月曜日, 6月 05, 2006

若き日の蕪村(その二)



若き日の蕪村(その二)

晋我追悼曲の謎

(十六)

   君あしたに去りぬ
   ゆふべの心千々(ちぢ)に何ぞ遙(はる)かなる。
   君を思うて岡の辺(べ)に行きつ遊ぶ
   岡の辺(べ)なんぞかく悲しき

 この詩の作者を名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう。しかもこれが百数十年も昔、江戸時代の俳人与謝蕪村によって試作された新詩体の一節であることは、今日僕らにとって異常な興味を感じさせる。実際こうした詩の情操には、何らか或る新鮮な、浪漫的な、多少西欧の詩とも共通するところの、特殊な水々しい精神を感じさせる。そしてこの種の情操は、江戸時代の文化に全くなかったものなのである(萩原朔太郎)。

 『郷愁の詩人 与謝蕪村』(萩原朔太郎著)の冒頭の書き出しの部分である。この著が刊行された当時(昭和十一年)には、朔太郎のいう、この蕪村の新詩体は、この新詩体に出てくる「君」こと、結城の俳人・早見晋我が亡くなった延享二年(一七四五)正月二十八日逝去の追悼のもので、蕪村、三十歳の頃の作とされていた。また、そう解することに何らの疑いも持たれずに、そして、今でもそう解することが当然としてそのように解しておられる方々も多く見かけられる。この蕪村の延享時代の作とする考え方に対して、この作は、ずうと後の、安永六年(一七七七)の蕪村、六十二歳当時の、晋我三十三回忌追悼のものであろうとする考え方が、尾形仂氏によってなされ(『蕪村の世界』所収「北寿老仙を悼む」)、今では、この尾形仂氏の考え方に賛同する方を多く見かけるようになった。ここら辺のところに焦点をあてながら、この蕪村の「北寿老仙を悼む」(別名「晋我追悼曲」)を見ていくことにする。

(十七)

北寿老仙をいたむ

君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々(ちぢ)に
何ぞはるかなる
君をおもふ(う)て岡のべに行(いき)つ遊ぶ
をかのべ何ぞかくかなしき
蒲公(たんぽぽ)の黄に薺(なづな)のしろう咲(さき)たる
見る人ぞなき
雉子(きぎす)のあるかひたなきに鳴(なく)を聞(きけ)ば
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にき
へげのけぶりのはと打(うち)ちれば西吹(ふく)風の
はげしくて小竹原(をざさはら)真(ま)すげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住(すみ)にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去(さり)ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵(わがいほ)のあみだ仏(ぶつ)ともし火もものせず
花もまい(ゐ)らせずすごすごと彳(たたず)める今宵(こよひ)
ことにたう(ふ)とき 

釈蕪村百拝書

これが「北寿老仙をいたむ」の全文である。この末尾の「釈蕪村百拝書」の「釈」は仏弟子としての姓で、この新詩体(俳詩)に出てくる「君」(北寿老仙)こと、結城の俳人・早見晋我が亡くなつた享延享二年(一七四五)当時は、蕪村(三十歳頃)は結城の弘教寺(ぐきょうじ)に寄寓していて、すでに法体をしていたということであろう。この署名が無ければ、これは、まさしく、萩原朔太郎が、「この詩の作者を名をかくして、明治年代の若い新体詩人の作だと言っても、人は決して怪しまないだろう」ということを実感する。と同時に、この作品を生んだ蕪村という人物は、何ともミステリーな人物に思えてくるのである。

(十八)

この「北寿老仙をいたむ」を、細部にこだわらずに意訳してみると次のとおりとなる。

北寿老仙をいたむ

今朝あなたは突然亡くなってしまった 
今夕わたしの心は乱れに乱れています
どうにもあなたははるか彼方へ行かれたことか
どうにも氣が滅入ってなりません
あなたを偲び 思い出の岡の辺に行きました 
あてどなくさまよい歩きました
何とその思い出の岡の辺は もの悲しいことであつたことか
たんぽぽは黄色に輝き なずなは白く輝いていました
それなのに もう 誰ひとり見る人もおりません
あなたの声でしょうか それとも 雉子でしょうか 
しきりに鳴いています それを聞いています
あなたという友がいて、わたしとあなたは 河をへだてて住んでいました
不思議な煙が一瞬たちこめてきて 西の彼岸の方へ吹く風が
激しく 小笹の原を 真菅の原を 揺さぶり
それでは もう あなたは その雉子は 何処にも逃れる術とてないでしょう
あなたという友がいて、わたしとあなたは 河をへだてて住んでいました
今朝は もう ほろろとも 鳴き声 ひとつしません
今朝あなたは突然亡くなってしまった 
今夕わたしの心は乱れに乱れています
どうにもあなたははるか彼方へ行かれたことか
どうにも氣が滅入ってなりません
わたしは家に引き籠もり 阿弥陀さまに灯明もあげずに  
そして 花もあげずに しょんぼりと 打ち萎れております
なぜか 今宵は ことのほか 阿弥陀さまが 神々しく見えてなりません

この意訳をするに際して、若干、語釈などの留意点をあげておきたい。「去(さり)ぬ」は「去(い)ぬ」・「去(ゆき)ぬ」の詠みもあろう。「何ぞはるかなる」は、「何ぞ杳(はるか)なる」で「何とも暗い」とも解せられるが(『蕪村全集四』)、「何ぞ遙かなる」(距離または年月の遠くへだたっているさま。程度の甚だしいさま。気持の上でかけはなれたさま。気が進まないさま。また、何とも遠い彼岸の人になられてしまった)の意も含ませて意訳したい。「へげのけぶり」は「変化(へんげ)のけぶり」の意に解して(前掲書)、「不思議なけぶり」と意訳したい。「西吹(ふく)風」は、「黄泉・彼岸へ吹く風」の意もあろう。「あみだ仏(阿弥陀仏)」は蕪村が帰依した浄土教の本尊で、この衆生の救済を本願としている阿弥陀仏の賛仰ということは、意訳するうえで心がけておく必要があるように思われる。なお、「千々に」(さまざまに)についても、安永五年六月九日付の暁台宛の書簡(「夏の月千々の波ゆく浅瀬かな」の句あり)などと関連して考察する必要があるのかもしれない。

(十九)

 この「北寿老仙をいたむ」は、蕪村の死後の寛永五年(一七九三)に上梓された、桃彦(二世晋我)編の晋我(一世晋我)五十回忌追善集『いそのはな』に収載されている。早見晋我(一世晋我)は、本名次郎左衛門。下総結城の酒造家で、「北寿」はその隠居号。「老仙」は老仙人の意で蕪村が呈した敬称である。初め、其角、のちに、介我門。結城俳壇の古老として重きをなしていた。蕪村、三十歳の延享二年(一七四五)、七十五歳で没。その妻は、蕪村が二十七歳で師の宋阿と死別後身を寄せた同地の砂岡(いさおか)雁宕(がんとう)の伯母かという(『蕪村全集四』)。これらのことについて、ネット関連のものを調べていたら、次のアドレスで、下記のとおり紹介されており、参考に関連するところを抜粋しておきたい。

http://www.kyosendo.co.jp/rensai/rensai31-40/rensai39.html

※蕪村は享保元年(一七一六)攝津国東成郡毛馬村に生まれた。彼は享保年中(~一七三五)に江戸へ出て来て、二十二才の時に、早野巴人(宋阿)の門に入り俳諧を学ぶと同時に、絵画や漢詩の勉強もしたという。寛保二年(一七四二)、師の巴人が亡くなった後、同門の下総結城の砂岡雁宕(いさおかがんとう)の許に身を寄せ、その後十年、関東、奥羽の各地を廻り歩く。北寿の晋我は結城で代々酒造業を営む素卦家で、通稱を早見治郎左衛門と云い、俳諧は其角の門下で、其角の没後、その弟子の佐保介我に師事したという。晋我は結城俳壇の主要メンバーの一人で、蕪村のよき理解者だったが、延享二年(一七四五)に七十五才でこの世を去った。その時、蕪村は三十才だった。「北寿老仙をいたむ」は、その晋我の追悼詩だが、この詩が実際に世に出たのは、その五十年近く後の寛政五年(一七九三)で、晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、「庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る」と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して「君」と呼びかけ、「友ありき」などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、「北寿老仙をいたむ」以外の二篇、「春風馬堤曲」と「澱河歌」(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。「すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた」(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない。(上記のネット記事)

(二十)

 ここで、「北寿老仙をいたむ」が収載されている『いそのはな』を上梓した、桃彦(二世晋我)宛ての蕪村(三十六歳)の、宝暦元年(一七五一)十一月□二日付けの書簡を紹介しておきたい(□は虫食いなどによる不明箇所。以下、読みのルビなどは新仮名遣いで括弧書き。新字体に直したところには次に※を付する)。

□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄
右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)
此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ)
無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候
平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候
当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候
外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候
何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)
拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)
一生之御たのミニ御坐候
大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)
京都所々廻見(めぐりみ)
さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)
先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候
□の貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候
俳かいも折々仕(つかまつり)候
いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候
一両年なじミ候ハバ
一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)
先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候
是非々々相待申(あいまちもうし)候
鴛見(おしみ)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候
ゆふき田洪いかゞ候や
御ゆかしく候 以上
霜月□二日

(二十一)

□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄
右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)
此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ)
無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候
平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候


 蕪村は結城・下館・宇都宮を中心に関東遊歴十年の後、宝暦元年(一七五一)八月、木曽路を経て京に再帰した。時に、三十六歳であった。当時は、人生八十年ではなく五十年というスパンであろうから、もはや、中年といってもよいであろう。そういう年齢に達していても、蕪村は未だ独身で、一家を構えることもなく、京に再帰して、「□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿」の家に寄寓しているというのであろう。「此書付壁ニ張付被差置(さしおかれ) 無御失念(ごしつねんなく)御登(おのぼ)せ可被下候」とは、「この手紙を壁に貼り付けて、忘れることなく、必ずお返事ください」と、この手紙の宛先の桃彦と蕪村とは、蕪村が兄で桃彦が弟のような、何か身内同士のやりとりのようにも思えるのである。また、事実、そういう関係にあったのであろう。「右之処※付ニ而(て)御登可被下候(おのぼせくださるべくそうろう)」とは、「右の宛名で、ご返事下さい」と、書き出しから、「ご返事下さい」と、そして「平林氏一行もの、或ハれん二三枚御もらい(ひ)可被下候」(平林氏の書の一行もの、あるいは、左右対になっている聯もの二・三枚貰ってください)、そして、それを京都の「□椹木(さわらぎ)町□屋与八殿迄」(蕪村まで)送ってくださいというのである。随分と厚かましい内容の書簡なのである。平林氏とは、「平林静斎」のことで、「父は鍵屋清左衛門。十二歳の時、父に伴われて広沢の門に入る。別名、消日居士、桐江山人、東維軒。王義之、王献子に学び、他に漢、魏、随、唐の名家の書を学んで広沢門下四天王の一人と言われた。門人二千人。宝暦三年、五十八歳没。当時人気の絶頂にあった書家である」(村松友次著『蕪村の手紙』)という。

(二十二)

当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候
外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候
何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)
拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)
一生之御たのミニ御坐候
大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)
京都所々廻見(めぐりみ)
さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)
先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候
□の貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候
俳かいも折々仕(つかまつり)候

「当※地庵※中ニ掛(かけ)申度候」(この京都の寄寓の壁にその平林静斎の書を掛けたいのです)、「外ニ風流ヨリ※達而(たって)所望いたされ候」(その外、知り合いの風流人から是非にと所望されているのです)。「何とぞ二三枚貴公御徳を以(もって)」(ここは、桃彦さまのご人徳をもって、二三枚)、「拝裁(戴)奉願候(はいたいねがいたてまつりそうろう)」
(手に入れていただきたくよろしくお願いします)。これは、「一生之御たのミニ御坐候」(一生のお願いでございます)。平林静斎の書を送ってくださったときには、「大黒したゝめ御礼ニ相下可申候(あいくだしもうすべくそうろう)」(大黒を描いてお礼にお送りいたします)。この「大黒」とは、いわゆる七福神(恵比寿、大黒、毘沙門、弁財、布袋、福禄寿、寿老人)の大黒様で、それを描いて差し上げますと、やはり、蕪村は画家で、そういうものを、需要に応じて描いて、それで生計を立てていたのであろう。当時、蕪村が描いたと推測されている「大黒絵手本」(『蕪村全集六』所収図版一六)が、下館の中村家(当時夜半亭門の俳人・風篁)に現に所蔵されている。この中村家には、この外に、「子漢」の署名の「陶淵明三幅対」(前掲書所収図版一)、「浪華四明筆」の落款の「漁夫図」(前掲書所収図版三)、「四名」の署名の「三浦大助三幅対」(前掲書所収図版二)、杉戸絵四面の「追羽子図」(前掲書図版八)、さらに、八面貼込の模写絵の「文徴明八勝図」(前掲書図版九)などが所蔵されている。これらの当時の作品群に接すると、蕪村は、主たるウエートを絵画に置き、その絵画と同時併行して俳諧の修業をしていたことが伺える。そして、その関東出遊時代の修業時代を終え、再び、京都に帰って来て、「京都所々廻見(めぐりみ)」(京都の所々を見て回り)、「さてさて※おもしろく相暮候(あいくらしそうろう)」(とにもかくにも面白く暮らしています)と、意気盛んなのである。続いて、「先頃臥見(ふしみ)ニ参上 滞留いたし候」(先日、伏見に行って、しばらく遊んで来ました)。「□貴公 夜踊ニ御出被成(おいでなされ)候事思ひだし独※笑(どくしょう)仕候」(その折、あなたの、何時かの夜、踊りに来た時のことを思い出して、一人で苦笑していました)。「俳かいも折々仕(つかまつり)候」(俳諧の方も忘れずに折に触れては作っています)と、当時の、蕪村の姿が彷彿としてくるのである。

(二十三)

いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候
一両年なじミ候ハバ
一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)
先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候
是非々々相待申(あいまちもうし)候
鴛見(おしみ)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候
ゆふき田洪いかゞ候や
御ゆかしく候 以上
霜月□二日

「いまだ何かといそがしく 取とゞめ候事も無之(これなく)候」(まだ、何かと忙しく、特に、記録に留めておくようなこともございません)。「一両年なじミ候ハバ」(一・二年この京都におりましたら)、「一入(ひとしお)面白候半(そうらわん)とたのしミ罷有候(まかりありそうろう)」(かならずや、面白いニュースなどもお知らせできると、楽しみにしていてください)。「先々平林公の墨跡 かならずかならず※奉頼(たのみたてまつり)候」
(とにもかくにも、平林静斎の書き物、必ず、必ず、忘れないで、よろしくお願いします)。
「是非々々相待申(あいまちもうし)候」(是非、是非、お待ちしています)。凄い、執心である。
鴛見(鴛見の句)
お(を)し鳥に美をつくしてや冬木立
(鴛鳥に彩色を使い果たしてしまったのか、冬木立は水墨画のような装いである)
「その外あまた有之(これあり)候 略※いたし候」(その外にも、このような句はありますが、省略します)。「ゆふき田洪いかゞ候や」(結城在住の、弟様の田洪はどうしておりますか)。「御ゆかしく候 以上」(とても懐かしく存じます 以上)。
霜月□二日(陰暦十一月□二日)

蕪村が京都に再帰したのは、宝暦元年(一七五一)八月(陽暦十月)のことであり、この書簡の日付からして、この桃彦あてのものは、その二ヶ月後ということになる。当時、桃彦が、結城に居たのか、それとも、江戸に居たのか(弟の田洪が結城に居て、桃彦は、平林静斎の書が手に入るような江戸在住であったのか)、詳しいことは分からない。しかし、こういう無心の書簡を出せるということは、結城の早見晋我・桃彦・田洪の、いわゆる、晋我一族とは、昵懇の間柄であったということは間違いなかろう。

(二十四)

○ 肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)

 この掲出の句は、宝暦元年(一七五一)霜月□二日(陰暦十一月□二日)の桃彦宛ての書簡に前後した頃の蕪村の句である。句意は、「僧に化けた狸が書き写したという木の葉経を己の髪の毛を噛み噛み読誦するかと思えば何とも寒々としてくる」というようなことであろうか。この句碑は現在結城市の弘経寺に建立されている。結城の檀林弘経寺は浄土宗。壽亀山松樹院弘経寺といい、所在は結城市西町、創建は文禄三年(一五九四)と伝える。徳川秀康(家康の孫)の息女松姫が六歳で没したのでその菩提寺として秀康の創建したもの。この寺は、砂岡雁宕の菩提寺で、今も雁宕の墓がある。同寺の過去帳によると、雁宕は弘教寺第二十九世成誉上人血脈である旨記されている。雁宕と同寺との特別な関係から、蕪村もしばしば同寺を訪れ、画作に精進したのであろう。同寺には、襖絵四枚「墨梅図」(『蕪村全集六』所収図版十)、同六枚「楼閣山水図」(前掲書所収図版十一)などが所蔵されている。さて、この掲出の句には、「洛東間人嚢道人釈蕪村」と、俳詩「北寿老仙をいたむ」の署名と同じ「釈蕪村」の署名があるのである。
なお、次のアドレス(蕪村ゆかりの場所:結城)に写真などが掲載されている。

弘経寺については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/gugyoji.html

木葉経句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/konoha.JPG

雁宕句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/gantoku.JPG

雁宕の墓については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/ganto.html

妙国寺(「北寿老仙をいたむ」の詩碑がある)については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/myokoku.html

「北寿老仙をいたむ」詩碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/hokujuhi.html

早見晋我の墓については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/shinga.html

蕪村筑波山句碑については
http://www.nime.ac.jp/~saga/places/yuki/tsukuba.JPG



(二十五)

この署名の「洛東間人嚢道人釈蕪村」の「釈蕪村」の「釈」は、仏弟子としての姓を意味するということについては先に触れた。そして、終世の俳号となる「蕪村」については、寛保四年(一七四四)の、蕪村初撰集の、いわゆる『宇都宮歳旦帖』において始めて使われた号なのである。その表題には次のとおり記載されている。

寛保四甲子 (かんぽう よん かっし)
歳旦歳暮吟 (さいたん さいぼの ぎん)
追加春興句 (ついか しゅんきょうの く)
野州宇都宮 (やしゅう うつのみや)
渓霜蕪村輯 (けいそう ぶそん しゅう) 

 この「渓霜蕪村輯(編集)」の「渓霜」は姓で、蕪村の本姓の「谷口」(中国風に「谷」)の意と解せられよう。「霜」は、先に触れた歌仙「染る間の」の巻が収載されている『俳諧桃桜』(宋阿撰集)に、宰鳥の名で収載されている発句、「摺鉢(すりばち)のみそみめぐりや寺の霜」の「霜」とも思われ、宰鳥の号の初見も、実にこの発句に置いてなのである(また、この『俳諧桃桜』の版下は、宰鳥こと蕪村その人であろうといわれている)。そして、「蕪村」の号の由来は、蕪村が敬愛した中国・六朝時代の詩人・陶淵明の「帰去来辞」によるものとされている。

帰去来兮 (帰りなんいざ)
田園将蕪 (田園まさにあれんとす)
胡不帰  (なんぞ帰らざる) 

 また、蕪村開眼の一句とされている、この『宇都宮歳旦帖』の上梓の前年あたりに決行した奥羽行脚の遊行柳での、「柳散清水涸石処々」(やなぎちりしみずかれいしところどころ)などの、その北関東や奥州の荒廃した荒れた荒蕪の村々のイメージが、この「蕪村」という号の背後に蠢いているようにも思えるのである。そして、この「洛東間人」の「間人」(荘園制下で、村落共同体の最下層に位置づけられた新来の住民。卑賤視されることが多く、近世にも名称は残存する。亡土とも書く)にも、さらには「嚢道人」の「嚢」(蕪村の絵画の号「虚洞」に通ずる無限の風を生ずるとの老荘思想に由来するもの)や「道人」(これまた老荘思想に関連する「俗世間より遁れて山間に生活する人」の意など)にも、当時の蕪村の「生き様」というのが透けて見えてくるような思いがするのである。


(二十六)

 蕪村の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句には、次のような前書きのような一文が添えられている。

「しもつふさの檀林弘経寺といへるに、狸の書写したる木の葉の経あり。これを狸書経と云て、念仏門に有がたき一奇とはなしぬ。されば今宵閑泉亭にて百万遍すきやうせらるゝにもふで逢侍るに、導師なりける老僧耳つぶれ声うちふるいて、仏名もさだかならず。かの古狸の古衣のふるき事など思ひ出て、愚僧も又こゝに狸毛を噛て」
(下総の浄土宗の十八檀林の一つの弘経寺というところに、狸の書写したという木の葉の経文がある。この経文は狸書経と云って、浄土宗においては有り難い奇特のものとされてている。そんなこともあって今晩閑泉亭において百万遍念仏法会が執行せられるに参会いしましたところ、その法会の唱道の師の老僧は耳も聞こえず声も震えていて、仏の名すらも覚束ないありさまでした。この木の葉の経を書写したという古狸の古衣などの昔の事を思い出しまして、愚僧の私もここに、その古狸の毛を噛みなから、一句したためます。)」

 この「愚僧も又こゝに狸毛を噛て」ということについては、その署名の「洛東間人嚢道人釈蕪村」の「釈」(釈迦の弟子であることを表するために、僧侶が姓として用いる語)の姓からして、当時の蕪村その人と解して、上記のように意訳したのであるが、『蕪村全集(四)』においては、「老僧の経は自分の毛で作った筆を噛み噛み書いた木の葉経ではないか」との解である。さらに、この「閑泉亭」については、その頭注において、「あるいは『閑雲亭』の誤読か。閑雲亭とすれば宮津の鷺十の真照寺」とし、「『洛東間人嚢道人』の署名より、宝暦初年の作。あるいは丹後時代(宝暦四~七)か」の「丹後時代(宝暦四~七)」のものの可能性についても触れられている。その「丹後時代のものか」ということよりも、
「『洛東間人嚢道人』の署名より、宝暦初年の作」の、この「洛東間人嚢道人」の署名は、、宝暦初年の頃のものであり、さらに、それに続く「釈蕪村」の署名も、蕪村の宝暦年間のものであり、まして、蕪村が夜半亭二世を継いだ、明和七年(一七七〇)、蕪村、五十五歳以降に、この署名というのは、『蕪村全集』(既刊もの)を見た限りにおいては、目にすることが出来ないのである。とすれは、先に触れたところの、次のネット記事の、安永六年(一七七七)説よりも、延享二年(一七四五)説に、または、それに近い、宝暦年間のものとするのが妥当なのではなかろうか。

「晋我の嗣子、桃彦(とうげん)が亡父の五十回忌に当たり出版した俳諧撰集『いそのはな』の中で、『庫のうちより見出しつるままに右にしるし侍る』と付記があるという。この詩は晋我が死んだ延享二年の作といわれているが、その時、三十才だった蕪村が七十五才の晋我に対して『君』と呼びかけ、『友ありき』などというのは不自然だとして、尾形仂(おがたつとむ)氏は次のような説を述べている。蕪村は三篇の俳詩をものしているが、『北寿老仙をいたむ』以外の二篇、『春風馬堤曲』と『澱河歌』(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。『すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた』(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた、というのである。なる程、そう考えると、確かに辻褄があう。いずれ、この説が立証されるかもしれない」(先のネット関連記事)。

(二十七)

 蕪村の「肌寒し己(おの)が毛を噛(かむ)木葉経(このはぎょう)」の句に関連する、「木の葉経句文」について、『蕪村全集(四)』の解説・頭注は以下のとおりである。

(解説)
真蹟によって潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)に収録されたもの。現在、原真蹟の所在不明。「洛東間人嚢道人の署名より、宝暦初年の作。あるいは丹後時代(宝暦四~七)か。老僧の念仏の声がさだかでないところから、古狸ではないかとの幻想をいだき、弘経寺の木の葉経のことを思い起こして、老僧の経は自分の毛で作った筆を噛み噛み書いた木の葉経ではないかと興じたもの。
(頭注)
木の葉経  狸の化身である僧侶が写したといわれる経。言い伝えによれば、飯沼(水海道市)の弘経寺第二世良暁上人の徒弟の良全は仏門に入るために人の姿に化けた狸であったが、正体が露見したのを恥じて、経を遺して死んだので、上人がねんごろにとむらい、その経を寺宝にしたという。それが結城の弘経寺に伝わり、住職のほかは見ることができないとされている。

さらに、潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)に、次のような頭注がある。

(頭注)
遺草  これは蕪村が京都に西帰して間もなく、即ち宝暦初年の頃書きしものと思はれる。筆跡も晩年のものとはいたく異り。

この潁原退蔵編『蕪村全集』(大正十四年刊)の頭注の「これは蕪村が京都に西帰して間もなく、即ち宝暦初年の頃書きしものと思はれる。筆跡も晩年のものとはいたく異り」は、この「木の葉経句文」の署名の、「洛東間人嚢道人釈蕪村」についても、均しく指摘できるところのものであり、このこともまた、その「釈蕪村」の署名が、「安永六年(一七七七)説よりも、延享二年(一七四五)説に、または、それに近い、宝暦年間のものとする」ところの一つの証しにもなるように理解をしたいのである。

(二十八)

阿師没する後、しばらくかの空室に坐し、遺稿を探(さぐり)て、一羽烏といふ文作らんとせしも、いたづらにして歴行する事十年の后(のち)、飄々(ひょうひょう)として西に去(さら)んとする時、雁宕が離別の辞に曰(いわ)く、再会興宴の月に芋を喰(くう)事を期せず、倶(とも)に乾坤(けんこん)を吸(すう)べきと、其(その)言をよしとして、翅書(ししょ)さへまめやかにせざりしに、ことし追悼編集の事告(つげ)来(きた)るにぞ、さすがに涙もろく、斎団扇(ときうちわ)の上に酬書(しゅうしょ)し侍る。跋とすやしらず、捨(すつ)るやしらず。 釈蕪村

(わが宋阿師が没して後、しばらくその主の無い家に居て、わが師の遺されたものを調べまして、それらを一羽烏という題にて文集を作ろうとしましたが、何をすることもなくあちこちと歴行をするばかりで十年が過ぎてしまいました。そして、当てもなくこうして京都に再帰するにあたり、兄事していた雁宕の別れの言葉に、再会月見の興宴の時には芋などを喰らっていずに、お互いに天下を一飲みに飲み干そうと言われ、その言葉を肝に銘じて、手紙もこまめにせず過ごしてきましたが、今年、宋阿師の追悼編集の連絡を受けまして、どうにも涙がこぼれてなりません。その追悼の法事に供する団扇に、こうしてその返書をしたためましたが、それが、跋文になるのものやら、それとも捨てられてしまうものやら、とにもかくにも、返書をする次第です。 釈蕪村 )

 これは、雁宕他編『夜半亭発句帖』に寄せられた蕪村の「跋文」である。『夜半亭発句帖』は、宝暦五年(一七五五)に夜半亭宋阿こと早野巴人の十三回忌にその発句(二八七句)を中心にして上梓したものである。この序文は雁宕が宝暦四年の巴人の命日(六月六日)をもって記しており、上記の蕪村の跋文もその当時に書かれたということについては動かし難いことであろう。この宝暦四年(蕪村、三十九歳)に、蕪村は京を去って丹後与謝地方に赴き、宮津の浄土宗見性寺に寄寓し、以後三年を過ごすこととなる。この丹後時代の蕪村の署名は、「嚢道人蕪村」というものが多く、この『夜半亭発句帖』の「跋文」に見られる「釈蕪村」の署名は、蕪村が京に再帰した宝暦元年(一七五一)からこの跋文が書かれた同四年頃までに多く見かけられるものである。そして、「北寿老仙をいたむ」の「北寿老仙」こと早見晋我が没したのは延享二年(一七四五)であり(その前年の延享元年に巴人亡き後の親代わりのような常磐潭北が没している)、それは巴人が没する寛保二年(一七四二)の三年後ということになる。即ち、巴人十三回忌に当たる宝暦四年前の宝暦二年前後が、晋我(また、常磐潭北)の七回忌に当たり、その頃、在りし日の北関東出遊時代のことを偲びながら、当時京都に再帰していた蕪村が、古今に稀な俳詩「北寿老仙をいたむ」を書き、そして、当時こまめに文通していた晋我の継嗣・桃彦宛てに、「釈蕪村百拝書」と署名して送ったもの、それが、「北寿老仙をいたむ」の作品の背景にあるように思えてくるのである。

(二十九)

予、洛に入(いり)て先(まず)毛越(もうをつ)を訪ふ。越(をつ)、東都に客たりし時、莫逆(ばくげき)の友也。曽(かっ)て相語る日、いざや共に世を易して、髪を薙(なぎ)、衣を振(ふるっ)て、都の月に嘯(うそぶか)む、と契りしに、露たがはず、けふより姿改(あらため)て、或は名を大夢(たいむ)と呼ブ。浮世の夢を見はてんとの趣いとたのもし、など往時を語り出(いで)ける折ふし、紅竹(こうちく)のぬし、榲桲(まるめろ)を袖にして供養せられければ、即興。
  まるめろはあたまにかねて江戸言葉   東武 蕪村

(私は、京都に帰って来まして、先ず毛越を訪れました。毛越は、江戸に来ていたときに、意気投合し心の許し合った仲間です。その当時、語り合ったことですが、手を携えて俳壇を改革しょうと、剃髪し、俗塵を脱して、再び、京都で再会したときには、月見の興宴で共に句を吟じようと、その約束通りに、今日から僧形になって、名を毛越から大夢に改め、この現世での希望を現実にするその姿勢に非常に心がうたれるものがあります。このような往時のことを語り合っていますと、俳友の紅竹が、他のものは何も上げることはできないが、せめて花梨のマルメロでも頭を丸めた二人に献じましょうと云われましたので、そこで、即興の一句です。

まるめろはあたまにかねて江戸言葉   
――「まるめろ」は「花梨のまるめろ」と「頭をまるめろ」
とを兼ねた江戸言葉です ――
江戸 蕪村 )

 蕪村が永く歴行していた江戸と関東時代に見切りをつけ京都に再帰したことと、再帰して先ず雪尾こと毛越を訪れたことについては先に触れた。上記がそれらを証しする「まるめろは」詞書(宝暦元年)の全てである。この詞書について、” 大礒義雄氏が昭和五十年ごろに入手した半紙本一冊の写本『聞書花の種』に、「名月摺物詞書」と題し、「東武 蕪村」の名で収められている(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十三年三月号)。写真版は『図説 日本の古典 芭蕉・蕪村』(昭和五十三年十月刊)に掲げる。『聞書花の種』は俳文集で、筆録者不明だが、大礒氏によればおそらく京都の人で、あるいはこの文中に名前の見える毛越かと思われるという(「連歌俳諧研究」第五十四号、昭和五十三年一月)。この一文によって、蕪村の上京が名月のころであったことがわかる。句は他に所見がない。” と『蕪村全集(四)』で紹介されている。これらのことに関して、これまでのことと重複するかも知れないが、この京都に再帰した宝暦元年当時の蕪村の署名は、「東武 蕪村」というもので、「釈蕪村」というものは見あたらない。また、これ以前においても、「渓霜蕪村」という、いわゆる『宇都宮歳旦帖』での署名は見るが、これまた、「釈蕪村」の署名というのは見あたらない。これらのことからして、いわゆる、蕪村の俳詩「北寿老仙をいたむ」の創作時期は、北寿老仙が亡くなった延享二年という説は、何か「唐突に、釈蕪村の署名がなされている」という思いがするし、さらに、「蕪村は三篇の俳詩をものしているが、『北寿老仙をいたむ』以外の二篇、『春風馬堤曲』と『澱河歌』(でんがか)はいずれも安永六年(一七七七)出版の『夜半楽』に収められている。安永六年は晋我の三十三回忌に当たることから、晋我の三十三回忌の記念出版が企てられ、嗣子の桃彦から寄稿の要請を受けて作ったものではないか、というのである。『すでに蕪村は、老境の悲しみを知り、心理的にかっての長上晋我を『友』と遇し『君』と呼んでもそれほど不自然ではない老齢に達していた』(『蕪村俳句集』の解説)、時に蕪村、六十二才である。しかし、その三十三回忌の出版は何らかの理由で中止になり、蕪村の原稿は五十回忌の『いそのはな』の出版時まで桃彦の家の庫の中に収まったまま眠っていた」とする、いわゆる安永六年説も、この「釈蕪村」の署名に関連して、何か不自然な推論のように思えてくるのである。ここは、その「釈蕪村」の署名により、その署名が見られる宝暦四年の『夜半亭発句帖』(巴人十三回忌追悼集)の蕪村の「跋文」起草前後、そして、それは、晋我七回忌あるいは十三回忌とかと関連するものと理解をしたいのである。これらの新しい理解を提示するために、以下、稿を改めて、” 大礒義雄氏が昭和五十年ごろに入手した半紙本一冊の写本『聞書花の種』に、「名月摺物詞書」と題し、「東武 蕪村」の名で収められている(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十三年三月号)”ことなど、大礒義雄氏の「評伝・与謝蕪村」の関連するところを忠実にフォローして見たいのである。 

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