火曜日, 9月 19, 2006

回想の蕪村(十八~二十六)



(一八)

 『夜半楽』は、安永六年(一七七七)、蕪村六十二歳の春に刊行した春興帖である。春興帖は、歳旦・歳暮の吟に限らず、当年の新春初会の作を中心に春季の句を集めて知友間に贈答するものである。『夜半楽』の「夜半」が夜半亭を意味していることはいうまでもないであろう。すなわち、『夜半楽』とは、夜半亭一門の春を言祝ぐ楽曲ということになろう。その構成は次のとおりとなる。

夜半楽

目録
歌仙    一巻
春興雑題  四十三首
春風馬堤曲 十八首
澱河歌   三首
老鶯児   一首

 この「目録」に継いで、次のような序文が記されている。

祇園会(ぎをんゑ)のはやしのものは
不協秋風音律(しうふうのおんりつにかなはず)
蕉門のさびしをりは
可避春興盛席(しゆんきようのせいせきをさくべし)

さればこの日の俳諧は
わかわかしき吾妻の人の
口質(こうしつ)にならはんとて

 はじめの四行は序詩のような形をとり、「京都の祇園会のお囃子は秋風の風韻には調和しない。それと同じく、蕉門の寂び撓(しをり)は新春のお目出度い席では避けた方がよい」というようなことであろう。それに続けて、「だから、この日の新春の俳諧は若々しい東国の人の口調に倣っている」というのである。

(一九)

安永丁酉春 初会

歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師     蕪村  オ ※(発句) 
 脇は何者節(せち)の飯帒(はんたい)   月居  ※(脇)  
第三はたゞうち霞うち霞         月渓   ※(第三)  
 艤(ふなよそほひ)のとかくしつゝも   自笑  
こゝかしこ旅に新酒を試(こころみ)て   百池  
 十日の月の出(いで)おはしけり     鉄僧  ※(月)
纏頭(かづけもの)給ふぬきでの身の白き  田福  ウ 
 廊下の翠簾(みす)や夢のうきはし    斗文  
目ふたぎて聖の尿(くそ)を覆(おほふ)らん  子曳  
 紀の川上にくちなはのきぬ        集馬  
うの花に萩の若枝(わかえ)もうちそよぎ  三貫  
門(かど)をたゝけば隣家に声す     帯川  
着つゝなれて犬もとがめぬ裘(かはごろも) 致郷  
 貢(みつぎ)の使(つかひ)白雲に入(いる)  士恭  
谷の坊花もあるかに香に匂ふ       道立  ※(花)
 藪うぐひすの啼(なか)で来にけり    晋才  
かけ的(まと)の夕ぐれかけて春の月    正白  ※(月)  
 三本の傘は婿の定紋(ぢやうもん)    舎六   
初がつをあはや大磯けはひ坂       我即  ナオ 
 淡き薬に身をたのみたる        故郷   
暮まだき燭(しよく)の光をかこつらし   嬰夫   
 竹をめぐれば行尽(ゆきつく)す道     舎員
新田に不思儀や水の涌出(ゆしゆつ)して   菊尹
 儒医(じゆい)時に記す孝子の伝(つたへ) 賀瑞
かりそめの小くらのはかま二十年     呑獅
 往来(ゆきき)まれなる関をもりつゝ   呑周
餅買(かふ)て猿も栖(すみか)に帰るらん   柳女
 錫(しやく)と ゞまれば鉢が飛出る    延年
暁の月かくやくとあられ降(ふる)     維駒 ※(月)
 金山ちかき霜の白浪          樵風
つくづくと見れば真壁の平四郎      東瓦 ナウ
 酒屋に腰を掛川の宿(しゆく)      左雀
空高く怒れる蜂の飛去(しびさり)て    乙総
 岡部の畠けふもうつ見ゆ        霞夫
花の頃三秀院に浪花人          几董 ※(花)
 都を友に住(すみ)よしの春       大魯  ※(挙句)  

 この歌仙(三十六句からなる連句)が一同に会してのものなのか、それとも、回状を回して成ったものなのかどうかは定かではないが、おそらく後者によるものと思われる。この歌仙は、一人一句で、三十六人がその連衆で、夜半亭一門の代表的俳人の三十六歌仙(三十六人の傑出した俳人)という趣である。発句は夜半亭一門の宗匠、夜半亭二世・与謝蕪村で、「歳旦をしたり皃(がほ)なる俳諧師」(歳旦の句を快心の作とばかり得意顔の俳諧師である)と、新年祝賀の句を、若き日の東国に居た頃の宰鳥になった積りでの作句と得意満面の蕪村その人の自画像の句であろう。脇句の江森月居が蕪村門に入門したのは安永五年(一七七六)年の頃で、入門早々で脇句を担当したこととなる。当時、二十二歳の頃であろう。続く、第三の松村月渓は、月居よりも四歳年長で、呉春の号で知られている、蕪村の画・俳二道のよき後継者であった。この二人がこの歌仙を巻く蕪村の手足となっているように思われる。この歌仙の挙句を担当した吉分大魯は、夜半亭三世を継ぐ高井几董と、夜半亭門の双璧の一人で、この安永六年当時は京都の地を離れ大阪に移住していた頃であろう。この挙句の前の花の句(匂いの花)を担当したのは、几董で蕪村よりも二十四歳も年下ではあるが、蕪村はこの几董が夜半亭三世を継ぐということを条件として、夜半亭二世を継ぐのであった。もう一つの花の座(枝折りの花)を担当した樋口道立は、川越藩松平大和守の京留守居役の樋口家を継いだ名門の出で、当時、夜半亭一門で重きをなしていた。また、月の座を担当した、鉄僧(医師)、正白(後に正巴)、黒柳維駒(父は蕪村門の漢詩人でもある蕪村の良き理解者であった召波)と、この歌仙に名を連ねている連衆は、夜半亭一門の代表的な俳人といってよいのであろう。そして、それは、京都を中心として、大坂・伏見・池田・伊丹・兵庫と次の春興に出てくる夜半亭一門の俳人の世話役ともいうべき方々という趣なのである。

(二十)

春興
うぐひすにうかれ烏のうき世哉         道立
汀より月を動かす蛙(かはづ)かな         正白
もろこしの一里も遠き霞かな           田福
寝んとしては寝ずも居るや春の雨         維駒

墨の香や此(この)梅の奥誰が家       浪花 霞東
春風や縄手過(すぎ)行(ゆく)傀儡師     ゝ  志慶

あたゝかい筈の彼岸の頭巾かな         月居
剰(あまつさへ)松に隣れる柳かな         集馬
雪霜の古兵(ふるつはもの)よ梅の花       自笑

寺に寝て起(おき)おき梅の匂(にほひ)かな  浪花 正名

春雨や隣つからの小豆飯          ゝ 銀獅

遠里に人声こもるかすみかな        ゝ 延年

彳(たたず)めば誰か袖引やみの梅   但出石 乙総
うぐひすや声引(ひき)のばす舌の先    ゝ 霞夫

神風の春かぜさそふ夜明かな          呑獅
蝶々や衛士の箒にとまりけり          呑周
凧引(ひく)や夕がすみたつ処々        声々
うぐひすや茶臼の傍にしゆろ箒         徳野
鶯や折よく簀戸(すど)の明はなし       文革
うぐひすに枕かへすや朝まだき         舞閣
黄鳥(うぐひす)や樹々も色吹(ふく) 真葛原 管鳥
芹喰(くひ)に鶴のをり来る野川哉       春爾

里や春梅の夕と 成(なり)にけり   敏馬浦 士川
夕凪や柳が下の二日月          ゝ  佳則

植木屋の連翹更に黄なる哉           斗文
路斜(ななめ)野ずゑの寺や夕霞        菊尹
梅さくや陶(すゑもの)つくる老が業      舎員
青柳や野ごしの壁の見へがくれ         嬰夫
畠ある屋しき買(かひ)たり梅の花       子曳
二日聞(きき)てうぐひすに今は遠ざかる    柳女
日数経てやゝ痩梅の花咲(さき)ぬ       賀瑞
 一株の梅うつし植てあらたに春を迎ふ 
けさ梅の白きに春を見付(つけ)たり      鉄僧

深屮(くさ)の梅の月夜や竹の闇        月渓
連翹の花ちるや蘭の葉がくれに         晋才

たへず匂ふ梅又もとの香にあらず        旧国

舟遅きおぼろ月也江の南            九湖
比枝下りて西坂本の梅の花           亀郷
培(つちかひ)し樹々の雫や春の雨       万容
梅咲て何やらものをわすれけり         白砧

草臥(くたびれ)てもどる山路の雉子の声  伊丹 東瓦
 尾刕(びしう)の客舎にて
茶売去(さり)て酒売来たり梅の花       百池
黄昏や梅がゝを待(まつ)窗(まど)の人    大魯
白梅や吹(ふか)れ馴(なれ)たる朝嵐     几董   

 夜半亭一門の四十三人の春興の句である。前年の安永五年(一七七六)に、道立の発企により、洛東金福寺内に芭蕉庵を再興して、「写経社会」を結成している。この写経社会の中心人物の道立の句を冒頭にして、その締め括りは、大魯・几董という夜半亭門の双璧の二人の句をもってきている。ここに登場する四十三人衆は夜半亭俳諧の頂点を極めた当時の豪華メンバーと解して差し支えなかろう。この後に、「春風馬堤曲」(十八首)、「澱河歌」(三首)そして「老鶯児」(一首)と続くのである。

(二十一)

 次に続く「春風馬堤曲」については、年次不明二月二十三日付けの柳女・賀瑞宛て蕪村書簡で、この詩を書いた消息を今に残している。

さてもさむき春にて御座候。いかゞ御暮被成候や、御ゆかしき奉存候。しかれば春興小冊漸出板に付、早速御めにかけ申候。外へも乍御面倒早々御達被下度候。延引に及候故、片時はやく御届可被下候。

(訳)さてさて寒い春でございます。いかがお過ごしでございましょうか、お尋ねをする次第です。さて、春興帖小冊、ようやく出版の運びとなりましたので、早速お目にかける次第です。外の方々へもご面倒をおかけしますが早々にお渡しを頂きたく存じます。延引になっておりましたので、片ときも早くお届け頂ければと存じます。

 この柳女・賀瑞は伏見の蕪村門人で、先の歌仙や春興の句にその名が出てくる。そしてこの「春興小冊」こそ、『夜半楽』にほかならない。そして、この『夜半楽』の実際の発行日は二月二十日過ぎで、予定よりも遅れての出版であることが了知されるのである。この年の一月晦日(三十日)付け霞夫宛ての書簡もあり、そこでは、「春帖近日出し早々相下可申候」との文面もあり、蕪村は予定より遅れての出版を気にしていたのであろう。この霞夫宛ての書簡は、「水にちりて花なくなりぬ崖の梅」に関連するもので、当時六十歳を超えた蕪村にとっては、親しい太祗や召波、さらには、絵画のよきライバルであった池大雅を失って、ことのほか老残の思いにかられていたということも察知されるのである。また、それらの親しい人の別れとともに、その前年に、一人娘を嫁がせたみことなどの淋しさをかこっていた書簡なども今に残されているのである。

(二十二)

一 春風馬堤曲 馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也。
余、幼童之時、春日清和の日ニハ、必(かならず)友どちと此堤上にのぼりて遊び候。水ニハ上下ノ船アリ、堤ニハ往来ノ客アリ。其中ニハ、田舎娘の浪花ニ奉公して、かしこく浪花の時勢(はやり)粧(すがた)に倣(なら)ひ、髪すたちも妓家(ぎか)の風情をまなび、□伝しげ太夫の心中のうき名をうらやみ、故郷の兄弟を恥(はぢ)いやしむもの有(あり)。されども、流石(さすが)故園ノ情に不堪(たへず)、偶(たまたま)親里に帰省するあだ者成(なる)べし。浪花を出てより親里迄の道行にて、引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候。実ハ愚老懐旧のやるかたなきよりうめき出(いで)たる実情ニて候。
(訳)一 春風馬堤曲 馬堤は毛馬堤です。すなわち、私の故郷です。私が幼童の頃、春日清和の日には、必ず友達とこの堤に登って遊んだものです。水上には上下に往来する船があり、堤には往来する旅人がありました。その中には、田舎娘で、浪花に奉公に出て、健気にも浪花の流行の風姿を真似て、髪かたちも妓楼の風情そのもので、また、繁太夫節の心中物の浮名を羨んだりして、故郷の田舎くさい兄弟を恥じて蔑む者もおりました。けれども、さすがに望郷の念にかられてのことなのか、故郷に帰省する粋な女性でありましょうか、そんな女性にたまたま遭遇したのです。この春風馬堤曲はそんな浪花を出て故郷に帰る迄の道行を述べたものでして、引き道具の狂言、座元夜半亭とお笑いください。実を言えば、これは愚老の懐旧の念のやるかたなき心の奥底から呻き出たところの実情なのです。

 この書簡で、「馬堤ハ毛馬塘(つつみ)也。則余が故園也」と、蕪村の故園(故郷)は毛馬村であることを蕪村自身はっきりと記録に残しているのである。蕪村の出生地について、摂津の天王寺村とか丹後の与謝とかもいわれているが、この書簡からして摂津国東成郡毛馬村と解して差し支えなかろう。そして、このことは、初期の絵画の「浪華長堤四明」とも一致し、蕪村の胸中には、この「春風馬堤曲」の長堤が常に存在していたということは特記しておく必要があろう。さらに、書簡中の「□伝しげ太夫」の「□」は虫食いで、ここを「正」の「正伝」としたり「阿」として「阿伝」(尾形仂)としたり解されているが、「しげ太夫」は、豊後節の「繁太夫節」であることは異論がなかろう。その繁太夫節は「おさん・茂兵衛 道行」とか心中物を得意として(尾形・前掲書)、それらが背景になっていると解したい。そういう背景にあって、「引(ひき)道具ノ狂言、座元夜半亭と御笑ひ可被下候」と、すなわち、「回り舞台の狂言の座元(興行主)こそ夜半亭蕪村」と、「春風馬堤曲」の真相を蕪村自身がはっきりと記録に残していることも、これまた、特記しておく必要があろう。

(二十三)

 さて、この「春風馬堤曲」について、『蕪村の手紙』(村松友次著)の「春風馬堤曲源流考」(補説三)で、次のように記述している。

※「春風馬堤曲」は「北風老仙をいたむ」と共に日本文学史上特筆すべき異色の名作である。このような斬新な詩形の創出はまさに蕪村の天才によるところであるが、全く無から生じたのではなかろう。それではこれに先行するものが何であったか。すでに「北寿老仙をいたむの項(註・補説一)で触れたが、潁原退蔵は支考に源を発する仮名詩の流れを考え、蕪村の青年時代、江戸俳人の間に流行していた小唄、端唄に類したような一種の韻文の存在を指摘する(註・この潁原退蔵の「春風馬堤曲源流考」については先に全文紹介している)。しかし一見類似しているようであるが、読者の心を打つ詩情の直截さ純粋さにおいて蕪村の作は江戸俳人の諸作とは全く異質と言ってよいほどすぐれている。これらの作よりももっと近い影響をもつ文学作品はなかったか。清水孝之は服部南郭の『朝来詞(ちょうらいし)』(いたこことば)と、荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)を指摘する(鑑賞日本古典文学『蕪村・一茶』および、新潮日本古典集成『与謝蕪村集』)。

 この荻生徂徠の『絶句解』(享保十七序、延享三・宝暦十三版あり)の中の「江南楽八首」(徐禎卿作)の影響(蕪村の「春風馬堤曲」などへの影響)はやはり注目すべきものの一つであろう。

(二十四)

江南楽八首。代内作(江南楽八首。内に代りて作る)

成長して江南に在り 江北に住することを愛せず
家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る
陽春二月の時 桃李(とうり)花参差(しんし)
言(こと)を寄す諸姉妹 悪風をして吹(ふ)か遣(しむ)ること莫(なか)れ
郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す
阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん
野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り
憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを
橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る
情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず
人は言ふ江南薄しと 江南信に自ら楽し
桑を采(とり)て蚕糸を作(な)す 羅綺儂(わ)が着るに任す
郎と水程を計るに 三月定て家に到らん
庭中の赤芍薬 爛漫として斉(ひとし)く花を作(なさ)ん
江南道理長し 荊襄(けいじやう)何れの処にか在る
郎が昨夜の語を聞くに 五月瀟湘(せうしやう)に去(さら)ん

 この徐禎卿の「江南楽八首代内作」について、荻生徂徠は次のように解説をしているという(村松・前掲書)。

江南楽……曲ノ名。西曲ニ江陵楽、寿陽楽有リ。後人之ニ擬シテ設ク。
代内…… 其ノ妻ヲ謂フ。
 八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル。

(二十五)

 この荻生徂徠の、徐禎卿の「江南楽八首代内作」についての解説の、「八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」ということは、まさに、蕪村の「春風馬堤曲」の「十八首須(スベカラ)ク連続スベシ。意思断続。方(マサ)ニ妙ヲ見ル」と置き換えても差し支えないほど、「春風馬堤曲」の本質を言い当てている指摘といえよう。
また、
「江南楽」の「代内作」(内に代りて作る)は、「春風馬堤曲」の「代女述意」(女(じよ)ニ代ハリテ意ヲ述ブ)に、
「江南楽」の「家は閶門(しやうもん)の西に在り 門は双柳樹を垂る」は、
「春風馬堤曲」の「梅は白し浪花橋辺(けうへん)財主の家」に、
「江南楽」の「郷に環(かへ)る信に自ら楽し 近くして望み転於(うたたを)邑(いふ)す」・「阿母、児が帰るを見ば 定て自ら儂(わ)れを持して泣(なか)ん」は、
「春風馬堤曲」の「むかしむかししきりにおもふ慈母の恩」・「慈母の懐袍(くわいほう)別に春あり」・「矯首(けうしゆ)はじめて見る故園の家黄昏(くわうこん)」・「戸に倚(よ)る白髪の人弟を抱(いだ)き我を待(まつ)春又春」に、
「江南楽」の「野鳧(やふ)、雛を生ずる時 乃(すなは)ち河沚(かし)の中に在り」・「憐(あはれ)む可(べ)し羽翼を生じて 各自菰叢(こそう)を恋ふることを」は、
「春風馬堤曲」の「雛ヲ呼ブ籬外(りぐわい)ノ鶏 籬外草(くさ)地ニ満ツ」・「雛飛ビテ籬(かき)ヲ越エント欲ス 籬高ウシテ堕(お)ツルコト三四」に、
「江南楽」の「橘(きつ)、江上の洲(す)に生ず 江を過(すぐ)れば化して枳(き)と為る」・「情性、本と殊(こと)なるに非ず 風土相似ず」は、
「春風馬堤曲」の「春情まなび得たり浪花風流(ぶり)」・「本(もと)をわすれ末を取(とる)接木(つぎき)の梅」に、
「江南楽」の「江南道理長し」は、
「春風馬堤曲」の「春風や堤長うして家遠し」に、
等々、それぞれの「内容」・「語句」・「気分」などの上で多くの類似点を見出すことができるのである(村松・前掲書)。
 さらに、荻生徂徠の『絶句解』では、この「江南楽」に続いて、「隴頭流水ノ歌」(子を失った女の心を作者が代わって詠んだ……代内作……)の詩が続き、これは、「春風馬堤曲」の後に「澱河歌」を続けている蕪村のそれと、まさに、その配列を同じくしているという(松村前掲書)。また、徂徠の『絶句解』に見られる「衛河八絶」(王世貞作)は、服部南郭の『潮来詞』に影響を及ぼし、その南郭の『潮来詞』が、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているだけではなく(清水・前掲書)、この「衛河八絶」は、ストレートとに、蕪村の「春風馬堤曲」に影響を及ぼしているという見方もある(村松・前掲書)。いずれにしろ、蕪村が、『夜半楽』、そして、その「春風馬堤曲」・「澱河歌」を創作した背後には、荻生徂徠の『絶句解』が、常に、蕪村の座右にあったことだけは想像に難くない(村松・前掲書)。

(二十六)

 蕪村が荻生徂徠に傾倒したことについては、先に、「若き日の蕪村」で触れた。

http://yahantei.blogspot.com/2006/07/blog-post_115354603992727424.html

 それは、蕪村が二十歳前後で江戸に出てくる以前の青少年の頃から、そして、この「春風馬堤曲」を執筆する六十歳過ぎての老年期に到るまで、終始、蕪村に大きな影響を与え続けたということは容易に想像できるところのものである。その影響の最たるものは、先に触れた、『蕪村 画俳二道』(瀬木慎一著)の「荻生徂徠の影響」の、次のようなことであった。

○徂徠の学問的立場は、通常「古文辞学」と呼ばれれているように、明の文学における「古文辞」に先例を求めたものであるが、それが単なる復古運動にとどまるものでなかったことは吉川幸次郎の説明によって了解される。
「……精神のもっとも直接的な反映は、言語であるとする思想である。したがって精神の理解は、言語と密着してなすことによってのみ、果たされるとする思想である。」
そこで古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握することをめざしたわけである。その結果明らかになることは、儒者共の説く人為的な道徳律の虚妄さであり、それを排除するとき「理は定準なきなり」という世界観に到達する。つまり、世界は多様性において成り立っているのであり、そこに生きる人間の個々の機能を尊重するという考え方である。「人はみな聖人たるべし」という宋学の命題とは正反対に、徂徠は、「聖人は学びて至るべからず」という方向を提示し、人が個性に生き、学問によって、自己の気質を充実させ、個性を涵養しうる可能性を強調している。

 この「古典を読むばかりでなく、自分も古典の言葉で書き、考え、そしてその精神を把握する」という徂徠の姿勢を、蕪村ほど生涯にわたって実践し続けた俳人にして画人は殆ど希有であるといっても過言ではなかろう。そして、この「春風馬堤曲」そのものが、その徂徠の『絶句解』所収の「自分も古典(「江南楽八首」(徐禎卿作)など)の言葉で書き、考え、そして、その精神を把握した」、その結果の類い希なる異色の俳詩という創造の世界にほかならない。

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