火曜日, 9月 19, 2006

回想の蕪村(二十七~四十)



回想の蕪村

(二十七)

 ここで、蕪村の代表的な「歳旦帖」・「春興帖」とこの安永六年(一七七七)の「春興帖」・『夜半楽』とを対比して見ていくこととする。まず、蕪村の初歳旦帖『寛保四年宇都宮歳旦帖』との関連を見てみたい。

『寛保四年宇都宮歳旦帖』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○仮綴本一冊。表題に「寛保四甲子歳旦歳暮吟」とある。寛保四年、蕪村二十九歳の春、野州宇都宮の佐藤露鳩一派と提携して編んだ歳旦帖。蕪村自身の撰集としては最初のものであり、板下も蕪村であろう。集中に旧号「宰鳥」と共に、蕪村の号が初めて使用されている点に注目すべきであろう。

 この「集中に旧号『宰鳥』と共に、蕪村の号が初めて使用されている点に注目すべきであろう」の、蕪村の号を初めて使用した、この歳旦帖の巻軸の句は次のとおりである。

○ 古庭に鶯啼きぬ日もすがら

 この鶯の句に対応するように、蕪村、六十二歳の『夜半楽』には、「老鶯児」とわざわざ題を起こして、次の一句をまさに巻軸の句(最も中核となる句)として配置しているのである。

○ 春もやゝあなうぐひすよむかし声

 蕪村が、「歳旦帖」・「春興帖」を編むときに、若き日の、蕪村、二十九歳の春に編んだ、
初歳旦帖『寛保四年宇都宮歳旦帖』が常に脳裏にあったことは想像に難くない。さらに、その初歳旦帖の表題には、「渓霜蕪村輯」の初使用の号の「蕪村」の編集であることを明記しているが、『夜半樂』の奥付けにも、「門人 宰鳥校」とあり、この「宰鳥」は、宇都宮歳旦帖を編んだ頃の号で、江戸に出てきた頃の号の「宰町」の次の号であり、蕪村はしばしば、前号などを併記するという傾向が見られることも注目すべであろう。

(二十八)

 明和七年(一七七〇)三月、蕪村、五十七歳のとき、夜半亭一世の跡を継いで、夜半亭二世を襲名する。六月から九月まで三菓社句会を開き、十月に、夜半亭社中句会に改める。翌、明和八年春に、夜半亭歳旦帖『明和辛卯春』を刊行する。

『明和辛卯春』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○横本一冊。明和七年三月、亡師巴人の夜半亭を襲号した蕪村が翌八年春に編んだ春興帖で、板下も蕪村自筆。前年の襲号の披露を兼ね、夜半亭一門の実力を広く世に示そうとした上梓したもの。版元は京都橘仙堂。蕪村・召波・子曳の三つ物に始まり、一派の歌仙二巻、および諸家の旦暮吟を収める。蕪村門としては、召波・子曳・几董・馬南(大魯)・鉄僧・晋才・鳥西・自笑・雨遠・斗文・呑獅・田福らのほかに、貝錦・徳羽らの福原社中、鷺喬・鶴英らの伏水社中が名を列ねている。また歌仙には、一門にまじり、大祗や竹護(嵐山)が加わっていることも注目を引く。そのほか、存義・買明・楼川・百万・田女らの旧知の江戸俳人も句を寄せ、さらに浪花の銀獅・鯉長、江戸の梅幸・雷子・慶子らの俳優連が華やかな彩りを添えている点も蕪村らしい。

 この『明和辛卯春』は、蕪村の「歳旦帖」・「春興帖」のうちで質・量的に最も充実したものであろう。『宇都宮歳旦帖』と同じく、「歳旦三つ物」で始まり、「歳旦」・「歳暮」・「春興」等の句のほかに、子曳・蕪村・大祗・几董・馬南(大魯)による歌仙と蕪村・田福・斗文・自笑・大祗・鳥西・鉄僧・羅雲・貫山の歌仙の二巻を収載している。これらの当時の夜半亭一門の俳人の中で、後の『夜半楽』には、大祗・召波は既に亡くなって、その名は見られない。蕪村は、この『明和辛卯春』では、歌仙・三つ物では「蕪村」の号で、俳句(地発句)には「夜半亭」の号と、ここでも二つの号を使いわけしている。ここでも、蕪村の鶯の句が登場してくる。

○ 鶯を雀歟(か)と見しそれも春     (春興)
○ 鶯の粗相(そそう)がましき初音かな  (春興追加)

(二十九)

 安永三年(一七七四)、蕪村、五十九歳のとき、その六月に、宋阿三十三回忌追善法要を営み、追善集『むかしを今』を編纂・刊行した。そこで、「されば今我門にしめすところは、阿叟(あそう)の磊落なる語勢にならはず、もはら蕉翁のさび・しほ(を)りしたひ」(だから今、私が門下に教え示すのは、師の宋阿の大らかな語調を模範とせず、もっぱら芭蕉の侘び・撓(しほ)りを慕い)と記している。そして、この「蕉翁のさび・しほ(を)りしたひ」は、その三年後の『夜半楽』においては、「蕉門のさびしほりは 春興ノ席ヲ避クベシ」と、再び「阿叟(あそう)の磊落なる語勢」と自由闊達さへと転換している。この背後には、明和八年(一七七一)に相次いで没した、大祗・召波への思い入れやその悲しみにともすると埋没しそうな境地からの転換なども見え隠れしている。

『安永三年春帖』解題(雲英末雄稿・抜粋)
○小本一冊。蕪村編。安永甲午(三年)春。橘仙堂版。後補表紙があるが、題簽や墨書による書名はない。内題に「安永甲午歳旦」とあり、安永三年の歳旦三つ物を巻頭におく蕪村の春興帖である。板下も蕪村の自筆。(中略) 蕪村自身も巻頭の歳旦三つ物の他、宰町・蕪村両号を用いて発句六句を入集している。また、自笑・我則・月渓らの門下の人々の発句に合わせて蕪村が俳画を十六点描いており、蕪村の俳画資料として、質的な面でも、量的な面でもきわめて重要なものである。

 この『安永三年春帖』には、蕪村の鶯の句は見られないが、この巻末に下記の蕪村の句が三句続き、その末尾を飾っている句は、鶯を含めての鳥の句と解して差し支えなかろう。

○ 日は日くれよ夜は夜あけよと啼(なく)蛙
○ つゝじ野やあらぬところに麦畠
○ 鳥飢(うゑ)て花踏(ふみ)こぼす山ざくら

(三十)

 安永三年(一七七四)に次いで、安永四年の『安永四年春帖』も今に残されている。

『安永三年春帖』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○小本一冊。蕪村編。橘仙堂版。表紙に仮題「安永俳句集」と墨書するが、内題に「安永乙未歳旦」とあり、安永四年の蕪村の春興帖である。板下も蕪村自筆。蕪村の俳画を豊富に収録した『安永三年春帖』に比較すると、挿絵はわずか一点で物足りないが、内容的には紙数も出句者もふえて、さらに充実したものになっている。但馬出石社中、入佐麓社中、淀社中など、各地に蕪村社中が形成され、これに几董の春夜楼社中、大魯の芦陰舎社中らが加わり、賑やかな顔ぶれである。歳旦三つ物に始まり、一門社友の旦暮吟の春興句を集め、巻末に一門の歌仙一巻を収める。集中には旧知の江戸俳人のほか、大雅堂の作が見え、また二柳・旧国・蓼太・樗良・暁台ら中興諸名家も句を寄せ、巻軸には蕪村の春興十一句を列記してあるのも注目に値する。

 この『安永三年春帖』に句を寄せていた大雅堂(池大雅)は、翌安永五年に没する。なお、巻軸の蕪村の春興十一句は次のとおりである。その中には鶯の句も見られる。

○ 梅折(をり)て皺手にかこつかほ(を)り哉
○ 鳥さしを尻目に藪の梅咲(さき)ぬ
○ 紅梅や比丘より劣る比丘尼寺
○ 陽炎や名もしらぬ虫の白き飛(とぶ)
○ 留守守(もり)て鶯遠く聞(きく)日かな
○ 捨(すて)やらで柳さしけり雨のひま
○ ぬなわ(は)生ふ池のみかさや春の雨
○ 春月や印金堂の木の間より
○ 雉子打(うち)てもどる家路の日は高し
○ 木瓜の陰に皃(かほ)類(たぐ)ひ住(すむ)きゞす哉
○ 帆虱のふどしに流さむ春の海(註・長文の前書き省略)

(三十一)

 さて、安永六年(一七七七)の春興帖『夜半楽』について二つの解題を示しておきたい。

『夜半楽』解題(丸山一彦稿・抜粋)
○俳諧撰集。半紙本一冊。蕪村編の春興帖。京都、橘仙堂。書名は蕪村が継承した夜半亭による。奥付には安永六年正月とあり、蕪村が夜半亭宋阿の門にあったときの旧号を用い「宰鳥」と記している。新年早々の発刊を企画したようだが、実際の刊行は安永六年二月下旬になってのことであったらしい。半葉九行割の罫引料紙使用。板下は蕪村自筆。まず、前書き付きの蕪村発句「歳旦をしたり皃(かほ)なる俳諧師」による正月初会の一順歌仙一巻を掲げ、次に、道立・維駒・月居・月渓・百池・大魯・几董ら、蕪村門の高足による春興雑題四十三句を収めている。さらに蕪村作の「春風馬堤曲」十八章、「澱河歌」三章、「老鶯児」一章(句)の三部作がある。高雅洒脱な体裁、蕪村門のみによるという統一感、蕪村作の特異な新体の詩篇を収めていることなどが特色である。

 この『夜半楽』は大別すると、「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)」と「春風馬堤曲(十八首)・澱河歌(三首)・老鶯児(一首)」の二部構成から成っている。歳旦帖・春興帖的には、「歌仙(一巻)・春興雑題(四十三首)・老鶯児(一首)」の構成で、「春風馬堤曲(十八首)・澱河歌(三首))という特異な新体の詩篇が、次の「老鶯児」の前書き的な序章的な構成との理解もできよう。そういう意味で、この解題にあるとおり、「春風馬堤曲」十八章、「澱河歌」三章そして「老鶯児」一章(句)は三部作の構成と理解すべきなのであろう。

(三十二)

「夜半楽」の三部作について(清水孝之稿)
○安永六年(一七七七)蕪村六十二歳の春興帖として橘仙堂から刊行された『夜半楽』は、編集も板下も蕪村一人の手に成った小冊子(半紙本一冊)である。標題は河東節(かとうぶし)の正本『夜半楽』(享保十年刊)から由来したものと思われる。目録に「歌仙一巻・春興雑題四十三首(社中の発句)・春風馬堤ノ曲十八首・澱河ノ歌三首・老鶯児一首」とあり、『夜半楽』のすべてである。「安永丁酉初会」の巻頭歌仙の序は、和漢句四行を並べ、「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質にならはんとて」と宣言し、三部作最後に「老鶯児」と題した「春もやゝあなうぐひすよむかし声」という懐旧句を置き「門人宰鳥校」と署名した。「宰町」に続く若き日の蕪村の旧号である。青春回想のロマンチシズムから、故園への郷愁の俳詩「春風馬堤ノ曲」と「澱河ノ歌」が成ったもののようだ。前年の暮一人娘を結婚させ作者は、その安心感と空虚感とから「容姿嬋娟(せんけん)。痴情可憐」き藪入り娘を造型したものに違いない。「浪花を出(いで)てより親里迄の道行(みちゆき)にて、…… 実は愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出たる実情にて候」(二月廿三日付書簡)と自ら制作の動機を解説した。彼は日本の詩人としての誇りを持って和漢諸体の詩形をないまぜ、親友の大祗の発句まで活用するという離れ業をみせて、空前絶後の連作叙事詩を創作し、またその郷愁を一篇の詩情に託した。それらは決して漢詩の模倣や追随ではなく、海彼(かいひ)国の影響を超えた、見事な日本文学史上の達成であった。

 この解題の、「標題は河東節(かとうぶし)の正本『夜半楽』(享保十年刊)から由来したものと思われる」という指摘は、この『夜半楽』の序文の「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」ということとも符合し、また、当時の浄瑠璃(江戸浄瑠璃の「河東節」など)の隆盛などから見て、これだけが全てではないとしても、おそらく、蕪村の脳裏にあったことは、これまた想像に難くない。なお、浄瑠璃一般及び河東節については、次のアドレスに紹介されている。

浄瑠璃一般

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%84%E7%91%A0%E7%92%83

河東節

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E6%9D%B1%E7%AF%80


(三十三)

 古来、蕪村の『夜半楽』について、その契機となっている由来などについて、さまざまな解が試みられているが、この『夜半楽』が、その序文(「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」)並びに蕪村前の旧号「宰鳥」をその奥付けに記載していることは、かっての関東出遊時代の若き日を回想をして、この安永六年(一七七七)の春興帖を編んだことだけは間違いない。そして、この関東出遊時代に、それまでの宰町の号を宰鳥の号に改号し、その宰鳥名の発句と参加した歌仙二巻が収載されているものが、蕪村の師の宋阿(早野巴人)が、元文四年(一七三九)に、其角(宝永四年二月二十九日没)並びに嵐雪(宝永四年十月十三日没)両師の三十三回忌にあたり手向けた追善集『俳諧 桃桜(上・下)』である。この『俳諧 桃桜』については、「若き日の蕪村」ということで、先に、触れたところである。
 ここで、その『俳諧 桃桜』に収載されている宰鳥名の発句と参加した歌仙二巻の関連するところを抜粋してみると次のとおりである。

(発句) 
摺鉢のみそみめぐりや寺の霜

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_06.html

元文四年(一七三九) 二十四歳
○この年刊行の巴人の『夜半亭歳旦帖』に次の句が入集されている。
   不二を見て通る人あり年の市
○十一月、宋阿編、其角・嵐雪三十三回忌追善集『桃桜』(下巻の版下は宰鳥という)に次の発句が見える。
   摺鉢のみそみめぐりや寺の霜
「宰鳥」号の初見。また、宋阿興行の歌仙に、宋阿・雪尾・少我らと、更に百太興行の歌仙にも、宋阿。百太・故一・訥子らと一座する。

(歌仙・「染る間の」巻)

発句 染(そむ)る間の椿はおそし霜時雨         雪雄
脇    汐引〈く〉形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)  宰鳥
第三 稽古矢の十三歳をかしらにて            宋阿 

 元文四年(一七七五)に巻かれた歌仙「染る間の」の発句・脇・第三の抜粋である。この脇句の作者、宰鳥は、宰町こと蕪村の別号である。宰町を宰鳥と改号したのか、それとも、宰町と宰鳥とを併用していたのかどうかは定かではないが、この元文四年以降になると、宰鳥の号が使われ出してくる。この歌仙には、「宋阿興行」という前書きがあり、宋阿が中心になって、その捌きなどをやられたことは明らかなところである。「客、発句、亭主、脇」で、興行の亭主格の宋阿が、脇句を詠むのが、俳諧(連句)興行の定石であるが、その脇句を、若干、二十三歳の、蕪村こと宰鳥が担当しているということは、名実ともに、師の宋阿に代わるだけの力量を有していたということであろう。この歌仙は、宋阿編の「俳諧桃桜」の右巻(下巻)に収録されており、こと、俳諧(連句)の連衆の一人として、蕪村(宰鳥)が登場する初出にあたるものである。この雪雄の発句は、「芭蕉七回忌」との前書きのある、嵐雪の「霜時雨それも昔や坐興庵」を踏まえてのものであろう。坐興庵とは、嵐雪が芭蕉門に入門した頃の、芭蕉の桃青時代の庵号でもあった。それらを踏まえて、其角・嵐雪の三十三回忌の追悼句集「俳諧桃桜」の右巻(嵐雪追悼編)の歌仙の一つの、雪尾の発句なのである。その発句に対して、若き日の蕪村(宰鳥)は、「汐引(く)形(ナ)リに芦は枯臥(かれふす)」と、蕪村開眼の一句の「柳散清涸石処々(ヤナギチリ シミズカレ イシトコロドコロ)」に通ずる脇句を付ける。そして、夜半亭一門の主宰者・宋阿が、蕪村の荒涼たる叙景句を、「稽古矢の十三歳をかしらにて」と、元服前後の稽古矢に励んでいる人事句をもって、応えているのである。こういう歌仙の応酬の中に、当時の若き日の蕪村の姿というのが彷彿としてくるのである。

http://yahantei.blogspot.com/2006/06/blog-post_114941283079793798.html

(歌仙「枯てだに」の巻) 省略

(三十四)

 蕪村の『夜半楽』は、蕪村が二十四歳の頃の宰鳥時代の『俳諧 桃桜』(宋阿撰集)とも深いつながりがあると思われるのだが、これらのことに関して、「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿『蕪村全集七』所収「月報五」)を以下分節してその全文を紹介しておきたい。

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その一

○かって夏の季語「河骨(こうほね)」の例句を探していて、嵐雪に、「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」(『玄峰集』)という句があることに気がついた。一句は、宝永四年(一七〇七)、その春に没した其角を悼んだもので、『類柑子』所収の「追悼乃句聯」に初出。この句に接した時、蕪村が安永六年(一七七七)の春興帖に『夜半楽』と名付けるにあたって、この句がヒントになったのではないかと、ふと思った。はたしてそれは思い付きに過ぎないのであろうか。蕪村の『夜半楽』という書名について、尾形仂氏は「夜半が夜半亭を意味していることはいうまでもない」とした上で、「春風馬堤曲」「澱河歌」など、本来楽曲であった中国の楽府題詩に擬した作品を含むことから、「春をことほぐ夜半亭の楽曲の意」とし、さらに「ひそかなる夜半の楽しみといった意味」をこめたものと、その意味を明からにしておられる(『蕪村の世界』)。『夜半楽』の内容に即した解釈として、まことに懇切な解といってよかろう。だが、蕪村は「夜半楽」ということばを何から得たのかという問題になると、まだ検討の余地が残っているように思われるのである。

 この嵐雪の「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」の句が、嵐雪の其角追悼句とするならば、先に紹介した、其角・嵐雪三十三回忌追善集『俳諧 桃桜』と深いかかわりのあるの一句ということになる。そして、その『俳諧 桃桜』こそ、 蕪村が宰鳥時代に、師の宋阿に同行して、其角・嵐雪に連なる各地(結城・高崎・松井田・下館・関宿など)の夜半亭宋阿一門の俳人たちと歌仙興行をした記念すべき撰集であった(その下巻は宰鳥の板下といわれている)。当然、其角・嵐雪三十三回忌追善集を編むため、その撰集者の夜半亭一世の宋阿とその助手役のような宰鳥こと蕪村は、この嵐雪の句を熟知していたことであろう。蕪村が宰鳥の名で、この『俳諧 桃桜』に収めている発句の、「摺鉢のみそみめぐりや寺の霜」の句の「みそみ」(三十三)が、其角・嵐雪の三十三回忌を意識してのものであることは言をまたない。そして、この句こそ、現に残されている「宰鳥」の号での初出の作なのである。そして、繰り返すことになるが、『夜半楽』の奥付けには、蕪村は、「門人 宰鳥校」と記しているのである。これらのことからして、『夜半楽』の書名の由来の一つとして、嵐雪の其角追悼の句の、「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」があったのではないかということについては賛意を表したい。

(三十五)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その二

○ところで、「夜半楽」ということばは、蕪村以前から存在した。清水孝之氏は『夜半楽』の書名の由来として、享保十年(一七二五)に刊行された同名の河東節正本集の存在を挙げておられるが(新潮日本古典集成『与謝蕪村集』など)、地歌にも「夜半楽」という曲があり、その曲名は上方歌の伝本曲一覧『歌系図』(天明二年刊)にも記されている。さらに古くは雅楽の曲名として知られた。その名は謡曲の詞章にも『天鼓』『梅枝(うめがえ)』などに見えていて、たとえその楽の音を実際に聞いたことはなかったにしても、近世の知識人にとって耳遠いことばではなかったと思われる。嵐雪の「川骨や」の句もまた、謡曲『経政』の「手向けの琵琶を調ぶれば、時しも頃は夜半楽」の一曲によったものとみてよく、一句の意は、夜中、旧友の死を悼み夜半楽の曲を奏ででいると、撥音もしめりがち、萼片が花弁を包み込むようにヒッソリと咲いている河骨の花の姿も、その撥音に応じてまるで悲しみに凋んでいるように見える、といったところであろうか。

 この嵐雪の「『川骨や』の句もまた、謡曲『経政』の『手向けの琵琶を調ぶれば、時しも頃は夜半楽』の一曲によったものとみてよく」の指摘を、「蕪村の『夜半楽』もまた、謡曲『経政』の『手向けの琵琶を調ぶれば、時しも頃は夜半楽』の一曲によったものとみてよく」と、そっくり置き換えても差し支えないような雰囲気である。嵐雪が旧友・其角を失ったように、蕪村にとっても、この『夜半楽』を起草する当時にあっては、俳諧の無二の旧友、大祗・召波、そして、絵画のよきライバルであった大雅までも失っているのである。それらの意気消沈するような日々にあって、これではならじと、安永六年(一七七七)年の年頭に当たっての春興帖の『夜半楽』のその序章のような形で、次の、「祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは 不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず) 蕉門のさびしをりは 
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし) さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」を置き、そして、異色の俳詩「春風馬堤曲」の末尾に、「君不見(みずや)古人太祗が句  薮入の寝るやひとりの親の側」の、太祗の句で結んでいるのである。とにもかくにも、嵐雪の「夜半楽」の句は、謡曲「経政」の「夜半楽」などを介して、蕪村の「夜半楽」にも大きな影を投げかけていると解して差し支えなかろう。
(追伸)星春乃さんが、能楽「難波梅」や雅楽「春鶯囀」との関連で、蕪村の『夜半楽』の構成を考察しているが、それは一つの卓見であろう。そして、単に、「難波梅」や「春鶯囀」だけではなく、さらに、『天鼓』・『梅枝(うめがえ)』・『経政』などの広範囲において考察れさると、一つの大きな参考データとなってこよう(但し、蕪村の『夜半楽』の構成を、これらの能楽・雅楽の世界に当て嵌めてみるという視点よりも、その逆に、「能楽・雅楽を前提として、蕪村の『夜半楽』の世界の一つの鑑賞を試みる」という、いわば自由解的な柔軟な視点が必要になってくるように思われる)。

(三十六)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その三

○そうした「夜半楽」の流れをたどってみると、何も『夜半楽』の書名と嵐雪の句とを結びつけるまでもあるまいと考えることもできる。だが、嵐雪、そして其角は蕪村の師宋阿(巴人)が師事した俳人、宋阿は嵐雪(玄峰居士)の三十三回忌追善の独吟歌仙で、「玄峰居士にほひのこりて花の雲」の名残の花の句を手向け、蕪村はそれを受けて、安永三年の宋阿三十三回忌追善に、「花の雲三たびかさねて雲の峯」の追悼句を詠んでいるが、それらの句のもとになったのは、嵐雪の其角追悼句、「晋化(ふけ)去りぬ匂ひのこりて花の雲」であった(蕪村「宋阿三十三回忌追悼句文」など)。むろん、この句も「川骨や」の句同様、『類柑子』所収の「追悼乃句聯」中に収まる。してみると、先の思い付きもまんざら捨てたものでねないような気がしてくる。ちなみに、「川骨や」の句のすぐ前には、「樒売(うり)あなうの花の食を見る」という句が見える。「あな憂」と「卯の花」との秀句。それは、『夜半楽』の秀句、「春もややあなうぐひすよむかし声」の「あな憂」と「うぐひす」との秀句を思わないでもない。

 若き日の二十四歳頃の蕪村の、「宰鳥」がこの世に登場するのは、その師・宋阿(巴人)が編んだ、其角・嵐雪三十三回忌追善集の『俳諧 桃桜』においてであった。それは、元文四年(一七三九)のことであった。そして、回想のときを迎えた五十九歳の蕪村が、その『俳諧 桃桜』を編んだ師の、その宋阿(巴人)の三十三回忌追善集『むかしを今』を刊行したのは、安永三年(一七七四)のことであった。そして、その三年後の安永七年に、異色の俳詩、「春風馬堤曲」・「澱河歌」そして発句の「老鶯児」の三部作を含む夜半亭一門の春興帖『夜半楽』が誕生するのである。これらは、全て、一つの延長線上のものであるという理解は極めて自然のことであろう。(なお、「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)では、安永三年の宋阿三十三回忌追善『むかしを今』収載の蕪村の句を、「花の雲三たびかさねて雲の峯」としているが、「花の雲三重(みへ)に襲(かさ)ねて雲の峯」の句形がより適しよう。また、この『むかしを今』については、別稿で見ていくこととする)。

(三十七)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その四

○それはともかく、一方は追悼の句、一方はめでたい春興帖の題名、両者はどれほどつながりがあるというのか、句意も『夜半楽』の内容とさほど関連があるように見えないが、その点についてはどうかと問いかけられると、いささか心もとない。むろん、蕪村は嵐雪の「川骨や」の句から「夜半楽」ということばを思い付いたまでのこと、「夜半楽」の内容とは関わらないといえば、それですむ。しかし、私にはどうもそれだけではないような気がしてならないのである。『夜半楽』に懐旧の情が著しいことは、しばしば説かれるところだが、その懐旧は、幼年時代のみならず、関東を漂泊した青春時代をも含むものでもあろう。『夜半楽』巻頭の歌仙の前書には、「さればこの日の俳諧は わかわかしき吾妻の人の 口質(こうしつ)にならはんとて」と記されている。この「吾妻の人」を安東次男氏『与謝蕪村』や本全集第四巻一六五ページの頭注に従い「亡師巴人」とみなすならば、そこに当時流行した似非芭蕉流の俳諧への批判とともに、亡師巴人への追慕の念を読み取ることもできるはず。その追慕の思いを、ともに亡師ゆかりの、其角を追悼した嵐雪の句のことばで応じたところに、俳諧師らしい工夫があったといえなくもない。 

 これまでに、蕪村の主だった歳旦帖や春興帖について見てきた。そこには、それぞれ特有の工夫を施しているのだが、例えば、『安永三年春帖』においては、蕪村の俳画が十六点も収載されており、さらに、『安永四年春帖』においては、蕪村の初撰集として名高い『寛保四年宇都宮歳旦帖』と同じ体裁で、「三つ物」と「東君」(歳旦の季題)などから始まり、その巻軸には蕪村の春興十一句(『寛保四年宇都宮歳旦帖』では初出の「蕪村」の号でする「鶯」の一句)を列記しているのである。これらを詳細に見ていくと、これらの歳旦帖や春興帖を編むときには、必ず、蕪村は往年のそれらとの比較検討をして、しかる後に、その年度の新しい新基軸を打ち出しているということが伺えるのである。例えば、『安永三年春帖』の春興帖には、蕪村の初出の号とされている「宰町」の号をもっての発句が見られ、それは、この『夜半楽』においては、その「宰町」の次の号の「宰鳥」の号が、その奥書において見られるなど、幾多の類似志向が見られるのである。そして、先にも触れたところであるが、この安永三年(一七七二四)には、宋阿(夜半亭巴人)の三十三回忌追善集『むかしを今』が刊行され、それは、まさに、蕪村の「関東を漂泊した青春時代」を回想してのものであり、それはとりもなおさず、其角・嵐雪・巴人と連なる夜半亭俳諧の足跡を踏まえるものであった。ここでも、繰り返すこととなるが、この『夜半楽』を編むに当たって、蕪村は、「関東を漂泊した青春時代」の数々の回想の「其角・嵐雪・巴人」に連なる俳諧作品などの足跡というものを辿り、例えば、嵐雪の「川骨や撥に凋(しぼ)める夜半楽」(『類柑子』・『玄峰集』所収)の句などは、この「夜半楽」という用例だけではなく、この「撥」などの用例も、大きく、その『夜半楽』に影響を及ぼしているように思えるのである。

(三十八)

「『夜半楽』小見」(嶋中道則稿)その五

○さらに憶測を重ねれば、当時の蕪村は「川骨や撥に凋(しぼ)める」の思いとも無縁ではなかった。既に太祗・召波らの盟友を失い、とりわけ前年の暮には一人娘を嫁がせたばかりである。身辺にしのびよる寂寥、空虚感。『夜半楽』という書名に嵐雪の其角追悼句を重ねあわせてみると、そうした蕪村の心境がより一層浮かび上がって来るように思えるのだが、はたしてどうであろうか。
 
 蕪村が夜半亭二世となったのが明和七年(一七七〇)、五十五歳のときのであった。そして、その翌年の明和八年八月五日に、蕪村の無二の盟友にして、夜半亭門の有力指導者であった、炭太祗が世を去る。その翌年に刊行された『太祗句選』の序で、蕪村は太祗について次のように記している。

※仏を拝むにもほ句し、神にぬかづくにも発句せり、されば祗が句集の草稿を打ちかさね見るに、あなおびただし、人の彳(たたず)める肩ばかりくらべおぼゆ。
(訳)太祗は仏様を拝むに際しても発句を作り、神前にぬかずくに際しても発句を作りました。ですから、太祗の句集を重ねてみますと、大変な分量で、人の立っている肩ほどの高さにも達するありさまでした。

 そして、その太祗に続き、夜半亭門で蕪村が最も信頼を置いていた、黒柳召波が十二月七日に没する。召波の七回忌に際して刊行された召波句集『春泥句集』に、蕪村は長い序文を寄せているが、その中で召波の臨終について蕪村は次のように記している。

※をしむべし、一旦病にふして起つことあたはず、形容日々にかじけ、湯薬ほどこすべからず、預(あらかじ)め終焉の期をさし、余を招きて手を握りて曰く、恨らくは叟とともに流行を同じくせざることを、と言ひ終りて、涙潸然(さんぜん)として泉下に帰きしぬ。余三たび泣きて曰く、我が俳諧西せり、我が俳諧西せり。
(訳)惜しいことに一旦病に伏して、もう起つことができませんでした。姿は日毎に痩せ衰え、薬ももうほどこしようがありませんでした。召波は予め死期を悟ったのでしょうか、私(蕪村)を招いて、手を握り次のように言いました。「残念なことには、あなたとともに俳風を変えることもできずに、それが心残りです」と言い終わりて、涙をさめざめと流しながら、亡くなってしまいました。私は一度・二度・三度と亡き伏して、召波に言いました。「私の俳諧はあなたとともに滅んでしまった。私の俳諧は滅んでしまった」と。

 太祗・召波に続き、『夜半楽』を刊行する一年前の、安永五年四月十三日に、絵画の面で、蕪村と共に、南画の双璧ともいわれた、池大雅が没する。さらに、その年の暮れの十二月には、一人娘の結婚と、その結婚も間もなく破綻するという兆候の中にあって、当時の蕪村の「身辺にしのびよる寂寥、空虚感」というのは、如何ばかりであったことか。「『夜半楽』という書名に嵐雪の其角追悼句を重ねあわせてみると、そうした蕪村の心境がより一層浮かび上がって来る」という指摘は、容易に想像のできるところのものであろう。

(三十九)

 『夜半楽』を刊行する三年前の、安永三年(一七七四)の六月に、蕪村は宋阿(夜半亭巴人)三十三回忌の追善法要を営み、追善集『むかしを今』を刊行する。その「序」を分節して紹介しておきたい。

『むかしを今』・「序」(その一)

○亡師宋阿の翁は業を雪中庵にうけて、百里・琴風が輩と鼎のごとくそばたち、ともに新意をふるひ、作家の聞(きこ)えめでたく、当時のひとゆすりて三子の風調に化しけるとぞ。おのおの流行の魁首にして、尋常のくはだて望むべきはにはあらざめり。師やむかし、武江の石町(こくちやう)なる鐘楼の高く臨めるほとりにあやしき舎(やど)りして、市中に閑をあまなひ、霜夜の鐘におどろきて、老(おい)の寝ざめのうき中にも、予とゝもにはいかい(俳諧)をかたりて、世のうへのさかごとなどまじらへきこゆれば、耳をつぶしておろかなるさまに見えおはして、いといと高き翁にてぞありける。
(訳)亡き師の宋阿先生はその俳諧を嵐雪に教わり。百里・琴風と共に三本の鼎の如き存在でした。ともに新風を振るい、当時の俳諧師として名を馳せ、多くの俳人たちがその三人の俳風を基調といたしました。おのおの当時の俳風の主のような存在で、一寸やそっとではその三人の域には近づけないようなありさまでした。宋阿先生は、昔、江戸の石町の鐘楼が高くそびえている傍に、みすぼらしい住まいを構えて、市中で閑静な暮らしを楽しんでいました。寒い霜夜の鐘の音に驚いて、老人の寝覚めの憂き思いのときなどには、私(蕪村)とともによく俳諧のことなどについて語り合いをしました。その中でうっかり世間の小賢しい話などをまじえて話をいたしますと、先生は耳を塞いで、愚かなる様を見せて、そういう話に耳もかさず、大変に高潔な先生でありました。
 
 先に「若き日の蕪村」において、蕪村が江戸の日本橋石町の鐘楼の宋阿の夜半亭に居た頃について触れた。そのアドレスとそころのところを再掲しておきたい。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_22.html

※寛保三年(一七四三)の宋屋編『西の奥』(宋阿追善集)に当時江戸に居た蕪村は「東武 
宰鳥」の号で、「我泪古くはあれど泉かな」の句を寄せる。その前書きに、「宋阿の翁、このとし比(ごろ)、予が孤独なるを拾ひたすけて、枯乳の慈恵のふかゝりも(以下、略)」と記しているが、「枯乳の慈恵」とは、乳を枯らすほどの愛情を受けたということであろうから、この記述が江戸での流寓時代のことなのかどうか、その「予が孤独なるを拾ひたすけて」と重ね合わせると、宋阿の享保十二年(一七二七)から元文二年(一七三七)までの京都滞在中の早い時期に、宋阿と蕪村との出会いがあったとしても、決しておかしいということでもなかろう。まして、蕪村が十五歳の頃、元服して家督を相続し、そして、享保十七年(一七三二)の十七歳の頃、大飢饉に遭遇し、故郷を棄てざるを得ないような環境の激変に遭遇したと仮定すると、この方がその後の宋阿と蕪村との関係からしてより自然のようにも思われるのである。尾形仂氏は、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下ったんじゃないかと考えることさえできるんじゃないかと思っているのですが」(「国文学解釈と鑑賞」昭和五三・三)との随分と回りくどい対談記録(森本哲郎氏との「蕪村・その人と芸術」)を残しているのだが、少なくとも、宋阿が江戸に再帰した元文二年に、その宋阿の所にいきなり入門するという従来の多くの考え方よりも、より自然のように思われるのである。一歩譲って、「巴人が江戸に帰ったときにいっしょに江戸へ下った」ということまでは言及せずに、「宋阿の京都滞在中に面識があったのではないか」ということについては、あながち、無理な推測ではなかろう。このことは、蕪村が、宝暦元年(一七五一)に、十年余に及ぶ関東での生活に見切りをつけ、京都に再帰することとも符合し、その再帰がごく自然なことに照らしても、そのような推測を十分に許容するものと思えるのである。これらのことに関して、上述の尾形仂氏と森本哲郎氏との対談において、尾形仂氏の「蕪村の京都時代ということの推測」について、「しかしそれはありうることじゃないですか。というのは、彼は関東から京都へ行くわけですが、入洛してすぐに居を定めている。むろん、はしめは間借りだったようですけれども、京都には知人もいたらしいし土地カンもあったように思えます」と応じ、この両者とも、「蕪村は生まれ故郷の大阪を離れ、京都に住んでいたことがあり、少なくとも、巴人の十年に及ぶ京都滞在中に蕪村は巴人と面識があった」という認識は持っているいるように受け取れるのである。

(四十)

『むかしを今』・「序」(その二)

○ある夜危坐して予にしめして曰(いはく)、夫(それ)俳諧のみちや、かならず師の句法に泥(なづ)むべからず。時に変じ時に化し、忽焉として前後相かへりみざるがごとく有(ある)べしとぞ。予此(一)棒下に頓悟して、やゝはひかい(俳諧)の自在をしれり。されば今我門にしめすところは、阿叟の磊落なる語勢にならはず、もはら蕉翁のさび・しほ(を)りをしたひ、いにしへにかへさんことをおもふ。是(これ)外虚に背(そむき)て内実に応ずる也。これを俳諧禅と云ひ、伝心の法といふ。わきまへざる人は、師の道にそむける罪おそろしなど沙汰し聞(きこ)ゆ。しかあるに、今此(この)ふた巻の可(歌)仙は、かのさび・しほ(を)りをはなれ、ひたすら阿叟の口質に倣(なら)ひ、これを霊位に奉(たてまつり)て、みそ三(み)めぐりの遠きを追ひ、強い(しひ)て師のいまそかりける時の看をなすとてふことを、門下の人々とゝもに申(まほし)ほどきぬ
(訳)ある夜、先生(宋阿)はあらたまって正座し、私(蕪村)に次のような教えを示されました。「そもそも俳諧の道は、絶対に師の作風にこだわってはならないものである。そのときどきで変化し、前後とはくっきりと違ったものでなければならない」ということでした。私はこの一つの教えのもとに、はっと目を開かれる思いがいたしまして、それによって「俳諧自在」という境地を悟りました。だから今、私が自分の門下のひとに教え示すものは、私の師の宋阿の大らかな語調にならわず、もっぱら、芭蕉の寂び、撓(しをり)を慕って、俳諧を芭蕉の時代に帰したいということでした。これは、外面では自分の直接の師に背くように思われますが、内面では、真実、師の教えに従っているということなのです。これは俳諧禅と言ってもよく、また、以心伝心の法と言ってもよいでしょう。これらのことを理解しない人は、私のことを、師の道に背いていて、その罪は重いなどと、言い触らしています。そんなこともありまして、今回の、この歌仙二巻においては、芭蕉の寂び、撓(しをり)を離れ、一途に、先生の語調に倣いまして、それを霊前に捧げたいと思います。先生の三十三回忌の遠き日のことを慕い、強いては、先生が御在世の時のことに思いを新たにしまして、ここに先生の礼に尽くすことを、門下の人々とともに弁明することとしたのです。
 
 ここで、『夜半楽』の冒頭の序文を、もう一度再掲してみたい。

※祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)
さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて
(訳)京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい。だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている。

 これらのことからして、安永三年(一七七四)の巴人三十三回忌の『むかしを今』(序)と安永六年(一七七七)の夜半亭春興帖の『夜半楽』(序)とは、実は全く同一線上のものといつてもよかろう。そして、この『夜半楽』を刊行したときが、蕪村、六十二歳のときで、いみじくも、それは、元文三年(一七三八)の『夜半亭歳旦帖』を編んだ巴人(このとき、巴人、六十二歳、蕪村は宰町の号で、二十三歳)と同じ年齢と一致するのである。これらのことから、「『夜半楽』板行を思い立った六十二歳翁蕪村の胸中には、彼が俳人としての初一歩をしるした日の師と同齢に達した感慨がつよく働いている。春興帖は、その心をこめて亡師巴人に捧げられたものであろう。『門人宰鳥校』として宰町としなかったのは、元文四年の冬にはすでに宰鳥号に改め、宰町はいわばかりの号に過ぎなかったのである」(安東次男著『与謝蕪村』)との評がなされてくる。すなわち、上記の『夜半楽』(序)の「吾妻の人」とは、夜半亭一世宋阿(早野巴人)その人というのである(その関係で、奥書の「門人 宰鳥校」を理解し、この「門人」は、「夜半亭一世宋阿門人」と解するのである)。確かに、そういう理解もできるかも知れないが(そういうことが言外にあるかも知れないが)、ここでは、文面通りに、「若々しき吾妻(東国)の人の口質」(関東出遊時代の若々しき東国人に帰り、その時の作風で)という理解にとどめておきたい。

回想の蕪村(十八~二十六)



(一八)

 『夜半楽』は、安永六年(一七七七)、蕪村六十二歳の春に刊行した春興帖である。春興帖は、歳旦・歳暮の吟に限らず、当年の新春初会の作を中心に春季の句を集めて知友間に贈答するものである。『夜半楽』の「夜半」が夜半亭を意味していることはいうまでもないであろう。すなわち、『夜半楽』とは、夜半亭一門の春を言祝ぐ楽曲ということになろう。その構成は次のとおりとなる。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

 この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

 はじめの四行は序詩のような形をとり、「京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい」というようなことであろう。それに続けて、「だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている」というのである。

(一九)

安永丁酉春 初会

歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村  オ ※(発句) 
 脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)   月居  ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓   ※(第三)  
 艤(ふなよそほひ)のとかくしつゝも   自笑  
こゝかしこ旅に新酒を試(こころみ)て   百池  
 十日の月の出(いで)おはしけり     鉄僧  ※(月)
纏頭(かづけもの)給ふぬきでの身の白き  田福  ウ 
 廊下の翠簾(みす)や夢のうきはし    斗文  
目ふたぎて聖の尿(くそ)を覆(おほふ)らん  子曳  
 紀の川上にくちなはのきぬ        集馬  
うの花に萩の若枝(わかえ)もうちそよぎ  三貫  
門(かど)をたゝけば隣家に声す     帯川  
着つゝなれて犬もとがめぬ裘(かはごろも) 致郷  
 貢(みつぎ)の使(つかひ)白雲に入(いる)  士恭  
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  ※(花)
 藪うぐひすの啼(なか)で来にけり    晋才  
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白  ※(月)  
 三本の傘は婿の定紋(ぢやうもん)    舎六   
初がつをあはや大磯けはひ坂       我即  ナオ 
 淡き薬に身をたのみたる        故郷   
暮まだき燭(しよく)の光をかこつらし   嬰夫   
 竹をめぐれば行尽(ゆきつく)す道     舎員
新田に不思儀や水の涌出(ゆしゆつ)して   菊尹
 儒医(じゆい)時に記す孝子の伝(つたへ) 賀瑞
かりそめの小くらのはかま二十年     呑獅
 往来(ゆきき)まれなる関をもりつゝ   呑周
餅買(かふ)て猿も栖(すみか)に帰るらん   柳女
 錫(しやく)と ゞまれば鉢が飛出る    延年
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 ※(月)
 金山ちかき霜の白浪          樵風
つくづくと見れば真壁の平四郎      東瓦 ナウ
 酒屋に腰を掛川の宿(しゆく)      左雀
空高く怒れる蜂の飛去(しびさり)て    乙総
 岡部の畠けふもうつ見ゆ        霞夫
花の頃三秀院に浪花人          几董 ※(花)
 都を友に住(すみ)よしの春       大魯  ※(挙句)  

 この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである。

(二十)

春興
うぐひすにうかれ烏のうき世哉         道立
汀より月を動かす蛙(かはづ)かな         正白
もろこしの一里も遠き霞かな           田福
寝んとしては寝ずも居るや春の雨         維駒

墨の香や此(この)梅の奥誰が家       浪花 霞東
春風や縄手過(すぎ)行(ゆく)傀儡師     ゝ  志慶

あたゝかい筈の彼岸の頭巾かな         月居
剰(あまつさへ)松に隣れる柳かな         集馬
雪霜の古兵(ふるつはもの)よ梅の花       自笑

寺に寝て起(おき)おき梅の匂(にほひ)かな  浪花 正名

春雨や隣つからの小豆飯          ゝ 銀獅

遠里に人声こもるかすみかな        ゝ 延年

彳(たたず)めば誰か袖引やみの梅   但出石 乙総
うぐひすや声引(ひき)のばす舌の先    ゝ 霞夫

神風の春かぜさそふ夜明かな          呑獅
蝶々や衛士の箒にとまりけり          呑周
凧引(ひく)や夕がすみたつ処々        声々
うぐひすや茶臼の傍にしゆろ箒         徳野
鶯や折よく簀戸(すど)の明はなし       文革
うぐひすに枕かへすや朝まだき         舞閣
黄鳥(うぐひす)や樹々も色吹(ふく) 真葛原 管鳥
芹喰(くひ)に鶴のをり来る野川哉       春爾

里や春梅の夕と 成(なり)にけり   敏馬浦 士川
夕凪や柳が下の二日月          ゝ  佳則

植木屋の連翹更に黄なる哉           斗文
路斜(ななめ)野ずゑの寺や夕霞        菊尹
梅さくや陶(すゑもの)つくる老が業      舎員
青柳や野ごしの壁の見へがくれ         嬰夫
畠ある屋しき買(かひ)たり梅の花       子曳
二日聞(きき)てうぐひすに今は遠ざかる    柳女
日数経てやゝ痩梅の花咲(さき)ぬ       賀瑞
 一株の梅うつし植てあらたに春を迎ふ 
けさ梅の白きに春を見付(つけ)たり      鉄僧

深屮(くさ)の梅の月夜や竹の闇        月渓
連翹の花ちるや蘭の葉がくれに         晋才

たへず匂ふ梅又もとの香にあらず        旧国

舟遅きおぼろ月也江の南            九湖
比枝下りて西坂本の梅の花           亀郷
培(つちかひ)し樹々の雫や春の雨       万容
梅咲て何やらものをわすれけり         白砧

草臥(くたびれ)てもどる山路の雉子の声  伊丹 東瓦
 尾刕(びしう)の客舎にて
茶売去(さり)て酒売来たり梅の花       百池
黄昏や梅がゝを待(まつ)窗(まど)の人    大魯
白梅や吹(ふか)れ馴(なれ)たる朝嵐     几董   

 夜半亭一門の四十三人の春興の句である。前年の安永五年(一七七六)に、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵を再興して、「写経社会」を結成している。この写経社会の中心人物の道立の句を冒頭にして、その締め括りは、大魯・几董という夜半亭門の双璧の二人の句をもってきている。ここに登場する四十三人衆は夜半亭俳諧の頂点を極めた当時の豪華メンバーと解して差し支えなかろう。この後に、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)と続くのである。

(二十一)

 次に続く「春風馬堤曲」については、年次不明二月二十三日付けの柳女・賀瑞宛て蕪村書簡で、この詩を書いた消息を今に残している。

さてもさむき春にて御座候。いかゞ御暮被成候や、御ゆかしき奉存候。しかれば春興小冊漸出板に付、早速御めにかけ申候。外へも乍御面倒早々御達被下度候。延引に及候故、片時はやく御届可被下候。

(訳)さてさて寒い春でございます。いかがお過ごしでございましょうか、お尋ねをする次第です。さて、春興帖小冊、ようやく出版の運びとなりましたので、早速お目にかける次第です。外の方々へもご面倒をおかけしますが早々にお渡しを頂きたく存じます。延引になっておりましたので、片ときも早くお届け頂ければと存じます。

 この柳女・賀瑞は伏見の蕪村門人で、先の歌仙や春興の句にその名が出てくる。そしてこの「春興小冊」こそ、『夜半楽』にほかならない。そして、この『夜半楽』の実際の発行日は二月二十日過ぎで、予定よりも遅れての出版であることが了知されるのである。この年の一月晦日(三十日)付け霞夫宛ての書簡もあり、そこでは、「春帖近日出し早々相下可申候」との文面もあり、蕪村は予定より遅れての出版を気にしていたのであろう。この霞夫宛ての書簡は、「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」に関連するもので、当時六十歳を超えた蕪村にとっては、親しい太祗や召波、さらには、絵画のよきライバルであった池大雅を失って、ことのほか老残の思いにかられていたということも察知されるのである。また、それらの親しい人の別れとともに、その前年に、一人娘を嫁がせたみことなどの淋しさをかこっていた書簡なども今に残されているのである。

(二十二)

一 春風馬堤曲 馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也。
余、幼童之時、春日清和の日ニハ、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。其中ニハ、田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢(はやり)粧(すがた)に倣(なら)ひ、髪すたちも妓家(ぎか)の風情をまなび、□伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥(はぢ)いやしむもの有(あり)。されども、流石(さすが)故園ノ情に不堪(たへず)、偶(たまたま)親里に帰省するあだ者成(なる)べし。浪花を出てより親里迄の道行にて、引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候。実ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる実情ニて候。
(訳)一 春風馬堤曲 馬堤は毛馬堤です。すなわち、私の故郷です。私が幼童の頃、春日清和の日には、必ず友達とこの堤に登って遊んだものです。水上には上下に往来する船があり、堤には往来する旅人がありました。その中には、田舎娘で、浪花に奉公に出て、健気にも浪花の流行の風姿を真似て、髪かたちも妓楼の風情そのもので、また、繁太夫節の心中物の浮名を羨んだりして、故郷の田舎くさい兄弟を恥じて蔑む者もおりました。けれども、さすがに望郷の念にかられてのことなのか、故郷に帰省する粋な女性でありましょうか、そんな女性にたまたま遭遇したのです。この春風馬堤曲はそんな浪花を出て故郷に帰る迄の道行を述べたものでして、引き道具の狂言、座元夜半亭とお笑いください。実を言えば、これは愚老の懐旧の念のやるかたなき心の奥底から呻き出たところの実情なのです。

 この書簡で、「馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」と、蕪村の故園(故郷)は毛馬村であることを蕪村自身はっきりと記録に残しているのである。蕪村の出生地について、摂津の天王寺村とか丹後の与謝とかもいわれているが、この書簡からして摂津国東成郡毛馬村と解して差し支えなかろう。そして、このことは、初期の絵画の「浪華長堤四明」とも一致し、蕪村の胸中には、この「春風馬堤曲」の長堤が常に存在していたということは特記しておく必要があろう。さらに、書簡中の「□伝しげ太夫」の「□」は虫食いで、ここを「正」の「正伝」としたり「阿」として「阿伝」(尾形仂)としたり解されているが、「しげ太夫」は、豊後節の「繁太夫節」であることは異論がなかろう。その繁太夫節は「おさん・茂兵衛 道行」とか心中物を得意として(尾形・前掲書)、それらが背景になっていると解したい。そういう背景にあって、「引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候」と、すなわち、「回り舞台の狂言の座元(興行主)こそ夜半亭蕪村」と、「春風馬堤曲」の真相を蕪村自身がはっきりと記録に残していることも、これまた、特記しておく必要があろう。

(二十三)

 さて、この「春風馬堤曲」について、『蕪村の手紙』(村松友次著)の「春風馬堤曲源流考」(補説三)で、次のように記述している。

※「春風馬堤曲」は「北風老仙をいたむ」と共に日本文学史上特筆すべき異色の名作である。このような斬新な詩形の創出はまさに蕪村の天才によるところであるが、全く無から生じたのではなかろう。それではこれに先行するものが何であったか。すでに「北寿老仙をいたむの項(註・補説一)で触れたが、潁原退蔵は支考に源を発する仮名詩の流れを考え、蕪村の青年時代、江戸俳人の間に流行していた小唄、端唄に類したような一種の韻文の存在を指摘する(註・この潁原退蔵の「春風馬堤曲源流考」については先に全文紹介している)。しかし一見類似しているようであるが、読者の心を打つ詩情の直截さ純粋さにおいて蕪村の作は江戸俳人の諸作とは全く異質と言ってよいほどすぐれている。これらの作よりももっと近い影響をもつ文学作品はなかったか。清水孝之は服部南郭の『朝来詞(ちょうらいし)』(いたこことば)と、荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)を指摘する(鑑賞日本古典文学『蕪村・一茶』および、新潮日本古典集成『与謝蕪村集』)。

 この荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)の影響(蕪村の「春風馬堤曲」などへの影響)はやはり注目すべきものの一つであろう。

(二十四)

江南楽八首。代内作(江南楽八首。内に代りて作る)

成長して江南に在り 江北に住することを愛せず
家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る
陽春二月の時 桃李(とうり)花参差(しんし)
言(こと)を寄す諸姉妹 悪風をして吹(ふ)か遣(しむ)ること莫(なか)れ
郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す
阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん
野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り
憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを
橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る
情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず
人は言ふ江南薄しと 江南信に自ら楽し
桑を采(とり)て蚕糸を作(な)す 羅綺儂(わ)が着るに任す
郎と水程を計るに 三月定て家に到らん
庭中の赤芍薬 爛漫として斉(ひとし)く花を作(なさ)ん
江南道理長し 荊襄(けいじやう)何れの処にか在る
郎が昨夜の語を聞くに 五月瀟湘(せうしやう)に去(さら)ん

 この徐禎卿の「江南楽八首代内作」について、荻生徂徠は次のように解説をしているという(村松・前掲書)。

江南楽……曲ノ名。西曲ニ江陵楽、寿陽楽有リ。後人之ニ擬シテ設ク。
代内…… 其ノ妻ヲ謂フ。
 八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル。

(二十五)

 この荻生徂徠の、徐禎卿の「江南楽八首代内作」についての解説の、「八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」ということは、まさに、蕪村の「春風馬堤曲」の「十八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」と置き換えても差し支えないほど、「春風馬堤曲」の本質を言い当てている指摘といえよう。
また、
「江南楽」の「代内作」(内に代りて作る)は、「春風馬堤曲」の「代女述意」(女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ)に、
「江南楽」の「家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る」は、
「春風馬堤曲」の「梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家」に、
「江南楽」の「郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す」・「阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん」は、
「春風馬堤曲」の「むかしむかししきりにおもふ慈母の恩」・「慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり」・「矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)」・「戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を待(まつ)春又春」に、
「江南楽」の「野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り」・「憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを」は、
「春風馬堤曲」の「雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ」・「雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四」に、
「江南楽」の「橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る」・「情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず」は、
「春風馬堤曲」の「春情まなび得たり浪花風流(ぶり)」・「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」に、
「江南楽」の「江南道理長し」は、
「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして家遠し」に、
等々、それぞれの「内容」・「語句」・「気分」などの上で多くの類似点を見出すことができるのである(村松・前掲書)。
 さらに、荻生徂徠の『絶句解』では、この「江南楽」に続いて、「隴頭流水ノ歌」(子を失った女の心を作者が代わって詠んだ……代内作……)の詩が続き、これは、「春風馬堤曲」の後に「澱河歌」を続けている蕪村のそれと、まさに、その配列を同じくしているという(松村前掲書)。また、徂徠の『絶句解』に見られる「衛河八絶」(王世貞作)は、服部南郭の『潮来詞』に影響を及ぼし、その南郭の『潮来詞』が、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているだけではなく(清水・前掲書)、この「衛河八絶」は、ストレートとに、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているという見方もある(村松・前掲書)。いずれにしろ、蕪村が、『夜半楽』、そして、その「春風馬堤曲」・「澱河歌」を創作した背後には、荻生徂徠の『絶句解』が、常に、蕪村の座右にあったことだけは想像に難くない(村松・前掲書)。

(二十六)

 蕪村が荻生徂徠に傾倒したことについては、先に、「若き日の蕪村」で触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 それは、蕪村が二十歳前後で江戸に出てくる以前の青少年の頃から、そして、この「春風馬堤曲」を執筆する六十歳過ぎての老年期に到るまで、終始、蕪村に大きな影響を与え続けたということは容易に想像できるところのものである。その影響の最たるものは、先に触れた、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「荻生徂徠の影響」の、次のようなことであった。

○徂徠の学問的立場は、通常「古文辞学」と呼ばれれているように、明の文学における「古文辞」に先例を求めたものであるが、それが単なる復古運動にとどまるものでなかったことは吉川幸次郎の説明によって了解される。
「……精神のもっとも直接的な反映は、言語であるとする思想である。したがって精神の理解は、言語と密着してなすことによってのみ、果たされるとする思想である。」
そこで古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握することをめざしたわけである。その結果明らかになることは、儒者共の説く人為的な道徳律の虚妄さであり、それを排除するとき「理は定準なきなり」という世界観に到達する。つまり、世界は多様性において成り立っているのであり、そこに生きる人間の個々の機能を尊重するという考え方である。「人はみな聖人たるべし」という宋学の命題とは正反対に、徂徠は、「聖人は学びて至るべからず」という方向を提示し、人が個性に生き、学問によって、自己の気質を充実させ、個性を涵養しうる可能性を強調している。

 この「古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握する」という徂徠の姿勢を、蕪村ほど生涯にわたって実践し続けた俳人にして画人は殆ど希有であるといっても過言ではなかろう。そして、この「春風馬堤曲」そのものが、その徂徠の『絶句解』所収の「自分も古典(「江南楽八首」(徐禎卿作)など)の言葉で書き、考え、そして、その精神を把握した」、その結果の類い希なる異色の俳詩という創造の世界にほかならない。