月曜日, 6月 26, 2006

秋元不死男の「瘤」の句



秋元不死男の「瘤」の句(その一)

○ 降る雪に胸飾られて捕へらる
○ 捕へられ傘もささずよ眼に入る雪

秋元不死男の第二句集『瘤』は昭和二十五年に「作品社」より刊行された。この「作品社」は、「作品俳句叢書」と名づけて数冊の句集を刊行する予定であったが、石田波郷の『惜命』とこの『瘤』の二冊のみ刊行して、中途で破産してしまったという。この不死男の『瘤』には、総数三六六句が収録されていて、そのうちの一七二句が、不死男自身の「俳句弾圧事件」に関与しての獄中句であるという。掲出の句は、その『瘤』の冒頭の句で、「昭和十六年二月四日未明、俳句事件にて検挙され、横浜山手警察署に留置される。二句」との前書きのある二句である。『俳人・秋元不死男』(庄内健吉著)によると、著者(秋元不死男)所蔵の句集には、次のようなメモが記されているという。

※ 子供---八歳   ※ 粉雪  ※ 二重廻し(黒)
※ 雪が飛びついて次々と胸のところだけにとまる
※ 両脇に刑事
※ 無抵抗なわたしは下目づかいに飾られた雪をみた

掲出の二句、この秋元不死男自身のこのメモ書きだけで十分であろう。庄内健吉の前掲書には「粉雪の降りしきる未明、二人の刑事に踏み込まれて、目を覚ました子供を見ながら、夫人の着せかける二重廻しを着て外にでる」との解説とともに、表現が淡々としていて、受身の切迫感が希薄なのは、不死男の性質に由来するというよりは、「根本は『回想』という時間の経過が感情を沈潜させたためであると思う」との記載が見られる。しかし、この掲出の二句の、この淡々とした表現こそが、これらの句に接する者に、この時の不死男の「どうにもやりきれない」、その心境をひしひしと語りかけてくるように思われる。


秋元不死男の『瘤』の句(その二)

○ 寝(い)ねて不良の肩のやさしく牢霙(みぞ)る
○ 冬シャツ抱へ悲運の妻が会ひにくる
○ 虱背をのぼりてをれば牢しづか
○ 酷寒日日手記いそぐ指爪とがる
○ 水洟や貧につながる手記一綴(ひととじ)
○ 特高と屋上に浮き春惜む

 これらの六句には、「翌日(注:昭和十六年二四日に検挙され横浜山手警察留置されたその翌日のこと)、芝高輪警察署に移り、以来十ケ月余をここに暮す 六句」との前書きがある。不死男のこの『瘤』では、警察署の「留置場」を「牢」、そして拘置所を「獄」と使い分けしている。そして、不死男は二年の拘束期間のうち、この高輪警察署に十ケ月、東京拘置所に十四ケ月とのことである(庄中・前掲書)。

この一句目の不死男のメモは次の通り。

※ 高輪  ※ 多いときは三畳に十数人寝た。  
※ コンクリートの床の上に、うすべりが一枚、その上に虱のついた毛布をしゐて寝た。  
※ 前科の不良、やさしい人間だった。  
※ いろいろな犯罪者がきた。  
※ 霙ふる寒い夜は体温であたためっこをした。  

 この四句目・五句目のメモは次の通り。

※ 手記を書かされた。数項目に亘る。  
※ 特高室に出て(火気のない)かじかむ手、水洟をすすりながら書いた。  
※ 生い立ちから現在までの生活環境。  
※ 父の死。夜店。

 これらの句から、高輪警察署での生活環境とその取調べの状況とが浮き彫りにされてくる。その取調べは、「自らが共産主義者であったことを認め、それを手記の形でまとめさせられる」のである。不死男は、新興俳句誌「土上」(島田青峰主宰)の関係者として検挙される。当時の筆名は「土上」では「秋元平線」、その他の俳壇においては「東(ひがし)京三」の二つの筆名を使い分けしていた。そして、「東京三」は、英語読みにすると「京三東」(きょうさんとう)となるなどとも指摘もされるが、不死男は「プロレタリア俳句」・「新興俳句」には携わり、その運動上での創作活動ではあったが、決して、他の検挙者の多くがそうであったように、非合法活動の共産主義の活動家ではなかったということは、本人自身が認めているところなのである。上記のメモの「手記を書かされる。数項目に亘る」ということは、自分自身の「でっちあげの手記」を特高の用意した「項目」に従って、似非の手記を綴っていくのである。そして、その手記を書きながら、つくづくと「父の死ゆ夜店のことなど貧しい生活の日々だけが鮮明に思い出されてくる」というのであろう。

 この不死男の第二句集『瘤』は、「新興俳句・新興川柳弾圧事件」に関連して、不死男自身残したメモとあわせ、忘れ得ざる句集の一つといえるものであろう。


秋元不死男の『瘤』の句(その三)


○ 牢出ても帰るにあらず街路樹枯る
○ 獄へゆく道やつまづく冬の石
○ 凍つる地が蹠(あうら)たばしる獄いづこ

 これらの三句については、次のような前書きが付せられている。「起訴決定、昭和十六年十二月十六日刑事と同行、東京拘置所へ移さる。地上をあゆむ十ケ月ぶりなり 三句」。この一週間前の昭和十六年十二月八日、それは太平洋戦争が勃発した「真珠湾攻撃」があった日なのである。即ち、掲出の句はあの痛ましい戦争の開戦直後の句ということになる。不死男の年譜によれば、不惑の歳の四十歳の時であった。不死男が俳句に手を染めたのは、大正九年(十九歳)の頃とされているが、島田青峰主宰の「土上」に「プロレタリア俳句の理解」を投稿して、俳句に専心したのは、昭和五年(二十九歳)、そして、第一句集『街』を刊行したのが、昭和十五年(三十九歳)のことであった。そして、この昭和十五年に、いわゆる「俳句弾圧事件」があり、その二月に「平畑静塔・井上白文地・中村三山・仁智栄坊・波止影夫」らが検挙、続いて、五月に「石橋辰之助・渡辺白泉・三谷昭」、八月に「西東三鬼」が検挙され、翌昭和十六年の二月に「栗林一石路・橋本夢道・島田青峰・東京三(秋元不死男)・藤田初巳」らが検挙されたのである。この「俳句弾圧事件」は別名「新興俳句弾圧事件」ともいわれ、いわゆる、昭和初期に発生した「俳句近代化運動」の弾圧を意味して、これらの一斉検挙により、その運動は終息を迎えるのである(それは鶴彬らの「新興川柳弾圧事件」と軌を一にするものであった)。さて、掲出の三句のうちの一句目の「つまづく冬の石」、二句目の「街路樹枯る」、三句目の「蹠たばしる」と、いずれも回想句としても、当時の高輪警察署の「留置場」(牢)から東京拘置所(獄)へと移行される、その時の情景をまざまざと見る思いがする。そして、こういう一面を十七音字という世界最小の詩型の「俳句」(そして「川柳」)が持っているいるということを、まざまざと見る思いがするのである。


秋元不死男の『瘤』の句(その四)

○ 手を垂れし影がわれ見る壁寒し

この句については秋元不死男自身のメモ書きがある(庄中・前掲書)。

※ 独房内である。 ※ きたばかりのときである。
※ こんなに動かない影はなかった。
※ おのれというものに見られているというより、秋元不死男にみられている。

後年(昭和二十九年)、不死男は「俳句もの説」という、「もの」(即物性)に執着する詩が俳句であり、「こと」(物語り性)に執着する、いわゆる説明的な俳句を排斥する立場を強調することとなる。この「俳句もの説」は、さらに、「俳句は沈黙の文学、説明しない文学」という立場となってくる。この不死男の第二句集『瘤』は「俳句弾圧事件」の回想句ということを内容としており、前書きがある句が多く、「こと」的な鑑賞がしやすい句が多いが、例えば、この掲出句を一句だけ抽出して、上記のメモ書きなどを度外視して鑑賞してみると、不死男の「俳句もの説」の「もの」そのもののみの提示だけで、その「もの」の象徴性ということを中心に据えての句作りということを暗示しているように思われる。即ち、「俳句もの説」の根底には、上記のメモの「おのれというものに見られているというより、秋元不死男にみられている」の表現が示唆しているように、「創作者としの自分」を消し去り、「もの」(素材・モチーフ)のみを提示して、その「もの」をして語らしめるという本質なり、手法が垣間見られるのである。「おのれ(実の秋元不二雄)というものに見られているというより、秋元不死男(虚の創作者・俳人の秋元不死男)にみられている」として、その出来上がった作品(俳句)は、「手を垂れし影がわれ(影を映した人)見る壁寒し」と、全て「もの」のみの提示で、一切の「こと」的な表現を排除して、そこに、この句に接する人に、その「こと」的な鑑賞を全て委ねるというものなのである。この「俳句もの説」的な俳句観・俳句手法というのは、秋元不死男がその第一句集『街』以来、終生、持ち続けたものの一つで、このことを鑑賞視点に据えて、秋元不死男の句は特に見ていく必要があると思われるのである。


秋元不死男の『瘤』の句(その五)

○ 染料の虎色にじむ冬の河

秋元不死男の第二句集『瘤』所収の句であるが、獄中の句ではなく、獄中を出て、戦後の昭和二十三年の作である。この年に山口誓子が主宰する「天狼」の創刊に加わり、それまでの「東京三」を「秋元不死男」に改める。この掲出の句は「天狼」(第二号)に掲出されている六句のうちの一句で、後年の不死男の「俳句もの説」に関連がある句として注目をされている句である(庄中・前掲書)。その「庄中・前掲書」によると、「俳句もの説」とは次の二点に要約されるという。

一 作品のなかに読者を説得するかたちの言葉を持ちこまず、「もの」を提出することによって作者の感情なり思想なりを「不言のうちに感得させる」。

二 そのためには、必然的に「もの」の選択が作品の生命を左右する。換言するならば、提出された「もの」は、万人、あるいは数百人の人達に共通するイメージを含んでいなければならない。

そして、庄中健吉氏は、「掲句には第一項の作者の感情を現す言葉はない。あるものは、褐色の染料が流れている冬の河だけである。次に第二項についていえば、敗戦後の工業が四苦八苦していた時代の冬の夕暮れの気分が十分に味わえる言葉選びがなされていることがわかる」として、「俳句もの説」の一典型の句としているのである。この「俳句もの説」に比して、石田波郷は「俳句は私小説である」として「境涯俳句」を標榜しているのであるが、現代俳句は、この「俳句もの説」と「境涯俳句」との二つの潮流の狭間にあるように思われ、そして、「境涯俳句」よりもより多く「俳句もの説」に重点が置かれているように思われる。いずれにしろ、秋元不死男は、実作の人であったと同時に、その出発点から理論の人であったということと、この「俳句もの説」は極めて実作上においても鑑賞上においても貴重な示唆を含んでいるということを、特に指摘しておきたいのである。

秋元不死男の『瘤』の句(その六)

○ 青き足袋穿いて囚徒に数へらる

この句の前書きに「囚徒番号七七七の木札を襟につける」とある。この句にも作者のその時の感情などをあらわす言葉は用いられていない。ただ、事実だけが提示されている。

○ 外人歌ふ鉄窓に金(きん)の冬斜陽

この句の前書きは「外人あまた拘置さる。たまたま賛美歌うたふ声階下より聞えくれば」とある。当時の拘置所著などには敵性国人として多くの外国人がその自由を奪われていたのであろう。この句もまた事実の提示だけである。そして、「金(きん)の冬斜陽」と推敲を施された特有の言葉が用いられている。

○ 友らいづこ獄窓ひとつづつ寒し

「古家榧夫、藤田初巳、細谷源二、栗林一石路、橋本夢道、横山林二、神代藤平ら同じ獄裡にあり」との前書きがある。この俳句弾圧事件で、東京の警視庁の逮捕組の俳人のそれぞれ起訴された者はこの拘置所のどこかの房に入れられていたのであろう。そして、この獄中の句で、ただ一つ感情をあらわす「寒し」という言葉は何句かに用いられている。極めて、「こと」(物語り性・境涯性の強い)を内容とする獄中という特殊な作句環境においても、極力、その「こと」に関連しての感情的な言葉は排斥して、「もの」(事実)のみを提示して、作者の感情なり思想なりを「不言のうちに感得させる」ということに意を用いていたかということが、これらの句を通しても了知されるのである。それにしても、「寒し」の一語は、橋本夢道の句に「動けば、寒い」という世界最小ともいうべき獄中の句があるが、冬の拘置所というのは想像を絶するような寒さであったのであろう。この「寒し」というのは、ここにおいては「不言」の「寒さ」というのが、より適切なのかも知れない。

秋元不死男の『瘤』の句(その七)

○ 編笠を脱ぐや秋風髪の間に

※ 一回数分の運動がある。※ 扇形の運動場に出て、そこをかけめぐる。
※ どこへ行くにも編笠をかむる。
※ 編笠を脱ぐと髪の毛が総立ちになって、秋風にふれるよろこびでざわつくのを感じた。

 この掲出句の秋元不死男のメモである。不死男の第二句集『瘤』は不死男の「獄中」時代を回想しての句が多く収録されているということを背景にして、この句に接すると不死男自身のこれらのメモで全てを言い尽くしているように思われる。しかし、この掲出句について、それらの背景を抜きにしても、このメモの「編笠を脱ぐと髪の毛が総立ちになって、秋風にふれるよろこびでざわつくのを感じた」という、その不死男の「大自然の秋風に接する喜び」の感慨が直に伝わってくる。そして、それは、例えば、自由律作家の山頭火の、「まつたく雲がない笠を脱ぎ」の、その爽やかな秋風の想いと全く同じものという印象を受けるのである。そして、それらの想いというのは、大自然によって喚起されてくる人間の生の感動ということに換言してもよいであろう。そういう大自然と接する自由すら、獄中時代の不死男らには許されていなかったということは、不死男のこの第二句集の題名の『瘤』の、その「瘤」が心の髄までしこりとなって、決して忘れはしないという、そういう不死男の決意表明とすら思えてくるのである。

秋元不死男の『瘤』の句(その八)

○ 歳月の獄忘れめや冬木の瘤

秋元不死男の第二句集『瘤』の獄中句関係のは、詳細に見ていくと三部に分かれる。その一は「昭和十六年、俳句事件にて二年有余を留置場と拘置所に送る 三十七句」、その二は「予審終結して保護出所の日きたる 三句」、そして、その三は「二年ぶりに向へにきたる妻とわが家へ帰る 二十六句」と、合計にして六十六句となる。(これらの「前書き」のような記載は『現代俳句集(秋元不死男句集)』筑摩書房のものである)。その六十六句目の、獄中関係の最後の句がこの句である。その第二句集の『瘤』の「後書き」には「わたしのうけた傷痕などは、まだ『瘤』程度のものにすぎない。だが、たとへ瘤であったにせよ、その瘤の痛さと、瘤をこしらへた相手の手は、終生忘れることはできない」と記されるているという(『秋元不死男集』朝日文庫)。その「後書き」によると、この句集『瘤』は、戦後より昭和二十四年までの句を収録して、「いわゆる俳句事件に関係ある句と、然らざるものとに二分」して、前者の「牢と獄中句の大部分は、あとで作った回想句であるが」、「若干その場で作ったものもある」として、「これは獄中で求めた紙石版に句を書きつけ、記憶しておいたのであった」との記載が見られる。いずれにしろ、この掲出句は、不死男の第二句集『瘤』の題名に由来のある句として、不死男の代表句の一つにも数えられるものであるが、この「後書き」の不死男の、「たとへ瘤であったにせよ、その瘤の痛さと、瘤をこしらへた相手の手は、終生忘れることはできない」という記載は、戦後、六十年を迎えようとしている今日においても、なおも、忘れてはならない、昭和の「俳諧師」とまでいわれている秋元不死男の遺言とでも解すべきものであろう。


秋元不死男の『瘤』の句(その九)

○ 獄を出て触れし枯木と聖き妻
○ 獄出て着る二重廻(とんび)に街の灯が飛びつく
○ 獄門を出て北風に背を押さる
○ 北風沁む獄出て泪片目より
○ 北風や獄出て道路縦横に
○ 寒灯の街にわが影獄を出づ

 これらの句には「昭和十八年二月十日夜、迎えにきたる妻とわが家に帰る七句」との前書きがある。そして、この出獄関連の句のあと、わが家に着いてからの、この第二句集『瘤』の傑作中の傑作句の次の句が誕生する。

○ 二年(ふたとせ)や獄出て湯豆腐肩ゆする

 この「二年(ふたとせ)や」の「上五や切り」に不死男のこの二年の全ての思いが凝縮している。ここに典型的な俳句の「切れ字」の凄さを見ることができる。ここに不死男の万感の思いが、たったの三字・五音で全て言い尽くされている。それにもまして、「湯豆腐肩ゆする」の、この不死男の把握は、その後の不死男俳句の全てを暗示するような、凝視の果ての、具象的な「もの」が、あたかも、作者の「写心中物」(心ノ中ノ物ヲ写ス)(良寛の漢詩の一節)となって、語りかけてくるのである。これは、古俳諧・古俳句での「見立て」の一種なのであろうが、そういう技法をこの句は超逸して、「湯豆腐」が不死男であり、その不死男が「肩ゆする」のである。この句と次の句が、この第二句集の傑作中の傑作句と指摘する俳人が多い。

○ 独房に釦(ぼたん)おとして秋終る


秋元不死男の『瘤』の句(その十)

○ カチカチと義足の歩幅八・一五
○ 鳥わたるこきこきこきと缶切れば
○ へろへろとワンタンすするクリスマス

 オノマトペ(擬声語・擬態語など)の不死男といわれるように、不死男のオノマトペは絶妙である、「カチカチと」の「カチカチ」の義足のオノマトペ、そして、それが、「八月十五日」の終戦記念日と結びついて、忘れ得ざる句の一つである。二句目の「こきこきこきと缶切れば」の「こきこきこき」は余りにも名を馳せた不死男のオノマトペである。この句については、不死男の自解がある。「その頃、横浜の根岸に棲んでいた。駐留軍が前の海を埋めて飛行場をこしらえた。風景が一変すると私の身の上も一変した。俳句事件で負うた戦前の罪名は無くなり、つき纏うていた黒い影も消えた。たまたま入手した缶詰を切っていると、渡り鳥が窓の向こうの海からやってきた。この句、初めて賞めてくれたのが神戸にいた三鬼だった。以来私を『こきこき亭京三』と呼んだりした。(私が東京三の筆名を捨てたのは、それから間もなくだった。)天下晴れて俳句が作れるようになった私たちは、東西に別れて懸命に俳句を作った。敗戦のまだ生なましい風景の中で、私は解放された明るさを噛みしめながら、渡り鳥を見上げ、こきこきこきと缶を切った。」 この句は不死男の筆頭の句にあげる人が多い。次の「へろへろとワンタン」の「へろへろ」のオノマトペ、やはり、飯田龍太が「昭和の俳諧師」と名づけた秋元不死男の雄姿が見えてくる。

0 件のコメント: