金曜日, 6月 09, 2006

若き日の蕪村像(『新花摘』・月渓筆)

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次のアドレスに、下記のような呉春(松村月渓)の年譜が記述されている。この年譜の[1784年、蕪村旧稿「新花摘」の挿絵を描き上梓]のとおり、天明四年(一七八四)に、蕪村没後に、蕪村が生前に書き留めていたものを『新花摘』(月渓の跋文では「続花つみ」)として、挿絵七図を配して上梓した(正確には、蕪村の元の冊子を呉春が横巻として挿絵七図を配し、寛政九年に版本として上梓された)。

http://www.tulips.tsukuba.ac.jp/jart/nenpu/2gs001.html

呉春
[読み] ごしゅん
[始年] 1752-
[終年] 1811年
1774年頃、蕪村に師事するか(蕪村連句集「昔を今」)。
1777年、「羅漢図」(逸翁美)を描く(款記)。
1778年、遊廓島原の名妓雛路を身請けし妻とする。
「騎馬狩猟図」(逸翁美)。
1781年、妻事故死、父江戸で客死、池田に移住。
1782年、姓を呉、名を春、字を伯望とし剃髪。
1783年、師蕪村没す。
1784年、蕪村旧稿「新花摘」の挿絵を描き上梓。
1786年、「芭蕉幻住庵記画賛」を描く。
1787年、応挙に従い大乗寺に描く。
妙法院真仁法親王に召され席画する。
1795年、応挙没す。
1796年、岸駒と「山水図」を合作。
1810年、後妻ウメ女没す。
1811年、没す。
1817年、「流芳遺事」

 この蕪村の『新花摘』の呉春の挿絵は、次のアドレスで紹介されている。

一図(早乙女図) 10丁裏 / Leaf 10 Back・11丁表 / Leaf 11 Front・11丁裏 / Leaf 11 Back
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf10b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf11f.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf11b.html
二図(蕪村・潭北図) 16丁裏 / Leaf 16 Back・17丁表 / Leaf 17 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf16b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf17f.html
三図(白石旅舎図) 21丁裏 / Leaf 21 Back・22丁表 / Leaf 22 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf21b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf22f.html
四図(結城丈羽別荘図) 26丁表 / Leaf 26 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf26f.html
五図(下館中村風篁邸・阿満図) 34丁表 / Leaf 34 Front 
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf34f.html
六図(下館中村風篁邸・三老媼図) 37丁表 / Leaf 37 Front・37丁裏 / Leaf 37 Back
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf37f.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf37b.html
七図(渭北・俳席図) 41丁裏 / Leaf 41 Back・42丁表 / Leaf 42 Front
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf41b.html
http://ship.code.u-air.ac.jp/~saga/shinhana/leaf42f.html

これらの七図のうち、二図(蕪村・潭北図)は興味深い。この二図について、若き僧の図を蕪村として、老僧の図を潭北とするという理解は、『新花摘』の文面からの理解であり、これらの図に、「蕪村・潭北」との名前を付した文献というものは寡聞にして知らない。しかし、この二図の若き僧こそ、当時、釈氏を称し、法体をしていた、後の、与謝蕪村その人と理解をしたい。

そして、それは、文面からして、「潭北と上野(現群馬県)に同行」していた頃の図ということになろう。この潭北は、「常磐氏。名は貞尚。下野(現栃木県)那須烏山の人。其角・沾徳門。医を業として庶民教育(社会教育)の第一人者であった。延享元年没」で、蕪村の師の夜半亭一世宋阿(早野巴人)と、同郷(那須烏山出身)・同年(巴人は延宝四年、潭北は延宝五年とされているが、同年とする説もある)・同門(其角門)の親しい間柄である。巴人亡き後、結城の砂岡雁宕と共に、蕪村の庇護者となった、蕪村にとっては、忘れ得ざる人ということになる。

この潭北が法体となっているが、これは、呉春は潭北とは面識はなく、呉春の、蕪村の文面を読んでの想像図ということになろう。しかし、『新花摘』の、「潭北はらあしく(注・気短かに)余(注・蕪村)を罵(ののしり)て」、「むくつけ(注・無風流な)法師よ」と怒鳴りつけるなど、眉毛を八の字にして、いかにも、俳諧師で且つ当時の教化指導者の第一人者のうるさ型の潭北像という雰囲気でなくもない。
この常磐潭北の墓は、那須烏山市の善念寺にあり、次のアドレスで、その善念寺と潭北についての紹介記事がある。

http://www11.ocn.ne.jp/~zennenji/1rekisi.html

1 善念寺

善念寺は文禄二年(1593年)の創建以来、那須郡烏山の地にその法灯を護持してきた古刹である。開基の良信住関上人は佐竹氏の出で、玉造伊勢の守の三男として生まれ、後に名超派大沢円通寺良定袋中上人に指南を受けた。本尊は阿弥陀如来像で、他に二十五菩薩や善導大師像、法然上人像を祀っている。
 境内には、子育て地蔵堂、常盤潭北(渡辺潭北)の墓や「放下僧」ゆかりの牧野家墓(牧野山三学院歴代墓地)などがある。

2 常盤潭北

潭北は、延宝5年(1677年)烏山町の渡辺家に生まれ、名は貞尚、字は堯氏、号を潭北または百華と称した。生家は代々名字帯刀を許された郷宿と称する公用旅宿であった。
 潭北と同年に生まれた与謝蕪村の師で竹馬の友の俳人の早野巴人は、早くから伯父の江戸日本橋の唐木屋重兵衛を頼って食客となり、生来好きな俳諧に打ち込み、蕉門随一の榎本其角、服部嵐雪の教えを受けていた。巴人の影響で江戸遊学への志をかきたてられた潭北は、早くから江戸に出て医学を学び、その傍ら巴人と交わりを深め、巴人の手引きで当時江戸俳壇の有名な宗匠のところに出入りするようになり、また其角の弟子となり俳諧を修め、「汐こし」「後の月日」「反古さらし」「としのみどり」などを残した。
 潭北は江戸宗匠群の一人に数えられ、沾州、貞佐など、当時有名だった点者と同列に扱われ、一流の宗匠に格付けられていた。
潭北は、俳諧のかたわら早くから庶民教育の必要を解し常・総・野の諸州を巡廻して、多くの人々に道を説き、村老を集めて郷村団結の必要を教えた。それらの講話の積んで篇をなしたものに「民家分量記」「野総茗話」(民家童蒙解)がある。
潭北が俳人宗匠として諸国を遊歴して庶民と交わり行く先々で行った講説は、農民生活の事実に求め、身近な農村社会の現実に即した処世訓を展開した。潭北は教化活動に専念し日本庶民教育史上に多大なる功績を残した人物である。(善念寺渡辺家墓地)

また、 享保十七年(一七三二)に刊行された『綾錦』(菊岡沾涼編)には次のとおりの記述がある。

[現  常盤百花荘
 潭北・・・・・・
   本土野州那須
  編     汐こし 後の月日 反古さらへ としのみどり
  はい書ノ外 民家分量記 分量夜話 ]


 ここで、潭北の主たる編著を年代別に記すと次のとおりである。

享保元年(一七一六)  四十歳  『汐越』(「汐こし」)刊行。
享保六年(一七二一)  四十五歳 『民家分量記』(内題「百姓分量記」)の稿成る。
享保七年(一七二二)  四十六歳 『今の月日』(『後の月日』)刊行。
享保九年(一七二四)  四十八歳 『婦登故呂故』(『俳諧婦登古呂子』)の稿成る。
享保十年(一七二五)  四十九歳 『百華斎随筆』刊行。
享保十一年(一七二六) 五十歳  『民家分量記』(「百姓分量記」)刊行。
享保十八年(一七三三) 五十七歳 『野総茗話』(「分量夜話」)刊行。
元文二年(一七三七)  六十一歳 『民家童蒙解』刊行。

また、蕪村の『新花摘』の潭北に関する文面は次のとおりである。

・・・・
いささか故ありて(注・寛保二年六月師の早野巴人の死後を指す)、余(注・蕪村)は江戸をしりぞきて、しもつふさゆふきの(注・下総国結城の)雁宕(注・砂岡雁宕)がもとをあるじとして、日夜はいかいに遊び、邂逅にして柳居(注・佐久間柳居)がつく波(注・筑波)まうでに逢いてここかしこに席(注・俳席)をかさね、或は潭北と上野(注・群馬県)に同行して処々にやどりをともにし、松島のうらづたひして好風におもて
をはらひ、外の浜(注・青森県の東岸で、謡曲「善知鳥(うとう)」の伝説で名高い)の旅寝に合浦(注・津軽地方の合浦)の玉のかへるさを忘れ、とざまかうざまとして、既三とせあまりの星霜をふりぬ。
 ・・・・
常盤潭北が所持したる高麗の茶碗は、義士大高源吾が秘蔵したるものにて、すなはち源吾よりつたへて又余にゆづりたり。
 ・・・・
こたび何月某の日は、義士四十七士式家(注・高家の誤記か)の館を夜討して、亡君の うらみを報い、ねんなうこそ泉岳寺へ引とりたり。子葉・春帆など、ことに比類なきは たらき有たり。かの両士は此の日来、我几辺になれて、風流の壮士なれば、わけて意気 感慨に堪ず
 ・・・・
松しまの天麟院は瑞巌寺と甍をならべて尊き大禅刹也。余(注・蕪村)、其寺に客たりける時、長老(注・禅寺で住持または和尚の敬称)古き板の尺余ばかりなるを余にあたへて曰、「仙台の太守中将何がし殿(注・伊達吉村)は、さうなき歌よみにておはせし。多くの人夫して名取河(注・陸奥国名取郡を流れる川)の水底を浚(さぐら)せ、とかくして埋れ木(注・名取川の名産)を堀もとめて、料紙、硯の箱にものし、それに宮城野(注・仙台の萩の名所、歌枕)の萩の軸つけたる筆を添て、二条家(注・和歌の家筋の一)へまゐらせられたり。これは其板の余りにて、おぼろけならぬもの也」とてたびぬ(注・下さった)。
・・・・
重さ十斤(一斤は六〇〇グラム)ばかりもあらん、それをひらづゝみして肩にひしと負ひつも、からうじて白石(注・宮城県白石市)の駅までもち出(いで)たり。長途の労れたゆべくもあらねば、其夜やどりたる旅舎のすの子(注・簀の子)の下に押やりてまうでぬ(帰ってきた)。
・・・・
そのゝちほどへて、結城の雁宕がもとにて潭北にかたりければ、潭北はらあしく(注・気短に)余を罵て曰、「やよ(注・やあ)、さばかりの奇物(注・珍品)うちすて置たるむくつけ(注・無風流)法師よ、其物我レ得てん、人やある(注・誰かいないか)、ただゆけ」と須賀川(注・福島県須賀川市)の晋流(注・須賀川の本陣・藤井半左衛門の俳号。其角門)がもとに告やりたり。
・・・・
駅亭(注・宿屋)のあるじかしこく(注・幸いに)さがし得てあたへければ、得て(注・受け取って)かへりぬ。後、雁宕(潭北から雁宕へ)つたへて「漁鶴」といへる硯の蓋にしてもてり。結城より白石までは七十里余ありて、ことに日数もへだたりぬるに、得てかへりたる、けうの事也(注・非常に珍しいことだ)。
 

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