金曜日, 6月 23, 2006

虚子の実像と虚像(その十一~その十五)




虚子の実像と虚像(十一)

 ここで、虚子の第一句集ともいうべき『五百句』の鑑賞を少し離れて、ネット記事などを中心して、子規・漱石・碧梧桐・虚子などの関連について見ていくことにする。
次のアドレスの「俳句雑学ホーム」に、「子規の明治二十九年の俳句界に見る虚子と碧梧桐」と題してのものがある。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku1.htm


○子規の評論に「明治二十九年の俳句界」がある。内容は、明治二十八年頃から俳句がようやく文壇および世間の注意を惹き始め、新聞雑誌がしきりに俳句を載せ始めた事。また、俳句自体についても前年に比して著しく進化し変化してきた事を指摘している。
その中で子規一門の作家論を述べているのだが、特に有名なのが虚子と碧梧桐の作風について述べた部分である。その冒頭で「明治二十九年の特色として見るべきものの中に虚子の時間的俳句なる者あり。」と指摘し、

  しぐれんとして日晴れ庭に鵙来鳴く
  窓の灯にしたひよりつ払う下駄の雪
  盗んだる案山子の笠に雨急なり
  住まばやと思ふ廃寺に月を見つ

の虚子の句を挙げている。これは芭蕉の述べた「飛花落葉」の一瞬を捉えるのではなく、長い時間にわたる出来事を詠もうとする行き方である。また、「虚子が成したる特色の一つとして見るべきはこの外に人事を詠じたる事なり。」とも指摘し、

  屠蘇臭くして酒に若(し)かざる憤り
  老後の子賢にして筆始めかな
  年の暮の盗人に孝なるがあり

などを挙げ虚子の時間的俳句は蕪村の「御手討の夫婦なりしを更衣」や「打ちはたす梵論つれ立ちて夏野かな」の二句に影響されたと説く。最後に虚子の句全般的特色を、人事を詠むにも複雑な人事または新奇な主観を現そうとし、天然を詠ずるにも複雑さにおいて新奇を出そうとする、と説明している。

一方の碧梧桐については、「碧梧桐の特色とすべき所は極めて印象の明瞭なる句を作るに在り」とし

  赤い椿白い椿と落ちにけり
  乳あらはに女房の単衣襟浅き
  白足袋にいと薄き紺のゆかりかな
  炉開いて灰つめたく火の消えんとす

などを挙げている。これらについては「其句を誦する者をして眼前に実物実景を観るが如く感ぜしむるを謂ふ。故に其人を感ぜしむる処、恰も写生的絵画の小幅を見ると略々同じ。同じく十七文字の俳句なり、而して特に其印象をして明瞭ならしめんとせば、其詠ずる事物は純客観にして且つ客観中小景を択ばざるべからず。」として印象明瞭の句が碧梧桐の特長と述べている。

以上のことを見てくると、子規の提唱した写生においては、碧梧桐の行き方に進展が見られる。虚子の「新奇」については、碧梧桐も「ほととぎす3号」に「所謂新調」との題で、虚子論を展開している。「所謂新調は虚子之を創め、子規子之を公にせり。」と新調の創始者を虚子であるとし、その新調を鳴雪は危ぶんでおり、自分もまた「新調の放縦自在なる、是れ或いは人を誤まるの原因ならざるか。」と危惧する旨を言い、更に新調の矛盾を指摘し新調を模倣する事を戒めている。
そのことについては、志田義秀氏が「虚子氏とても子規の薫陶に育ったものである以上、客観的な静澄な境地をも詠じてはいるが、それは氏本来のものではない。碧梧桐氏の写実的なるに対して氏はどこまでも理想的であった。碧梧桐氏が端的に鋭敏な感覚を働かせるに対して、氏は瞑想的であり、低徊的である。従って其の好尚は、主観的な複雑な人事とか時間的な事物とか、いわば小説的な内容に向かっていた。」と述べている。
しかしである。碧梧桐と言えば、後々、「新傾向俳句」を唱え、俳句の形式を破る方向へ走っていったのに対し、虚子といえば自ら「旧守派」を唱え、「新傾向俳句」に対して伝統俳句を守りつつ、「客観写生」「花鳥諷詠」を唱えていく事になり、全く正反対の道を歩んで行くことになるのである。

参考  清崎敏郎・川崎展宏著「虚子物語」有斐閣ブックス
山口誓子・松井利彦・他著「高浜虚子研究」右文書院

※この最後の「碧梧桐と言えば、後々、『新傾向俳句』を唱え、俳句の形式を破る方向へ走っていったのに対し、虚子といえば自ら『旧守派』を唱え、『新傾向俳句』に対して伝統俳句を守りつつ、『客観写生』『花鳥諷詠』を唱えていく事になり、全く正反対の道を歩んで行くことになるのである」ということについては特記して置く必要があろう。

虚子の実像と虚像(十二)

明治三十八年、虚子三十二歳のとき、「ホトトギス」に、「俳諧スボタ経」(発表時の表記)というものを掲載した。これらのことについて、次のアドレスで次のとおり紹介されていた。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm#俳諧ズボタ経

○高浜虚子は明治三十八年九月号の「ホトトギス」誌上に、「俳諧須菩提(スボダ)経」なる文章を掲げた。かなり人を食った俳句の勧めである。内容は俳句を作る人にはいろいろな差があり、天分豊かな人と、天分を恵まれない人とには作る句にも大きな差があるが、ひとたび俳句に志した人には、まったく俳句を作らない人と比べて、救われる人と、救われない人との差があり、俳句を作る功徳はそこにあると言った意味の事を戯文的な筆で説き、最後に「天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ。」と結んでいる。これは碧梧桐の「日本俳句」には秀才を集めた観があるのに対し、天分なき大衆を相手に俳句を説こうとした虚子の指導者としての意思があった。これは碧梧桐にない寛容であった。
参考     村山故郷著「明治俳壇史」

※この「俳諧須菩提(スボダ)経」というのは、終世、虚子が持ち続けた俳句信条ともいうべきものであろう。このタイトルの「須菩提(スボダ)」(しゅぼだい)というのは、釈迦の十大弟子の一人で、それが「俳句の世界」の中心に鎮座する「俳諧仏」の「長広舌」を筆録するという形をとっている。後の、虚子の小説「続俳諧師」(明治四十二年)の中に「俳諧ホケ経」というのが出て来るが、それは「俳諧須菩提(ズボダ)経」の形を変えたものである。そこで、「俳諧を信ずる人は上手であろうが下手であろうが、唯之にすがればよい」
というのが、その要約的なことである。「古人の句に三嘆し、朝暮工夫して古人の境まで到達する、これ俳句道に入ったもの。自分はできなくても古人の句の味がわかり、四時の循環に趣味を悟るみの、これ俳句道に入ったもの。句作はしないが評釈によって一句二句合点のいくのも俳句道」というのが、「俳諧須菩提(スボダ)経」の最後の場面である。すなわち、「俳句の功得は無量である。仏の手にすがって、『や・かな』の門をくぐればよい。上手下手は差別の側、平等の側に立って俳句の功徳を歓喜し愛楽せよ。その後に差別の側に立って、勇猛精進せよ。難行苦行せよ。悟れずとも進まずとも、この一道に繋がれよ。天才ある一人も来れ、天才なき九百九十九人も来れ」というのが、虚子の俳句信条ということになる。

虚子の実像と虚像(十三)

 子規がその後継者として考えていた人は虚子その人である。しかし、虚子は子規のその申し出を断った。子規の没後、子規が選をしていた「日本」新聞の俳句欄は碧梧桐が継ぐ。虚子は「ホトトギス」の経営にあたり、その関心事はもっぱら小説の方にあった。虚子が「ホトトギス」に雑詠を復活して俳壇に復帰するのは明治四十五年のことである。その背景には、碧梧桐らの新傾向俳句が、非定型、季語の否定の傾向を帯び、これでは子規が進めていた俳句革新は横道に逸れるということ察知して、これではならじと「守旧派」の旗印のもとに、子規の遺業を継ぐという道筋を辿る。これらの前提となる、明治二十八年の死期の迫った子規が虚子に後継者の申し出をする、いわゆる「道灌山山事件」について、
次のアドレスで、次のように紹介されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

○俳句史などには「道灌山事件」などと呼ばれているが、事件というほどの物ではない。道灌山事件とは明治二十八年十二月九日(推定)道灌山の茶店で子規が虚子に俳句上の仕事の後継者になる事を頼み、虚子がこれを拒絶したという出来事である。
 ことはそれ以前の、子規が日清戦争の従軍記者としての帰途、船中にて喀血した子規は須磨保養院において療養をしていた。その時、短命を悟った子規は虚子に後事を託したいと思ったという。その当時、虚子は子規の看護のため須磨に滞在していたのだ。
明治二十八年七月二十五日(推定)、須磨保養院での夕食の時の事、明朝ここを発って帰京するという虚子に対して
「今度の病気の介抱の恩は長く忘れん。幸いに自分は一命を取りとめたが、併し今後幾年生きる命かそれは自分にも判らん。要するに長い前途を頼むことは出来んと思ふ。其につけて自分は後継者といふ事を常に考へて居る。(中略)其処でお前は迷惑か知らぬけれど、自分はお前を後継者と心に極めて居る。」(子規居士と余)と子規は打ち明ける。
この子規の頼みに対して、虚子は荷が重く、多少迷惑に感じながらも、「やれる事ならやってみよう。」と返答したという。併し子規は虚子の言葉と態度から「虚子もやや決心せしが如く」と感じたらしく、五百木瓢亭宛の書簡に書いている。
 そして明治二十八年十二月九日、東京に戻っていた子規から虚子宛に手紙が届く。虚子は根岸の子規庵へ行ってみたところ、子規は少し話したい事がある。家よりは外のほうが良かろう、という事で二人は日暮里駅に近い道灌山にあった婆(ばば)の茶店に行くことになった。
 その時子規は「死はますます近づきぬ文学はようやく佳境に入りぬ」とたたみ掛け、我が文学の相続者は子以外にないのだ。その上は学問せよ、野心、名誉心を持てと膝詰め談判したという。しかし虚子は
「人が野心名誉心を目的にして学問修行等をするもそれを悪しとは思わず。然れども自分は野心名誉心を起こすことを好まず」
と子規の申し出を断ったという。数日後に虚子は子規宛に手紙を書き、きっちりと虚子の態度を表明している。
「愚考するところによれば、よし多少小生に功名の念ありとも、生の我儘は終に大兄の鋳形にはまること能はず、我乍ら残念に存じ候へど、この点に在っては終に見棄てられざるを得ざるものとせん方なくも明め申候。」
 これに対して子規は瓢亭あての書簡に
「最早小生の事業は小生一代の者に相成候」「非風去り、碧梧去り、虚子亦去る」と嘆いたという。
 道灌山事件の事は直ぐには世間に知らされず、かなり後に虚子が碧梧桐に打ち明けて話し、子規の死後、瓢亭の子規書簡が公表されてから一般に知られるようになったそうである。
参考  清崎敏郎・川崎展宏「虚子物語」有斐閣ブックス
宮坂静生著「正岡子規・死生観を見据えて」明治書院


虚子の実像と虚像(十四)

○ 霜降れば霜を盾とす法(のり)の城 (大正二年一月十九日)
○ 春風や闘志いだきて丘に立つ   (同年二月十日)

 この二句については、次のアドレスでそれぞれ次のように紹介されている。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku9-1.htm

(掲出の一句目)

大正二年一月十九日鎌倉虚子庵句会の作。碧梧桐らの新傾向派に対する虚子の旧守の姿勢を現している。「法の城」「とは「法城」の事。仏語で仏法のことを言う。人々が心のよりどころとするので城にたとえるのである。霜が降れば、霜のような心もとないものでも、それを恃みに厳しく仏法(伝統俳句)を守る。と言うのが句意。
虚子はこの句を得た感想を
「余はこの一句を得て初めて今日の運座も為甲斐があったやうに感じたのであった。時雨の句を作る時からだんだんと熱し来た余の感情が初めて形を供へてこの句を為したように感じたのであった。」
と述べている。このことは五・七・五の定型を破壊しなくても、季節感を希薄にしなくても、自分の感情と俳句を重ね合わせることが出来る実感をもてたと言う事で、「今日の運座の為甲斐があった。」と述べたのだと思う。そして
「寺!それは全体どういふものであらう。俗世の衆生を済度するために法輪を転ずる所、祖師の法燈を護る所。足が一度山門をくぐると其の処はもう何人の犯す事も許されぬ別個の天地である。」
「かかる法域によって浮世に対している僧徒のことを思うと、それがこの頃の余の心持にぴったりと合って一種の感激を覚えるのでる。法の城!法の城!彼等は人の世に法の城を築いて、其の処に冷たき寒き彼等の生を護っているのである。彼等は何によって其の城を守るのであらう。曰く、風が吹けば風を楯とし、雨が降れば雨を楯とし、落ち葉がすれば落ち葉を楯とし、花が咲けば花を楯として。」
と言う、現在の心境である、俳句を守る、俳句を他の文芸、西洋文芸の影響から守るという硬い決意が伺える。
参考      松井利彦著「大正の俳人たち」 富士見書房
        川崎展宏、清崎敏郎著「虚子物語」有斐閣書房

(掲出の二句目)

大正二年二月の句。「霜降れば霜を楯とす法の城」と共に、碧梧桐の新傾向俳句に対して、旧守派を宣言した時の決意を表した句。「此れも彼の『法の城』の句と共に現在の余の心の消息である。余は闘はうと思ってをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ、句意は多言を要さぬことである。」(暫くぶりの句作・ほととぎす)と自ら語っている。大野林火はこの句について「この二句は(春風やと霜降ればの二句)巷間有名な程、さしてすぐれた句だとは思われない。両句ともに、虚子の俳句復活という、歴史的背景で有名なのであり、それを除けば両句とも内容概念的、詩情また豊かといえぬ。」(新稿高浜虚子・明治書院)と述べている。
参考    松井利彦著「大正の俳人たち」富士見書房
      大野林火「新稿高浜虚子」明治書院

虚子の実像と虚像(十五)

○ 春風や闘志いだきて丘に立つ   (虚子・大正二年)
○ ほととぎす敵は必ず斬るべきもの (草田男・昭和三十七年)

 掲出の一句目の虚子の句については先に触れた。「碧梧桐の新傾向俳句に対して、旧守派を宣言した」ときの虚子の「余は闘はうと思ってをる。闘志を抱いて春風の丘に立つ」という挑戦的状的な決意表明の句である。そして、この掲出の二句目の草田男の句は、その虚子の「ホトトギス」門にあって、いろいろな変遷や経過はあったにしても、その「ホトトギス」の一時代を画した中村草田男の昭和三十七年当時の、かっての盟友ともいうべき「現代俳句協会」分裂に際しての金子兜太らへの挑戦状ともいうべき句なのである。この草田男の句は、たまたま、地方紙「下野新聞」の「季(とき)のううた」(平成十八年五月十八日)に掲載されたものである。この句の解説(評論家・村上護)は次のとおりである。
「五月中旬ごろ南方から渡来する夏鳥がホトトギス。その鳴き声に特色がある。血を吐くがごとき強烈さは、時に人を震え上がらせる。蕪村は『ほととぎす平安城を筋違(すじかい)に』と町の上を真っすぐ突っ切って渡るさまを詠んだ。そこに妥協の余地はない。掲出句も挑戦的で、『敵は必ず斬るべきもの』とは穏やかではない。昭和三十七年の作で、文芸上の論敵を情け容赦なく粉砕する宣戦布告の一句だ」。
 それにしても、この俳句王国といわれる愛媛出身の子規山脈にも連なり、そして師弟の関係にあった、虚子と草田男との挑戦状的な句を並列してみて、改めて、虚子の句の表面の装いとその内情との隔たりの違いということに唖然とする思いと、それに比して、草田男のこの掲出句のストレートさはこれまた「虚子と同じ俳句という土俵上のものなのか」と疑いたくなるようなそんな両者の隔たりを感じたのであった。ひるがえって、今日、俳句という土俵を考えると、この掲出の句で、一句目の虚子の句のような世界がそれとされ、そして、この二句目の草田男の句のような世界は、ともすると異端視される傾向が今なお続いているであろう。そして、今なお、この虚子の世界即俳句の世界といわしめているその根底には、厳然と、虚子がその生涯にわたって精魂を傾けたところの「ホトトギス」という出版活動があったということは、これまた、誰もが均しく認めるところのものであろう。そういう観点から、この草田男の「ほととぎす敵は必ず斬るべきもの」の、夏鳥の「ホトトギス」ではなく、虚子の携わった雑誌(俳誌)の「ホトトギス」が、碧梧桐を始め、どれだけの「敵は必ず斬るべきもの」で「斬り倒してきた」かは、この虚子と草田男との句を同時に鑑賞してみて、今さらながらに実感をするのである。

0 件のコメント: