日曜日, 6月 04, 2006

若き日の蕪村(その一)




若き日の蕪村

(一)

○ 尼寺や十夜にとどくさねかづら(元文二年)

 画俳二道を極めた与謝蕪村が、宰町の号をもって始めて世に登場するのは、元文二年(一七三七)、二十二歳のときの、掲出の句(手紙を見る女性像とあわせ)がその初出である。
この蕪村の画と句は、当時、七十歳となる豊島露月の賀集の『卯月庭訓』に寄稿したものである。この句には、「鎌倉誂物」との前書きがあり、「鎌倉誂物」とは、鎌倉へ届けるよう特に注文した品の意である。この掲出句の「尼寺」は、鎌倉尼五山の一つの東慶寺を指し、離縁を望む縁切り寺として知られていた。すなわち、この句意は、「鎌倉の東慶寺にいる尼のところに、ゆかりの男から、そろそろ還俗だねと、さねかづらが届いて、折しも、皮肉なことには、念仏の声が響きわたる十夜の日であった」という、どうにも、その後の蕪村を暗示するような、男と女の世話物の一場面を現出するようなものが、そのスタートなのであった。この句と一緒の、「宰町自画」とある草画(挿絵のようなもの)は、蕪村が最も得意としたもので、その萌芽が、この初出の句と共に、その後の蕪村の画業をしのばせるに十分なものであった。蕪村は、寛保元年(一七一六)に、今の大阪の毛馬(都島区毛馬町)で生まれたということがほぼ定説となっているが、この西国生まれの蕪村が、その二十歳前後には、東国に下っていて、そして、東国の江戸に居て、東国の鎌倉幕府の、その源の、「鎌倉誂物」で登場してくるというのは、これまた、見ようによっては、その生涯が謎につつまれている、いかにも蕪村らしい思いがするのである。

(二)

○ 君が代や二三度したるとしわすれ(元文二年)

 この句は、元文三年(一七三八)正月に刊行された、蕪村の師・夜半亭宋阿(早野巴人)の江戸再帰後の初歳旦帖『夜半亭発句帖』に、宰町名で収載されている句である。句意は、「年に一度の忘年会を、一度ならず、二度も三度もして、これも一重に、天下泰平の、御時世のお陰だ」という、歳旦帖にふさわしいお目出度いものである。この歳旦帖には、宋阿は、「皇都に遊ぶ事凡(およそ)十余年/ことし古園に春を迎〈え〉て」と前書きして、「新しき友の外にも花の春」の句を寄せている。この元文三年の春には、宰町こと蕪村は、その前年の六月頃に、京都より江戸(日本橋本石町三丁目)に帰ってきた宋阿の夜半亭に移り住んでいて、そこで、師匠の宋阿とともに新しい年を迎えたのであろう。そもそも、当時の蕪村の号の「宰町」は、この夜半亭があった日本橋本石町の、その「本石町」を「宰」(とりしきる)というような意味合いも込められているような雰囲気なのである。とにもかくにも、蕪村、二十二・三歳の頃、俳諧宗匠としては、江戸・京都・大阪で活躍して、その名をとどろかせていた夜半亭一世・宋阿の内弟子として、公私ともに、そのお世話をするという立場にいて、こと俳壇においては知る人ぞ知るという環境にはあったのであろう。と同時に、その俳壇の活躍以上に、その主力は、画壇の方に向いていたということも容易に想像ができるところのものである。

(三)

 この夜半亭一世・宋阿が江戸に再帰して移り住んだ、日本橋本石町については、後に、蕪村は次のとおりに記している。次の記事は、下記のアドレスによる。

http://busonz.ld.infoseek.co.jp/kokutyo1.html

与謝蕪村「むかしを今ノ序」(安永三年)より
○ 師や、昔武江の石町なる鐘楼の高く臨めるほとりに、あやしき舎(やど)りして市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老のねざめのうき中にも、予とヽもに俳諧をかたりて、世の上のさかごとなどまじらへきこゆれば、耳つぶしておろかなるさまにも見えおはして、いといと高き翁にてぞありける。
○ 先生は、昔江戸は石町の鐘撞堂が高く見える辺りの、見苦しい家に住み、町中でも閑静なのに満足し、霜夜に響く鐘の音に目を覚まして、老いのため眠れなくて辛いときには、私と共に俳諧の事を語り合い、私が世間の俗事などとり混ぜて申し上げると、聞こえぬふりをして老いぼけたような振りをしていらっしゃって、いよいよ高潔な翁でいらっしゃることだ。
○ 在京十年あまりの巴人が元文二年(一七三七)四 月三十日江戸へ帰着し、旧友豊島露月(本石町住)の世話で、鐘楼下の「夜半亭」に入ったのは六月十日頃。蕪村は早く内弟子として随仕し、薪水の労を助け、俳諧の執筆(しゅひつ)役をつとめた。 
引用・・・『新潮日本古典集成 与謝蕪村集』清水孝之校注。

また、当時の古地図が、次のアドレスに記されている。

http://busonz.ld.infoseek.co.jp/nihonbasi2.html

(四)

 安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のときの、『むかしの今』(序)は、続いて、次のように蕪村は記している。

○ある夜、危坐して予にしめして曰く、「夫(それ)、俳諧のみちや、かならず師の法に泥(なづ)むべからず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有るべし」とぞ。予、此の一棒下に頓悟して、やゝはいかいの自在を知れり。
○ある夜、師の巴人先生は、正座して私こと蕪村にはっきりと、「そもそも、俳諧というものは、必ず、師の教えに拘泥するものではありません。時に応じて作風を変えて、前例も後のことなども頓着しないで、瞬時にして作句するということが望まれる」と示されました。私こと蕪村は、禅僧の教えのごとく、この師のお言葉で、少しは俳諧自在ということを悟りました。

 どちらかというと、若き日の蕪村は、いわゆる、若き日の芭蕉がそうであったように、漢詩流の「虚栗」(みなしぐり)調の理屈ぽっい新風を狙っての作風(麦水の「新虚栗」調)をよしとしていたのであろうが、作句するときの座の雰囲気にあわせ、その雰囲気に違和感を与えるようなことではなく、臨機応変にやられるべきものという、いわゆる、「俳諧自在」ということを、この夜半亭で、その師の宋阿と一緒に寝起きして、悟ったということなのであろう。当時の、蕪村こと宰町の発句においては、どちらかというと、師の師にあたる、其角の江戸座風の技巧的な機知を好む洒落風の句が目立つが、いわゆる、俳諧(連句)の付句(その長句と短句)には、当時の若き日の蕪村の作風の多様性ということを垣間見ることができる。

(五)

  発句 染(そむ)る間の椿はおそし霜時雨         雪雄
  脇    汐引〈く〉形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)  宰鳥
  第三 稽古矢の十三歳をかしらにて            宋阿 

 元文四年(一七七五)に巻かれた歌仙「染る間の」の発句・脇・第三の抜粋である。この脇句の作者、宰鳥は、宰町こと蕪村の別号である。宰町を宰鳥と改号したのか、それとも、宰町と宰鳥とを併用していたのかどうかは定かではないが、この元文四年以降になると、宰鳥の号が使われ出してくる。この歌仙には、「宋阿興行」という前書きがあり、宋阿が中心になって、その捌きなどをやられたことは明らかなところである。「客、発句、亭主、脇」で、興行の亭主格の宋阿が、脇句を詠むのが、俳諧(連句)興行の定石であるが、その脇句を、若干、二十三歳の、蕪村こと宰鳥が担当しているということは、名実ともに、師の宋阿に代わるだけの力量を有していたということであろう。この歌仙は、宋阿編の「俳諧桃桜」の右巻(下巻)に収録されており、こと、俳諧(連句)の連衆の一人として、蕪村(宰鳥)が登場する初出にあたるものである。この雪雄の発句は、「芭蕉七回忌」との前書きのある、嵐雪の「霜時雨それも昔や坐興庵」を踏まえてのものであろう。坐興庵とは、嵐雪が芭蕉門に入門した頃の、芭蕉の桃青時代の庵号でもあった。それらを踏まえて、其角・嵐雪の三十三回忌の追悼句集「俳諧桃桜」の右巻(嵐雪追悼編)の歌仙の一つの、雪尾の発句なのである。その発句に対して、若き日の蕪村(宰鳥)は、「汐引(く)形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)」と、蕪村開眼の一句の「柳散清涸石処々(ヤナギチリ シミズカレ イシトコロドコロ)」に通ずる脇句を付ける。そして、夜半亭一門の主宰者・宋阿が、蕪村の荒涼たる叙景句を、「稽古矢の十三歳をかしらにて」と、元服前後の稽古矢に励んでいる人事句をもって、応えているのである。こういう歌仙の応酬の中に、当時の若き日の蕪村の姿というのが彷彿としてくるのである。

(六の一)

  四   豆腐を見れば飛上(トビア)る犬           少我
  五  暮〈れ〉かゝる宿(シュク)をのぞけばつげ(柘植)の月 宰鳥
  六   大(オホキ)な石の露しづかなり           雪尾

 歌仙「染(そむ)る間の」の四句目から六句目の句である。この四句目の少我の句は、三句目の景を犬追物の場と見定めての付けで、その犬が臆病になっていて「豆腐を見ても飛び上がる」という滑稽句である。こういう滑稽句に対して、次の宰鳥は、滑稽句で応酬せず、日暮れの宿場にかかる月という叙景句を付けている。この「つげ(柘植)の月」は、柘植の木の間にチラチラと垣間見える月と柘植の櫛のような三日月とが掛けられているのだろう。そういう技巧的なことは、当時の比喩俳諧の特徴の一つではあるが、それよりも、当時の蕪村(宰鳥)の美意識というものをも感じさせる一句である。こういう美意識は、後の蕪村の唯美主義的傾向の萌芽ともいえるものであろう。続く、雪雄の「大(オホキ)な石の露しづかなり」の句も、宰鳥の前句の美意識を醸し出している雰囲気に合わせ、格調のある付け句という雰囲気である。

(六の二)

 七  山びこに団扇をあげる西の方               少我
 八   無事かと背中つゝく国者                宋阿


 七句目の「団扇(うちは)」は、夏の季語だが、前句が「露」の秋の句で、歌仙のルールに、秋の句は三句以上続けるということからすると、この団扇は、相撲(秋)の軍配団扇の句と解せられる。句意は、「山彦が聞こえる山間地方の相撲の場で、西の方に軍配をあげた。その行司の声が山彦と照応している」ということであろうか。次の八句目は、前句の相撲の場で、国者(田舎者または同郷の人)が、「負けた力士に、大丈夫かと背中をたたきながら、声をかけている」という光景であろう。このように、一句だけの俳句(発句)と違って、連句の鑑賞は、前後の関係から、俳句の鑑賞よりも具体的な光景が読み取れるということを、しばしば経験する。それだけではなく、その連句をやられている連衆(メンバー)の遣り取りなども垣間見ることができる。こういう連句の場で、その中心となる宗匠(捌きをする人)の助手役(執筆)というようなことを、若き日の蕪村(宰鳥)は、夜半亭の宗匠の宋阿(巴人)のもとで、俳諧の修業を積んでいたのであろう。

(七)

 九 小箪笥を是非ともくれるおも(思)ひ病み      雪尾
 一〇  卯月のほこり御所の塗笠             宰鳥
 一一 如意が嶽芥子は散れども雪はまだ          宋阿

 歌仙「染(そむ)る間の」の九句目から十一句目で、この九句目は、雪尾の恋の句である。「おも(思)ひ病み」は、恋患いのこと。この「小箪笥」は化粧道具などを入れるものであろう。前句が、「無事かと背中つゝく国者」ということで、その「国者」(田舎者)が、郭にあがる景のようである。すなわち、「その田舎者は、馴染みの遊女に恋患いをしてしまい、化粧具入れをあげるると言って無理強いをしている」というものであろうか。それに対して、宰鳥(蕪村)は、「卯月のほこり御所の塗笠」ということで、前句の遊女を御所に仕える女房に見立て替えをしている付句である。句意は、「その女性は、御所の塗り笠を被っていて、その塗り笠には、初夏の卯月の埃がかかっている」と、いかにも、後の蕪村の、いわゆる、王朝趣味を漂わせている句である。さらに、その宰鳥の句に、夜半亭一門の宗匠の宋阿が、「如意が嶽芥子は散れども雪はまだ」と、この「如意ヶ嶽」とは、京都東山三峰の主峰のことで、一名「大文字山」、その積雪が白く大の字を現すのを「雪大文字」といい、それが背景にある句である。句意は、「その女性は、塗り笠のふちを上げて、雪の大文字山ともいわれている、如意が嶽を仰いだが、芥子の花が散ったころの夏の季節で、雪のころの風情はなく、今一つ精彩に欠いている」ということであろうか。雪尾(芭蕉門の一人の斎部路通門の京都出身の俳人。若き日の蕪村と交遊関係にあり、蕪村は後に「莫逆の友也」との記述を残している。別号、大夢、毛越)、宰鳥(蕪村)、そして、宋阿(巴人)の、この三人は、この歌仙に出てくる「如意が嶽」が仰ぎ見られる京都と深い関係にあり、この三人の関係、そして、その周辺を探っていくことも、これまた、興味のつきないところである。

(八の一)

 一二  喧嘩の相手見物となる             少我
 一三 青貝の蒸籠一つやきもち(焼餅)屋        宰鳥
 一四  座頭の自剃(ジゾリ)不思議でもなし     ゆきを

 歌仙の十二句目から十四句目は、表(六句)、裏(十二句)の、裏の六句目から九句目に当たる。歌仙の流れの「序(導入)・破(展開)・急(集結)」の流れでいくと、前半の「破」の局面である。少我の「喧嘩の相手見物となる」は、前句の宋阿の「芥子は散れども」から「喧嘩の場面」をイメージして、「喧嘩の仲裁人が何時の間にか喧嘩の当事者となり、喧嘩の当事者の一人が見物人になってしまった」という人事の滑稽句なのであろう。それに対して、蕪村こと宰鳥は、「青貝の蒸籠一つ」と、高価な色彩も鮮やかな螺鈿の蒸し菓子入れの句で、その前句の喧嘩の「ちぐはぐさ」を象徴しての「焼餅屋」の景の句に仕立てている。この句などは、やはり、画家という視点を感じさせる一句である。次の「ゆきを」は「雪尾」で、雪尾は時折この「ゆきを」を用いる。これなども、芭蕉門の路通の晩年の弟子の一人と思われる雪尾が、師の師の芭蕉の「ばせを」をもじっているような感じを抱かせる。さらに、この歌仙「染(そむ)る間の」は、宋阿・雪尾・宰鳥・少我の四吟で四人で興行されているのだが、この少我とは、蕪村の俳詩として名高い「北寿老仙を悼む」(晋我追悼の和詩)の、結城の俳人、早見晋我の「晋我」と関係のある俳人のようにも思われるのである。早見晋我は、宋阿と同じく其角門(後に介我門)で、其角に、其角の別号・「晋子」の「晋」の一字を許されたという著名な俳人でもあった。こうして、点を線としてつないでいくと、若き日の、当時の蕪村の姿がチラチラと見えてくる趣なのである。

(八の二)

一五  はつ花や手向(タムケ)のこりを提(サゲ)て来(クル) 少我
一六   空ふく竹にきれとまる几巾(タコ)          宋阿

 十五句目は、少我の花(はつ花)の句である。花の定座は、十七句目なのだが、ここに引き上げている。花の定座は引き上げることはあっても、その定座の後に出すという、いわゆる「こぼす」ということはない。そして、十四句目は、月の定座なのであるが、この歌仙では、その十四句目の月の定座を、十七句目にこぼしている。この月の定座は、前に持ってくる「引き上げる」ことも、また、後に「こぼす」こともフリーとなっている。このように、定座を引き上げたり、こぼしたりする理由というのは、花の句なり、月の句を連衆にバランスよく担当させるという座の雰囲気の配慮などによるものなのであろう。ここでは、発句を雪尾、脇句が宰鳥で、その関係で、十四句目の雪尾は月の定座をこぼして、先に、少我に、花の句を出すように誘っているのかもしれない。この歌仙の捌き(主宰者)は、おそらく、宋阿がやられているだろうから、雪尾、宰鳥、そして、少我の三人には、捌きの宋阿が、それぞれ、歌仙の流れを見て、それらの配慮を誘引しているということであろうか。もう一つ、この歌仙の一番最後の三十六句目の挙句の作者名が、「筆」となっており、これは「執筆」のことで、この歌仙の連衆(宋阿・雪尾・宰鳥・少我)の他に、もう一人、「執筆」がいるのか、それとも、「雪尾・宰鳥・少我」のうちの誰か一人が、それを兼ねているのかどうか不明である。感じとしては、この挙句の「筆」は、夜半亭に宋阿の内弟子として仕えている宰鳥が、句数の関係などから担当したようにも思われるし、当時の宰鳥の立場からして、そう考えるのが自然なのかもしれない。なお、掲出の十五句目の句意は、「座頭が自分の頭を剃っている前を仏に手向ける初花の残りを提げて来る」ということか。そして、十六句目は、「初花を散らしそうな強い春風のせいだろうか、竹林の竹に糸の切れた凧が引っかかかっている」ということであろう。

(九)

 一七 十日ほど宇治の人なり朧月          雪を
 一八  草履の〆(シメ)を切て投出す       宰鳥
 一九 髪置にうつくしきもの松の霜         宋阿

 この十七句目から十九句目の展開は、裏の十一句目と折端から名残の表の折立の展開である。歌仙三十六句のうち、丁度、前半と後半との折り返しの局面で、句数からすると山場ということになる。その十七句目は、本来は花の定座なのであるが、この歌仙では、十五句目に引き上げられており、そして、本来は十四句目の月の定座をここにこぼしているという異例の展開となっている。その雪尾の月の句は、「十日ほど宇治の人なり朧月」と、『源氏物語』の「宇治十帖」が背景にあるような句で、おそらく、京都から江戸の夜半亭に来て、しばらく滞在している自分(雪尾)をもイメージしてのものなのかもしれない。そして、次の宰鳥(蕪村)の折端の句、「草履の〆(シメ)を切て投出す」の短句(七七句)は、蕪村の五十三歳(明和五年)のときの、「宿かせと刀投出す雪吹(フブキ)哉」を彷彿させるような、ドラマ趣向の、後年の蕪村の一面を如実に感じさせるような句作りなのである。この歌仙が巻かれたのは、元文四(一七三九)年、ときに、宰鳥(蕪村)二十四歳のときで、実に、三十年近くの時間的な経過が、この両者の間には存在する。すなわち、後年の蕪村の作風というものは、この歌仙が巻かれたころの、江戸の日本橋の夜半亭に巴人の内弟子として滞在していたころに、その全ての萌芽があるといえるであろう。さて、十九句目の、宋阿(巴人)の、「髪置にうつくしきもの松の霜」とは、「髪置」(幼児が髪を初めて伸ばす折の儀式で、三歳の陰暦十一月十五日にすることが多い。式は頭に白粉を塗り、白髪綿と呼ばれる綿帽子をかぶせ、櫛で左右の鬢を三度掻くなどし、その後産土の社に詣でるもの)の句で、その髪置の日、庭の松が、その髪置の白髪綿のように美しい霜を戴いているというのである。いかにも、老練な夜半亭一世・宋阿らしい句作りである。

(十)

 二〇  小づかひ帳の役はこしもと           少我
 二一 糸屑の絶ぬたもとは静也             宰鳥
 二二  牛馬の影は七つより前             雪尾

 名残の表の二句目から四句目の展開である。この少我、宰鳥、そして、雪尾とは、年齢的には殆ど同年齢程度なのではなかろうか。この歌仙を巻いた元文四年(一七七五)は、蕪村こと宰鳥は二十三歳なのであるが、京都出身の雪尾は宰鳥よりも若干年齢的には上のようにも思われるけれども、後に、宝暦元年(一七五一)、蕪村三十六歳の、再び、京都に帰ったときのことについて、「名月摺物の詞書」に次のような記述が見られる(大礒義男「評伝蕪村」・『国文学解釈と鑑賞:昭和五三・三』)。

「予、洛に入りて先づ毛越を訪ふ。越、東都に客たりし時、莫逆の友也。」(私は、京都に再帰して最初に毛越(雪尾)を訪ねました。毛越とは、毛越が江戸に居られたときに、意気投合したきわめて親密な友人であります。)

 この毛越こと雪雄の、この毛越という号は、芭蕉の『おくのほそ道』の平泉中尊寺・毛越寺の「毛越」とは関係があるのだろうか。雪尾の師とされている斎部路通は、当初、その奥の細道の随行を予定されていたのであるが、曽良が代わって随行し、その後、路通は不祥事などで芭蕉の怒りを受け、それを避けるため奥羽行脚を決行するのであった。すなわち、芭蕉門でも、こと『おくのほそ道』に関連しては、路通は最も関係している一人といえよう。それをもう一歩進めて、想像を逞しくするならば、その路通の晩年の弟子の雪尾は、この歌仙を巻いているころ、芭蕉や師の路通の奥羽行脚の偲びながら、京都より奥羽行脚を決行して、その行脚の前後の江戸の滞在というのが、今回の、この歌仙の、宋阿や宰鳥との再会(これも推測の域を出ないが)に繋がっているのではなかろうか(このことについては、関連して後で触れていきたい)。掲出の句の句意は、「小づかひ帳の役はこしもと」は、「前句の髪置の子の小遣い帳をとりしきる役は腰元の役です」ということ。「糸屑の絶ぬたもとは静也」は、「その腰元は針仕事に余念がなく、絶えぬ糸屑も散らさず、針を動かしていても静かで手並みがあざやかである」と、そして、「牛馬の影は七つより前」は、「裁縫に励むその女性は、夜を徹して、もう明け方の四時頃となる。通りでは牛馬の影が見られる」というようなことであろう。

(十一)

二三 手入れ菊橋場へ通ふかんこ鳥           少我
二四  あみだへ後(ウシ)ロ向(ムケ)てけんどむ   宋阿
二五 けふは留守きのふはあまり早過る         雪尾

 名残の表の五句目から七句目である。少我の句の「橋場」は、現台東区今戸の橋場で、橋場の渡しで知られている所、その東橋場には火葬場があった。現在のその近辺の地図は次のアドレスの通り。

http://vip.mapion.co.jp/front/Front?uc=1&nl=35/43/20.010&el=139/48/37.486&grp=excite&scl=20000

 句意は、前句の「七つ」を午後の「七つ」(現在の四時頃)と見立て替えして、「その牛馬の影が見えるところは、かんこ鳥が鳴くような侘びしい火葬場のある橋場付近で、その侘びしい所で菊の手入れをしている」というところ。次の宋阿の句は、その菊を手入れしているもの侘びしい人物を、慳貪(盛り切りうどん)を食べている情景と転じて、句意は、「その男は阿弥陀さまに背を向けて、一人もの侘びしく慳貪うどんを食べている」と滑稽句の付句であろう。その宋阿の付句に対して、雪尾は、客人に合わぬ邪険な男に見立て替えして、「その男は、昨日は時刻が早いといい、今日は約束の時に留守をして、どうにも始末が困る」というのであろうか。何とも他愛のない付句の応酬といえばそれまでだが、当時の夜半亭一門を取り巻く環境の一端や、その日常生活などが、これらの付句の応酬の背景を通して透けて見えてくるという雰囲気である。

(十二)

 二六  帋(カミ)に紅葉を包む挨拶         宰鳥
二七 帰るには有明月のたのものしき         宋阿
二八  一人の母をもちし虫売            少我

 名残の表は八句目から十句目の展開である。宰鳥の句は、「紅葉狩りに行った人が、あいにく留守で、手紙に紅葉を添えて置いていった」という光景。さりげなく手紙の句を出して、恋文を連想させ、次の句に恋句を呼び出している、「恋の呼び出し」の句という雰囲気である。次の宋阿の句は、その宰鳥の恋の呼び出しの句を受けての、後朝の恋の句である。前句の紅葉を添えての手紙の送り主を、後朝の別れの女性と見立てて、その女性と早朝の別れをする男性は、「帰途につくのには、早朝の有明の月が丁度良い按配である」というのであろう。二十九句目(名残の表十一句目)の月の定座を引き上げて、有明月の句にしている。次の少我の句は、その帰途につく男性を虫売りの男性と特定して、「その虫売りは母一人待つ家に帰っていく」という光景であろう。紅葉狩りの風雅人から、後朝の別れの王朝風へと転じ、さらに、日常市井の虫売りの景へと、それぞれが、前句を受けて、十分に持ち味を出しているいるという雰囲気である。この歌仙が巻かれた元文四年(一七三九)は、夜半亭宋阿こと、早野巴人は六十四歳で、その三年後の寛保二年(一七四二)の六月六日に六十七歳で亡くなる。この元文四年の、『俳諧桃桜』(左巻「其角追善集」、右巻「嵐雪追善集」)は、宋阿の最後の大きな上梓といえるものであろう。この年、夜半亭宋阿の後継者の一人と目されていた、京都の俳人、宋屋(当時の号は富鈴)は『梅鏡』を上梓し、宋阿はそれに序文を寄せている。しかし、この宋屋は、宋阿亡き後、夜半亭二世を引き継ぐことなく、その二世を引き継ぐのは、明和七年(一七七〇)の、その三十年後の、五十五歳の宰鳥こと与謝蕪村、その人であった。

(十三)

二九  奉公の名におもしろきおぐしあげ        宰鳥
三〇   杭より西のそばたちやさしき        ゆきを 
三一  肴荷に菜の氷つく朝嵐             少我

 名残の表十一句目・折端から名残の裏折立の展開である。宰鳥の句は、前句に対する逆付け(向付け)で、虫売りの女性から御髪上げ(貴人の髪を結うこと)の高家の女性へと転じて、「奉公の名が御髪上げとはこれまたおもしろい」という句意。次の雪尾の句は、「その御髪上げの女性は、西国の領地に住むお方はさすがに東国育ちとは違って上品である」というのであろう。そして、少我の句は、「その高家の台所の肴の荷と一緒の菜には氷がついているような寒い日で、外では朝嵐が吹いている」という光景であろう。京都の俳人、後の毛越こと、ゆきを(雪尾)の師は芭蕉門の斎部路通については先に簡単に触れたが、この路通は、この歌仙が巻かれた前年(元文三年)に九十歳で没している。この路通は、この晩年には京都に多く住んでいたとのことであるが、大阪にも居たようで、もとより一戸を構えての生活ではなく、他家に寄食しての生活で、『猿蓑』での路通の代表句の一つにもされている、「いねいねと人にいはれつ年の暮」というような生涯であったのであろう。
雪雄が、この路通を俳句の師とし、そして、この師の路通が亡くなった翌年に、江戸に出て来て、おそらく、路通とは面識があった宋阿のもとで、この歌仙を巻いているということは、何か興味がひかれるところである。
 なお、斎部(八十村)路通については、下記のアドレスにより、次のように紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/rotsu.htm

「八十村氏。近江大津の人。三井寺に生まれ、古典や仏典に精通していた。蕉門の奇人。放浪行脚の乞食僧侶で詩人。後に還俗。元禄2年の秋『奥の細道』 では、最初同行者として芭蕉は路通を予定したのだが、なぜか曾良に変えられた。こうして同道できなかった路通ではあったが、かれは敦賀で芭蕉を出迎え て大垣まで同道し、その後暫く芭蕉に同行して元禄3年1月3日まで京・大坂での生活を共にする。路通は、素行が悪く、芭蕉の著作権に係る問題(註・芭蕉が、加賀の門人からの依頼で書いた付け合い十七体を後になって反故にした。これを路通が勝手に使用して公開してしまった。これで芭蕉の勘気をこうむった 。元禄七年、芭蕉の死の床には路通がいた)を出来し、勘気を蒙ったことがある。元禄3年、陸奥に旅立つ路通に、芭蕉は『草枕まことの華見しても来よ』と説教入りの餞の句を詠んだりしてもいる。貞亨2年春に入門。貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したと見られている。『俳諧勧進帳』、『芭蕉翁行状記』がある。

路通の代表作

我まゝをいはする花のあるじ哉 (『あら野』)
はつ雪や先草履にて隣まで (『あら野』)
元朝や何となけれど遅ざくら (『あら野』)
水仙の見る間を春に得たりけり (『あら野』)
ころもがへや白きは物に手のつかず (『あら野』)
鴨の巣の見えたりあるはかくれたり (『あら野』)
芦の穂やまねく哀れよりちるあはれ (『あら野』)
蜘の巣の是も散行秋のいほ (『あら野』)
きゆる時は氷もきえてはしる也 (『あら野』)
いねいねと人にいはれつ年の暮 (『猿蓑』)
鳥共も寝入てゐるか余吾の海 (『猿蓑』)
芭蕉葉は何になれとや秋の風 (『猿蓑』   」

(十四)

三二   棒をつきつきはや桶の供          宋阿
三三  かすがいの額をせがまれ胡粉とく       雪尾
三四   筧のふしん台どころ迄           少我

名残の裏二句目から四句目の展開である。 宋阿の句の句意は、「その朝嵐の中を棒をつきつき粗末な棺桶の供がやってくる」という光景であろう。雪尾の句は、「その粗末な棺桶の野辺送りの一方、一方では、鎹(かすがい)の額を懇請された画工が胡粉をといている」と場面を転じている。そして、少我は、その鎹の額の作業から家普請の光景に転じて、「筧を台所まで引く家普請の最中である」というのであろう。これらの場面の「はや桶」・「胡粉」・「筧」と、これらは全て当時の風物詩であろう。この歌仙が巻かれた元文四年(一七三九)の頃の、江戸の背景史的な一端は、次のとおりである。

http://homepage2.nifty.com/mitamond/nenpyo/nenpyo_genbun.htm

1736(享保21/元文元)
01月 お半の方、徳川宗春の愛妾となる<天守閣の音>
春 徳川宗春、奇妙なカラクリ使いの香具師と知り合う<天守閣の音>
初夏 加賀藩出頭人・大槻伝蔵、刺客に襲われたところを家士・六兵衛に救われる<虎乱>
六兵衛の子・小市、父に代わって伝蔵に仕える<虎乱>
04月28日 元文に改元
夏 謎の香具師、名古屋城の天守閣に登る<天守閣の音> 雲切仁左衛門、尾張城下で捕らえられる<天守閣の音>
07月02日 荷田春満(68)没
08月12日 大岡忠相、江戸町奉行から寺社奉行となる
11月19日 香林院(大石りく)没
冬 大岡忠相配下の同心・三田村元八郎、将軍宣下に関わる陰謀を追い京へ向かう<竜門の衛> この年 徳川家治の異母兄・下村左源太誕生<将棋大名>
1737(元文2)
04月11日 中御門上皇(37)、没
05月03日 江戸で大火。寛永寺本坊焼失
   22日 徳川家治誕生
11月07日 各地で煙のようなものが吹き出し、火事のように見える[武江年表]
1738(元文3)
02月01日 江戸で夜5時頃、光り物が飛ぶ[武江年表]
   23日 漁師の網に人魚がかかる
04月07日 幕府、大坂に銅座を設置
夏 栗山定十郎、播州の一揆に関係して故郷を追われる<妖星伝>
10月18日 幕府、大筒役を新設
11月01日 幕府、鎌倉で大砲を試射
12月16日 但馬国生野銀山で打壊し
この年 奥丹波の農家の女が京都参詣の帰途、応声虫の病にかかり、腹でものを言い出す[閑田耕筆] 江戸本所の沼を埋め立てようとしたところ、 沼の蝦蟇が老人の姿で現れ、埋め立て中止を進言する[江戸塵拾]
1739(元文4)
01月12日 幕府、尾張藩主徳川宗春に蟄居を命じる
03月08日 青木昆陽、幕府に仕える
09月21日 玉川上水を開いた玉川庄右衛門、水配分に不正ありとして江戸払となる
1740(元文5)
05月 鳥海山噴火
08月03日 後桜町天皇誕生
09月 幕府、青木昆陽を甲信二州に派遣し古文書を採訪させる
この年 芸州の家士五太夫

(十五)

三五  一家中花なき軒もなかり鳧(けり)      宰鳥
三六   四本がゝりの暮遅きあし           筆
 
 名残の裏五句目から挙句の最終局面である。宰鳥の句の句意は、前句の家普請の景を受けて、「その一族のどの家でも花のない家はなく、その花は爛漫と咲き誇っている」というところであろう。その「一家中」には、この歌仙を巻いている「夜半亭一門」の意味も言外に込められているであろう。そして、執筆の句の句意は、その花爛漫の句を受けて、それを蹴鞠の景に転じて、「その広い屋敷の庭では、蹴鞠の四本掛かりの『松・楓・柳・桜』が植えられていて、春日遅々、蹴鞠に興じている」という光景であろう。そして、この歌仙の最後を飾る挙句には、この歌仙の四吟も終わろうとしている意味合いも込められていて、その意味合いでの「四本がかり」(蹴鞠)を利かせていると解せられるのである。さて、この挙句の作者(執筆)は、この四吟の連衆とは別の他の誰かなのであろうか。それとも、この四吟のうちの誰かが、いわゆる「執筆」(捌きの助手役)を兼ねていたのであろうか?
この歌仙は、夜半亭一門の主宰者の宋阿が、京都から江戸に出て来ている雪尾を囲んでの、宋阿の近辺にいる一門の宰鳥と少我とを誘っての内輪の歌仙興行のように思われ、当時、夜半亭に住み込んで宋阿の内弟子のような境遇にあった、宰鳥こと、若き日の蕪村が、宋阿の手足となって、その執筆の役に当たっていたのではなかろうか?  ここは句数からすると、雪尾九句、宰鳥九句、少我九句、そして、宋阿が八句で、宋阿の挙句が順当なのであるが、当時六十四歳の夜半亭俳諧の宗匠である宋阿が、おそらく、宰鳥(当時二十四歳)と同年齢の若手の雪尾(少我も若手俳人のように思われる)らの、この連衆の中にあって、この歌仙の「あっさりと巻き納める」挙句を担当するであろうか?  ここは、四吟で、順番からすると宋阿の番のようにも思われるけれども、その宋阿が、連衆の一人の、最も当時宋阿の近くに仕えていた、宰鳥に向かって、ここは、「執筆」の名で、「この歌仙の巻き納めをせよ」と、そんな配慮をしたのではなかろうか? これは推測であり、もとよりそれを証しする術もないけれども、ただ一つ、この挙句の季語が、「春遅き」(遅日・遅き日・暮遅し・暮れかぬる・夕長し・春日遅々)であり、この季語の「遅日」こそ、蕪村が生涯にわたって好んで用いたものというのが、その足掛かりのように思えるのである。大正・昭和にかけての近代詩壇の寵児であった、萩原朔太郎が、その著『郷愁の詩人 与謝蕪村』の作品鑑賞の冒頭に持ってきた、次の一句とその解説が、この挙句に接して去来したのである。

○ 遅き日のつもりて遠き昔かな

 蕪村の情緒。蕪村の詩境を単的に詠嘆していることで、特に彼の代表作と見るべきだろう。この句の詠嘆しているものは、時間の遠い彼岸における、心の故郷に対する追憶であり、春の長閑な日和の中で、夢見心地に聴く子守唄の思い出である。そしてこの「春日夢」こそ、蕪村その人の抒情詩であり、思慕のイデアが吹き鳴らす「詩人の笛」に外ならないのだ(萩原朔太郎)。

0 件のコメント: