日曜日, 6月 04, 2006

富安風生の句



富安風生の句(その一)

○ 風生と死の話して涼しさよ  (虚子)

 この虚子の句に接した時、この「風生」という言葉は何を意味するのかと随分考えさせられた記憶がある。それは、昭和五十年代の頃で、この「風生」が虚子門の高弟の一人の富安風生のことと知ったのは、多分、当時の「日本経済新聞」の「私の履歴書」の中の記事などにおいてであると記憶している。
 そして、それ以来、何かににつけて、この富安風生は何時も心の片隅にあった。彼が役人の最高ポストである逓信省の事務次官まで経験し、戦後には、電波管理委員会の長として、時のワンマン宰相・吉田茂に楯つき、その職を辞するに到ったことなど、俳人・風生というよりも、文人官僚・風生ということに、どちらかというと興味があった。
 しかし、冒頭の虚子の句の「風生」が、富安風生のことと知り、そして、虚子がその風生と「死の話」をしているという、そのさりげのない虚子の述懐の句は、風生を知れば知るほど、風生の一面を端的に物語っているということを実感するとともに、その風生の俳句に、何時しかのめりこんでいったということを、今、振り返って強烈に思い起こされてくる。

○ むつかしき辞表の辞の字冬夕焼け (風生) 

 この句には「電波管理委員会委員長を辞す」の前書きのある一句で、昭和二十七年二月、風生、六十八歳の作である。同時の頃の作に、次の句がある。

○ ひややかにわれを遠くにおきて見る (『晩涼』所収)

 この第八句集『晩涼』は、昭和三十年に刊行された。この句には「網走監獄見学」という前書きがあるが、「囚人が、自分(風生)をひややかに見る」ということよりも、「自分(風生)が、自分自身をひややかに見る」と鑑賞したとき、冒頭の虚子の句がオーパラップしてくるのである。、

富安風生の句(その二)

○ みちのくの伊達の群の春田かな

 風生の処女句集『草の花』(昭和八年刊)の一句である。この『草の花』が刊行されたのは、昭和四年に「ホトトギス」の同人に推されてから四年後の、風生、四十八歳のときであった。この句については、「風生君は、読書家で、とりわけ、古いものに造詣が深い。奥の細道、義経記、碁盤太平記白石噺の類まで頭の中にしみこんでいないと、この『伊達の群』の言葉は使えない」と秋桜子は評している。風生の生涯というのは順風満帆のように見えるけれども、明治四十四年(二十七歳)から大正三年(三十歳)までの療養時代があり、それ以前の帝大生時代について、次のような述懐を残している。
「文科をよして法律学というものを修めることに方針をかえたとき、僕は誰からいわれたわけでもないのに、今までの自分のからだにまつわりついている文学的な垢を、さっぱり払拭しようという悲壮?な覚悟で、短歌の本とか小説の類とかをすべて処分した」(『風生句話』)。
 風生は、時の流れに逆らうことなく、ひたすら、その流れに身を委ねるという姿勢が強いのであるが、この青春・壮年時代の心の葛藤は、風生俳句のその底流に流れているものであり、特に、この療養時代に最も心に銘記したものは『嘆異抄』だっとの手記も残している。これらの背景が、一見、平明そのものの、「只事俳句」のような装いをしていながら、秋桜子が指摘するように、幅広い知識や体験や葛藤が、何の衒いもなく十七音字の世界へと誘ってくれるのである。
 同時の頃の句に、今に、よく知られている風生の句がある。

○ よろこべばしきりに落つる木の実かな

富安風生の句(その三)

○ 舟ゆけば筑波したがふ芦の花

この句も、風生の処女句集『草の花』所収の句である。この句集が刊行された昭和八年(一九三三)は、思想弾圧の風潮が支配的となってきた、昭和の激動期に入らんとする年でもあった。いわゆる、「京大滝川事件」が起きた年に当たる。当時、風生は逓信省の経理局長の要職にあり、その三年後の昭和十一年には、逓信省の次官となる。この昭和十一年には、いわゆる、「二・二六事件」が勃発した年である。この時の逓信大臣は、革新官僚派の一人として知られている、瀬母木桂吉であった。その頃のことを、風生は、次のように、その手記(「私の履歴書」)を残している。
「私の方でも正直いって、気持ちよく仕えていたとはいえない。俳句ばかりやっていて困ると、漏らされたよと、誰かが冗談のように聞かせてくれたが、私は俳句のために、あまりご用を欠いた覚えはない」。
作句のために勤務をおろそかにすることなく、次官として精励し、俳人として真っ正直に生きようとする風生にとっては、一日一日が、さぞかし修羅場のような日々であったろう。
そういう風生にとって、旅は無上の慰めであり、楽しみであったことであろう。掲出の句は、土浦から潮来への舟旅での作である。当時の風生のイメージの一端が偲ばれる一句である。風生は、次官になった翌年、昭和十二年に突然退官する。昭和十五年「京大俳句弾圧事件」、昭和十六年「太平洋戦争勃発」、そして、昭和二十年に終戦を迎える。その終戦直後の頃に、次のような風生の句がある。

○ かかる日のまためぐり来て野菊晴 

富安風生の句(その四)

○ 枯野道ゆく外はなし行きにけり

風生の七十七歳の喜寿を祝って出版された『愛日抄』(昭和三十六年刊)収録の中の一句である。この句集には、昭和三十二年(七十二歳)から昭和三十五年(七十五歳)までの作品七百七十九句が収められている。しみじみとした佳句が多い。

○ 柔らかに春風の吹く命惜し 
○ 郭公の四山にこだま返るなし
○ 残生のいよいよ愛し年酒酌む
○ 夜半寒くわがため覚めて妻愛し

これらの句はいずれも老愁とともに深まっていく諦観にも似た人生の哀感というものを秘めている。「柔らかな春風の中に身を委ねている風生、四山にこだまする郭公の鳴き声を聴き入る風生、年酒を酌みながらたまゆらの残生に思いを巡らす風生、そして、永年連れ添って献身的に尽くしてくれた妻への感謝を句にする風生」、そして、その一生は、芭蕉の絶吟の「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の、その俳諧という「枯野道」を、これまた、芭蕉の「この道や行く人なしに秋の暮」の感慨と同じように、ひたすらに、追求し続けてきた思いであろう。

八十歳の傘寿  「生きることたのしくなりぬ老いの春」
八十八歳の米寿 「藻の花やわが生き方をわが生きて」
九十歳の鳩寿  「九十一の一をしつかり初硯」
九十三歳    「授かりし寿をかい懐き恵方道」
九十五歳    「命ありまた一齢を授かりぬ」

 風生は、昭和五十四年二月二十三日(満九十三歳、数え年九十五歳)に永眠した。その一生は、掲出句のように、俳諧に燃焼し尽くしたそれであるとともに、その全てにおいて、他の多くの俳人に比して、恵まれた生涯であったということもいえるであろう。

富安風生の句(その五)

○ 寒雀顔見知るまで親しみぬ

 昭和三十二年(七十二歳)刊行の『古稀春風』の中の一句。風生は七十歳を越した頃から、本格的に日本画を習熟し始めたという(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)。俳句の門弟の一人の木下春が、日本画の先生で、絵画の批評では専門家をしのぐといわれていた、プロレタリア作家として名高い藤森成吉が「画をかく富安風生ってひとは、俳句をつくる富安風生さんとは、ちがうのだろうか」と、風生の絵を見ていわれたという(志摩・前掲書)。風生の家兄たちは皆水墨画をたしなみ、風生も幼少の頃から水墨画に親しんでいたようである。そして、風生は、愛知県の東三河地方の出身で、幕末時代にその名を留めている田原藩家老・思想家・画家の渡辺崋山の系譜とも関係があるようである。そして、藤森成吉には「渡辺崋山の人と芸術」という論著があり、富安風生・藤森成吉・渡辺崋山という、一見、何らの関係のないような、この三人が、共に、絵画の面において共通項を有しているということは特筆すべきことなのかもしれない。別な視点から換言すると、この三人に共通することは、一つの狭い分野だけではなく、多方面において活躍し、そして、その根底においては、「冷酷なまでに対象物を凝視し続ける確かな眼力と研ぎ澄まされた感性を有していて、その背後には反権威・反俗ともいうべき強靱な気迫というものを秘めている」ように思えるのである。
掲出の句は、風生の俳句・絵画の創作においての根底をなすものであって、こういう、これらの創作において、その対象物を自分の心に刻みこむということは、必須のものであって、この面において、風生は抜きん出たものを有しているということ、そして、これらのことは、藤森成吉や渡辺崋山にもいえることであって、この面において、この三人は大きな共通項を有しているように思えるのである。

富安風生の句(その六)

○ 滴りの打ちては揺るる葉一枚
○ 蔦の葉に働く汗をふりこぼす

 これらの句も『古稀春風』の頃のものである。「繊麗、典雅、どこから見ても一分のすきもない、表現は、あくまでも、なだらかに、内にひそむ心は、あくまでも深く、・・・・、この底光りする芸の、ひとしお、澄みゆくことを期待する」(秋桜子の「風生」観)、この秋桜子の指摘が、即、この掲出句に当てはまる思いがする。この対象物への風生の凝視は壮絶ですらある。普段は笑みを絶やさず、誰にも嫌な顔一つ見せず、好々爺然とした、七十歳になんなんとする老俳人・風生の、その底に秘めた気迫というものは、こういう句に接するとまざまざと見る思いがする。風生自身、この『古稀春風』の「あとがき」で次のように記している。
「俳句の伝統を固く信じ、しっかりと己を守りながら、静かに構えて時の流れを見失うまいとする覚悟は、いつの場合でも・・・・古稀という関頭に立った今でも、昔と変わりはない。これからは、もっともっと楽しみ、もっともっと苦しみたいと稔じている」。
この「もっともっと楽しみ、もっともっと苦しみたいと稔じている」という風生の呟きは、風生の第一句集『草の花』(昭和八年、四十八歳のときの刊行)以来、終生変わらず持ち続けた風生俳句の根幹をいみじくも指摘しているものであった。

富安風生の句(その七)

○ まさをなる空よりしだれざくらかな

昭和十五年(五十五歳)刊行の第三句集『松籟』所収の句。風生の代表作の一つ。この句については、古俳諧の鑑賞にも通暁している小室善弘さんの懇切丁寧な鑑賞文がある。
「昭和十二年の作。千葉県市川市真間の弘法寺(ぐほうじ)の桜を詠んだもの。俳句は短詩型であるから、一句の成立には必然的に省略が働くものであるが、この句はその性質を存分に活用して思い切った省略に出ている。狭雑物を排除して、真っ青な空を背景に、しだれた桜だけをクローズアップしたために、その美しさがことさらに鮮やかに浮かび上がった。
「しだれ」は「しだれざくら」という名詞の一部であるが「空より」「しだれる」桜のありさまを示す動詞でもあろう。「空より」と大胆にいい切ったことで、高い樹の中空から天蓋のように垂れる花の枝を、目を上げて仰ぐ感じが実によく表れている。無造作にいいとっているようだが、狂いのない確かな切り取り方である。」(『俳句の解釈と鑑賞事典』)
 この鑑賞文のポイントは、風生の句作りには、絵画的な表現ですると、「構図が素晴らしく」、そして、「簡略化が見事で」、そして「主題の焦点が定まっている」ということになる。この三点は、俳句創作上の要点なのであるが、風生はこの三点において実に非の打ちどころがないということであろう。
追伸
先日、「くらしの川柳・短歌・俳句」のエムエルなどでいろいろとご指導を頂いている方からメールを頂いて、この句の句碑がある弘法寺には、幼少の頃の思い出があるということであった。そして、たまたま、私の身内もこの弘法寺の下に住んでいたことがあり、この句碑付近にはいろいろな思い出があり、「俳縁喜縁」ということと、この風生の句がさらに忘れ得ざるものという感を深くしたのであった。なお、この「しだれざくら」は「伏姫桜」といって、「夜は星の空よりしだれざくらかな」という句もあるとのことであった。

富安風生の句(その八)

○ まさをなる空よりしだれざくらかな
○ ここに立てばかなたにしだれざくらかな
○ 夜は星の空よりしだれざくらかな

 この一句目とニ句目とは、「真間、伏姫桜二句」の前書きのある句で、第三句集『松籟』所収の句。そして、この三句目は、前回の追伸で紹介した句(用語に誤字があり、ご教示を頂いた方にご迷惑をおかけし、改めてお詫びやら訂正をさせていただきます)。

○ よろこべばしきりに落つる木の実かな(「その二」で紹介した句)
○ 喜べど木の実もおちず鐘涼し(杉田久女)

 杉田久女は、言わずと知れた高浜虚子の「ホトトギス」を除名された高名な女流俳人。その久女が、当時、評判となった風生の句に一矢を報いた句がこの掲出の句であるとか(山本健吉『現代俳句』)。風生は虚子存命中には徹底した虚子一辺倒で、句集編纂に当っても、終始、虚子の選を仰いだという。そういう虚子と風生との親密さに対する、久女一流の諧謔的な句というのがこの掲出句の真相のようである。

○ 退屈なガソリンガール柳の目    (第二句集『十三夜』)
○ 遠くよりマスクを外す笑みはれやか ( 同上 )

 これらの句は虚子選の風生の句なのであるが、これらの句と風生が主宰した「若葉」の口語調の句に対して、山本健吉は「私は口語調にも決して反対ではないが、はっきり言うとこれらの句の調子の低さ、発散する俗情はとうてい好きになれない。いい気になった旦那芸を感じてしまうのだ」(前掲書)と手厳しい評を下している。そして、これもまた、風生俳句の一面であることは、心しておく必要があるのかも知れない。

富安風生の句(その九)

○ 麦架けて那須野ケ原の一軒家

第九句集『古稀春風』所収の句。この句には「黒磯より一路坦々たるドライブウェイ」との前書きがある。(私事で恐縮ですが、この黒磯よりも宇都宮寄りの那須野が原の一角に生まれて、この風生の句に接すると、実に的確に那須野が原を描写しているということにどうにも驚嘆するばかりなのである。この句は黒磯の街並みを過ぎて、那珂川に架かる晩翠橋を渡って間もなく左折して、そのドライブウェイの木の間越しに見える光景であろう)。   風生は昭和三年当時に逓信省貯金局を中心として創刊された俳誌 「若葉」の雑詠欄の選者となり、それが昭和十年ごろに一般的な俳誌となり、多数の誌友と有力作家を擁する一大結社誌となる。その主宰者が風生であり、昭和五十四年の風生逝去後は、清崎敏郎が主宰して、今に、風生の「若葉中道俳句」ともいうべきものは継承されているのである。
(先ほどの、那珂川に架かる晩翠橋を渡って右折すると、芭蕉の「おくの細道」などで名高い「遊行柳」の道筋となる。この遊行柳に、風生書の蕪村句碑「柳散清水涸石処々」がある。何故、ここに風生書の蕪村句碑があるのか、何時も心に引っ掛かっていたのであるが、多分に、風生門の有力作家が宇都宮に居て、その方との関係なのかと、その辺の事情に詳しい方も既に物故してしまった。)
追伸 「何くれと雪見の旅の身の廻り(風生)」について、虚子が賞賛したという(赤星水竹居著『虚子俳話録』)。風生の昭和十二年当時の初期の頃の作とのことであるが、この句などについても、どこか虚子好みの句という雰囲気である。虚子は昭和二十八年に「ホトトギス」の跡目をご子息の長男・年尾に継承させるが、風生は虚子に義理立てることなく、年尾選の投句をしなかったという。こういうところに、風生の一本筋を通す姿勢が強く感じられ、さらに、その後の晩年になればなるほど風生らしい句が輝いてくるのは驚くばかりである。

富安風生の句(その十)

○ 勝負せずして七十九年老の春
○ いやなこといやで通して老の春

この一句目は、風生の七十九歳のときの作。この句について「風生という俳人は、ついに生涯勝負をしないひとであったという見方も成立する。官界でも、勝負に出ないで、早い機会に辞した。俳壇でもだれとも勝負を争わない、山口青邨、水原秋桜子という同年配の作家も、ライバルではなかった。だが、よく考えてみると、俳人は一句一句に、はらわたをしぼっているのだから、勝負といえないことはない。まして一生を俳句に賭けてきたのだから、その俳生涯は勝負だった、ということになろう」(志摩芳次郎著『現代俳人伝』)
との指摘もある。この指摘をした志摩芳次郎という人は名うての辛口評を得意とする薩摩隼人で、この石田波郷門の一人でもある志摩芳次郎が、大の風生贔屓で、「恐るべき老人・・・これはまぎれもなく怪物である。風生の俳句を、やれかるみだの、余技だの、遊俳だの、思考力が欠除してるだの、文人俳句だのといった利口ぶった批評家たちは、このぼくをもふくめて、いいように、風生のために、あそばされてきた」(前掲書)とも吐露している。今回、改めて、風生句集を読み直しながら、「勝負しないひとが、どうして勝負の句を、勝負を主題とする句を作ることがあろうか」。この句は逆説的に「勝負師・風生の一面」を語っている句であり、「勝負師・風生」という思いを強くしたのである。そして、この二句目は『喜寿以後』所収の句。この二つの句を並列しながら、風生は同じような主題に対して、沢山のデッサンのような日の目を見ない作品を残していて、句集に収録されているのは、ほんの一握りのものだということも、今回、メールでご教示をいただいた。さらに、風生の俳句の指導というのは、欠点を指摘するというよりも、長所を褒め称えるものであったともいう。これらのこととあわせ、志摩芳次郎が、風生をして、「このような至高、到純の境地に達し得た俳人はまれである」という指摘には、素直に肯定ができるような思いがするのである。
追伸 「中道若葉俳句」は『俳文学大辞典(角川書店)』の「若葉」(鈴木貞雄稿)からの抜粋で、この用語の背景には、風生の処女句集『草の花』に寄せた高浜虚子の次の「序」から来ており、この「静かに歩を中道にとどめ」というのは風生俳句の原点であり、その流れを風生が主宰した俳誌 「若葉」は引き継いでいるというような意味で引用されているもので、この「静かに歩を中道にとどめ」ということは、風生を語る以上、避けて通れないことで、ここに補足的に強調しておきたいと思います。
「作今の俳壇は新鋭奇峭の士に富み、新題を探り新境を拓き、俳句の境地を拡張することに是れ力めてをる。其も頗るよい。而も亦静かに歩を中道にとどめ、騒がず、誤たず、完成せる芸術品を打成するのに志してゐる人も少くない。風生は正しく後者に属する」。

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