日曜日, 7月 02, 2006

宮沢賢治の俳句



宮沢賢治の俳句(その一)

○ 秋田より菊の隠密はい(ひ)り候

石寒太著の『宮沢賢治の俳句』(「PHP研究所」刊)は、この種のものでは最も本格的な最も基本的な著書と位置づけて差し支えなかろう。この句の鑑賞で、著者は、句意として「秋田から、はるばるやってきた菊の隠密が、いま入国つかまつりましたぞ、と、いう意。『はいり』は『はひり』の誤記である」とし、「『菊』と『隠密』の取り合わせは、意外性があって面白い。詩人でなければできない句で、俳人の範囲からみると”遊び過ぎ”ととられても仕方がない」との評をしている(同著「賢治俳句の鑑賞」)。この賢治の句とその評を見ながら、藤沢周平の次の一節が脳裏をかすめた。
「賢治について、私が懐くもっとも手近なイメージは夢想家である。しかしそれはローレンス・ブロックの表現をかりれば”力ずくで伝えたいメッセージ”というわけではない。むしろ、遅疑逡巡しながらのひとりごとである。(中略) 夢想家でなければ、北上川の岸辺をイギリス海岸と名づけ、岩手をイーハトブと呼び、自分たちの農業研究会を羅須地人協会と命名することがあるだろうか。そして夢想家とは少年の別名ではなかろうか」(『ふるさとへ廻る六部は』所収「岩手夢幻紀行」)。
 この賢治の菊の句の背景は、「昭和八年十月、賢治が参与会員であった『秋香会』という菊づくりの会より出品された一本一本の菊の鉢に、これらの俳句をつけて贈ろうという意図にもとづき、企画された、賢治の、菊の挨拶句である」(石・前掲書所収「賢治の俳句の世界」)とのことである。ここで、俳諧・俳句の三要素として、「挨拶・滑稽・即興」とした山本健吉の観点(『純粋俳句』)からすれば、先の「俳人の範囲からみると”遊び過ぎ”」ととらえないで、夢想家・賢治ならでは奇警・奇抜の句として、丁度、大文豪・夏目漱石の俳句に匹敵する大詩人・宮沢賢治の代表作として大いに喧伝したい衝動にかられるのである。

宮沢賢治の俳句(その二)

○ 魚灯(ぎょとう)して霜夜の菊をめぐりけり
○ 斑猫(はんみょう)は二席の菊に眠りけり
○ 緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす旅の菊
○ 水霜(みずしも)もたもちて菊の重さかな
○ 大管(たいかん)の一日ゆたかに旋(めぐり)けり

宮沢賢治の菊に関する連作句は全部で十六句ある(『校本 宮沢賢治全集』)。この菊の連作句ができた経過を見ると大変に面白い。要約すると次のようなことがその背景となっている。「宮沢賢治は石川啄木以上に名の高い人になるだろうと、そのような世評を聞いて、賢治が審査員となっていた『菊花品評会』の副賞の一つに、賢治に俳句を作らせ、それを短冊に揮毫して貰って、受賞者に贈呈しようとしたこと。賢治は『俳句は専門外で、まして、短冊に筆で書くことはできない』旨固辞したが、賢治の母親がたまたまその時におられて、『短冊まで持ってきて依頼されているのだから、お受けしたら』ということで、
その『菊花品評会』の関係者の依頼を引き受けたという。そして、当時は、賢治の晩年の頃で、身体の調子も悪く、寝たり起きたりの状態であったのだが、賢治は一生懸命に、俳句らしきものを、新聞紙に筆で揮毫の練習をしていたとのこと。それらの、短冊形の障子紙に書かれていたものが、これらの菊の十六句のようなのである」(石・前掲書)。いかにも、賢治と賢治を取り巻く人々らしいと、それらの背景を知ると、とたん、これらの賢治の菊の句が親しいものとなってくる。しかし、掲出の句の、「魚灯・斑猫・緑礬・狼星・水霜・
大管」の、この用語は、およそ、俳句の世界というよりも、賢治曼荼羅の、賢治の詩の世界のものといえよう。「魚灯」(脂肪分の多い魚からとった油を用いてのランブ)、「斑猫」(まだらの模様の猫)、「緑礬」(酸化二次鉱物とか)、「狼星」(星のシリウス)、「水霜」(賢治の好きな気象用語)、「大管」(「太管」のことで和菊の管物の名とか)と、こういう句を、副賞として、賢治自筆の短冊が今に残っていたら、どんなに面白いことか。とにもかくにも、賢治の俳句というものは、これらの句の背景となっているようなことが、その背後にあって、いわゆる、俳句として、これを鑑賞しようとすること自体が、はなはだ、賢治にとっては、予想だにしていなかったということだけは間違いない。

宮沢賢治の俳句(その三)

○ 岩と松峠の上はみぞれそら
○ 五輪塔のかなたは大野みぞれせり
○ つゝじこなら温石石のみぞれかな

『宮沢賢治』(石寒太著)によれば、賢治の俳句は次の三つに分類することができる。一番目は大正十三・四年頃のものと、昭和八年に三十八歳で他界するまでの二年間前後の頃のもので、先に見てきた菊の連作作品以外の一般作品。二番目はいわゆる菊の連作作品。そして、三番目がいわゆる連句の付句のような作品である。そして、この掲出の三句は一番目の、全部で十五句ある一般作品に該当し、大正十三年の賢治が二十八歳頃の作品で、俳句作品としては一番初期の頃のものである。というのは、口語詩「五輪峠」が誕生したのが、その年で、その詩稿の余白にメモ(習作)のように、この掲出の三句が記されているとのことである(石・前掲書)。その詩「五輪峠」(『春と修羅(第二集)』作品十六番)の、掲出句に関係するところを抜粋すると次のとおりである。

○ 向ふは岩と松との高み
  その左にはがらんと暗いみぞれのそらがひらいてゐる
○ あゝこゝは
  五輪の塔があるために
  五輪峠といふんだな
  ぼくはまた
  峠がみんなで五つあつて
  地輪峠水輪峠空輪峠といふのだろうと
  たつたいままで思つてゐた
○ いま前に展く暗いものは
  まさしく北上の平野である
  薄墨いろの雲につらなり
  酵母の雲に朧ろにされて
  海と湛える藍と銀との平野である
○ つつじやこならの潅木も
  まっくろな温石いしも
  みんないっしょにまだらになる
 
 この「五輪峠」は賢治の母郷のような遠野市・江刺市にまたがる「種山ヶ原」の峠で、賢治の「風の又三郎」の由来にも関係する賢治の心の奥深く根ざしている象徴的な原風景なのである。と解してくると、掲出の句のイメージが鮮明となってくる。「岩も松も、そして、(五輪)峠の上の空もどんよりとした霙空である。その五輪峠の五輪の塔(卒塔婆)の彼方の北上平野も霙が降っている。そして、躑躅(つつじ)や小楢、温石石(暖をとるために使われる石)すらも全てが霙の中である」というようなイメージなのであるが、口語詩「五輪峠」がスケールの大きい叙事詩的なダイナミックな叙法なのに対して、どうにも、掲出の句に見られる十七音字の世界が窮屈極まりないものと思われてくるのである。これらの掲出の俳句らしきものの三句は、俳句というよりも、叙事詩「五輪峠」の詩稿の覚書き的なメモ(習作)そのものと解した方がよさそうである。

宮沢賢治の俳句(その四)

○ 岩と松峠の上はみぞれそら
○ 五輪塔のかなたは大野みぞれせり
○ つゝじこなら温石石のみぞれかな
○ おもむろに屠者は呪したり雪の風
○ 鮫の黒肉(み)わびしく凍るひなかすぎ
○ 霜光のかげら(ろ)ふ走る月の沢
○ 西東ゆげ這ふ菊の根元かな
○ 鳥屋根を歩く音して明けにけり
● 風の湖乗り切れば落角(おとしづの)の浜
● 鳥の眼にあやしきものや落し角
△ 自炊子の烈火にかけし目刺かな(石原鬼灯の句)
● 目刺焼く宿りや雨の花冷に
● 鷹(原文は異体字)呼ぶやはるかに秋の涛猛り
● 蟇ひたすら月に迫りけり(村上鬼城の「蟇一驀月に迫りけり」の本句取りの句)
● ごみごみと降る雪ぞらの暖さ

上記の十五句が『校本 宮沢賢治全集(第六巻)』所収の賢治の一般作品句の全てで、そのうち、△印のものは「国民新聞」(明治四十三年四月十六日付け松根東洋城選)に掲載された「雲母」系の俳人の石原鬼灯の句と判明され、賢治の句からは除外されたものという(石・前掲書)。そして、●印は「賢治の作品か否かまだ確定的には決定していない」という(石・前掲書)。また、先に見てきたように、ほぼ賢治の作品とされている○印のものも、賢治の詩稿の余白のメモ(習作)のようなものであって、「賢治にもこの種のものがあるのか」程度の理解で差し支えないのかも知れない。それと同時に、詩人・宮沢賢治は、この△印の句などを毛筆で習字の手習いの素材としていたということであり(石・前掲書)、やはり当時の「国民新聞」の俳句欄などには目を通していて、多いに俳句という世界に関心を持っていたということ知ればこと足りるのかも知れない。さらに、「蟇ひたすら月に迫りけり」は村上鬼城の本句取りの句であって、この種のものとして、従前、賢治の句とされていた「大石の二つに割れて冬ざるゝ」は、村上鬼城の「大石や二つに割れて冬ざるゝ」の一字違いのもので、賢治の本句取りの句というよりも、村上鬼城そのものの作ということで除外されたという(石・前掲書)。これらのことからして、宮沢賢治が、高浜虚子に見出され、境涯俳人として脚光を浴びていた村上鬼城の俳句などに多くの関心を持っていたということを知るだけで十分なのかも知れない。その上で、上記の十五句を見ていくと、詩人・宮沢賢治の好みというものが判然としてくる。「霙・温石石・屠者・鮫・霜光・西東・鳥・落し角・目刺・はい鷹・蟇・雪ぞら」など、賢治の詩の特徴の一つの「心象スケッチ」の詩稿ともいうべきものの原初的なスタイルを、これらのメモ(習作)に見る思いがするのである。

宮沢賢治の俳句(その五)

○緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす首座の菊(十字屋書店・全集)
◎緑礬(りょくはん)をさらにまゐらす旅の菊(筑摩書房・校本全集)
○斑猫(はんみょう)は二客の菊に眠りけり(十字屋書店・全集)
◎斑猫(はんみょう)は二席の菊に眠りけり(筑摩書房・校本全集)
○魚灯(ぎょとう)してかほる霜夜をめぐりけり(十字屋書店・全集)
◎魚灯(ぎょとう)して霜夜の菊をめぐりけり(筑摩書房・校本全集)
○魚灯(ぎょとう)して小菊の鉢をならべけり(十字屋書店・全集)
◎魚灯(ぎょとう)してあしたの菊を陳べけり(筑摩書房・校本全集)
○徐ろに他国の菊もかほりけり(十字屋書店・全集)
◎夜となりて他国の菊もかほりけり(筑摩書房・校本全集)
○たうたうとかげろふ涵(ひた)す菊屋形(十字屋書店・全集)
◎たうたうとかげろふ涵(ひた)す菊の丈(筑摩書房・校本全集)
□狼星(ろうせい)をうかゞふ菊の夜更かな(両方の全集に収載)
□灯に立ちて夏葉の菊のすさまじさ(同上)
□たそがれてなまめく菊のけはひかな(同上)
□その菊を探りて旅へ罷るなり(同上)
□秋田より菊の隠密はいり候(同上)
□花はみな四方に贈りて菊日和(同上)
□水霜をたもちて菊の重さかな(同上)
△菊株の湯気を漂ふ羽虫かな(筑摩書房・校本全集)
△狼星(ろうせい)をうかゞふ菊のあるじかな(同上)
△大管の一日ゆたかに旋りけり(同上)
●集まればなまめく菊のけはひかな(十字屋書店・全集)
●霜ふらで屋形の菊も明けにけり(同上)
●霜ふらで昴と菊と夜半を経ぬ(同上)
●水霜のかげろふとなる今朝の菊(同上)
●客去りて湯気だつ菊の根もとかな(同上)
●菊を案じ星にみとるる霜夜かな(同上)
●水霜や切口かほる菊ばたけ(同上)

宮沢賢治の俳句のうち第二分類の菊の連作句の全てである。これらの菊の連作句は昭和八年十月の花巻で開かれた菊品評会の副賞として授与するために、賢治が病床の身にありながら、その一年前あたりからノートなどにメモされていたものの全てで、現在、賢治の菊の連作句としているものは、『校本 宮沢賢治全集』(筑摩書房刊・昭和四八~五二)に収載されている十六句(◎・□・△印)である。そして、これらの作品を推敲する過程において、賢治自身が最終的には推敲して最終稿とした句が六句(◎印)、そして最終の推敲の過程において削除したものと思われる句が七句(●印)で、これらは『宮沢賢治全集』(十字屋書店刊・昭和一四~一九)に収載されている。賢治はこれらの菊の連作句のいくつかの句を菊品評会の副賞として、短冊にしたため、それがその時の入賞者に手渡された年(昭和八年)の、その一ヶ月後の九月に永眠する。そういう意味において、これらの菊の連作句は、宮沢賢治の絶句ともいうべきものであろう。そして、これらの菊の連作句の推敲過程をつぶさに見ていくと、凄まじい賢治の創作にかかわる推敲姿勢ということを思い知るのである。

宮沢賢治の俳句(その六)

○ おのおのに弦をはじきて賀やすらん   清
   風の太郎が北となるころ       圭
  一姫ははや客分の餅買ひに       清
   電車が渡る橋も灯れり        圭
  ほんもののセロと電車がおもちやにて  圭 

宮沢賢治の俳句のうち第三分類に入る連句・付句の三組みのうちの一つである。これはいわゆる連句の歌仙(三十六句からなる連句、表・六句、裏・十二句、名残の表・十二句、名残の裏・六句)のうちの表・六句のものと解せられる。この表六句は藤原嘉藤治氏宛書簡(昭和五年十二月一日)に記載されているもので、賢治、三十四歳の作ということになる。この藤原嘉藤治氏は『宮沢賢治全集』(十字屋書店)などで高村光太郎らと一緒に編集委員の一人となっている方である。賢治は大正十年(二十五歳)~昭和元年(三十歳)まで花巻農学校で教鞭をとるが、その頃、隣接して花巻高等女学校で音楽の教鞭をとっておられた方が藤原嘉藤治氏である(賢治の代表作の「永訣の朝」の妹の方もこの学校に奉職していた)。賢治もオルガンやセロを本格的に習っていて、いろいろと藤原嘉藤治氏との交遊関係は密なるものがあったのであろう。この表・六句の作者名の、「清」は賢治の弟の清六氏のそれと解されるが、本人は自分の作ではなく、賢治が「清」と「圭」との両方の名を使っての、いわゆる両吟(二人でする連句)の形での、実質的には賢治の独吟(一人でする連句)であろうということである(石・前掲書)。この六句の冒頭の発句には、「季語・切字」が必須なのであるが、賢治は第一分類の一般的な俳句作品でもそうなのだが、季語は全く無視して作句しているのが特徴である。ただ、この表の六句は、「藤原御曹子満一歳の賀に」という前書きがあり、贈答連句としては、相当に手慣れたものという印象を受ける。二番目の脇句は賢治の童話の傑作「風の又三郎」を連想させ、六句目(折端)はこれまた「セロ弾きのゴーシュ」を連想させる。いずれにしろ、正岡子規の俳句革新以来、連句は片隅に追いやられ、俳句オンリーとなっていた当時において、賢治が連句に興味を持っていて、その連句のうちの代表的な歌仙の、表の六句を、実質独吟のものを、あたかも、二人でする両吟の形で、「藤原御曹司満一歳の賀に」の前書きを付与して、今に残されているということは、実に特筆されるべきことであろう。それだけではなく、作品の内容からして、賢治の「連句・俳句」の作品のなかでも、この表・六句は一番見応えがある作品のように解せられる。


宮沢賢治の俳句(その七)

○ 大根のひくには惜しきしげりかな
    稲上げ馬にあきつ飛びつゝ
 或ハ 痩せ土ながら根も四尺あり     圭

○ 膝ついたそがれダリヤや菊盛り
    雪早池峰(ゆきはやちね)に二度降りて消え
 或ハ 町の方にて楽隊の音

○ 湯あがりの肌や羽山に初紅葉
    滝のこなたに邪魔な堂あり
 或ハ 水禽園の鳥ひとしきり

宮沢賢治の俳句のうち第三分類に入いる連句・付句の三組のうちの二つ目のものである。これらのものについては、佐藤二岳氏宛書簡(昭和三年十月三十日)の中に記載されている。
この佐藤二岳氏は俳人で本名は隆房氏で、これは、いわゆる、文音(手紙などでやりとりする)連句の長句(五七五の句形)と短句(七七の句形)との応答のものと思われる。そして、一番目の短句に「圭」とあるのは、宮沢賢治の号で、このことからすると、これらの長句の作者は佐藤二岳氏で、その二岳氏の長句に、二通りの短句の付句を宮沢賢治がしたためたもののように思える。この長句と短句との付合は、普通は長句の季語に合わせて同じ季の季語を用いるのが普通なのであるが、これまた、宮沢賢治はそういう決まり(式目)には拘泥していない。そして、どの付句(短句)も、前句(長句)の景を的確にとらえていて、どちらかというと疎句(離れ過ぎの句)というよりも親句(付き過ぎの句)的な付け方である。とくに、この掲出の三番目の「滝のこなたに邪魔な堂あり」は、前句の「初紅葉を観賞するのに邪魔な堂あり」と、滑稽味のある面白い付けである。なにはともあれ、「連句非文学論」(正岡子規の主張)の風潮の中にあって、東北の一隅にいて、こういう文音連句に、宮沢賢治が興じていたということは驚きであるとともに、宮沢賢治を取り巻く二・三の俳友・先輩がおられて、詩や童話の創作の傍ら、セロやオルガンにも興を示すとともに、俳句や連句などにも貪欲に取組み、その指導を仰いでいたということが、賢治の短い生涯にあって、一つの光明を投げ掛けているように思われる。

宮沢賢治の俳句(その八)

○  神の丼は流石に涸れぬ旱(ひでり)かな   無価
     垣めぐりくる水引きの笠       賢治
○  広告の風船玉や雲の峰          無価
     凶作沙汰も汗と流るゝ        賢治
○  あせる程負ける将棋や明易き       無価
     浜のトラックひた過ぐる音      賢治
○  橋下りて川原歩くや夏の月        無価
     遁 げたる鹿のいづちあるらん     賢治
○  飲むからに酒旨くなき暑さかな      無価
       予報は外(そ)れし雲のつばくら     賢治
○  忘れずよ二十八日虎が雨         無価
    その張りはなきこの里の湯女      賢治
○  三味線の皮に狂ひや五月雨        無価
     名入りの団扇はや出きて来る     賢治
○  夏まつり男女の浴衣かな        無価
     訓練主事は三の笛吹く       賢治
○  どゞ一 を芸者に書かす団扇かな    無価
     古びし池に河鹿なきつゝ      賢治
○  引き過ぎや遊女が部屋に入る蛍     無価
     繭の高値も焼石に水        賢治

宮沢賢治の俳句の第三分類に入る連句・付句の作品のうちの最も本格的なものである。二句の付合で、俳人の大橋無価氏の長句に宮沢賢治が短句の付句をしたものである。大橋無価氏は賢治の父親とも親交のあった医師で、岩手県医師会長、そして、花巻町長を一期勤めた花巻人物誌に残る傑物である。これらの両者の付合の作品は、「東北砕石工場花巻出張所用箋」に書かれているもので、この東北砕石工場には賢治が三十五歳の時に技師として勤めたところで、その頃(昭和六年)のものなのであろう。賢治のこれらの付句は、無価氏の長句の季語の季に合わせて、同じ季の季語を使ってのものも見受けられるが、総じて、季語には拘らないという姿勢は、これらの付句においてもいえる。しかし、俳人として地方の名士でもあった無価氏の長句に、実に手慣れた付句で、こういう付合の記録が残されているということは、相当、両者の間にはこうしたやりとりがあったのであろうと推測される。それにしても、世故に通じている無価氏の「芸者・遊女」などの句に、どう見ても世故には長けていないと思われる賢治が堂々と渡り合っているのは何とも妙であるし、また、賢治の別な一面を垣間見る思いすらするのである。それは、「侘び・寂び」の俳聖・芭蕉が、こと連句の付合においては、「恋句」の名手であったようなことと軌を一にするものなのかもしれない。


宮沢賢治の俳句(その九)

○ ごたごたや女角力の旅帰り
 稲熟れ初めし日高野のひる

宮沢賢治には十四の手帳が今に残されている。この長句と短句との付合は「兄弟像手帳」に記されており、「車中にて」の前書きが付与してある。何時頃の作か定かではないが、賢治がある時の車中での一時を、このような連句の付合をメモしながら旅をしていたということは興味がそそられるところである。賢治が亡くなったのは昭和八年(一九八三三)のことであるが、昭和十六年の頃(「俳句研究第八巻第八号(昭和十六年八月)東北車中三吟」)の、柳叟(柳田国男)・迢空(折口信夫)・善麿(土岐善麿)の三吟による「赤頭巾の歌仙」と題する歌仙がある。柳田国男は民族学者・俳諧研究家、折口信夫は民族学者・歌人、そして、土岐善麿は歌人として、今なお、三人とも教祖とも崇められている超一流の日本を代表する国文学者としての共通項を有している。この三人による歌仙にも、賢治のこの付合と似たような場面が出てくる。

オ 発句   麦踏むや一人かぶらぬ赤頭巾     善麿
  脇     こだまをかへす山咲(ワラ)ふ也    迢空
  第三   宗任の田打ち桜と見つれども     柳叟
ナオ五    この潟を埋めてしまふ秋風に     善麿
  六     更地を買へば相撲うるさき     迢空

 詩人・宮沢賢治とこれらの超一流の国文学者(柳叟・迢空・善麿)との関係というのはそれほど密なるものがあったということは寡聞にして知らないが、当時の車中などにおいては、
外の景色などを見ながら、こういう歌仙などに興じられるような豊かな時間を持つことができたということは、容易に想像ができるところである。と同時に、当時の車中においては、「稲熟れ初めし」光景や、「麦踏む」光景などを常に目にしていて、更には、「角力・女角力」などの巡業などが大きな娯楽であったということもこれらの付合や歌仙から容易に類推することもできよう。そして、詩人で童話作家として、今にその名を轟かしている宮沢賢治が、このような当時の風物詩をリアルにこのような付合の形で今に残していてくれているということは、大詩人・童話作家の宮沢賢治ではなく、日常の個人としての賢治その人のありのままを見る思いがして、その点で、賢治のこれらの付合や俳句に非常な親近感を覚えるのである。



宮沢賢治の俳句(その十)

○ 灯に立ちて夏葉の菊のすさまじさ    風耿 

この掲出句は宮沢賢治の第二分類の菊の連作句のうちの一句である。この句の賢治の自筆の短冊が『宮沢賢治の俳句』(石寒太著)などで目にすることができる。「菊」といえば秋の代表的な季語であるが、賢治は何時ものことながら、季語には無頓着(無頓着というよりも季語に拘泥することを嫌っているようにもとれる)で、「夏葉の菊」と夏の句として作句している。賢治は短歌からスタートとして、「詩・童話」の世界に入り、数々の独自の世界を築いていった。そして、三十八年という短い生涯の最期にあっても、辞世の次の二首の短歌を残して永別した。

○ 方十里稗貫のみかも/稲熟れてみ祭三日/そらはれわたる
○ 病(いたつき)のゆゑにもくちん/いのちなり/みのりに棄てば/うれしからまし

 この賢治の短歌の世界に比して、賢治の俳句の世界というのは、量・質的に比べようもなく、賢治にとってはほんの手遊びの程度のものであったが、冒頭の掲出句に見られる通りに、俳句の号として「風耿(ふうこう)」を用いており、連句の付合においては先に触れた通りに、「圭」というものを用いていて、決して無関心であったわけではない。そして、賢治の俳句・連句との交友関係として、鎌田一相・河本義行(自由律俳句)・大橋無価・草刈兵衛の各氏などが上げられ(石・前掲書)、これまでの作品でも見てきた通りに、賢治自身、この俳句・連句の世界というものを、一つの詩稿のヒントを得るためのメモとして、あるいは、日常生活の一断面を即興的にこれらの句形に託するという形において、やはり、その生涯において、それに慣れ親しんでいたということはいえそうである。そして、特筆しておきたいことは、単に、俳句だけではなく、連句の付合などに興味を示し、その面での作品が今に残され、それらの作品は数こそ少ないが、賢治の一面を知る上で貴重なものであり、この意味において、これらの賢治の「俳句・連句・付句」の再評価というのは、これからもっとなされて然るべきものと思われるのである。

○ 引き過ぎや遊女が部屋に入る蛍  無価
   繭の高値も焼け石に水     賢治

 無価氏の長句(五七五の句)は「引け過ぎ」(遊女が張り店から引き揚げること)の句。その前句に付けての賢治の短句(七七の句)は「繭の高値も焼け石に水」(繭が高く売れたのにそれも焼け石に水だった)というのである。この句を作句している賢治のことを想うと何故かほのぼのとしてくるのである。

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