸である身の苦労なり(昭和四八)
自解  昭和四十六年から四十九年まで、「寒雷」の編集長をつとめた。それを諷したわけでもないが、水槽の蛸の姿態から、軟体であることの苦労を見た。

四一 鬱勃たる夾竹桃の夜明けかな(昭和四八)
自解  ある朝早く目が覚めた。窓から外をのぞくと、繁茂した夾竹桃の木叢に、激しい生気が感じられておどろいた。自分にもそのような生気があった。

四二 雪の玉ひとりころびぬ朝の崖(昭和四九)
自解  岡井省二ら関西の数人と余呉の湖に出かけた。一泊して翌朝駅へ向けて湖畔を歩いた。雪上のさまざまな足跡。崖の上から雪の塊がころげてきた。

四四 雪濡れの近江訛の隅にをり(昭和四九)
自解  琵琶湖に沿って汽車が走っていた。満席ほどの混みようで、人々が大声で話し合っていた。黒ずんだ近江。この話し方が近江訛なのだろうと思った。

四五 雪解けのかたまりとなり伊吹山(昭和四九)
自解 祖父や父は灸をすえた。そのもぐさが伊吹山産。日本武尊も伊吹山のたたりで病気になった。伊吹山を見るたびに、心につよく響くものがある。

平井照敏の俳句(その六)

「俳句の方法といいますと、旗印みたいなものがありまして、例えば上田五千石氏だと『眼前直覚』ですね。石原八束氏だと『内観造型』。加藤楸邨といったら『真実感合』なんですね。楸邨は『真実感合』を自分の旗印に掲げているのですが、『真実』というのは、例えばここに花があります。この花を通して向こうに見えない花の本質を掴む・・・それが『真実』なんですね」(『蛇笏と楸邨』所収「加藤楸邨のこと」)。

四六 木枯しや妻といふ神ありにけり(昭和四九)
自解  「古書通信」に「五万円の詩集」という文章を書いた。ボンヌフォワの五万円の詩集を、妻の協力で入手する話だが、その文末に置いた一句。

四七 橋すぎて椿ばかりの照りの中(昭和四九)
自解 「橋すぎて」には、ダンテの『神曲』の口調を思い出してきた。岡井省二と佐渡に旅した時の句。佐渡の北端まで歩いてバスで両津に戻った。

四八 桜草寿貞はそつと死ににけり(昭和四九)
自解  芭蕉の内妻、昔の恋人と言われることのある寿貞尼はどんなひとだったのだろう。芭蕉の旅の間に死んでいる。「桜草」から連想させられた。

四九 山路きて菫があそびゐたりけり(昭和四九)
自解  有名な芭蕉の句をもじってみた。菫といえば、やはり少女を思いうかべる。菫を見て、おどる少女やおままごとの少女を思いえがく。そんな幻想。

五〇 盲人の目にとまりける青葉闇(昭和四九)
自解  私の発想はときどきフランスの詩の影響がまじる。この句にはボードレールがあるような気がする。私たちの目とはちがうもっと深く見る目。

五一 われの見し蛍袋はなかりけり(昭和四九)
自解  夏、「寒雷」編集長をやめ、九月、主宰誌「槇」を創刊した。その創刊号に発表した句。たしかに見たと思った蛍袋がないのだ。猫町的発想の句。

五二 夏の朝空より象が降りてくる(昭和四九)
自解  いろいろ奔放に作ってみたかった。空から飛行船のように象がおりてくる。象のクレーンで船からおろされるところではない。夏の朝の期待表現。

五三 ガーベラの太陽王ルイ十四世(昭和四九)
自解  ガーベラの花の真中に顔を描いてみた。その顔が花びらの光を放っている。太陽王とよばれたルイ十四世と見た。それだけのことだがおもしろい。

五四 海に出て黒蝶戻る風のなし(昭和四九)
自解  山口誓子の「海に出て木枯帰るところなし」のもじりである。木枯を黒蝶と生き物のイメージにしたところに生ずる変化に一句の生命をかけた。

五五 港区につゆくさ咲けりひとつ咲けり(昭和四九)
自解  田町を過ぎる電車の中で作った。こんなところにと思うようなところに咲いていた。東京の港区を知らない人にも、あるイメージが与えられよう。

平井照敏の俳句(その七)

「秋桜子先生の目は非常に明晰で鋭いから、それは『昼の目』である。だけど自分(註・楸邨)には『昼の目』でおっつかないものがある。それは解き明かしきれない、もっとなにか複雑に蠢いている根深いものが腹の奥にいつも潜んでいる。それに関心を持つ自分の目は、実は『夜の目』なんだ」(『蛇笏と楸邨』所収「加藤楸邨のこと」)。

五六 穀象を虚空蔵とききゐたりけり(昭和四九)
自解  私にときどきやってくることば遊びの句。ただ、根ね葉もないことをしているつもりはない。宇宙の一切を含む虚空蔵ということばがおもしろい。

五七 鬼灯が祖母の咽喉(のんど)か鳴りにけり(昭和四九)
自解  年老いた祖母なのに、鬼灯というと、一度はそれを鳴らさないではいなかった。子供ごころにもそれが異様だったのだろう。記憶にやきついている。

五八 中年の顔つぶれたる苺かな(昭和四九)
自解  幾重にもかさねた表現。顔をつぶす。顔がだめになる。苺をつぶす。老眼がはじまったりした四十三歳の男のさびしい自嘲の句。苺を強くつぶす。

五九 大川をあおあおと猫ながれけり(昭和四九)
自解  私の家では子猫が捨てられないので猫がふえて二十匹にもなった。だからまったく想像の句。大川を時空の流れと考えてもよい。猫の顔が見える。

六〇 たまゆらをつつむ風呂敷藤袴(昭和四九)
自解  藤袴という花の名前からひとりでにうまれた。花の中には何がひそむか。それを「たまゆら」としたのである。露のようなはかないうつくしい時。

六一 鰯雲叫ぶがごとく薄れけり(昭和四九)
自解  仲人の木原孝一(詩人)が書評にこの句をとりあげてほめてくれたのが忘れられない。「叫ぶがごとく」の高揚が気に入ってもらえたようだ。

六二 秋の陽を突かれてやまぬ毬ひとつ(昭和四九)
自解  第一句集『猫町』での一番あたらしい句にあたる。句集のたどる運命を幾分思っていたのかもしれない。どうぞ御自由に悪評でも何でもという気持で。

六三 北風にしづかな崖の垂れゐたり(昭和四九)
自解  第二句集『天上大風』の巻頭に置いた句。しずかにしかも鬱然と沈黙していたいという気持があった。詩人の飯島耕一がほめてくれた。好きな句。

六四 風花や掌に打つごとき棺の釘(昭和四九)
自解  棺の最初の釘は石でみんなが打つ。あの音はたまらない感じだ。その苦しみを、キリストが打たれた手足の釘のようだと表現してみた。痛い音だ。

六五 足袋ぬぐに聖痕を見るごときかな(昭和五〇)
自解  足袋や靴下を脱ぐとき、ちらっと、どんな足が出てくるかと思う。キリストの聖痕をこの句では想像してみた。詩人の吉野弘がよい批評を書いた。

平井照敏の俳句(その八)

「金子兜太たちが社会を俳句で詠うようになったその後は何か。それが問題なんですけど、
それは『言葉』じゃないかと私(註・平井照敏)は思っているんですね。言葉の時代にいま差し掛かっているんじゃないか、と私はひそかに考えておりますけれども」(『蛇笏と楸邨』所収「加藤楸邨のこと」)。

六六 一塊の思想を構へゴリラなり(昭和五〇)
自解  上野動物園は句作につまった時出かけるところ。中でもゴリラがおもしろい。あの姿を見ると、思想を持ち、信条を持った、快男児という感じだ。

六七 光晴の死の擬宝珠咲くばかりかな(昭和五〇)
自解  光晴は詩人金子光晴。詩を書きはじめた頃愛読した。私の先生のような人。その訃報を聞いて庭に出ると、擬宝珠の花が咲いていた。うすい色の花。

六八 行き暮れて雪の鴉となりたるか(昭和五〇)
自解  「週間読書人」の新年詠草に求められて作った。裏磐梯の雪を思いうかべて作ったが、記者に「ゆき・・・ゆき」の頭韻を指摘されてびっくりした。

六九 新年の謎のかたちに自在鉤(昭和五一)
自解  裏磐梯に民芸館がある。そこで見た自在鉤である。自在鉤は疑問符をひっくりかえした形をしているわけで、永遠に問いかけをやめないのだ。居間で。

七〇 寒暁やおらおらでしとりえぐも(昭和五一)
自解  中・下の句の東北弁はもちろん宮沢賢治の詩の一節で、賢治の妹のことば。「私は私で一人ゆきます」の意。私自身のことばとしてつぶやいた。

七一 陽炎のふたつ燃え合ふ橋の上(昭和五一)
自解  橋の上にも陽炎がもえて、二人の人影も陽炎の中にある。恋人同士か。寄りつきつつ離れている。まるで『嵐が丘』のように。そんな小説的想像。

七二 花どきの微熱かがよふごときかな(昭和五一)
自解  大学生の頃、花どきになると微熱が出た。結核になりかかっていたらしい。その感じを身体がおぼえている。恍惚と不安と二つわれにあり的に。

七三 牡丹咲き木のぞつくりと痩せにけり(昭和五一)
自解  鷲谷七菜子さんから、こんなとらえ方があるのですねと言っていただいた句。自分ではとりわけ気にかけていなかった。花は気付かないことなのか。

七四 枇杷の子のぽぽぽとともるほの曇り(昭和五一)
自解  目がわるいので、電車に乗ると句作にはげむことにしている。窓外を眺めて、枇杷の実が見える頃は楽しい。山本健吉氏にほめられた句である。

七五 唖蝉の寂々と啼きゐたりけり(昭和五一)
自解  唖蝉は啼く啼かない蝉のことだ。しかし木の幹にとまっているだけで、存在の持つ全身の表情が何かを訴えてくる。聞こえぬ声で啼いているのだといえる。

平井照敏の俳句(その九)

「私は自分の歳時記(河出文庫版『新歳時記』)に本意の項目をつけたのである。本意とは季語の歴史的な意味なのである。歴史的なこころなのである。ことばの歴史は潮のうねりのようなもの。急がずあせらない。それに比べれば、一つ一つの季語の適否の問題などは、ずっと小さな、浜辺にさざめくさざ波のようなものなのである」(『蛇笏と楸邨』所収「歳時記問題始末」)。

七六 清明の月の遊びは何もせず(昭和五一)
自解  清明とは美しいことばだ。二十四気の一つで、春分後十五日目、四月はじめの頃だが、清く明らかな語感がある。心の中だけの遊び。月の遊び。

七七 病蛍苦しくなれば寝てゐます(昭和五一)
自解  蛇笏の「たましひのたとへば秋の蛍かな」以来、秋の蛍、病蛍は私のこころをいざなう。この句では「病み」というところを利用した。

七八 秋深し何処(いずこ)に連れてゆかれるか(昭和五一)
自解  秋が深むと陰翳が深まり、つめたさも加わってなにか心細い感じになる。秋風が人を何処かへはこぶ運命の流れのようにきこえることもある。

七九 誕生より死ぬまでさむく海鳴つて(昭和五一)
自解  大洗海岸での句会の時に出した句。海の音が絶えずきこえている海岸の人の暮しをまざまざと感じていた。人々の生活を貧しく寒く眺めていた。

八〇 白鳥のゐてたそがれの深くあり(昭和五一)
自解 心象が凝ってこんな句になった。おそらくテレビか何かでできた心象だったろう。たそがれの中の白鳥という沈静した形でまとめてみた。

八二 三猿の丸目にうかぶ冬の光(昭和五一)
自解  鎌倉付近には三猿を刻んだ石塔が多い。この三猿は極楽寺あたりで見たもの。三猿の目は丸いくぼみだった。その目にある冬の光とかげの印象だ。

八四 尼一人見えぬ尼寺なれば冷ゆ(昭和五一)
自解  虚子の墓のある寿福寺の隣りに、鎌倉唯一の尼寺という英勝寺がある。その境内に入ってみた。ひとけのない寺で、冷え冷えとした雰囲気であった。

八五 引鶴の天地を引きてゆきにけり(昭和五二)
自解  テレビなどで鶴を見ただけであるが、鶴が引くときの情景は天地が動くようだと感じた。『天上大風』で一番評価の高かった句である。代表作。

平井照敏の俳句(その十)

「俳句では、三句切れはいけないとされているから、二句一章(五/七・五、 五・七/五)か一句一章(五・七・五)の二種類の形となる。二句一章では多く短い方の一句に季語が入る。川本浩嗣説に従う提示部でなく、支持部の方に季語が入る。一句一章では季語が主題になって述べられることが多い。そうした構造の中で、季語は主題と合一するか、主題と向き合って立つかの二通りとなるのである。いずれにしても、季語は主題の合せ鏡なのであり、時に主題と重なり合い、主題そのものとなるのである」(『蛇笏と楸邨』所収「季語と精神分析」)。

八六 一遍の秋空に遭ふ日暮れかな(昭和五二)
自解  遊行寺を吟行した帰り、藤沢の駅で、美しい夕空を見た。もう秋の空だった。尊敬する一遍上人の空と思った。飯田龍太に「雲母」でほめられた句。

八七 道連れをかき消すごとし秋の暮(昭和五二)
自解  芭蕉、蕪村、漱石と流れる行人の系譜が頭にあった。仲間と歩いていてもふっと自分一人を感ずることがある。そんな感じを表現してみたのである。

八八 ふと咲けば山茶花の散りはじめかな(昭和五二)
自解  朝日新聞の「折々のうた」にとりあげられた句。庭に山茶花がたくさんあるが、ふっと咲きはじめるもう散りはじめて咲きつづける花である。

八九 無始無終北上川に笹子鳴く(昭和五三)
自解  平泉で「槇」の鍛錬会を行った。『おくのほそ道』を読んで解説した。北上川はゆったりと流れていた。無始無終ということを実感した。

九〇 杉風の耳聾(しい)おもふ春の寺(昭和五三)
自解  平泉は芭蕉の『ほそ道』の旅の、一番の目的地だった。なぜ中尊寺で杉風を思い出したかわからないが、杉風がしのばれた。芭蕉と同じか。

九一 朝ごとに落ちたる柿の花拾ふ(昭和五三)
自解  この句が『天上大風』で一番よいと飴山実が評した。私もさらりと出来て好感を抱いた。さらっとした句。すこしかなしく。

九二 鵜は出でぬ水の暗(やみ)より火の暗(やみ)へ(昭和五三)
自解  鵜飼は見たことがない。写真などで印象づけられていたものを席題でまとめた。「水の暗より火の暗へ」はうますぎるか。高野公彦の目にとまった。

九三 額の花ひらくことばはみなかなしく(昭和五三)
自解  額の花が私は好きだ。宝石のように美しいが、どこかかなしい花だ。文章・講義・講演、私のことばを使う仕事のかなしさを思いあわせた。人生。

九四 蜩の鳴き安閑としてをれぬ(昭和五三)
自解  蜩は日暮らし。道元は生死事大と言ったが、五十歳に近くなると、なんとなく人生の果てが見えてくるような感じだ。日暮れて道ますます遠しだ。

九五 秋暑しひと日いく言(こと)語りしか(昭和五三)
自解  大学の夏休みは九月半ばまで続く。家にいてきまった生活をしていると、ほとんど口を利かずに一日がおわる。ことばの仕事をしているというのに。

平井照敏の俳句(その十一)

「俳句を律する二要素を詩と俳(新と旧)の因子をとり出し、その二因子の相克によって、近代の俳句史が展開してきたとするものであった。のちに知ったことだが、復本一郎氏も近世俳諧に関して、反和歌と親和歌の二因子による展開を見ておられ、私の視点がただちに近世にもつながることがわかったが、それはさておき、私の法則を近代俳句史に適用すると次のようになる。近代俳句をひらいた子規は新を求め、俳句を文学にしようとしたが、俳句分類を続け、俳を理解するバランスのとれた革新者であった。子規の没後、子規の新追求の面のみを求めて急進し、新傾向のリーダーになるが、若者の意見にふりまわされて自爆するのが碧梧桐であった。これではならずと、俳句を本来の俳の方向にひきもどしたのが虚子で、その指導力によって、俳壇を『ホトトギス』一色に染めるにいたるが、それが停滞保守化すると、俳句に芸術性を求めて『ホトトギス』を離脱するのが秋桜子であった」(『蛇笏と楸邨』所収「現代俳句の行方」)。

九六 秋山の退(すさ)りつづけてゐたりけり(昭和五三)
自解  第三句集『枯野』巻頭の句。那須で鍛錬会をした時の句。秋は風景がひきしまる。山が退るとあらわしてみた。思い切って単純化した。

九七 僧形にかたち似てくる木の葉髪(昭和五三)
自解  頭は年をとると、はげるか白髪になる。私はかなしいかな前者の方だ。じたばたしてもしようがない。どうせ坊さんみたいな生活だと居直ったのである。

九八 さきがけて黄葉(もみじ)してゆく一樹かな(昭和五三)
自解  「槇」のような小俳誌でも、主宰をしていると苦労が多い。一本だけ先に黄葉をはじめた木を見てそのことを思った。木の葉髪もはげしいようだ。

九九 涛(なみ)の追ふ冬の鷗の涛を追ふ(昭和五四)
自解  大洗海岸で一時間も立って句を案じた。次々にめくれたは、走り寄り、砕ける涛。鷗がその涛を追うように飛ぶ。くりかえし。主客転換。大海。

一〇〇 雪の夜の天地合掌はてしなし(昭和五四)
自解  会津の雪である。雪の降る夜はしんしんと冷えて清浄無垢の感じであった。天が地に降りきて、掌をかさねたようにかさなったという思いであった。

一〇一 梟の性(さが)持ちはじむ老い芒(すすき)(昭和五四)
自解  芒を使ってみみずくにしたりするから、別にとらえ方に無理はしていないわけである。芒も枯れて張りをなくしてしまうと、魔性をもちはじめる。 
    
一〇二 さんさんと田宮二郎の雪降れり(昭和五四)
自解  映画俳優の田宮二郎が自殺した。私はかれの出る映画をよく見たし、その人柄が好きだった。ショックだった。その日は東京は雪だった。哀悼。

一〇三 疑ひは人間にあり雪の闇(昭和五四)
自解  謡曲にあるこの上・中の句のことばは時折よみがえってくる。神には疑いはない。神は明らかに真実を見とおしているから。人の夜に降る雪よ。

一〇四 絶望の煙突に雪ふりこむよ(昭和五四)
自解  会津若松の駅に着く少し前、吹雪の中を必死に煙を出していた一本の煙突が忘れがたかった。非常に人間的な煙突だったのだ。絶望と戦っていた。

一〇五 人間の闇にも雪のとびかひぬ(昭和五四)
自解  「あの下方にうごめいているものは何か」「人間の闇だ」というボンヌフォワの詩集で見た対話が忘れられない。暗愚。懐疑。暗鬼。不満。俗習。

平井照敏の俳句(その十二)
 
「昭和十年以降、人間探求派というグループがうまれる。これは『ホトトギス』の一人で、詩人資質の草田男、秋桜子の弟子でありながら、俳を求めた波郷、二人の中間にいて、何よりも俳と詩の総合者であった楸邨の三人をいい、単なる自然詠でなく、人間のあり方を追求する傾向で一致する人びとであった。人間探求派と同時期に詩を追求した新興俳句があった。秋桜子の『ホトトギス』離脱は、若者の共感をよび、若者たちは新興俳句運動を形成し、詩を求めて過熱してゆくが、その中から西東三鬼、富沢赤黄男、渡辺白泉、高屋窓秋らが才質を示しはじめる」(『蛇笏と楸邨』所収「現代俳句の行方」)。

一〇六 白木蓮(はくれん)にアッシジの空ひろがりぬ(昭和五四)
自解  開花して二、三日の白木蓮の見事な白。アッシジで味わった清らかで高貴な大気を思いあわせた。聖フランシスコと聖クララの町がしたわしい。

一〇七 辛夷咲くと白き声先(さき)光りけり(昭和五四)
自解  梅とか桃とか、春になって咲きはじめる花はいろいろあるが、辛夷というと何故か胸がおどる。高い木に細かい花びらをふりわけて咲くからだろうか。

一〇八 花桐はいつも遠のく景なのか(昭和五四)
自解  桐の花はどこかさびしい。枝の張り方も大ぶりである。豊臣の末路も思い合わされる。思い出す桐の花はいつも車中から遠く見え、遠く消えた。

一〇九 葉桜となりても凄し老桜(昭和五四)
自解  何本か桜の名木というのを見たことがある。老いた名木にはどこか個性と威厳があった。神木とされるのも、その威力を人々が感じたからだろう。

一一〇 海原へひた走る青芒原(昭和五四)
自解  「槇」五十号記念に発表した句。楸邨先生にほめていただいた。海に来る斜面一ぱいの青芒なのだ。風が吹き、青芒が走りくだってゆくようだ。

一一一 死顔が満月になるまで歩く(昭和五四)
自解  仲人の木原孝一が死んだ。腎不全だったが、風邪をひいたのが原因で、リンパ腺をはらして死んだ。顔が満月のようだった。痛撃に必死に対抗した。

一一二 死顔が満月になるまで歩く(前句の再掲)
(『蛇笏と楸邨』・「鎮魂の俳句」) 全然考えもしないのに、向こうから飛び込んで来た句なんです。はじめ「死顔」ということばが浮かんでいたのです。そこにあの柩の顔が重なりました。はれた顔でした。すると「が満月」と続いて出たんですね。そのあと「になるまで歩く」となった。「になるまで歩く」ってよくわからないんですけど、そういうふうに続いて出てしまったんですよ。言葉が。書いてしまってみてみると、なにか変なのだが妙に力がある。なにか、できちゃったて感じだったのです。出てきちゃったっていう感じ・・・。そしたら、この句、これはって人がやっぱり驚いてくれました。そういう、いわば、あの世から飛び込んで来たみたいな句、そういう句だと思うんですが。この句、もちろん理屈つけて解説することはできますよ。死んだ顔が、だんだん何か、満月のようにまろやかになる。その苦しみも不安も、そういうものがなくなって、安心の境地になる。その時まで自分は、その彼の成道を願ってずーっと歩き続ける。まあ、なんかそういうふうにでも言えばかっこはつきましょう。だけど、作った時の気持って全然そんなじゃないんですよ。向こうから飛び込んできちゃったんです。

一一三 鰯雲死者はるばると漕ぎゆけり(昭和五四)
自解  ロレンスに「死の舟」というすばらしい詩がある。鰯雲のうかぶ空の海を、木原孝一の死の舟が遠く遠く消えてゆくのを思った。私のこころの海か。

一一四 黒鳥のとびたちてより秋深む(昭和五四)
自解  黒鶫でも何でもよい。黒い鳥が、死んだものの魂のように、とびたって行ったのである。木原孝一もそのように。かれの全詩集を編もうと決意した。

一一五 一本の青桐が立ち良夜なり(昭和五四)
自解  とりわけどうということのない句だが、音調の爽快な句で、出来て気持がよかった。まさに良夜である。月も好きな季題。雪月花はみな良い季題だ。

平井照敏の俳句(その十三)

「戦後、この人間探求派と新興俳句の後継者の形で、四人の俳人が目立ってくる。龍太、澄雄、兜太、重信。このあたりになると、二因子はますます複合し、どちらかに割り切ることはますます不可能になるが、大づかみにわければ、蛇笏・人間探求派そして小説に学んだ龍太、楸邨・波郷そして小説に学んだ澄雄は俳の側、楸邨・草田男・詩に学んだ兜太、新興俳句、とりわけ赤黄男の血脈をひく詩俳、重信は詩の側と言うことができるだろう。そして、社会性俳句、前衛俳句運動の時代を通して、兜太・重信の活躍が目立った。昭和三、四十年代は詩の時代であった」(『蛇笏と楸邨』所収「現代俳句の行方」)。

一一六 葉ざくらに移りしばらく無言なり(昭和五五)
自解  花どきはどこかににぎやかで、落ち着かないが、葉桜の頃になると、ぐっとしずかに落ち着いてくる。身体も調子をとりもどすように。自然のリズム。

一一七 風やんで今日法然の日と思ふ(昭和五五)
自解  佐藤春夫や柳宗悦の文章で、法然、親鸞、一遍と続く念仏の系譜に関心を抱いた。法然はとりわけあたたかく深い。法然と思うだけで心なごむ。

一一八 塩だけのおむすび結び五月闇(昭和五五)
自解  白と黒を対照させた句となったが、私は塩だけのおむすびが一番好きなのた。子供の頃、母に作ってもらったおむすびの味が忘れられないのだろう。

一一九 梅雨の川海へ丸太のごとく入(い)る(昭和五五)
自解  席題「梅雨」で作った。私の中にはさまざまな題材の本意的イメージが、印象的な形で貯えられている。効率のよい作り方が出来る。多摩川の印象。

一二〇 桜桃忌深夜に日射しある不思議(昭和五五)
自解  中原中也の「一つノメルヘン」のような世界だ。桜桃忌ということばからの想像で、実際そんな情景が目に浮かんだ。太宰治の顔の印象からも。

一二一 鯰ともなれず泥鰌の浮かびくる(昭和五五)
自解  「鯰」という席題で、永田耕衣の句や絵を思い出した。人間化した戯画として詠んでみようと思った。鯰は王様。泥鰌は道化師。共に髭はあるが。

一二二 みの剥いでなほみのむしの名なりけり(昭和五五)
自解  みのむしのみのを下から押すと、みのむしが顔を出す。それを出してしまうのはかわいそうだが、それでもみのむし。人間にもそんなのがいる。

一二三 秋天に聖地があるのかも知れぬ(昭和五五)
自解  久しぶりに鹿児島へ行った。晴れた空だが少し雲があった。紀伊半島から四国あたり、うすい雲が煙のようで夢のようだった。聖地があった。

一二四 コーちゃんの死の凩の濃みどりに(昭和五五)
自解  コーちゃんは越路吹雪。その訃報に感慨があった。山本健吉氏にこの句を示すと、「凩の濃みどり」はいいが「死」はどうかなといわれた。私の表現。

一二五 われより出て枯れひろがりし原ならむ(昭和五六)
自解  もし自分が死んだら、自分には世界はなくなるのだと思う。世界は実在としても自分には何の値打ちもない。そう考えると枯原もわれより出て枯原。

平井照敏の俳句(その十四)

「このような詩(文学、芸術などを含む。俳句を新しいものに変えようとする欲求)と俳(伝統、守旧、俳句性)の相克による俳句史の展開という視点とともに、もう一つ頭におきたい視点、というか、態度のようなものがある。それは草間時彦が発表した『伝統の週末』という文章で、草間氏は、季語の裏付けのなくなった現代生活、リズム感の喪失、若者たちの伝統への無知、その他もろもろの嘆かわしい状況に立って、よろしい、これからの俳句は、急速に詩になってゆくだろう。われわれが心に捧げた俳句のよろしさは今後ますます失われ、俳句という名のもとに別様のものが書かれてゆくだろう。波郷は『現代俳句の弔鐘はごーんとおれが鳴らす』と言ったが、われわれはわれわれが信ずる俳句を守ってそれに殉じてゆこう。そのほかにはないのだと書いておられた(『伝統の終末』昭和四十八年刊)」(『蛇笏と楸邨』所収「現代俳句の行方」)。

一二六 春らしくなき一隅を選びけり(昭和五六)
自解  五十歳になって、生きる構えがやはり微妙に変ってきたような気がする。老いの意識ではなくて、より本当のものを求める気持とでもいおうか。

一二七 春の寺黄金ころがすごとくあり(昭和五六)
自解  室生犀星にも三好達治にも春の寺の詩がある。実見した春の寺も多い。それらがみんなかたまってこんな句になった。どちせかというと寺の精神像。

一二八 母の日の母なくまはる風車(昭和五六)
自解  井本農一氏にほめていただいた句。だが母ということばには情感がたっぷり含まれいて、なんとなく句としてあまくなるような気がする。風車も。

一二九 蜥蜴の眼三億年を溜めてゐる(昭和五六)
自解  高橋真吉、ショペルヴィエールなど、時空をとびこえる詩人は何人かいる。蜥蜴なら三億年と結びつけやすいはずだ。俳句の領域をひろげたい。

一三〇 生まれも生きても長子葛の花(昭和五六)
自解  俳句の主宰者たちには長男が多いようだ。草田男はみちろん楸邨も長男。私も長男としてうまれ、主宰になって、長男的苦労をしている。天命か。

一三一 師の師逝くその夜のたたきつくる雷(昭和五六)
自解  秋桜子が亡くなった。私の師楸邨の師にあたる。お会いしたことはなかったが、楸邨のむこうにいつも感じていた人だ。雷鳴が私の胸にとどろいた。

一三二 時雨忌の孤心衆心こもごもに(昭和五六)
自解  芭蕉に親しんでいると、連衆にたいするかれのこころは一定ではなかった。孤心がつよまる時もあり連衆心がつよまる時もあった。私もそうだ。

一三三 紅に黄に黒に破れて散りゆくも(昭和五六)
自解  落葉のことを詠んだのだが、もちろん人間のありさまを重ねているわけである。落葉のいろいろはみに傷を持つ。傷つき、破れ、落ちてゆくのだ。

一三四 いつの日も冬野の真中帰りくる(昭和五六)
自解  私の家は町の中にあるので、これは私の生活の心象だ。山本健吉氏が『枯野』からこの句を選んで「週間新潮」にとりあげておられた。冬野の心。

一三五 生涯の稿一束よ百舌鳴けり(昭和五六)
自解  句集や評論集をまとめるたびに、これだけと思う。本は私の身長ほど作ったが、それでも仕事は一束だ。仕事好きな私なのに。以上、『枯野』より。

平井照敏の俳句(その十五)

「題名を『牡丹焚火』としたのは、須賀川の牡丹園でおこなわれている牡丹焚火につよく
魅かれているためである。この牡丹園には北原白秋の歌碑があり、『須賀川の牡丹の木(ぼく)のめでたきを炉にくべよちふ雪ふる夜半に』と刻まれている。この歌を作った頃、白秋は思い糖尿病のため失明寸前の状態だった。同じ病気の私は、この歌のこころを思い、牡丹の火を思って、想像の焔をたかぶらせた」(『牡丹焚火』・「あとがき」抜粋)。
 なお、『平井照敏句集』(芸林書房)には、ここに収載した、『猫町』『天上大風』『枯野』
『牡丹焚火』の句集の他に、『多摩』『春空』『石涛』『夏の雨』の句集の句も収載されている。また、下記の牡丹焚火の連作句(一四六~一六七)は、照敏俳句の頂点に位置づけられるものであろう。

一三六 いずこかへ山向かふなり雪の中(昭和五七・『牡丹焚火』)
一三七 ほつほつと地の底よりの梅だより(同上)
一三八 倒れては足投げいだす怒り独楽(同上)
一三九 万緑や存在はみなひかりもつ(同上)
一四〇 文芸は一字一字や夏の霧(同上)
一四一 きらきらと雪の兎がとけて跳ぶ(昭和五八・『牡丹焚火』)
一四二 蛇苺思ひ捨つべきものは捨つ(同上)
一四三 生きて野分死して野分の世でありし(同上)
一四四 余生の語燃ゆるごとくに柿紅葉(同上)
一四五 ささやかなものをたよりにあたたかし(昭和五九・『牡丹焚火』)
一四六 枯牡丹ちふ荘厳の牡丹園(同上)
一四七 牡丹園縦横の凩となれり(同上)
一四八 牡丹焚くかなしきときは面をして(同上)
一四九 井戸のごとく淵のごとくに牡丹の火(同上)
一五〇 焚く牡丹火よりも水の焔持つ(同上)
一五一 牡丹焚く宙に青衣の女人の手(同上)
一五二 無情の火有情の火や牡丹焚く(同上)
一五三 牡丹の火彦火火出見尊かな(同上)
一五四 雪近く闇は病めりな牡丹の火(同上)
一五五 牡丹焚き地底のふかき声は満つ(同上)
一五六 病むものにのりうつりくる牡丹の火(同上)
一五七 宙空の流燈なれや牡丹の火(同上)
一五八 牡丹焚く悲の輝きの焔かな(同上)
一五九 牡丹焚く宙にちちははみんなゐて(同上)
一六〇 牡丹焚く焔の母と化し去んぬ(同上)
一六一 牡丹の火迦陵頻伽のとびめぐる(同上)
一六二 牡丹焚くむかしむかしを焚くやうに(同上)
一六三 銀狐牡丹焚火の宙とんで(同上)
一六四 はじまりもをはりも冥し牡丹の火(同上)
一六五 牡丹焚火は燃ゆる母かな闇の底(同上)
一六六 あめつちの闇に牡丹の木(ぼく)焚けり(同上)
一六七 いつの日も牡丹焚火を負うてをり(同上)
一六八 花すべて消えたるあとの深空かな(昭和六〇・『牡丹焚火』)
一六九 夏の蝶死すれば翅となりゐたり(同上)
一七〇 わが水尾の見ゆるかなしく夕焼けて(同上)

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