日曜日, 6月 04, 2006

石田波郷の世界



石田波郷の世界(その一)

昭和俳壇の頂点を極めた一人の石田波郷については、波郷のご子息の石田修大氏の手になる「風鶴山房」(以下のアドレス)に詳しい。ここでは、かってメモをしていたものを頼りに、その周辺のことなどについて記しておきたい。
「風鶴山房」
  http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/index.html

[石田波郷の雪の句]

○  雪降れり時間の束の降るごとく
 
波郷には、『鶴の眼』(昭六~一四)、『風切』(昭一四~一八)、『病雁』(昭一八~二〇)、『雨覆』(昭二〇~二二)、『惜命』(昭二二~二五)、『春嵐』(昭二五~三一)、『酒中花』(昭三一~四三)そして、没後刊行された『酒中花以後』〈昭四三~四四)と、系列句集が完備されている。掲出の句は、『酒中花』に収められている。この『酒中花』は、上記の句集の収載年度に見られる、昭和六年から昭和四十三年の、波郷の三十七年にわたる作家生活の、ほぼ、三分の一(昭四三~四四)をしめると共に、波郷の生前に刊行した最後の句集として、最も充実した、最も著名な句集であり、この句集により、波郷は、昭和四十四年に 芸術選奨文部大臣賞を受ける。波郷は、中村草田男・加藤楸邨と並び称される「人間探求派」の一人として、「自然よりもより多く人間に関心が向いている」俳人と目されているが、この『酒中花』においては、波郷の言葉をしていうならば、「確かに見る」という、「俳句は偽らず、この短い詩型を生かすには、『素朴なリアリズム』がもっともよい方法である・・・」という、晩年の波郷の俳句観が色濃く宿っていると指摘する識者(平野仁啓氏)もいる。この雪の句は、これらの波郷の言う「素朴なリアリズム」の手法によって描き出された自然であろう。そして、ここに、俳句のもっとも大事なものの、波郷のいう「確かに見る」ということを根底に置いていることを実感するのである。
波郷の代表的な雪の句を年代順にあげておくこととする。
    雪はしずかにゆたかにはやし屍(かばね)室 (『惜命』)    ,
    雪片と人間といづれ雪降りつぐ       (『酒中花』)
    生き得たりいくたびも降る春の雪      (『酒中花以後』)

☆波郷の俳句信条の「確かに見る」については、上記の「風鶴山房」の次のアドレスに詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sakku/index.html


石田波郷の世界(その二)

[臨書の名手・波郷]

○ 朝顔の紺の彼方の夕日かな

『風切』所収の句。波郷の三十歳(昭和十七年)の時の作。この句には「結婚はしたが職は無く、ひたすら俳句に没頭し、鶴に全力を挙げた。韻文俳句を大いに起こそうとした時季であった」という自注がある。楠本憲吉氏の句意は「茫洋たる未来の月日が果てしなく展開していく」とあるが、平畑静塔氏の「過去の月日がもはや帰らぬ過去が、今ひたと望見される」の方の句意をとりたい。静塔氏には「不実物語」という難解な俳論があるが、その最後のところに、波郷のこの句を題材とした「朝顔の臨書」という論稿がある。そのポイントを要約すると次のとおりとなる。
「俳人は歌手(又は作詞家兼歌手)であり、曲譜は十七字型そのものである。この曲譜の不実(言葉も文字も真実を伝えるのには限界がある)が、何故か人間の不朽の心をとらえる。この曲譜をどう工夫して上手に歌いこなすか、これが俳人の仕事である。この出発点は真似ることである。これには、臨書を徹底的にやらなければにらない。波郷の俳句が本歌どりの名手と思われるほど、どこか他人の俳句に似たところがあるのは、彼が臨書の名手だからである。この朝顔の句は、臨書の典型である。そして、波郷は臨書を極めつくしているから、彼の俳句には、人を魅了して止まない」として、そのお手本として次の二句をあげている。

   朝顔にわれは飯食う男かな     (芭蕉)
   あなたなる夜雨の葛のあにたかな  (芝不器男)

 これらの静塔氏の俳論の展開は大変に難解のところもあるが、こと、「臨書の名手・波郷」との指摘については、大変に示唆を受けるところが大きい。この静塔氏に準じて、この波郷の傑作句に触れると、波郷の切磋琢磨の相手であった、中村草田男氏の次の句が浮かんでくる。波郷は、草田男氏のこの句は念頭に置いていないであろうが、共に、臨書を極めつくしているという思いを深くする。

   思い出も金魚の水も蒼を帯びぬ  (中村草田男)

☆波郷の定型論(十七字)については、「風鶴山房」の次に詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sakku/index.html

石田波郷の世界(その三)

[人間探求派の三人]

○ 秋の暮業火となりて秬(きび)は燃ゆ

 第一句集『鶴の目』所収。波郷十八歳(昭和六年)の時の作。波郷が始めて「馬酔木」の巻頭を飾った作品である。その翌年(昭和七年)に上京し、「馬酔木」の同人となる。ここに、石橋辰之助(竹秋子)、高屋窓秋の両氏と共に、秋桜子門下の若き「馬酔木三羽烏」の俊秀が揃うこととなる。波郷は、昭和十二年には、主宰誌「鶴」を創刊し、志摩芳次郎氏が同人として加わることとなる。この「鶴」(昭和十四年)誌上において、波郷は「俳句は文学ではない」という、今に語り継がれている言葉を吐く。この「俳句は文学ではない」ということについては、志摩芳次郎氏は、「この言葉には、さまざまなふくみがあって、西欧の文学や思想に骨がらみとなった草田男にむかっていったと、考えられる」という鋭い指摘をしている。この指摘は、「俳句は文学ではない」という波郷の問に対する一つのキィワードのようなものを内包していると思われるのであるが、ここでは、この芳次郎の指摘だけに止めておくこととする。そして、波郷よりも十二歳年上の、中村草田男氏と波郷との関係というのは、相互に、何時も念頭にあって、切磋琢磨の好敵手ともいうべき間柄であったということを、少なくても、波郷においては、そのような関係にあったということは、ここに指摘しておきたい。

   降る雪や明治は遠くなりにけり  (草田男)
   雪降れり時間の束の降るごとく  (波郷)
   思い出も金魚の水も蒼を帯びぬ  (草田男)
   朝顔の紺の彼方の月日かな    (波郷)

 そして、草田男、波郷と並んで「人間探求派」と称せられた加藤楸邨氏は、波郷が亡くなった時、次の句を詠んでいる。佳句が佳句を呼ぶ。彼等は真の同胞であっという思いを深くする。

   秋の暮波郷燃ゆる火腹にひびく  (楸邨)

☆波郷語録の「俳句は文学ではない」については、「風鶴山房」の次に詳しい。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/goroku/index.html
また、「波郷・草田男・楸邨」の三者のエピソードなどについては次に詳しい。
 http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/ikku/index.html

石田波郷の世界(その四)

[古典と競い立つ]

○ 最上川峯もろともに霞みけり

昭和十八年刊行の『風切』所収の句。志摩芳次郎氏は、この句の見本を石橋辰之助氏の次の句としている。両氏をよく知る芳次郎氏らしい指摘のように思われる。

  諏訪の町湖(うみ)もろともに凍(い)てにけり

 波郷、辰之助、そして、高屋窓秋氏の、この三人は、水原秋桜子主宰の「馬酔木」の俊英三羽烏として肝胆相照らす同胞であった。昭和十年当時、「新興俳句運動」の渦は大きなうねりをなしていた。かって、秋桜子が虚子の「ホトトギス」を去っていったように、この「馬酔木」の俊英たちも、秋桜子の「馬酔木」を後にしていく。辰之助と窓秋の両氏は「新興俳句」そのものに身を投じていくが、波郷は一歩距離を置いて、芭蕉等の古典へと沈殿していく。そして、その後、窓秋氏は俳句にいきづまりを感じて俳壇から去り、辰之助氏は左翼に身を投じて、志半ばで四十歳という若さでこの世を去った。この三人の中で、病弱な石田波郷のみが、俳人として大成する。そして、その原点は、この昭和十年当時の「新興俳句運動」に対する身の処し方と大いに関係していたということを実感する。絶えず、困難に直面したときに、波郷には、その原点に立ち戻るという志があった。波郷は、当時、「芭蕉、われわれは、今目をひらいて、餓鬼のようにむさぼりついたところだ。芭蕉の形骸を模せるのみ、若年寄りというようなことも、これも一つの段階として踏み上がることが出来ればよいのである」と言明している。この波郷の姿勢、ここに、孤高、清冽、至純な、俳誌 「鶴」の名のごときの「鶴」のイメージが重なってくる。辰之助、そして窓秋も、日本俳壇の一角を担っている存在ではあるが、石田波郷は、その日本俳壇の頂点を極めた一人であろう。三人の代表作を次に掲げておくこととする

 沙羅の花捨身の落花惜しみなし   (波郷)
 ちるさくら海あをければ海へちる  (窓秋)
 妻とおし真実遠しひとり病めば   (辰之助・絶句)

[波郷・窓秋・辰之助]・[古典と競い立つ]については、「風鶴山房」の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html

石田波郷の世界(その五)

[「鶴」の信条]

○ 松浜のかがやく見よや寒の海に

 「病雁」所収の句。昭和二十年一月、奉天から博多港に上陸した際の波郷の第一声の作であろう。昭和十八年に応召したときの波郷の「鶴」に寄稿した一文がある。「俳句こそは、この偽りを許されぬ行道である。構成とか創作とか想像とか、そういうものが、文芸の性格を為すならば、俳句は文学ではない。俳句は人間の行そのものである。禅問答ではない。まして、片々たる散文的十七字であるべきわけのものではない」。これは、波郷の終始変わらぬ彼の信念であった。昭和二十三年三月の「鶴」の復刊第一号で、波郷は次の言葉を掲げる。「俳句は、生活の裡に、満目季節をのぞみ、蕭々又朗々たる打坐即刻のうた也」。さらに、昭和二十八年四月の「鶴」において、「俳句は、畢竟するに、短い定型の歌である。庶民日常の風雅である。これを出ることはできない」と言明する。これらについて、「型を守り、伝統に従うことが石田波郷の俳句美学だったのである」(草間時彦)との指摘もなされた。かくて、昭和十八年から昭和二十年までの一病兵の手記ともいうべき「病雁」の時代は終わりをつげ、敗戦直後の人々の哀感をさまざまに詠いあげる「雨覆」の時代へと歩を進めることとなる。

 秋風ただ鶴の輩よき句作(な)せ
 雁や残るものみな美しき
 雁のきのふの夕と別(わか)ちなし

☆昭和三十二年刊『俳句哀歓 俳句と鑑賞』(宝文館)所収の第一部『作句心得』などは、「風鶴山房」の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sakku/index.html


石田波郷の世界(その六)

[新興俳句弾圧事件]

○ ことごとく枯れし涯なり舟の中

 『雨覆』所収の句。昭和二十一年の作。この句には「荒川沖舟旅、秋桜子先生に合う」という前書きがある。この時のことであろうか、波郷に次のような一文もある。「昭和二十一年の初冬、朝霧濃い江戸川放水路の堤上で、私が出征以来始めて接した秋桜子先生の姿は、粗末な短い軍服姿の外套をつけ、霧の中で右手をあげて私の方に近づいてくる形のまま、霧を透って射しはじめた日の光を冠っていた。この時の感慨は『生きていた』という一語に尽きる」(『水原秋桜子句集』・角川文庫)。波郷は、昭和七年(十九歳)に、秋桜子門下に入り、石橋辰之助、高屋窓秋の両氏とともに、「馬酔木」の俊英三羽烏といわれる。しかし、当時の「新興俳句運動」の嵐は、この三人を翻弄し、昭和十年には、窓秋氏が「馬酔木」を去り、昭和十二年には辰之助氏も「馬酔木」を離れる。そして、昭和十五年に、いわゆる「新興俳句弾圧事件」が起きる。その「新興俳句弾圧事件」を契機として、波郷も、加藤楸邨氏も共に「馬酔木」を後にするのである。全て、思想・言論の統制が強化されていく、その当時の時代がなせる一つの必然的な流れであった。

   花散るや瑞々しきは出羽の国(昭和十七年作)

 波郷は、この句に「馬酔木最後の仕事を持って蔵王山高湯温泉に赴いた。水原先生の御好意に依る。東京は葉桜であった。出羽の国は満開の花、山は尚雪が固かった」と自注している。そして、それから四年の歳月が過ぎる。昭和二十一年の初冬、秋桜子と波郷とは再会する。この頭書の掲句はその時のものである。波郷は再び「馬酔木」に復帰する。この師弟の二人にとって、この再会は終世忘れ得ぬ出来事であったろう。それから、二十年余の昭和四十四年、波郷が亡くなった時、秋桜子は次の句を波郷に手向ける。

   鶴とほく翔(た)けて返らず冬椿

☆「新興俳句弾圧事件」はさまざまな形で次のアドレスのものに掲載している。新しい情報がありましたら、次のアドレスの方に是非お願いしたい。
http://green.ap.teacup.com/yahantei/


石田波郷の世界(その七)

○ 金の芒(すすき)はるかなる母の祈りをり

『惜命』所収の句。昭和二十三年作。『鶴の目』・『風切』・『病雁』そして『雨覆』を経て、昭和二十五年に波郷はこの『惜命』(その当初の名は『胸形変』)を刊行する。この『惜命』は昭和四十三年に刊行された『酒中花』と双璧を為す波郷の二大句集といえるものであろう。楠本憲吉氏は、「『惜命』は波郷俳句の最高のピークであり、戦後刊行句集でも五指に屈せられるものであることは何人も異存はなかろう」として、さらに、次のような賛辞を呈している。「波郷は二年の間に両三度の手術に耐え、一日一日の生を噛みしめる如く『惜命』の時を生きつつ、窓から見える草木禽獣に愛憐の目を注ぎ、心に浮かぶ人々を声なく呼び来って語り愛しながら、妄執の如く俳句に打込み、ついに『惜命』一巻の連祷を世に残したのである」(『石田波郷』)。

○ 梅雨の灯に染まりて惜しむ命かな
○ 七夕竹惜命の文字隠れなし
○ 命惜しむ如葉生姜を買ひて提ぐ

『惜命』所収の句は、いずれも生と死の狭間に漂う波郷のピーンと張り詰めた緊張感と祈りにも似た波郷の生命へ思いというものが脈打っている。掲出の句はその『惜命』所収の波郷の母の句であるが、波郷には母の傑作句も多い。

○ 桐の花港を見れば母遠し   (昭和二十二年)
○ 蛍火や疾風のごとき母の脈  (昭和二十九年)
○ 母亡くて寧き心や霜のこゑ  (昭和四十年)

☆『惜命』の波郷の足跡とポートレートについては、『風鶴山房』の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html


石田波郷の世界(その八)

○ 泉への道後れゆく安けさよ

『春嵐』所収、昭和二十七年作。波郷はこの句集の後記で次のように記す。「『惜命』を出してから七年になる。『惜命』が、生命の緊張の中から溢れ出たとすると、この書は、生命の弛緩の裡に生まれたものである。この間に、俳句は急激な勢いで、ある方向にひた進みに進んでいる。私の姿勢は、まるで時代にそぐわない姿勢であるといってよい。私の肺活量はわずかに千五百に過ぎない。ゆつくり歩かないと呼吸困難に陥るおそれがある。たとひ漫歩であつてもただ歩きつづけたいと念ずるのみである」。また、この掲出の句については、次のような自注をしている。「後れながらも、私自身のペースでゆつくり歩いてゆくことは極めて平静な楽しさであった。後れてゆくゆえの安けさを思うばかりである。自分のペースでゆつくりゆくということの大切なことは、仕事の上でも療養の上でも同じである。この句は、そんなつもりで作つたわけではないことは勿論だが、そんなことを読みとれなくもない。そこで、俳句の価値とは別に、私には忘れがたい句となった」。

 『鶴の目』・『風切』のリリシズム的な調べ、『病雁』・『雨覆』の古典的な調べ、そして、『惜命』の緊張感に溢れた生と死の狭間のような声調、そして、この『春嵐』に至って、静謐な成熟した声調へと、波郷のトーンは変貌を遂げて行く。この『春嵐』時代(昭和二十一年~昭和三十一年)は、波郷にとって最も恵まれた時代でもあった。昭和二十九年の読売文学賞、馬酔木賞など数々の賞を授賞し、当時の俳壇に揺るぎない位置を確保するのであった。しかし、同時に、この時代は、山口誓子主宰の『天狼』の根源俳句や、さらには、中村草田男氏の句集『銀河以前』(昭和二十八年刊)の「自跋」の「『社会性』『思想性』とでも命名すべき、本来散文的な特質の要素と、純粋な詩的要素とが、第三存在の誕生の方向にむかつて、あいもつれつつも、此処に激しく流動している」との解説に見られる社会性論議の真っ直中にあり、大きな変革の嵐の時代でもあった。そして、上記の波郷の『春嵐』の「後記」やこの掲出句の「自注」の背景には、一方の俳壇の嵐の眼であった中村草田男氏の影が蠢いているように思えるのである。

☆波郷の『春嵐』時代については、『風鶴山房』の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html

石田波郷の世界(その九)

○ ひとつ咲く酒中花はわが恋椿

『酒中花』所収、昭和三十九年作。『酒中花』は波郷が生前に刊行した最後の句集で、昭和三十一年から昭和四十三年までの十三年間の、波郷の句集の中では量・質共に最も充実した句集といわれる。沙羅の連作などの句も夙に知られているところである。

 ○ 朝の茶に語らふ死後や沙羅の花
 ○ 沙羅の花捨身の落花惜しみなし
 ○ 病家族沙羅咲く今日をよしと思ふ
 ○ 沙羅の花病いたはる如酒を汲む
 ○ 沙羅の花ひとつ拾へばひとつ落つ

この沙羅の落花を見ている波郷の目、そこには死の恐怖を超越して、己が運命も己をとりまく自然や環境も何もかも受容するような、澄み切った波郷の心境が粛々とこれらの句に接する人に語りかけてくるのである。

 ○ 初蝶やわが三十の袖袂 (『風切』)
 ○ 初蝶や石神井川の水の上(『酒中花』)

「初蝶」を題材にしたこの二句、それは『風切』から『酒中花』に至る道筋、それは実に年数にして凡そ二十年という一筋の道筋でもあった。これらのことについて、平野仁啓氏は次のような言葉を献じている。
「自然を表現する歓喜から出発した波郷は、ここで自己の存在を超えて、確然として動じない自然の存在の実在感に行き当ったのである。そのとき言葉もまた情念や既成のイメージを超えて、自然の存在を透明に表現するのであった」(『石田波郷』)。
 波郷のその生涯の最後を飾った句集『酒中花』は、冒頭の掲出句に由来があり、酒中花は椿の一品種で、波郷が最も愛した花むでもあった。

☆波郷の『酒中花』の時代については、『風鶴山房』の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html

石田波郷の世界(その十)

○ 今生は病む生なりき鳥頭(とりかぶと)

 『酒中花以後』所収、昭和四十四年作。来し方を振り返っての、波郷の率直な感慨の吐露なのであろうが、もはや、ここには「その感慨の吐露を俳句という形式に置き換える」という意識をも超越して、波郷自身の言葉でするならば、「俳人は俳句しかないのである。詠みたいことはすべて俳句でやるほかはない」の、その行き着いた「波郷その人を五・七・五の鋳型」に組み入れたような、そんな趣すらしてくるのである。『酒中花以後』(昭和四十三年~昭和四十四年)は、波郷の没(昭和四十四年十一月二十一日)後、奥様のあき子夫人によって、昭和四十五年に刊行された。思えば、波郷の二大句集の『惜命』も、そして『酒中花』の巻末の句は、いずれも、あき子夫人へ献ずるものであった。

○ 水仙花三年病めども我等若し  (『惜命』)
○ 病室に豆撒きて妻帰りけり   (『酒中花』)

 このあき子夫人の句に次のような句がある。昭和四十四年二月四日、波郷が病変し、気管切開手術をしたときのものである。

○ 幻覚の寒き白き手の宙に伸ぶ  (『見舞篭』)

 波郷の没後に刊行された『酒中花以後』は、波郷のこのような生と死の狭間における最期の絶唱なのである。

○ 蛍篭われに安心(あんじん)あらしめよ (昭和四三・九)
○ 遺書未だ寸伸ばしきて花八つ手    (昭和四四・九)

 死はそこまで近くにしのびよっていった。しかし、波郷の眼は最期の一瞬まで、現世と現世の生き写しである俳句そのものを見据えていた。これらのことを、平野仁啓氏は、次のような感動的な言葉で言い伝えている。
「・・・命美し槍鶏頭の直なるは・・・、この簡素にして雄勁な句法は、波郷が自己の生を敬虔に深めることによって生まれきたのである。それは生への讃歌と言ってもよい。波郷の裸形の生命のみごとな結晶を前にして、わたくしは、それに附け加える言葉を持たないのである」(『石田波郷』)。

☆波郷の『酒中以後』の時代と「あき子の部屋」については、「風鶴山房」の次のアドレスなど。
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/sokuseki/index.html
http://www.ne.jp/asahi/i/hakyo/akiko/index.html

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