金曜日, 12月 07, 2007

虚子の亡霊(一~から十三)

虚子の亡霊(一)

「虚子の亡霊」序

明治・大正・昭和の三代にわたり日本俳壇の頂点に君臨した「ホトトギス」王国の巨匠、高浜虚子が没したのは、昭和三十四年(一九五九)四月八日のことであった。この年の主な物故者を見ると、下記のとおりで、つくづくとその時代のことが蘇ってくる。

鳩山一郎[政治家](76歳、3.7)、 高浜虚子[俳人](85歳、4.8)、 フランク・ロイド・ライト[建築家](89歳、4.9)、 永井荷風[作家](79歳、4.30)、 ジョン・F・ダレス(71歳、5.24)、 芦田均[政治家](71歳、6.20)、 ビリー・ホリデー[歌手](44歳、7.17)、 阿部次郎[作家](76歳、10.20)、 北大路魯山人[陶芸家](76歳、12.21)

それよりもなによりも、この年は、虚子が亡くなった二日後の四月十日に、皇太子明仁(現=天皇)と正田美智子さんとの結婚式が行われ、ご夫妻を乗せた馬車を中心としたパレードが皇居から東宮仮御所までを進み、沿道には五十三万人が詰めかけた、あの今でもテレビなどで目にする、昭和のトピックス的な年でもあった。

さて、その虚子が亡くなった昭和三十四年四月一日発行の「ホトトギス」(第六十二巻第四号・通算七百四十八号)の目次を下記のアドレスで目にすることができる(そこに、「謹祝 皇太子殿下御成婚」とある)。

「ホトトギス」「軌跡」「過去の俳誌より」「第六十二巻」

http://www.hototogisu.co.jp/

そして、それから、平成八年(十二月)になって、その「ホトトギス」は、創刊百年を迎え、なんと千二百号に達して、それを記念して、現在の稲畑汀子主宰の編著によって、『よみもの ホトトギス百年史』が刊行された。それに収載されている「ホトトギス略年譜」(付録二)は、明治三十年(一八九七)から平成八年(一九九六)までの、まさに、一世紀にわたる、「ホトトギス」の軌跡だけではなく、日本俳壇の軌跡そのものの記録といえるであろう。そして、この「ホトトギスの略年譜」も、下記のアドレスで目にすることができるという、これまた、まさに、「ネット時代」に突入した思いを実感するのである。

「ホトトギス」「軌跡」「略年譜」「百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

これらの「ホトトギス」の軌跡の全貌を垣間見たとき、虚子生存中も、そして、虚子が没した今日でも、まさに、「虚子の実像と虚像」とは、あたかも、「虚子の亡霊」のように、「ホトトギス」王国、いや、日本俳壇、いや、「ハイク・ワールド」という地球規模にまで、覆い尽くしているという思いを、これまた実感するのである。
そして、これまで、「虚子の実像と虚像」、あるいは、「虚子周辺の俳人群像」ということで、いわば、「ホトトギス略年譜」でいえば、そのスタートの明治三十年(一八九七)から年代順に追っていって、何時も、昭和六年(一九三一)当時の、秋桜子の「ホトトギス」離脱、そして、昭和三十四年の、虚子没あたりまでで、それを一つのゴール地点としてきたが、どうも、そういうことではなく、それは、エンドレス的に、平成十七年の、今日まで、あたかも、「虚子の亡霊」のように、「虚子の実像と虚像」とが、席巻しているという思いを深くするのである。であるが故に、ここしばらくは、平成十七年の現時点はともかくとして、「ホトトギス百年史」記載されている、最終年度の平成八年(一九九六)をスタート地点として、逆年次的に、そして、「虚子の実像と虚像」というよりも、もっとショッキング的な「虚子の亡霊」というような視点でのアプローチをしてみたいという衝動にかられたのである。その情報源は、これまた、「虚子の亡霊」の名に相応しく、すべからく、「ホトトギス」社の、「ホトトギス」の公表している、その「ネット記事」(そして、それらが活字化されている『よみものホトトギス百年史』)とその「ネット記事」に関連して、現在のネットで目にすることのできる記事を中心として、その功罪の検証と関連しての問題提起などを「備忘録」のような形でメモをしておきたいという思いなのである。

虚子の亡霊(二)

(平成元年~八年)その一「季題・季語論争」
「ホトトギス 百年史」 
http://www.hototogisu.co.jp/

平成元年(1989)
三月 『汀子第三句集』刊(日本伝統俳句協会)。
四月 千百号記念『ホトトギス同人句集(四)』刊。
八月 日本伝統俳句協会主催で「国際俳句シンポジウム山中湖」開催(以後隔年開催)。表記を俳句は歴史的かな遣い旧漢字とし、文章は現代かな遣い常用漢字とする。
平成二年(1990)
三月 汀子、兜太と季題論争(朝日新聞)。
六月 汀子英国アサヒカルチャー開講のためロンドンにて講演。
十月 『高濱年尾の世界』刊(梅里書房)。
十二月 汀子トルコ・イスタンブールの旅。
平成三年(1991)
三月 池内友次郎没。「花鳥来」創刊。
十月 波多野爽波没。
十一月 汀子大阪市民文化功労賞受賞。佐藤一村没。
十二月 春陽堂俳句文庫『稲畑汀子』刊。「青」終刊。
平成四年(1992)
一月 汀子「虚子の足跡」連載開始。
六月 「夏至」創刊。
八月 今井つる女没。
十月 合田丁字路、田畑比古、今村青魚没。汀子日本独文学会「筑波シンポジウム」基調講演「俳句の特殊性と普遍性」。
平成五年(1993)
一月 俳句を常用漢字歴史的かな遣いとする。野分会一句百言開始。
三月 汀子地球ボランティア協会会長となる。
五月 第三回ミュンヘン独日俳句ゼミナールで汀子講演「俳句の本質」。
十月 「対談ホトトギス俳句百年史」連載始まる。「国際俳句シンポジウム芦屋」にて汀子講演「俳句を通して見た自然と人間」。
十一月 地球ボランティア協会としてフィリピン・アキノ元大統領を私邸に招く。
平成六年(1994)
三月 山口誓子没。
四月 汀子NHK俳壇選者(三年間)。
十一月 柿衛文庫開館十周年記念文化講演で汀子岡田節人と対談「生命をみつめて」。
十二月 虚子記念館設立準備委員会発足。
平成七年(1995)
一月 ホトトギス同人会長大久保橙青より伊藤柏翠へ。「円虹」創刊。阪神淡路大震災。汀子朝日新聞「阪神大震災を詠む」にエッセイ「春隣」を掲載。『高濱年尾全集』刊(梅里書房・全八巻)。
十月 ホトトギス百年記念として『ホトトギス雑詠巻頭句集』刊(小学館)。
十一月 『ホトトギス雑詠句評会抄』刊(小学館)汀子兵庫県文化賞受賞。
十二月 『ホトトギス名作文学集』刊(小学館)。
平成八年(1996)
九月 汀子第四句集『障子明かり』刊(角川書房)。
十月 「ホトトギス」創刊百年祝賀会。
十二月 「ホトトギス」創刊百年、千二百号。

上記の「平成二年 三月  汀子、兜太と季題論争(朝日新聞)」に関連して、次のようなネット記事を目にした。

http://www.linelabo.com/bk/2004/bk0406b.htm

※6月26日 『日本経済新聞』04.06.26付(文化欄)に「季語改革論争 歳時記に新暦、無季・通季も (賛)季節のずれ解消(否)伝統破壊の暴挙」。【立春は春から冬、朝顔は秋から夏へ。現代感覚に合わせた季語の改革が物議をかもしている。親しみやすい、いや伝統破壊の暴挙だ――と賛否をめぐり舌戦が繰り広げられている。日本人の生活文化に深くかかわる季語論争の行方から目が離せない。/「思い切って現代生活に合った感覚で季語をとらえ返すことが大事。たとえば立春は冬の季節の中で春の到来を感じる季語でしょう」/戦後、前衛俳句を唱導した俳人で現代俳句協会の金子兜太氏はそう語る。確かに新刊の同協会編『現代俳句歳時記』(全五冊、学研)は俳壇の常識を覆す内容だった。改訂委員長は俳人の宇多喜代子氏。〔……〕/編集にあたった俳人、村井和一氏は「理科年表を編集の参考にしたが、全国的に二月はまだ寒く、立春のベースは冬。原爆忌も広島(八月六日)が夏で長崎(九日)が秋というおかしな状態が解消する」と効用を語る。〔……〕/正岡子規に始まる近代俳句を大成したのは弟子の高浜虚子。子規から継承した「ホトトギス」は俳壇の中核誌となった。俳句を花鳥諷詠の有季定型詩とした虚子は一九三四年に『新歳時記』を世に出す。虚子は古式にのっとって季題と称し、その取捨の基準を掲げた。現実に行われなくても、また重要でない行事でも詩趣があるものは採るが、語調の悪いものは捨てる、などとした。/虚子の孫でホトトギスを主宰する俳人、稲畑汀子氏は真っ向から『現代俳句歳時記』を批判する。「俳句は季題を詠む詩なのです。だから無季を容認した歳時記はあり得ない。確かに行事は変化していますが、少しずつ直すべきで、一気に新暦にすることにも反対。伝統は大事にしたい」〔……〕/そもそも現代俳句協会が歳時記に新暦を採用したのは五年前。あくまで会員向けで書店に並ばなかったにもかかわらず俳壇は大騒ぎに。「季語は日本人の美意識のふるいにかけられ、磨き抜かれた言葉の集大成」(鷹羽氏)と伝統破壊を危惧する声があがった。/協会は今回、過去の歳時記が「郷愁の中の時間」になっている現実を直視する宇多氏のあとがきを掲載、芥川龍之介の「季題無用論」なども引き、季語改革の姿勢を鮮明にした。新暦旧暦論争にこれで一気に火がつく可能性がある。】。

(メモ)汀子さんは、「伝統俳句協会」、そして、兜太さんは、「現代俳句協会」のトップの方で、こと、「季語・季題」に関連して、このお二人が相互に是認し合う場面というは、土台無理なことであろう。このお二人の論争に関連して、このお二人とも、江戸時代の「芭蕉・蕪村・一茶」などの俳句を語りながら、彼等が身を置いていた「俳諧」(連句)については、ほとんど等閑視して、その上で「季題・季語」論争をしていることが、どうにも歯がゆいのである。その上で、兜太さんは、「現代俳句」ということで、「悪しき伝統をものともせず、新しい時代にあった俳句革新」ということで、「季語・季題」に新しい息吹を吹き込もうとする姿勢には、共感することはあれ、こと、これを拒む理由は、さらさらない。そして、汀子さんには、「伝統俳句」と明言する以上、兜太さんらとの論争などに巻き込まれず、ひたすら、連句に造詣の深かった、虚子・年尾らの「伝統俳句」の深化と併せ、現在の、「連句協会」への接近などを試みて、真に、「日本伝統俳句協会」設立趣意書の、「芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句」の、その「芭蕉が詠い」の、その「俳諧」(連句)の「正しい道筋」、を示して欲しいことと、その上で、「季語は日本人の美意識のふるいにかけられ、磨き抜かれた言葉の集大成」(鷹羽氏)という姿勢を一段と強めて欲しいという思いを深くするのである。そして、「ホトトギス」には、虚子・年尾の時代から、連句に造詣の深い方が多数おられて、その土壌は豊かであるということと、これは、汀子主宰を始め、それを取り巻く若きスタッフの主要な課題であることを、特にメモをしておきたいのである。これらのことに関連して、歌人の方の、次のネット記事は、参考になるものであろう。

http://www.sweetswan.com/19XX/11.html

※「俳句研究」10月号の鼎談「魂の叫び・『仰臥漫録』と子規」を読む。坪内稔典、稲畑汀子、稲岡長の鼎談で、テーマは『仰臥漫録』の自筆本が発見されたことから、あらためて子規を見直して、語り合おうというもの。三人三様の正岡子規へのこだわりのスタンスの違いが、鼎談を活性化させていて、退屈することなく一気に読めた。これは、他の随筆とちがって、もともと発表する気持ちなしの、心おぼえ的に子規が書いていたものを、虚子が「ホトトギス」に載せたいとぃって、断られたといういきさつがあったとのこと。虚子がその話をしてからは、子規にも、自分の死後、発表されるかもしれないという気持ちがわいて、多少、筆致が読者を意識したものになっているかもしれない、などとの興味深い指摘がある。

虚子に見せないために、子規はいつも、この帳面を書き終わったら、すぐに布団の下に隠していたので、自筆本の頁はそりかえっているそうだ。子規が病床に居ながら、新聞社から40円、「ホトトギス」から10円の月給をもらっていて、一家を支えていることにたいして大きなプライドを持っていたというのも、言われてみれば、ほほえましくも、痛切にも思え

る。帰宅後、飯島耕一の「俳句の国徘徊記」の残りを読んでしまう。定型論争の前の著書になるわけだが、飯島が赤黄男や白泉になじんでゆき同時に、森澄雄や飯田龍太の定型の整合美にもひかれていく過程がよくわかる。わからかいのは、夏石番矢の『メトロポリティック』の例の「夏石番矢」という名前入りの作品を面白がっていること。私にはこのあたりの夏石の試行は、まったく読むにたえない。しかし、この時代に現代詩人飯島耕一が、これだけ真剣に俳句を読み、このような、批評的なエッセイを書きつづけていたということには大きな意義があると思う。現在の40代くらいの詩人で、定型詩に興味を抱き、きちんと読んでいる人はいるのだろうか。少なくとも、作品の読みの相互侵犯は必要だと思うので、私も俳句へ川柳へ現代詩へと、できるだけ、好奇心の火を燃やし続けているつもりなのだが。

○どろやなぎなまやさしくも菩薩見え/飯島晴子『朱田』

※帰宅してから、芥川龍之介の「芭蕉雑記」及び「続芭蕉雑記」を読む。芥川の世代の文士は、みな芭蕉の連句などは読み込んでいるのが当然らしい。「発句私見」という文章には
○「発句は必ずしも季題を要しない」と言い切っているのが面白い。

虚子の亡霊(三)

(平成元年~八年)その二「俳句・連句の表記関連」

「ホトトギス 百年史」 
http://www.hototogisu.co.jp/

上記の「平成元年八月 表記を俳句は歴史的かな遣い旧漢字とし、文章は現代かな遣い常用漢字とする」・「平成五年 一月 俳句を常用漢字歴史的かな遣いとする」に関連して、「現代俳句協会」系の「俳句の創作と研究のページ」で、「俳句表記と個」とだいする次のようなネット記事を目にした。

http://homepage1.nifty.com/haiku-souken/report&essay/ani40.htm

※俳句と言葉について考えるとき、表記の面と音声の面についてそれぞれ分けて考えるのが妥当と思われるが、ここでは筆者が当面の課題としている表記の面の問題について述べてみたい。 俳句は短詩形文学の中でも最短であるがゆえに、文字の視覚効果が出やすいジャンルであろう。たとえばもし、韓国においてハングル表記にこだわったように、日本語が漢字表記をやめてしまっていたら、おそらく今のような形で俳句は存在しなかったのではないか。漢字とひらがなは脳内でそれぞれ別の場所で処理されているとする説には根拠が無いらしいが、書道に顕著にあらわれるように、我々は日本語において文字を単なる記号と割り切っていない。肉筆であれば筆跡や書体。活字であれば書体の選択、さらに漢字と仮名の選択、新仮名と旧仮名の選択、繰り返し記号の使用の有無等々、文字の組み合わせによって生み出されるたたずまいを重視し言葉を紡いでいく。このセンスは遺伝子の一種とさえ言っても差し支えないだろう。
 一方で、幕末、前島密が大まじめに「漢字御廃止之儀」を慶喜に建白しなければならなかったように、また、明治期の国字改良、言文一致運動、戦後の旧かな表記廃止等がその運動の当事者にとっては必然と信じられたように、さらにさかのぼれば、古代の権力者において「真名」が漢文で「仮名」が和語であることが当然と思われていたように、政治情勢の変化に言葉は絶えず揺さぶられ、その時代に生きる人々に見合った(とされる)性能が求められる。例えばかつて、すべて日本語をアルファベットで書くべきだ、とする運動があったように、また、日本語を捨て英語を話すべきだ、と考える人々がいるように、鳥瞰的に見ればおよそ愚かしい論であっても、時代の要請から日本語の改造をしようとする動きはこれからも発生するし、言語とはそのようなものだ。
 さて、それらのすべてを日本語という言葉の総体としてみるとき、俳句はそのなかから俳人が俳句にふさわしいとした表記法を選んでいくことになるわけだが、先に述べた情勢による言葉の変化を詩的言語としての俳句の言葉とは次元の違う物として峻別することは事実上不可能であろう。たとえば戦後の旧仮名廃止は文化の継続から見れば明らかに無茶な行為だが、だからといって俳句の仮名表記は新仮名は全く不適切で旧仮名が適切であるかといえば、たしかに歴史の積み重ねがあってこその表現となれば、新仮名にできないことが多いのは当然であるが、逆に旧仮名にポップな表現が似合うとは思えない。それはそのようにならされてしまった、いわば気分のようなものだが、表記には純粋に芸術論に基づくだけではない不易と流行のようなものがある、と言えよう。
 さてそこで、一般的に、一俳句作品のなかに新仮名と旧仮名が混じることは許されないとされる。それは文法が紛らわしくなるおそれがあるからもっともだが、では、一作家が新仮名と旧仮名の作品を同時に詠むのはいけないことだとされるのはなぜなのだろうか。詠みたいテーマごとに似合う仮名遣いがあると思うのだが、それを選択したいのにどちらかに統一しなければいけないというのはひどく不自由だ。不似合いな仮名遣いで一句の作品の完成度を落とすことになるのではないのか。仮名遣いも個性というなら、そんな個性が果たして本当に必要なのか、と問おう。
 たとえば種田山頭火の最後の句集『鴉』を調べていた時、雑誌に発表した段階や公にする予定ではない記録、私信等のなかでは新仮名遣いであった句を、句集にまとめるにあたって漢字の使用頻度を増やし、新仮名を旧仮名に改める傾向が見受けられた。戦前の作家とはいえ、自由俳句を標榜する彼にしてこうである。果たしてこれは「推敲」なのだろうか。好意的にみれば、まさに冒頭述べた文字の視覚効果の故の推敲である。すこしでもかっこよく見える体裁を整え、さらに旧かな表記の系譜に連なることで、芭蕉以来の俳句の歴史の流れの中に自作をゆだねてその評価を待つ覚悟だったと考えられよう。が、逆に言えば、一句一句の完成の追求ではなく、山頭火という個人を世に評価されんが為に表記法を統一している訳で、一個人には一表記法しか許されない掟のあるごとく見え、結局言葉に縛られ絡め取られてしまっているのではないか。
 やや歴史をさかのぼると、たとえば旧仮名表記の歌で『万葉集』の「春過而夏来良之白妙能衣乾有天之香来山」〔巻一の28〕が、平安末から江戸時代にいたるまで、その時代の読み手によって、その時代においてふさわしいと考えられた読み方がなされてきたわけで(「春過ぎて夏来にけらし白妙の衣乾したり天のかぐ山」、「春過ぎて夏ぞ来ぬらし白妙の衣乾かす天のかぐ山」、春過ぎて夏来にけらし白妙の衣干すてふ天の香具山」、「春過ぎて夏来たるらし白妙の衣干したり天の香具山」等)、結果として表記も異なっているが、だからといって派生した歌は唯一の起源一つを残してあとはすべて誤り、というような質のものではなかったはずだ。それにこだわるのは、「作品」とそれを所有するべき唯一の「作者」に価値を置きたいからこそであり、近代的風景の所産に他ならない。
 筆者の問題視する旧仮名、新仮名の一作家の使い分けは、不易流行の問題ではなく、いまだ「近代的自我」意識に束縛されるかされないかということにつながっていくのではないか。例えば私は、書きたいように書いていたものが後代の読み手に伝わったとして、それらがまたその時代にあった表記に書きかえ読みかえされて行けばいいものなのではないのか、と思っている。一作家として同時代に評価される個性の一貫性より、一つ一つの作品の完成度の追求を優先したい。少なくとも作句においてはそのような意識の元にあってよいと考えているのだが、それは果たして没個性的な姿勢なのだろうか。

(メモ)『よみものホトトギス百年史』に、「平成元年八月、汀子は『ホトトギス』に用いる表記を、俳句については歴史的かな遣い・旧漢字とし、文章については現代かな遣い・常用漢字とすることに踏み切った。さらに平成五年一月には、俳句を常用漢字・歴史的かな遣いとすることに再度変更している」との記載が見られる。この「俳句・連句の表記関連」の課題は、上記の「俳句表記と個」のレポートにあるとおり、どうにも悩ましいものの一つなのであるが、併せて、ネット時代の到来に関連して、「縦書き・横書き」の表記なども検討されて然るべきであろう。これらは、現在の、「伝統俳句協会」・「俳人協会」・「現代俳句協会」の何れの協会にても、それぞれが、それぞれに、検討すべきものなのであろうが、インターネット関連は、「横書き・常用漢字・現代かな遣い」を原則としても、何ら差し支えないような印象をいだいている。そして、上記の、「詠みたいテーマごとに似合う仮名遣いがあると思うのだが、それを選択したいのにどちらかに統一しなければいけないというのはひどく不自由だ。不似合いな仮名遣いで一句の作品の完成度を落とすことになるのではないのか。仮名遣いも個性というなら、そんな個性が果たして本当に必要なのか」という指摘は、ここ数年来抱いていた問題意識で、その問題意識と、その方向付けの示唆に賛意を表しておきたい。なお、「現代かな遣い」に比しての「歴史的かな遣い」の特徴は、次のものなどが参考となる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E7%9A%84%E4%BB%AE%E5%90%8D%E9%81%A3

■「ゐ」(ヰ)、「ゑ」(ヱ)を使用する。
■連濁・複合語以外でも「ぢ・づ」を使用する。
■助詞以外でも「を」を使用する。
■拗音・促音を小字で表記しない(外来語は別)。
■語中語尾の「はひふへほ」は「ワイウエオ」に発音が変化(ハ行転呼)したが、歴史的仮名遣いでは発音の変化に関係なく「はひふへほ」と表記する。
■「イ」の発音に対し「い / ひ / ゐ」の三通りの表記がある。
■「エ」の発音に対し「え / へ / ゑ」の三通りの表記がある。
■「オ」の発音に対し「お / ほ / を」の三通りの表記がある。
■長音の表記に独自の規則がある。
■活用語の活用語尾の仮名遣は文法を発音より優先する。 - 例:「笑オー」(笑ウの未然形+助詞ウ)を現代仮名遣では「笑おう」とするが、歴史的仮名遣では「笑はう」とする。現代仮名遣では「笑おう」の表記に合せて「笑う」の未然形を「笑わ/笑お」の二種類とし、歴史的仮名遣では「笑ふ」の未然形は「笑は」との文法規則に合せて「笑オー」を「笑はう」と表記するのである。
■発音に対する仮名遣の候補が複数ある場合、どれを選択するかは語源や古くからの慣例によって決められる。語源研究の進歩により、正しいとされる仮名遣が変る事もある。 - 例:山路は「やまぢ」。小路は「こうぢ」。道のチと同根だから。また、紫陽花は「あぢさゐ」となる。語源は諸説あって不明だが、「あぢさゐ」の表記を用いる。
■歴史的仮名遣の中にも揺れのあるものが存在し、これを疑問仮名遣とする事がある。 - 現在では訓点語学や上代語研究の発達により、大半は正しい表記(より古い時代に使用=語源に近いと考察される)が判明している。ただし誤用による仮名遣のうち、特に広く一般に使用されるものを許容仮名遣とすることがある。例:「或いは / 或ひは / 或ゐは」→「或いは」。「用ゐる / 用ひる」→「用ゐる」。「つくえ / つくゑ」(机)→「つくえ」。
■「泥鰌」を「どぜう」としたり、「知らねえ」を「知らねへ」としたりするのは、歴史的仮名遣ではなく、江戸時代の俗用表記法であり、特にその根拠はない

虚子の亡霊(四)

(平成元年~八年)その三「阪神大震災を詠む」

「ホトトギス 百年史」 
http://www.hototogisu.co.jp/

平成七年(1995)
一月 ホトトギス同人会長大久保橙青より伊藤柏翠へ。「円虹」創刊。阪神淡路大震災。汀子朝日新聞「阪神大震災を詠む」にエッセイ「春隣」を掲載。『高濱年尾全集』刊(梅里書房・全八巻)。

(メモ)平成七年一月十七日午前五時四十六分に起きた阪神大震災は、犠牲者五千四百余人を出す大惨事となった。この時の汀子さんのエッセイが朝日新聞に掲載された。
「洋服を着たまま、テレビをつけたまま、夜も電灯を消さず、余震に脅えながらパニックに陥ろうとするのに耐えた。気がつくと三日目の朝になっていた。この日が大寒であることを思い出し、俳句を作ろうと思い立った。(略) 『悴みて地震の夜明を待つばかり』(略)」。
後に、朝日新聞では、この阪神大震災の短歌・俳句を募集し、『阪神大震災を詠む』、そして、著名人による、『悲傷と鎮魂 阪神大震災を詠む』(短歌・俳句・詩・随想)の図書が刊行された。その『悲傷と鎮魂 阪神大震災を詠む』に掲載された主な俳人の句は次のとおりである。

○ 地震(なゐ)に根を傷(いた)めし並木下萌(も)ゆる 稲畑汀子(「伝統俳句協会」)
○ 天変も地異もおさまり春立てり 伊藤柏翠(「伝統俳句協会」)
○ 白犀に出合いし神戸壊えたり  金子兜太(「現代俳句協会」)
○ 枕に棲みつく地震の神戸をいかんせん  夏石番矢(「現代俳句協会」)
○ 大寒や水を慾るひと火を慾るひと    鷹羽狩行(「俳人協会」)
○ 白梅や天没地没虚空没         永田耕衣

ここで、『阪神大震災を詠む』より、汀子・兜太両氏の「選を終えて」も記しておこう。

汀子 (前略) 応募作品の全てと言ってよい程、生々しく真実を訴える力強い響きが感じられるのに、それがよく理解出来て読む者の心を打つ作品と、分かりらくく情景が眼に浮かんで来ない句があった。両者の違いはただ客観的であるかどうかという点にあったように思われる。(中略) 更に言えば、人間は希望を持たずには生きられない。悲残な災害を詠んでいても、ふと眼を止めた季題に希望を託して句に出会うとこの作者はもう大丈夫、頑張っていけるとほっとする。そんな句こそ多くの方の救いになると選んだ積りである。今必要なのは希望と救いである。俳句は極楽の文学であるが故に大衆の文学なのである。

兜太 (前略) ほとんどの人が、吐き出すように、叩きつけるように、叫ぶように書いていた。冒頭の堀口氏の句(註・「神戸何処へゆきし神戸は厳寒なり」)にしても、詠嘆ではなく、痛恨の叫びというべし。(中略) とにかま書く。俳句があるから書く、という衝動の切実さまでが伝わってきて、俳句が、日常詩として人々の愛好を得てきて、この極限状況の日常でも力になっていることを、わたしは知らされたのである。そして、田村氏(註・「もらひ風呂総身の恐怖流しけり」)や盛岡氏(註・「火事あとに真白き乳を哭きて捨てつ」)の作品に季語がないことを、後になって気づくほどだった。


 これらの「選を終えて」に接すると、汀子・兜太両氏の俳句信条の相違が顕著に浮かび揚ってくる。そして、その上で、掲出の、それぞれの俳人の句に接すると、それぞれの、俳句信条とその創作活動というものを垣間見る思いをするのであるが、この掲出句の中では、一番の長老格の永田耕衣さんのものが、他を圧倒している感を大にする。そして、耕衣さんにとっては、「伝統俳句」も「現代俳句」も眼中にないことが、一目瞭然に訴えかけてくるような思いがするのである。

ここで、次のアドレスのネット記事から、「伝統俳句協会」・「現代俳句協会」からも距離を置いていた、永田耕衣関連の、示唆の含んだ次の記述を掲載しておきたい。

(永田耕衣の生涯)
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-nagata/nagata1.htm

※写生とは違う俳句へ
「俳壇で主流を占めてきたのは、高浜虚子が主催する「ホトトギス」派で、正岡子規の写生説を忠実に守り、花鳥諷詠を中心に置いた俳句づくりをというものであったが、一部の俳人たちはそれにあきたらず、昭和に入ってからの社会不安や軍国主義のひろがりの中で、人生や社会をも見つめ、また写生にとらわれぬ句をと、「ホトトギス」から脱退、「京大俳句」「旗艦」「馬酔木」(あしび)などの句誌を出し、俳句革新運動をはじめた。季語のない句をつくるなどもし、「新興俳句」の名で呼ばれた。 人間として爆発するように生きたいとする耕衣は、花鳥諷詠の「ホトトギス」派とはもともと波長が合わなかったが、といって「革新運動」などという組織的な活動に加わるのもにが手。しかし、その新しい運動の中で、自分の句がどう評価されるかには興味があり、日野草城主催の「旗艦」に投句してみた。だが、思ったほどの反応がないため、一年ほどでやめ、今度は石田波郷主催の「鶴」に投句したところ、三ケ月で同人に推された。」
※自由を縛る「天狼」に嫌気
「その句が純ホトトギス系でないという理由で、播磨の俳誌グループへの入会を断られことが戦前にはあったが、戦後、また似たようなことが始まったのか、と。 「マルマル人間」
結社があって俳人があるわけでなく、俳人たちが「マルマル人間」として自由に集まる組織が結社のはずであり、それ以上のものでも、それ以下のものでもないはずではないか -。 三鬼との間に、こうして思いがけぬ隙間風が吹くようになった。」

虚子の亡霊(五)

(平成元年~八年)その五「ホトトギスと山口誓子」

「ホトトギス 百年史」 
http://www.hototogisu.co.jp/

平成六年(1994) 三月 山口誓子没。

(メモ)いわゆる「「四S」の俳人のうち、阿波野青畝(せいほ)、水原秋桜子(しゅおうし)そして高野素十(すじゅう)の三人については、先に触れた。

阿波野青畝
http://yahantei.blogspot.com/2007/11/blog-post.html
水原秋桜子
http://yahantei.blogspot.com/2007/10/blog-post_08.html
高野素十
http://yahantei.blogspot.com/2007/10/blog-post.html

残り、もう一人の、山口誓子については、どうにも、虚子以上に、いわば、「誓子の実像と虚像」とが肥大化して、なかなか、その正体がつかめないのである。その誓子が、平成六年に、その九十三年の生涯を閉じた。そして、『よみもの ホトトギス百年史』によると、汀子が中心になって設立された、「日本伝統俳句協会」の顧問を、青畝と共に引受けて、その一翼を担っていたという。素十と青畝とは、虚子、そして、「ホトトギス」との絆は強く、素十亡きあと、青畝がその一翼を担うことはよく理解できるところであるが、「ホトトギス」と一定の距離を置いていた、新興俳句の延長線上にある「根源俳句」の牙城の「天狼」の主宰者の誓子が、汀子の「日本伝統俳句協会」の顧問要請を引受けていたということについては、誓子の不可解さを倍増するようにも思えたのである。この、昭和六十二年の、汀子の「日本伝統俳句協会」の設立については、『よみもの ホトトギス百年史』によると、実に、ドラマチックなのであるが、後で、触れることとして、誓子は、無季俳句派とは常に一線を画し、有季定型派の総帥でもあり、その一点においては、汀子、そして、その「ホトトギス」俳句とは同じ土俵上にあったということはいえるであろう。しかし、「俳句は極楽の文学(文芸)」とする「ホトトギス」俳句と「近代芸術としての俳句の確立」をめざしている「天狼」俳句とは、最も相反する位置にあり、汀子が誓子の「天狼」俳句を認めることは、「ホトトギス」俳句の土台をも揺るがし兼ねないものを含んでいるのである。ここらへんのところを、
下記の快心のレポート「誓子の使命―「天狼」創刊とそれ以降―」によって、汀子周辺も亡き誓子周辺も、じっくりと、今後の「有季定型」俳句の行方を検証して欲しいと願うのである。

http://homepage2.nifty.com/karakkaze/seishinosimei.html

誓子の使命―「天狼」創刊とそれ以降―

(「俳壇」2001年11月号・特集「生誕百年 山口誓子俳句との戦い」)

 昭和二十三年(一九四八)一月の「天狼」創刊から晩年までの大きな範囲の中で山口誓子を論じよ、というのが私に与えられた課題である。「天狼」創刊時の誓子は四十七歳、そして九十三歳の長寿を全うして世を去ったのが平成六年(一九九四)のことであるから、ほぼ半世紀にわたろうかという長い歳月が、その間に流れていることになる。句集も『青女』(昭和二十六年)、『和服』(昭和三十年)、『構橋』『方位』『青銅』(ともに昭和四十二年)、『一隅』(昭和五十一年)、『不動』(昭和五十二年)、『雪嶽』(昭和五十九年)、『紅日』(平成三年)の九冊が生前に、『大洋』(平成六年)が没後間もなく刊行されている。これだけでも膨大な句業であり、限られた紙幅では容易に論じ得ないが、少なくとも誓子の後半生における最大のピークである「天狼」創刊と「根源俳句」の展開については、できる限り述べたいと思う。

 「天狼」創刊と根源俳句、及び句集『青女』『和服』

 第一句集『凍港』(昭和七年)を皮切りに、表現領域の拡大に対する果敢な試みを立て続けに展開し、それによってまったく新しい近代的抒情を俳句にもたらした誓子であるが、それらの仕事を生涯における第一のピークとすれば、「天狼」創刊と「根源俳句」の展開は、その第二のピークと位置づけることができるであろう。

 そこで、順序としてその前後の俳壇状況をざっと見ておきたいと思うが、まずは昭和二十一年に桑原武夫が発表した「第二芸術ー現代俳句について」(「世界」十一月号)をきっかけとした、いわゆる「第二芸術」ショックを挙げておかねばならない。これに対し誓子は、翌二十二年一月六日付の「大阪毎日新聞」に「桑原武夫氏へ」と題した一文を寄せ、俳人側から最初の反論をおこなっているが、さらに同年の「現代俳句」四月号に「俳句の命脈」を執筆、全人格をかけてこれに応えるという態度をいち早く鮮明にしたのであった。
 俳句は回顧に生きるよりも近代芸術として刻々新しく生きなければならぬ。

(「桑原武夫氏へ」)
 現代俳句の詠ひ得ることはせいぜい現実の新しさによつて支へられた人間の新しさ、個性の新しさであらう。「問題」の近代ではなく、「人間」の近代であらう。しかし、「人間」の近代が詠へたとすれば立派な近代芸術ではないか。(「俳句の命脈」)

 これらの主張には、近代芸術としての俳句の確立を目指す誓子の使命感にも似た思いが感じられるが、反面、〈俳句の近代化を急ぎ過ぎている〉のではないか、という印象もなしとしない。この点については賛否の分かれるところだろうが、いずれにせよ、こうした思いがやがて「俳句を俳句たらしめる〈根源〉とは何か」という問題意識へとつながり、その実作の場としての「天狼」を生み出す要因となったであろうことは想像に難くない。

 私は現下の俳句雑誌に、「酷烈なる俳句精神」乏しく、「鬱然たる俳壇的権威」なきを嘆ずるが故に、それ等欠くるところを「天狼」に備へしめようと思ふ。そは先ず、同人の作品を以て実現せられねばならない。詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した。(「出発の言葉」)

 あまりにも名高い「天狼」創刊の辞であるが、これを契機にして、以後六年ほどの間に、「根源俳句」をめぐり様々な形での批判と共感が展開されたのであった。しかしながら、実際には根源俳句に対する考え方は「天狼」内部においてさえまちまちであり、その結果、それが俳句理念として一つにまとめ上げられるということにはならなかった。だいいち、当の誓子の発言自体が「酷烈なる俳句精神」の昂揚を第一義としたものであり、〈根源〉については何ら具体的な言及がなされていないのである。ここでいささか想像をたくましくすれば、創刊号の冒頭から誓子に「詩友の多くは、人生に労苦し齢を重ぬるとともに、俳句のきびしさ、俳句の深まりが、何を根源とし、如何にして現るゝかを体得した」と断定された以上、「天狼」の作家達は皆、嫌でも「俳句のきびしさ、俳句の深まり」をもたらす〈根源〉について考えをめぐらし、さらに実作においてそれを示すことが緊急の課題となったことであろう。そして、西東三鬼にしろ平畑静塔にしろ永田耕衣にしろ、それぞれがそれぞれの方法で、誓子から突き付けられたこの要求に応えたのであった…と言うより、応えざるを得なかったのである。つまり、〈根源〉とはそもそも理念としての統一を目指すものではなく、むしろ個々の作家の俳句認識や方法意識の覚醒をうながす方向で機能するであろうことを見越して誓子が仕掛けた、一種の〈挑発〉であったのではないか。抜群の知性をもって知られる誓子だが、俳句革新においてここぞと言うときに見せる強力なリーダーシップは、むしろ豪腕と言うべきものである。そして、おそらくそうした一気呵成のやり方が、ときに〈急ぎ過ぎ〉という印象をも与えるのであろう。が、急がなければ俳句の近代化は到底なし得なかったであろうし、また実際、誓子は確かに俳句の近代化を成し遂げたのである。

 私(誓子)の方でいふ根源―正体の判らないものですが―その根源と結びついたとき、はじめて季題といふものが、本当の機能を発揮する。だから季題はその根源へ通ずる門として意味がある。

私は季題にもたれるのぢやないので、根源と結びつけて、季題をもう一度締めてかからうといふんです。

 これらは、根源俳句についての諸説があらかた出揃った昭和二十九年の「俳句」二月号に掲載された座談会「苦楽園に集ひて」の中で、誓子が発言したもの。〈根源〉へと到る門として季題・季語が有する機能を、もう一度洗い直そうということであるが、しからばその先にある〈根源〉とは何かを、誓子自身はどう考えていたか。先述のごとく、〈根源〉がはじめから理念としての統一を目指すものではなかったとしても、「正体の判らないもの」という解答では余りにも不十分である。誓子は、のちに「すべての物がすつと入つてくるやうに開かれた無我、無心の状態が、根源の状態」(「飛躍法」昭和四十五年)と述べており、これは物の本質、あるいは物の存在そのものをじかにとらえるということになろうかと思うが、取り敢えず、ここら辺に誓子の根源観の一端はうかがえよう。そして、こうした根源観に基づいて生み出された作品を、我々は句集『青女』(昭和二十六年)、『和服』(昭和三十年)によって読むことができる。

 氷結の上上雪の降り積もる    『青女』
 悲しさの極みに誰か枯木折る   『同』
 蟷螂の眼の中までも枯れ尽くす  『和服』
 頭なき鰤が路上に血を流す     『同』

 掲出句のみならず、下五を動詞の終止形として鮮烈なイメージを喚起するのは、初期作品から一貫する誓子の最も特徴的な方法の一つである。非情とも思える犀利な眼をもって、対象の極限的な姿にまで迫ろうとする姿勢はここでも堅持され、その限りにおいては、確かに〈季題にもたれ〉てはいないと見なすこともできるだろう。また、〈根源〉とは何かという問題提起が、季題・季語とのせめぎ合いをもたらしたという意味で、誓子自身にとっても有益なものであったと言えるであろう。いずれにせよ、以上の点から『青女』『和服』の二句集は、近代俳句のパイオニアとしての誓子の、後半生における最大のモニュメントであったと思われる。

 『構橋』から『大洋』まで

 『和服』刊行後しばらくの間、誓子は句集をまとめることをしなかった。その理由は詳らかにしないが、あるいは『青女』『和服』によってもたらされたピークを超克するための、葛藤と模索の期間であったかもしれない。しかし、その一方で作品そのものは自己模倣が目立ちはじめ、急速に光彩を失っていったという見方をする評者が多くなってゆくのも、また事実である。例えば、飯島晴子は「俳壇」平成七年四月号の「山口誓子没後一年特集」で、次のように述べている。「私も『凍港』に始まって、『黄旗』『炎昼』『七曜』『激浪』『遠星』『晩刻』『青女』『和服』それからせいぜい昭和三十五年の〈永き日を千の手載せる握る垂らす〉(『青銅』)までぐらいで、以後はついてゆけないシンパの一人である」「山口誓子は晩年の三十年ほどを差し引いても、充分すぎるくらい大きい足跡を近代俳句に残している」(「山口誓子の遺業」)一流一派に偏しないすぐれた評論の書き手であった飯島でさえ、誓子晩年の三十年はほとんど評価対象外といった趣である。ともあれ、当代随一の大家として周囲から手厚く遇され、俳句革新を急ぐ必要がなくなったとき、近代俳句のパイオニアとしての誓子の役割は確かに終わったのであり、それに対するある種の失望感が、おそらく晩年の誓子作品に向けた飯島のような否定的見解を生む一因となっているのだろう。

 沖までの途中に春の月懸る       『構橋』
 冬河に新聞全紙浸り浮く        『方位』
 熊の子が飼はれて鉄の鎖舐む      『一隅』
 長袋先の反りたるスキー容れ      『不動』
 峯雲の贅肉ロダンなら削る        『雪嶽』
 霧に透き依然高城姫路城        『紅日』
 大枯野日本の夜は真暗闇        『大洋』

 だがしかし、こうした一連の作品を見るとき、誓子の知性的構成力そのものはいっこうに衰えていないという思いが強い。どうやら誓子は、必ずしも飯島の言う「労(ねぎら)いの晩年」を過ごしていたわけではなかったようだ。それどころか、俳句革新の機があれば進んで身を投じたかもしれないとさえ思えるのだが、残念なことに泰平の惰眠に慣れきった俳句界からは、もはや革新への機運など生ずるべくもなかったのである。
* 『山口誓子全集』(明治書院)をテキストとした。

虚子の亡霊(六)

(平成元年~八年)その六「ホトトギス周辺の俳人群像その一」

「ホトトギス 百年史」 
http://www.hototogisu.co.jp/

平成三年  三月 池内友次郎没。 十月 波多野爽波没。
平成四年  八月 今井つる女没。 十月 合田丁字路、田畑比古、今村青魚没。
平成六年 三月 山口誓子没。

※池内友次郎(いけのうち・ともじろう)1906(明治39)・10・21-1991(平成3)・3・9・東京市麹町区生・音楽家。高浜虚子の次男。俳人としては、フランス留学以前から父の影響で創作を始め、父の主宰する俳句文芸誌「ホトトギス」にも参加していた。句集に『結婚まで』(1940・3)、『調布まで』(1947・2)、『池内友次郎全句集』(1978・10)、『米寿光來』(1987・4)などがある。・<鶯や白黒の鍵楽を秘む><もの言はず香水賣子手を棚に><水ととと枯木の影の流れをり>

http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/i.htm
(メモ)
パリの月ベルリンの月春の旅
石蕗黄なり碁は白黒で人遊ぶ
作曲も芸に生くる身卒業す
夕焼やみな黒髪を持つ誇り
近づけば歩み去る人返り花 

※波多野爽波(はたの・そうは)〔本名、敬栄よしひで〕1923(大正12)・1・21~1991(平成3)・10・18(68歳)・東京生れ・祖父は元宮内大臣という貴族の出身。母の実家中山家の鎌倉別荘の隣が星野立子邸。高浜虚子に師事し最年少同人となり頭角をあらわした。・関西ホトトギスの若手で「青」を創刊主宰・感覚の鋭さと写生によって独自の俳風を築いている。・『舗道の花』(1956・9)、『湯呑』(1981・3)、『骰子』(1986・4)、『一筆』(199010)『波多野爽波全集』(1994・3-1998・8)・<鶴凍てて花の如きを糞(ま)りにけり :「湯呑」><新緑や人の少なき貴船村><大金をもちて茅の輪をくぐりけり><炬燵出て歩いてゆけば嵐山><焼藷をひそと食べをり嵐山:湯呑><あかあかと屏風の裾の忘れもの:湯呑><金魚玉とり落しなば舗道の花:舗道の花><後頭は昏さの極み冬星見る><冬空や猫塀づたひどこへもゆける><骰子の一の目赤し春の山:骰子><冬ざるるリボンかければ贈り物><帚木が帚木を押し傾けて:湯呑>

http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/ha.htm#souha
(メモ)

あかあかと屏風の裾の忘れもの
いろいろな泳ぎ方してプールにひとり
きれぎれの風が吹くなり菖蒲園
ちぎり捨てあり山吹の花と葉と
ねんねこの人出て佇てり鞍馬山
柿の木と放つたらかしの苗代と
掛稲のすぐそこにある湯呑かな
金魚玉とり落しなば鋪道の花
桜貝長き翼の海の星
西日さしそこ動かせぬものばかり
大金をもちて茅の輪をくぐりけり
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ
冬空や猫塀づたひどこへもゆける
末黒野に雨の切尖限りなし
炬燵出て歩いてゆけば嵐山
骰子の一の目赤し春の山

※今井つる女(いまい・つるじょ)〔本名、鶴〕・1897(明治30)-・松山市生・「ホトトギス」「玉藻」・虚子の姪(虚子の三兄池内政夫が実父。四歳で死別。)・『姪の宿』(1958・10)、『今井つる女句集』(1990・3)、著書『生い立ち』(1977・6)・<春泥になやめるさまも女らし><ぬくもりし助炭の上の置き手紙><色鳥の残してゆきし羽根一つ>

http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/i.htm
(メモ)

片づけて子と遊びけり針供養
窓の前幹ばかりなる夏木かな
渦潮にふれては消ゆる春の雪
板の間に映り止まる手毬かな
虫の音のたかまりくれば月出でん
空ばかりみてゐる子抱き夕涼み
赤蜻蛉ひたと伏せたる影の上
年々の虚子忌は花の絵巻物
嵩かさもなく病人眠る秋の
長き夜のわが生涯をかへりみる

合田丁字路(ごうだ・ちょうじろ 1906~1992)

http://www7a.biglobe.ne.jp/~gucci24/s_goda.html

本名は久男。明治39年琴平町の老舗旅館「桜屋」に生まれる。昭和3年22歳のとき「ホトトギス」初入選。

  窓日覆あふりて汽車の通りけり  丁字路

昭和14年広東攻略戦に参加。17年台湾、ベトナム、シンガポールを転戦。レンバン島に抑留される。昭和21年琴平で「ホトトギス」600号記念四国大会を開き、虚子、年尾らを迎える。俳誌「紫苑」を白川朝帆から引継ぎ、昭和40年まで主宰を務める。54年香川「ホトトギス」会を結成、機関誌「連峰」を創刊。
昭和52年四国新聞文化賞、58年県教育文化功労者、61年県文化功労者を受賞。平成4年10月28日没。句集「火焔樹」「花の宿」、句文集「三代に学ぶ」

(メモ)「紫苑」主宰
透析に命ゆだねて寒開くる
遺言書焼いて全快春の風
いくたびも火柱あげて古刹燃ゆ
蚊帳小さく小さくたゝめる遍路の荷
二三騎のかけぬけて梅しづかなり

※田畑比古

http://weekly-haiku.blogspot.com/2007/05/blog-post_687.html

虚子が、第二次大戦の戦火をさけて鎌倉から小諸へ疎開していた、いわゆる小諸時代の作品のひとつである。そして「昭和二十五年五月十四日。年尾、比古来る」の前書が付してある。年尾はいうまでもなく、長子高浜年尾であるが、比古とは田畑比古のことである。『現代俳句辞典』(角川書店刊)からその略歴をひろえば「明治31年4月6日、京都生れ。本名彦一。料理業。妻三千女(昭和33年歿)は虚子の小説『風流懺法』の三千歳のモデル、三千女と共に虚子に句を学び、『緋蕪』『裏日本』『大毎俳句』の選者を経て昭和31年2月『東山』創刊主宰」と書かれていて、虚子の古い門弟のひとりである。

(メモ)
「手をひかれ來たる老妓や大石忌」(田畑比古、『ホトトギス季寄せ』稲田汀子編、三省堂)
(稲畑汀子「山国や蝶を荒しと思はずや 虚子」鑑賞)

http://www.kokuseikyo.or.jp/hiroba/0504/ku.html

昭和19年、太平洋戦争が激しくなって虚子は鎌倉から長野県の小諸へ疎開することになりました。 小諸は浅間山の麓にあって山国の持つ厳しい自然環境の下にあります。特に冬は浅間を吹き降ろしてくる風が冷たく、一段と春が待たれるところです。蝶が飛ぶ時期が来ると、ようやく人々も散策に出てくるのではないでしょうか。この日、虚子の許に2名の客人がありました。ひとりは私の父である高浜年尾、もうひとりは京都に住んでいる田畑比古という虚子の弟子でした。ふたりを誘って外を散歩していると蝶が飛んでいました。しばらく歩いて帰ってきた3人は虚子の勧めで俳句会をしたのだそうです。そのとき、この俳句が虚子によって出句されました。「この山国に飛ぶ蝶は都から来た人には随分荒々しい蝶だと見えたのではありませんか」と尋ねる虚子の存問の俳句です。あるいはまた、このような気象の激しい山国に疎開してきて、自分はここの生活になかなか慣れないでいるのです、と暗に言っているようにもとれる俳句ですね。でも、小諸の俳人達は虚子と疎開していた一族に対して大変親切にしてくれ、度々俳句会もしたようです。また、虚子も各地からこのように遥々と見舞いに来てくれるのを楽しみにしていた様です。俳句は存問を通してその地を語っていくので、そこに過ごした日々がこのように残されています。

今村青魚

(メモ)大正元年~平成六年 金沢市生れ 「あらうみ」選者
焼酎に旅の気炎ははかなけれ
一山の石蕗が忌日を濃きものに
入院の夜を初雪ふりつゝむ
岬荒るゝ夜も鰤(ぶり)の灯のもるゝ
病窓の真下に河原月夜かな

山口誓子(やまぐち・せいし)

http://members.jcom.home.ne.jp/yanma36/ya.htm#seisi

〔本名、新比古(ちかひこ)〕・1901(明治34)・11・3~1994(平成6)・3・26(92歳)・京都市生まれ・「天狼」主宰・虚子門の俊秀として早くから注目され、水原秋桜子とともに俳句革新運動の先駆をなす。・4S・花鳥諷詠詩に新時代の素材を持ち込み、新しいメカニズム俳句の世界を開拓。:俳人山口波津女はつじょは妻。下田実花じつかは妹。・『凍港』(1932・5)、『黄旗』(1935・2)、『炎昼』(1938・9)、『七曜』(1942・9)、『激浪』(1946・7)、『遠星』(1947・6)、『晩刻』(1947・12)、『妻』(1949・1)、『青女』(1951・5)、『和服』(1955・1)、『構橋』(1967・3)、『方位』(1967・5)、『青銅』(1967・8)、『一隅』(1977・3)、『不動』(1977・5)、『雪嶽』(1984・9)、『紅白』(1991・5)、『新撰大洋』(1996・3)、『山口誓子全集』(1977・1~10)ほか。・<夏草に機罐車の車輪来て止る><海に出て木枯帰るところなし><学問のさびしさに堪へ炭をつぐ><ピストルがプールの硬き面にひびき><ナイターに見る夜の土不思議な土><土堤を外れ枯野の犬となりにけり><夏の河赤き鉄鎖のはし浸る><炎天の遠き帆やわがこころの帆><かりかりと蟷螂蜂の皃(かお)を食む><麗しき春の七曜またはじまる :「七曜」>

食む><麗しき春の七曜またはじまる :「七曜」>

虚子の亡霊(七)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その一「日本伝統俳句協会」の設立(一)

「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和五十九年(1984)
二月 汀子『舞ひやまざるは』刊(創元社)。『汀子句評歳時記』刊(永田書房)。「潮音風声」汀子(読売新聞連載)。
三月 星野立子没。
八月 汀子シルクロード・敦煌へ俳句の旅。
昭和六十年(1985)
四月 『汀子第二句集』刊(永田書房)。
六月 汀子『風の去来』刊(創元社)。
八月 汀子日独俳句交流ヨーロッパの旅。
十月 汀子『俳句に親しむ』刊(アサヒカルチャーブックス大阪書籍)。
昭和六十一年(1986)
五月 汀子『女の心だより』刊(海竜社)。汀子編『ホトトギス新歳時記』『ホトトギス季寄せ』刊(三省堂)。
七月 汀子『春光』刊(三一書房)。
八月 汀子中国の旅(桂林・広州)。
十一月 池内友次郎文化功労賞受賞。
昭和六十二年(1987)
三月 汀子欧州歴訪、ミュンヘンにて講演「俳句にとっての季題の意味」。バチカンにてヨハネ・パウロ二世に謁見、バチカン大使公邸俳句会。
四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。
七月 「雑詠選集予選稿汀子選」開始。
十二月 稲畑廣太郎編集長となる。福井圭児没。
昭和六十三年(1988)
四月 汀子『ことばの春秋』刊(永田書房)。
五月 山本健吉没。
七月 安住敦没。「惜春」創刊。
九月 中村汀女没。
八月 汀子中国西域シルクロード吟行の旅。
十二月 汀子アメリカ吟行の旅。山口青邨没。
昭和六十四年(1989)

(メモ)上記の昭和五十九年から昭和六十三年までの年譜では、昭和六十二年の「日本伝統俳句協会設立」が一番大きな出来事であったろう。『よみものホトトギス百年史』に次のとおりの記載がある(水田むつみ稿)。

※日本伝統俳句協会設立
 昭和六十二年四月八日、日本伝統俳句協会が設立された。
 「今日の混沌とした俳壇の状況を深く憂慮する私達は、日本の伝統的な文芸である俳句を正しく世に伝える と共に、芭蕉が詠い虚子が唱えた正しい俳句の精神を深め、現代に相応しい有季定型の花鳥諷詠詩を創造するためにここに日本伝統俳句協会を設立することを宣言します。日本伝統俳句協会は以上の主張に賛同する何人に対しても門戸を広く開け放つものであります。」
続けて、その設立の背景について、次のような記載がある。
※汀子の行動は先の言葉にもあるように、俳句が乱れている今日、花鳥諷詠の俳句をどうしても世に伝え、特に次の世代に伝えなければならないという使命感に促されたものであった。さらに年尾以来、俳壇と没交渉のままストイックに花鳥諷詠を深めてきたホトトギスの作家たちを世に出し、彼等の作品が大衆の目に触れる場を「ホトトギス」の他にも確保したいという強い思いからであった。しかしながら、その深層意識に、かつて俳人協会が設立された当時の年尾のルサンチマンを肌で感じていた汀子の復讐戦という側面を憶測するのは余りにも卑俗で人間的に過ぎるであろうか。

 この「年尾のルサンチマンを肌で感じていた汀子の復讐戦」という指摘は、たとえば、「虚子の亡霊」というタイトルに匹敵するだけの衝撃的なものであるが、この哲学用語の「ルサンチマン」(ニーチェの用語。被支配者あるいは弱者が、支配者や強者への憎悪やねたみを内心にため込んでいること。この心理のうえに成り立つのが愛とか同情といった奴隷道徳であるという。怨恨)的なことがその背景にあるのではないかという指摘は、やはり、この設立の背景の一面を正しく見て取っているような思いを深くする。ここで、『よみものホトトギス百年史』の「俳人協会の設立」のところを、そのまま、掲載しておきたい。

※俳人協会の設立
 昭和三十六年、現代俳句協会から分かれて俳人協会が誕生した。表向きは現代俳句協会賞を前衛派の赤尾兜子が受賞したことによる無季派と伝統派の分裂であったが、それは虚子の没後に起こった俳壇再編成のうねりの一つであったのである。
 歴史的経過を簡単に説明する。昭和二十二年新俳句人連盟がその社会主義運動に批判的な人々によって分裂し現代俳句協会が設立されたが、その後十年間にさまざまな矛盾が蓄積されていた。幹事の勢力争いや現代俳句協会賞の選考に不明朗な点がある、協会員の選挙に買収まがいのことが行われる等々が囁かれていたが、それらを我慢ならないとする幹事の赤城さかえ、秋元不死男、安住敦、大野林火、中島斌雄の五名が連名で幹事を辞退したのである。これを伏線として三±ハ年、ついに現代俳句協会は大分裂を起こし、俳人協会が新たに発足したのである。発足当時の陣容は会長・草田男。幹事・不死男、敦、波郷、友二、桂郎、林火、楸邨、源義、三鬼、斌雄、麦南、静塔の十二名であり、顧問は蛇笏、風生、秋桜子、青邨、誓子の五人であった。
 このとき秋元不死男らが年尾を訪ねて俳人協会に入ることを要請している。これとは別に角川源義も当時角川書店にいた成瀬正俊を使者として懇願している。年尾はきっばりとそれを拒絶するのである。その態度は、誇り高く堂々としていた。「山茶花」の「俳諧放談」によれば、「伝統を守る為に、是非ホトトギスもこれに参加してほしい」と言われた年尾は、「御主旨は大変結構だけれど、今さら改めて、伝統俳句を守るために、などと言い出すのはちょっとおかしいんじゃないか、ホトトギスは、始めから揺るぎなく伝統俳句を守って来た、今さら新しく伝統俳句を守るなどという旗印をかかげてさわぎだすのはどうも合点がいかない。あなた方の主張や行動については好意をもって見守るけれども、改めて俳人協会に私が入会する必要もないように思う」とある。
 年尾は源義の俳壇制圧の密かな野望を感じ取っていたのかも知れない。ともかく、年尾の俳人協会に入るということは「ホトトギス」が協会傘下の}俳誌になってしまうことを意味していた。年尾にはホトトギス自体がそのまま俳壇の大きい部分を占めているという自負があった。
 しかしながら、年尾の心を知らない身近な者たちまでが俳人協会に入り、そのために有力な同人たちが踏絵をさせれらる結果となった。

虚子の亡霊(八)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その二「日本伝統俳句協会」設立周辺(二)
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六十二年(1987)
三月 汀子欧州歴訪、ミュンヘンにて講演「俳句にとっての季題の意味」。バチカンにてヨハネ・パウロ二世に謁見、バチカン大使公邸俳句会。
四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。

(メモ)昭和六十二年の「ホトトギス」の年譜を詳細に見ると、「日本伝統俳句協会」が設立されて、同年四月の前の三月に、稲畑汀子は、「汀子欧州歴訪、ミュンヘンにて講演「俳句にとっての季題の意味」。バチカンにてヨハネ・パウロ二世に謁見、バチカン大使公邸俳句会」と、日本を離れて欧州の地にあった。もう、この頃には、「日本伝統俳句協会」の全ての根回しは完了していたのであろう。そして、帰国早々、「日本伝統俳句協会」を設立して、その機関誌の名が「花鳥諷詠」というのも、虚子のその他のテーゼの、「極楽の文学(文芸)」とか「客観写生」などと比して、これまた、汀子、そして、その汀子を取り巻くスタッフの、用意周到に準備していたということが察知されるのである。ここらへんの「日本伝統俳句協会」設立の背景や経過などについて、『よみものホトトバス百年史』(「水田むつみ」稿)に記載されているものを、そのまま長文なので回を分けて掲載しておきたい。

※汀子の季題の解釈
 昭和六十二年三月、欧州歴訪中の汀子はミュソヘソで「俳句にとっての季題の意味」という重要な講演を 行なった。
 「季題とは歴史的に歌人や俳人によって磨き1げられてきた季節の言葉である、と同時にそれらは自然に対して鋭い感受性を持つ日本人一般の季節感にょって裏打ちされてきた美しい言葉である」
と定義づけた汀子はさらに桜の花を例にあげながら、
 「このように季題は季節感に満ちた具体的な言葉であると同時に、個人的な経験や感情から始まって、日本民族に特有な感情、さらにそれを越えてカール・ユソグの言うところの集合的無意識とでも言えばよいような、全人類に共通の感覚までを重層的に含む連想の網の目に織り込まれた言葉なのであります」

と季題の背景に広大な連想の世界が広がることを指摘した。
その上で季題が豊かな連想を誘うのは、それが俳句の構造と関係して極めて効果的に用いられるからだと言つた。即ち、「季題が俳句の中で裸のまま置かれ、そして唐突に切れる0そのことが言語の意味を規定する働きを中断し、革者の頭の中でイメージをかきたて、連想をかきたてる」のだと言い、構造言語学の理論を援用し ます。ソシュールに倣って言えば、俳句は言語の連合軸に沿った活動を駆使する詩の形式でありまして、季 題はそのキーワードであると言ってもよいと思います」
と結んだ。
 これは季題の本質を突き、しかもそれが俳句の構造との関係に於いて洞察された驚くべき見解であった。しかし考えてみれば、すでに虚子は、「作者が満腔の熱情を傾けて詠はうとする処、如何なるものもこれを拒む事は出来ない。唯、俳句には季題といふものがある。その季題の有してをるあらゆる性質、あらゆる聯想、それ等のものを研究し、これをその熱情の中に溶け込まして、その思想とその季題とが一つになつて、十七字の正しい格調を備へて詩となる。それが俳句なのである」
と書いており、汀子の言葉は虚子のこの言葉を敷衍し、季題の性質、連想について具体的に考えを進めたものであることが分かる。
 それは季題の季節感のみを重要視し、それでこと足れりとするホトトギス俳人たちに対する叱正でもあった。このように汀子は誰にもまして虚子を勉強し、現代的な視点から、自分の言葉で虚子の教えを説く。汀子が花鳥諷詠の伝道師である所以である。

虚子の亡霊(九)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その三「日本伝統俳句協会」設立周辺(三)

「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/ 昭和六十二年(1987)

四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。

(メモ)下記のものは『よみものホトトギス百年史』(「水田むつみ」稿)の「日本伝統俳句協会」設立の背景・経過などである。その中でも、「ホトトギス長老たちの支持を得ること、高浜家の人々の了解を得ること、協会の旗印を花鳥諷詠とすること、しばらくは秘密裡に事を運ぶこと」や「年尾の汀子への遺言にも『何事も青邨と正一郎に相談して決めるように』」などと、さながら、映画の「ゴットファーザー」の一場面を見ているような、そんな錯覚すら覚えて、興味がつきないところである。

※協会設立の計画は単なる思いつきや一時の情熱に促されたものでは決してなく、熟慮と周到な準備に基づくものであった。
「花鳥諷詠」第九十四号の新春インタビューにその間の事情が詳しく語られている。
 汀子が協会の設立を考えたのは昭和五十六年から五十七年にかけてであろうか。汀子は稲岡長と千原草之に心の内を打ち明け、事の成否を自分とは全く別の目によって予測して欲しいと依頼している。二人は不安にかられながらもシュミレーションと検討を重ね、「ホトトギス」の誌友を主体として六千人程度の会員を集めることが出来るが、むしろ協会設立後の活動に事の成否がかかっており、そのためには確固とした分かり易い主張とそれに基づく行動が必要である。その条件が満たされれば俳壇は現代俳句協会、俳人協会、新しい協会の
三協会並立の時代となり、作品の発表の場は大幅に広がるであろう。協会員の作品が優れてさえいれば俳壇を再び制覇することも可能であるという答えを出した。
 昭和六十年十一月、関西ホトトギス大会が奈良で催された夜、汀子は長、草之の他、信頼する千原叡子、桑田青虎、依田明倫、今村青魚を月日亭に集め、志を打ち明け戦略を練った。このうち青魚は句会のため宿を出られず電話で連絡が交わされた。七人の意志は完全に一致し、今後手分けして有力な同人を説得して賛同して貰うこと、ホトトギス長老たちの支持を得ること、高浜家の人々の了解を得ること、協会の旗印を花鳥諷詠とすること、しばらくは秘密裡に事を運ぶことなどが決められた。
 汀子は先ずホトトギスの長老、深川正一郎に意見を問うが、正一郎は「遅きに失したくらいだ。やっと決心してくれましたか」と目に涙を浮かべ 「私が全ての泥を被る防波堤になる」と言った。さらに「青邨さんにはもう話しましたか」と尋ね、「まだですか、それはよかった。青邨は難しいですよ。ホトトギス同人の趨勢が固まってから言いなさい」と忠告した。
 この二人は、年尾の汀子への遺言にも「何事も青邨と正一郎に相談して決めるように」とあったほどの長老でありホトトギスの精神的なバックボーソであった。汀子は正一郎の言葉に籠められた深い意味を理解し、手分けして主要な同人たちの説得を先ず開始した。また長老の大久保橙青はこの計画を聞いて全く驚かず、色々な角度から汀子の覚悟のほどを確かめ「汀子は凄い、政治家以上だ」と言って老骨を鞭打って計画のために労を厭わないと誓った。
 虚子の親族のうち星野椿は賛成ではあるが柳沢仙渡子と相談しなければ一存では決められないと言ったが、その日のうちに汀子に電話をして「仙渡子に遅すぎたくらいだと言われた。『玉藻』を挙げて参加する」と伝えている。
 池内友次郎は面白いと言って大賛成し、「俺が会長になろう」と言った。「是非そうして下さい」という汀子に、しかし暫く考えてから「私はもう歳だから汀子お前がおやり」と言ったという。
 高木晴子は既に椿から話を聞いており、すんなり賛成し顧問になることを了承した。
 上野章子は反対はしなかったが、一切関わりを持ちたくない。顧問にもならないと言った。
 ホトトギス同人の反応は多様であった。田畑美穂女は、はらはらして「そんなこわいことどうぞやめておくれやす。汀子先生がいろいろ言われて泥にまみれるのはこわい。そやけどどうでもしはるんやったら私はついて行きます」と答えている。関西同人会長の福井圭児は、「織椎会社が各自で輸入や輸出について政府に働きかけるより、織維協会でまとまって運動する方が力を行使出来るのと同じかなあ。俳句もそんな時代かも知れません。ともかく先ずお金が要る。しかし俳人たちからお金を集めると誤解を生じる」と言って多額の寄付金を出した。
後藤比奈夫は広瀬ひろしを伴って汀子に会いに釆た。比奈夫は苦渋に満ちて「私は俳人協会の役職についています。新しい協会に入れば俳人協会を辞めなければなりませんか」と尋ねた。汀子は「比奈夫さんの立場はよく分かります。こちらに入らないでよろしいからその代わり顧問を引き受けて下さい」と提案した。清崎敏郎は当時俳人協会の副会長であったため表立って入会は出来ないが別の形で協力する旨を約束した。高木石子も同様の立場であったが、「末央」同人たちが結束して、新協会に入り俳人協会を脱退すべきだと迫り石子はそれに従った。藤崎久をも俳人協会を辞め「阿蘇」を率いて参加した。

虚子の亡霊(十)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その四「日本伝統俳句協会」設立周辺(四)

「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六十二年(1987)
四月 日本伝統俳句協会設立、機関誌「花鳥諷詠」創刊。

(メモ)前回に続いて、下記のものは『よみものホトトギス百年史』(「水田むつみ」稿)の「日本伝統俳句協会」設立の背景・経過などである。前回は、虚子一族やホトトギスの主要俳人の対応などであったが、今回のものは、山本健吉や山口青邨など日本俳壇に大きな影響力を持つ方達との関わりなどで、「青邨のこの時の態度について考えるとき、どうしても関ケ原の戦いに於いて息子を東軍に参陣させながら、同時に自ら九州一円を切り取ろうとした黒田如水のイメージを青邨に重ねて考えてしまう」などと、前回が、「ゴッドファーザー」の如きであるならば、さしずめ、「太閤記」や「国盗り物語」などの趣である。こういうものは、汀子周辺の、当時の状況を実際に見聞した方による記述でないと、ここまでの臨場感溢れる記述にはならないであろう。そういう意味でも、この「日本伝統俳句協会」のところは、『よみもののホトトギス百年史』の中でも、真に興味のそそられるところである。と同時に、「日本伝統俳句協会」の設立の中心人物であった、稲畑汀子にとって、しばしば、その対立者の一人と目途されている、「現代俳句協会」の金子兜太などよりも、近親憎悪的に、より多く、「俳人協会」の、そして、「ホトトギス」に関わりの深い名だたる俳人などが、汀子の視野にあったということが、これらの記述から察知されるのである。

※そのほか、阿波野青畝、山口誓子等も顧問を引き受け協力を約束した。
 ホトトギス同人の中にはどうしても協会というものが判らず、「ホトトギス」があるのにそれは屋上屋を重ねるものだと言う人も多く、なかには「ホトトギス」が協会に乗っ取られると心配する人もあった。
 そんななかで同人たちの説得に力を発揮したのは千原草之の絶大な信用であった。このようにして新協会は発足する以前にすでに五千人の賛同者を集めることが出来たのである。
 見通しを得た汀子は「ホトトギス」千百号祝賀の準備委員会に於いて青邨に状勢を報告するとともに協力を要請した。このとき青邨は、「ほうっ!」と感心し「そうかそうか、自分は歳をとっているので何も出来ないが、しつかりやりなさい。私ができることは助けますよ」と言ったが、次に山会の席で汀子と顔を合わせた時には態度が変っていた。「あれは止めてもらえないだろうか。私は俳人協会に深く関わっているので立場上困る。協会を作ることは断念して欲しい。どうしても作ると言うのならホトトギスの同人会長を辞めさせて頂く」と言った。固唾を呑む山会の面々の前で高浜喜美子は「同人会長をお辞めになるということは坊城俊厚と中子のお仲人もお辞めになるということですか」と詰め寄った。青邨は困り、「いやあそれは」と言ってしきりに汗を拭いたが、汀子の「それならばホトトギスの名誉会長になって下さい」という言葉に救われ、最後には「汀子さんは男以上だ。やるからにはしっかりやって下さい」 と言って名誉同人会長を引き受けた。新しい同人会長には大久保橙青が就任することになった。
 汀子はまた山本健吉にも電話で了解を求めた。健吉は「困ったことになった」と絶句したが、汀子は重ねて「なぜ困るのですか」と切り込んでいる。健吉は「俳壇はいま一応の秩序が保たれている。新しい協会を作るということは俳壇に混乱を起こす」と言ったが、汀子の強い意志を知り最後に「汀子さんがやるというのなら仕方がない。その理由も私にはよく理解出来る。しっかりおやりなさい。その代わりにぼろぼろになる覚悟を持ってかからないと駄目だ」と励ましている。
 汀子は後に 「私はこれをどうしても青邨さんと健吉さんがお元気な間に作りたかった」と述懐している。こんなところからも公明正大に行動し、正しいと信ずることはどんなことがあってもやり遂げるという汀子の烈々とした気迫が伝わってくる。
 青邨は「年尾の苦闘」のところで述べられたようにどちらかといえば晩年の虚子に対して距離を置き、ひたすら「夏草」の力を涵養することに意を注いでいた。自ら四Sを提唱したが、四Sの名前ばかりが喧伝され四人に比べ遅れを取ったという意識もあり、また大器晩成型の青邨は後年自ら頼むところもあったであろう。さらに真面目な学究である青邨にとって、清濁併せ飲む虚子を多くのホトトギス同人のように無条件で仰ぎ見ることは出来ず、是々非々の立場を取っていたのだと思われる。しかし虚子没後の年尾に対してはホトトギス同人会長としてよく力を尽くし、同人たちの尊敬を集めていた。その一方で行き掛かり上、文学報国会俳句部会の解散を宣する役目を果たし、俳人協会の設立にあたってはその発足から参画し顧問となっていただけに、気がついてみれば俳人協会とホトトギスの両方に絶大な影響力を持っていたのである。青邨はよい意味でホトトギスを含む俳壇の統一を夢見ていたのかも知れない。筆者は青邨のこの時の態度について考えるとき、どうしても関ケ原の戦いに於いて息子を東軍に参陣させながら、同時に自ら九州一円を切り取ろうとした黒田如水の
イメージを青邨に重ねて考えてしまう。
 ともかく日本伝統俳句協会の設立によって俳壇は三協会鼎立の時代に入った。

虚子の亡霊(十一)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その六「ホトトギス」編集長交替(一)

「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六十二年(1987)
十二月 稲畑廣太郎編集長となる。

(メモ)上記の年譜の記事は、『よみものホトトギス百年史』(稲畑汀子編著)では、「編集長交替」の見出しで、次のように記載されている。

※編集長交替
昭和六十二年十二月、松尾緑富は汀子の慰留を振り切って「ホトトギス」編集長を辞した。新しい編集長は稲畑廣太郎となり、ホトトギス発行所は一気に若返った。廣太郎は汀子の長男である。学生時代は格別俳句に興味を示さなかったが、寝食を忘れて苦闘する母の姿を見て、大学を卒業すると敢然とホトトギス社に入社した。廣太郎の念頭には少しでも母を助けたいという一念しかなかった。しかし緑富という名伯楽の扱きを受けて廣太郎は発行事務に精通し、俳句への素晴らしい理解と句作力を身につけて行った。「ホトトギス」雑詠に投旬するようになった廣太郎が初めて汀子選に二句入選したとき、高知の俳人から「息子を晶属するとは何事か」という電話がホトトギス社にかかり、その電話に出た廣太郎は以後何も言わず投旬を中断してしまった。しかし実は彼は匿名で投句を続けていたのであった。汀子の懇願にも関わらず定年を理由にホトトギス社を辞めると言ってきかない緑富は、実は社に定年制を引くときすでに廣太郎への編集長交替とその時期を心に決めていたのであった。現在、線富はホトトギス社嘱託として出勤こそしないが 「ホトトギス」 の運営、発行を全てにわたって助けている。

(メモ)日本最大の俳誌 「ホトトギス」は、実質的に、虚子・高尾・汀子と続く、虚子直系の世襲によって現にその主宰者が承継されており、その世襲制というのも、その大きな特色であろう。そして、汀子に続く、四代目を承継するものは、その長子の、稲畑廣太郎というのが、この「編集長交替」の背景ということになろうか。そして、虚子から年尾、はたまた、年尾から汀子へとバトンタッチする時にも、さまざまなドラマが展開されたが、汀子から廣太郎への承継の際にも、また新しいドラマが展開されるのであろうか。そして、この俳誌の承継に関しては、さまざまな否定的な論評などを目にするのであるが、これは、丁度、茶道や華道の家元制度のようなものと、あっさりと割り切って考えても良いのではなかろうか。そして、それに対して、否定的見解をお持ちの方は、その集団から離れれば良いのであって、その加入・退会が自由であるならば、周りの外野席であれこれと論評すべきものではないようにも思えるのである。それにしても、虚子・年尾・汀子を取り巻く、虚子一族というのは、許六のいう「血脈」(「学問・芸道おける師質継承」の系譜的なもの)的な、「虚子俳諧」の血脈相承の一族という思いを深くするのである。これに関して、虚子は晩年に至り、「俳句は極楽の文芸」と、現在、「ホトトギス」の面々が主張している「俳句は極楽の文学」の、その「文学」を「文芸」と称しているが、「俳句は短詩型の文学」というよりも、「連歌・俳諧に通ずる芸道としての俳句」というのを、その最終の俳句観にしたような、そんな印象すら抱かさせるのである。

虚子の亡霊(十二)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その六「ホトトギス」編集長交替(二)
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六十二年(1987)
十二月 稲畑廣太郎編集長となる。

(メモ)上記の年譜の「ホトトギス編集長交替」に関連して、新編集長の稲畑廣太郎のプロフィールとその俳句作品を、『ホトトギス 虚子と一〇〇人の名句集』(稲畑汀子編)により、下記に掲載をしておきたい。

※稲畑廣太郎
いなはた・こうたろう=昭和32(957)年、兵庫県生まれ。昭和57年3月甲南大学経済学郡卒業。4月合資会社ホトトギス社入社。同63年1月ホトトギス同人及び俳誌「ホトトギス」編集長。平成12年、虚子記念文学館理事。13年、日本伝統俳句協会常務理事。

地震の街空広くして星月夜
漆黒に秋を灯してバス行けり
桐一葉落ちて黄土に還りけり
坊つちやんを読まぬ世代や漱石忌
疾風に舞ひて怒涛に雪還る
みどりの日昭和一桁老いにけり
春の月仰ぎ丸ビル最後の日
丸ビルを七十二年見し夏木
一瞬の糸となりゐて流れ星
星飛んで星消ゆる問の静寂かな
不器用に願の糸を結ぶ吾 子
露の玉弾きて猫の駈けて来し
馬の足太く短く橇行けり
ヴィオロンの音色連れ去り春立ちぬ
あと三百五十六日待つ桜
シプリアーニ大司教天高きより
記念館起工の大地小鳥来る
年男忌や虚子記念館第一歩
パナマ帽形見となりて子は父似
起工式待つ昂りの涼しさよ
祝福の涼しき声に和してをり
念願の涼しさ極め主の祈り
秋扇置く仕草にも観世流
木の実落つ音にも楽の都かな
隼の形崩れし時獲物
猟名残メインディッシユはジビェかな
二条晴四条鳥丸秋時雨
青写真目当少年月刊誌
冬木立備中高松城址寂(じゃく)
雪吊の一直線といふ歪(ゆが)み
暖かく虚子デスマスク安置され
初音聞くこれより虚子のメッカかな

虚子記念文学館に帰省かな
何もせぬ人を横目に夜業かな
マイホームプラン進むや古暦
室咲の百万本の薔薇君に
新築のプランに入れて雛の間問
白菜に包丁ざくと沈みけり
薫風や樹上に雀樹下に鳩

虚子の亡霊(十三)

(昭和五十九年~昭和六十三年)その七「ホトトギス」雑詠選
「ホトトギス百年史」
http://www.hototogisu.co.jp/

昭和六十二年(1987)
七月 「雑詠選集予選稿汀子選」開始

(メモ)昭和六十二年というは、汀子主宰の「ホトトギス」にとって、「日本伝統俳句協会」の設立や「編集長の交替」など一つの節目の年でもあった。これらの昭和六十二年以前と以後の「ホトトギス」の現況について、『よみものホトトギス百年史』では、「汀子雑詠選」という見出しで、次のとおりの記載が見られる。これによると、「汀子主宰となってから『ホトトギス』への投句が目に見えて増え約三万句を数えるようになっている」と、投句数、約三万句とういうのは、やはり、「ホトトギス」王国が微動だにしていないという思いを深くする。と同時に、下記の記載に見られる、その「ホトトギス」王国の代表的な俳人について、余りにも、「ホトトギス」王国以外の人達には知られていないという思いを深くするのである。しかし、これらのことは、見方によると、「ホトトギス」という一つの俳誌は、著名なマスコミに登場するような俳人を多く抱える集団を目指すのではなく、名よりも実を狙っての、老・壮・青のバランスのとれた集団を目指しているようにも理解できる。そして、これらのことが、若き俳人の筆頭格の「編集長の交替」を生み、そして、さらには、一つの俳誌 から、より大きな「日本伝統俳句協会」設立の、その原動力となった、その真相のように思えるのである。

※汀子の雑詠選
 昭和五十二年から六十一年にかけての雑詠を汀子選第一期とするならば、この間、最も活躍したのは、粟津松彩子、藤崎久をであった。事実上、松彩子、久を時代と言ってもよい。その他、依田明倫、深川正一郎、嶋田一歩、桑田青虎、嶋田摩耶子、松尾緑富、後藤比奈夫、田畑美穂女、松本巨草、奥田智久等の活躍が目立ち、三村純也、蔦三郎、塙告冬、小川寵雄、岩岡中正、後藤立夫等の抜擢が目を惹く。
 昭和六十二年から平成八年までの第二期では、新しく大久保橙青、藤松遊子、千原草之等が華々しい活顔を見せ、星野椿、坊城としあつ、稲畑廣太郎、川口咲子、山田弘子、山内山彦、河野美奇らが活躍している。また新しく、長山あや、里川南無観、里川悦子、坂井建らが頭角を現わした。
 それに加えて、牧野春駒、中杉隆世、村松紅花らのかつてホトトギスで名を成した人たちがふたたび投句を再開し活躍をしている。
 虚子、年尾の高弟たちに伍して若い作家たちが個性を発揮して堂々と渡り合う様と、ベテランが健闘する様はホトトギスがまさに充実期にあることを示すとともに、さらに発展せんとする力強い気配を十分に感じさせる。
 充実と発展の気配は汀子主宰となってから「ホトトギス」への投句が目に見えて増え約三万句を数えるようになっていることからも伺える。
 「虚子は選もまた創作なりと言った。これは一句に単にすぐれた解釈を施しその句に新しい生命を与えるなどの意味以上の含蓄を有する。端的にいえば虚子は雑詠欄の全てを一巻の自分の作品と考えたのであり、巻頭句はその表紙なのである。最もすぐれた句を配するという単純なものではない。作品、顔触れを含めたマンネリズムの打破、世に送り出したい個性の紹介、進むべき方向、その他諸々を考えて巻頭句を決めている。選が創作であるならば選者は創作者、即ちプロデューサーなのである。年尾もまた虚子に倣って名選者と言われた。十八年選者をつとめて私はいま選者についてこのように考えている」
 これは平成七年出版された『ホトトギス巻頭句集』に汀子が書いている「巻頭のことば」の一節であるが、汀子の雑詠選に対する考え方がよく表れている。

火曜日, 11月 13, 2007

阿波野青畝の俳句

阿波野青畝の俳句(一)

一 虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ耳しひ児(第一句集『萬両』)

※初出「ホトトギス」(大正七・一)。秋(虫)。耳が遠かった作者は、自然読書に心を注ぐようになり、『万葉集』などに感情をたかぶらせた。虫が鳴きはじめた秋の夜、読書力もまして夜を徹して書物に親しみ心の昂ぶりをおさえかねているさま。(「阿波野青畝・萬両」・松井利彦稿)

※阿波野青畝略年譜(その一)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

明治32年 (1899)2月10日 奈良県高市郡高取町に生まれる。
      旧姓 橋本。長治の四男。本名 敏雄。(大正12年阿波野貞と結婚、改姓)
大正 4年 県立畝傍中学在学中郡山中学教師原田浜人を知る。卒業後しばらく京都にい       
      たが、兄が亡くなり帰郷。幼時からの難聴のため、進学をあきらめる。
大正 6年 秋、浜人居で奈良来遊の高浜虚子と初対面。同じ難聴の村上鬼城を例にして
      激励される。しかし、指導を受ける浜人の影響もあって、虚子に客観写生に   
      ついて不満を述べるが、虚子から「大成する上に」「暫く手段として写生の 
      練磨を試みるよう」、諭される。
大正 7年 11月 八木銀行に勤務。
大正11年 野村泊月の「山茶花」に投句。
大正12年 大阪市西区京町堀上通りの商家阿波野家に入る。この頃から「ホトトギス」 
      成績好調、翌年課題句選者となる。牧渓の画の簡素に魅かれ、俳句の形式
      を生かす途は簡素化だと考えた。写生の習練によって、「玄々妙々の隠微を 
      もつ自然と肌をふれる歓び」を知る。
昭和 3年 秋には、山口青邨が秋桜子、素十、誓子、青畝と並べて四Sの一人に挙げ、    
      一躍有名になった。
昭和 4年 1月、郷里大和の俳人達によって「かつらぎ」創刊、請われて選者となった。
      その年、「ホトトギス」同人。
昭和 6年 『万両』刊。第一句集。

阿波野青畝の俳句(二)

二 住吉に住みなす空は花火かな(第二句集『国原』)

※昭和七年作。住吉公園の近いところに仮寓しているので、夜空に揚がる花火が美しく見えた。景気よくポンポンひびくと興にのる。住みよい土地だとおもう。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

※阿波野青畝略年譜(その二)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

昭和14年 この頃から連句を始める。虚子あるいは柳田国男と歌仙を巻く。
昭和17年 『国原』刊。
昭和20年 空襲で大阪の本宅を焼かれ、西宮の甲子園に移り住む。
昭和21年 「かつらぎ」復活し、発行人となる。
昭和22年 カトリックに入信、夙川教会にて受洗。霊名アシジの聖フランシスコ。
      『定本青畝句集』刊。
昭和26年 「ホトトギス」の雑詠選が虚子から年尾に移り、同誌への投句をやめる。

阿波野青畝の俳句(三)

三 端居して濁世(じょくせ)なかなかおもしろや(第三句集『春の鳶』)

※昭和二二年作。混乱した敗戦の世相には私のような者の手のつけようがない。生きられるように飯を食うしかないこの浮世を達観し、いやに澄ましていた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

四 老人の跣(はだし)の指のまばらかな(第四句集『紅葉の賀』)
※昭和二九年作。ある老人を見た。よく鍛えたからだらしいけれど痩せこけて肉がなかった。跣になった足を見てそれがよくわかる。五指の間隙にすごみがある。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

五 寒波急日本は細くなりしまま(第五句集『甲子園』)
※昭和三一年作。気象語の寒波を季語とした。子供部屋の地球儀を廻すと日本は小さい。敗戦以来痩せ細ったのは人間だけでなく、国も急激の寒さにうちふるえる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

六 懐手して説くなかれ三島の死(第六句集『旅塵を払ふ』)
※1970年(昭和45年) 第四部『天人五衰』連載開始。陸上自衛隊東部方面総監部に乱入(三島事件)。森田必勝と共に割腹自決する。

七 澄江堂句集は紙魚(しみ)のいのちかな(第七句集『不勝簪』)
※昭和四九年作。芥川龍之介は俳句をたしなんで澄江堂句集を出した。貴重な初版を持っている。たまたま其を書架より抜いた。紙魚が慌てた。姿を消して隠れた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

八 寒鯉の大きな吐息万事休(第八句集『あなたこなた』)

九 出刃を呑むぞと鮟鱇は笑ひけり(第九句集『除夜』)

※阿波野青畝略年譜(その三)
http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

昭和27年 『春の鳶』刊。
昭和37年 『紅葉の賀』刊。
昭和47年 『甲子園』刊。
昭和48年 第七回蛇笏賞、西宮市民賞を受賞。
昭和49年 大阪芸術賞を受賞。俳人協会顧問。
昭和50年 勲四等瑞宝章を受章
昭和52年 『旅塵を払ふ』刊。
昭和55年 『不勝簪』刊。
昭和58年 『あなたこなた』刊。
昭和61年 『除夜』刊。

阿波野青畝の俳句(四)

十  狐火を詠む卒翁でございかな(第十句集『西湖』)

十一 隼を一過せしめて寒鴉(第十一句集『宇宙』)

※(季語/寒鴉)空に隼、地上に寒鴉のいる光景だ。隼を見上げる鴉の目は緊張している。この句、阿波野の遺句集『宇宙』(1993年11月)から引いた。青畝は92年12月、93歳で死去した。青畝が死去して15年になるが、このところこの俳人が話題になることはあまりない。全集のようなものも出る気配がない。この人、亡くなるまで俳句一筋であった。大阪の市井の俳人であったのだが、今から見てこの人の魅力は何だろうか。もちろん、若い日には4Sと呼ばれて脚光を浴びた。晩年も長老俳人として厚く遇された。だが、その青畝の俳句世界の解明は進んでいるとは思われない。数年間の活動をめどに青畝研究会のようなものを発足させたいのだが、やってみようという人はいないだろうか。(坪内稔典)  

http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub07_0102.html

※阿波野青畝略年譜(その四)

http://www.gospel-haiku.com/sh/history.htm

平成 2年 森田峠に「かつらぎ」主宰を譲り名誉主宰。
平成 3年 『わたしの俳画集』刊。国際俳句交流協会顧問。「詩歌文学館賞」を受賞。 
      11月入院。 12月22日心不全により逝去。(享年九十三歳)
      夙川教会にて葬儀ミサ。


阿波野青畝の俳句(五)

十二 口開いて矢大臣よし初詣(『萬両』)

初出「ホトトギス」(大正十・四)。新年(初詣)。初詣に参った神社に、弓矢を手にした祭神を守る矢大臣の人形が左右に置かれている。少し口をあけ何かを語りかけようとするその大臣の古雅の顔立ち。(「阿波野青畝・萬両」・松井利彦稿)

※大正十一年作。野村泊月を京都に訪ねて八坂さんに詣でた。若い頃の印象はいまも変わらない。口を閉じた矢大臣は青年であるが。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△年齢の入った年譜は次のとおり。掲出の作は、二十三歳の時。二十五歳で「ホトトギス」の課題句選者となっているのだから、青畝の早熟さは目を引く。

http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html

阿波野青畝 年表
明治32年 2月10日 0歳 父橋本長治、母かねの五男として高取町上子島に生まれる、本名敏雄。
明治38年 6歳 高取町の土佐小学校に入学、耳病治療するも治らず。
明治43年 11歳 母死去。
大正 2年 14歳 県立畝傍中学校入学。
大正 4年 16歳 書店の店頭で「ホトトギス」を求め県下郡山中学校教師原田浜人に俳句を学ぶ。
大正 6年 18歳 大和郡山の原田浜人宅の句会で高浜虚子に出会う。
大正 7年 19歳 県立畝傍中学校卒業、難聴のため進学を諦め、八木銀行に入行。
大正 8年 20歳 虚子に客観写生に対する不満を訴える手紙を出す。返書に写生の修練は将来「大成する上に大事」であることを「暫く手段として写生の鍛錬を試みる」ことをさとされる。
大正12年 24歳 大阪市西区の阿波野貞と結婚。
大正13年 25歳 若くして「ホトトギス」の課題句選者となる。
昭和 3年 29歳 山口青邨の講演中の言葉から、水原秋桜子(しゅおうし)、山口誓子(せいし)、高野素十(すじゅう)と並んで四Sと称されるようになる。長女多美子生まれる。
昭和 4年 30歳 郷里大和の俳人たちから請われ奈良県八木町で発刊している「かつらぎ」の主宰となる。「ホトトギス」同人。
昭和 6年 32歳 第1句集「萬両」を刊行し名実とみにあがった。
昭和 8年 34歳 妻貞死去、阿波野秀と結婚。
昭和15年 41歳 父死去。
昭和20年 46歳 3月大阪の自宅戦災で焼失、西宮市甲子園に移る。妻秀死去。
昭和21年 47歳 戦時下の統制令で他誌と合併した「かつらぎ」復活。田代といと結婚。
昭和22年 48歳 カトリック入信、霊名アシジ聖フランシスコ。
昭和26年 52歳 虚子の「ホトトギス」選者引退、投句をやめる。長女死去。
昭和34年 60歳 虚子死去。
昭和38年 64歳 俳人協会顧問となる。
昭和44年 70歳 「よみうり俳壇」(大阪本社版)選者。
昭和48年 74歳 第7回蛇笏賞、西宮市民文化賞受賞。
昭和49年 75歳 大阪府芸術賞受賞。
昭和50年 76歳 4月勲四等瑞宝章受賞、俳人協会関西支部長、大阪俳人クラブの初代会長に就任。
昭和60年 86歳 兵庫県文化賞受賞。
平成 2年 91歳 「かつらぎ」主宰を森田峠に譲り名誉主宰に退く。
平成 4年 93歳 第7回日本詩歌文学館賞受賞、12月22日心不全のため兵庫県尼崎病院にて死去、告別式は夙川カトリック教会で行われた。

阿波野青畝の俳句(六)

○虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ耳しひ児 (大正七年作)

※19歳の時に、「虫の灯に読み昂(たかぶ)りぬ 耳しひ児」と詠んだといわれています。
畝傍中学時代に、郡山中学の英語教師・原田浜人に句作の指導を受けていて、郡山に来遊中の高浜虚子と出会い、師弟の間柄になりました。のちに高浜虚子から、「耳の遠い児であるといふことが、勢い、君を駆って叙情詩人たらしめた」と言われるほどに耳疾そのものが、青畝の俳句にしみじみとした哀歓をただよわせるに至っています。(阿波野青畝概略)
http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html

○ 聾青畝面かぶらされ福の神 (昭和五十年作)

※十日戎のみやげのお多福の面が家にあった。孫たちを相手にその面を顔につけると大声を出して笑った。つんぼ戎は作者だ。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 病葉の一つの音の前後かな (昭和五十年作)

※しずかな天地だった。周囲の木立はひそやかなたたずまいである。ふと夏の落葉が地上に舞い落ちた。その瞬間のひびきを耳にした。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△上記の虚子の「耳の遠い児であるといふことが、勢い、君を駆って叙情詩人たらしめた」
という指摘は、青畝俳句の一面をついている。


阿波野青畝の俳句(七)

○ 葛城の山懐に寝釈迦かな (昭和三年作)

※初出「ホトトギス」(昭和三・六)。春(寝釈迦)。大和の名山である葛城。この山につつまれて小寺がある。その寺中で寝釈迦の図を見ている。涅槃の釈迦。永遠の眠りはこの葛城の麓がふさわしい(『近代俳句集』所収「阿波野青畝集(松井利彦稿)」)。さらに、その「補注」で次のとおり記述されている。

※大和高取出身の作者が、親しくしていた小寺の寝釈迦を詠んだ。山本健吉は、この句について、「青畝の代表作として喧伝されている」「寝釈迦像はおおむね大きく画面いっぱいに描かれ、その廻りに小さく鳥獣虫魚の悲しむ姿が添えられるのであるが、この句葛城山をバックにして格別雄大に寝釈迦像がはっきり浮かび上がってくる。それとともに『山懐』と言い取った作者の濃(こま)やかな主観は充分滲み出ている(『現代俳句』)と評し、小事物をクローズアップさせた写生の技術の優れている点に言及している(「補注」二七六)。

△この青畝の「小事物をクローズアップさせた写生の技術の優れている」ということについては、虚子が素十をして、「雑駁な自然の中から或る景色を引き抽(ぬ)来つてそこに一片の詩の天地を構成する」という、いわゆる、虚子が推奨して止まなかった「客観写生」ということに含めても良いものであろう。しかし、青畝のそれは、素十のそれに比して、健吉が指摘する、「『山懐』と言い取った作者の濃(こま)やかな主観は充分滲み出ている」と、その主観がより濃厚に句に滲み出てくるという相違があるのであろう。そして、この両者の違いは、次のアドレスの、次のような対比として、指摘することも可能であろう。

http://www.takatori-guide.net/key_seiho.html

「素十の俳句は、視覚を中心とした厳格なリアリズムを漂わせる『厳密な意味における写生』と虚子が評価した作風です。片や青畝の句は、しみじみとした情のぬくもりを感じさせます」。

また、そのことが、青畝俳句の叙情性として、次のようにも指摘されることとなる。

「昭和3年、青畝の叙情性が最もよく表現された一句が、『葛城の 山懐(やまふところ)に 寝釈迦(ねしゃか)かな』です。葛城山は古くから多くの神話を持ち、また修験の聖地でもありました。葛城山が持つ神秘的な光景から写生でありながら、その句は無限の広がりを持っています。まさに俳句の聖人でありました。山口青邨の講演中の言葉から、水原秋桜子(しゅおうし)、山口誓子(せいし)、高野素十(すじゅう)と並んで四Sと称されるようになりました。この句が誌名となり、昭和4年1月、郷里の俳人たちの要請で「かつらぎ」を創刊し、青畝は主宰となりました」(上記のアドレスの紹介記事)。
とにもかくにも、青畝、二十九歳のときの、この作品が、その翌年の、青畝の主宰誌「かつらぎ」を誕生させ、平成二年の、青畝、九十一歳のときの、その「かつらぎ」を森田峠に譲り、名誉主宰となり、平成四年に、その九十三歳の生涯を閉じるまでの、そのバックボーンであり続けた、青畝の代表作であるとしても、それは過言ではなかろう。

阿波野青畝の俳句(八)

○ 八方に走りにげたり放屁虫(へひりむし) (大正十五年)
○ なつかしの濁世(じょくせ)の雨や涅槃像 (大正十五年)

※以上の二句は青畝君の句である。この両句にも共通した特色を認めることが出来る。「八方に」の句は放胆に滑稽的に叙してあるが放屁虫のうろたえて其辺に臭い匂いを出して直ちに逃げ失せてしまったところを「八方に走り逃げた」という風に叙したのは青畝君のやゝ空想的な想像力が左様にせしめ左様に叙せしめたものである。而もその放屁虫のすばやい行動並びにいかにもくさい臭気が四方八方に飛散する模様が適切に描かれてある。その言葉の空想的、想像的ではあるが、而も事実をおろそかにしないでよく之を描き得たという感じがする。次に「なつかし」の句は涅槃会の日に雨の降っているとうたゞそれ丈の景色に過ぎないが、それをこの作者は濁世の雨と云った。その心持を探って見ると、つらい悲しい醜悪な世の中ではあるが、而もどうもこれを離れ去ることは出来ない。離れよう離れようと思えば淋しさにたえぬ。やはり濁世と知りながら人なつかしい心持を持っているという事がうかゞわれる。しかも雨が静かに降っている。なんとなくものなつかしい。今降る雨にも濁世の姿がある。しかもその濁世は自分にとってなつかしい濁世である。涅槃像は仏様の成仏された姿が描いてあるのであるが、しかもその仏もなお濁世と云ってこの世を穢土(えど)とせられたのであるけれども然しやはりその濁世にすんでいる人々をあわれみいつくしまれたのである。自分は涅槃像に対して清い仏の世界を欣求(ごんぐ)する心はつよいけれども、尚又もの静かに降るこの濁世の雨はなつかしいと云う心持を叙したのである。そういう心持は現世に対していだいている作者の心持であって、耳の遠い身体の丈夫でない、しかもその家庭というものは青畝君の思う通りにならない、なんとなく現世をいとわしく感ずる心持がしながらも、やはりいとわしく思うその現世はなつかしい、と云うこの作者の心持が土台になって出来た句であろう。両句とも感情的な空想的な点は共通といって良い。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』所収「虚子」評)

△上記は青畝の掲出の二句についての虚子評(大正十五年十二月)であるが、「選も又創作なり」とする虚子を浮き彫りにするような見事なものである。と同時に。虚子の「客観写生」というものは、即、「主観写生」というものを排斥しているのではなく、「作者が小さい造化となって小さい天地を創造する」(『虚子俳話』)という、極めて、上記の青畝俳句の特色の、「感情的・空想的」な世界と交差しているところの、虚子一流の「万物の相に迫り得る」ところの「客観写生」というようなことなのであろう。それが故に、青畝は、昭和二十六年の、 虚子の「ホトトギス」選者引退まで、虚子のもとにあって、ひたすら、虚子の世界にあっての、その精進であったのである。

阿波野青畝の俳句(九)

○ 十六夜のきのふともなく照らしけり (昭和五年)

※秋桜子 「きのふともなく」と言うところの解釈がむずかしい。私の考えでは十七日の月を見て詠じたのではないかと思う。尤もこれは直ちにそう解したのではないので、初めは十六夜の月を見て、「昨日も今日もよく照らしている」と作者は思ったのであろうと解したのですが、そうすると「きのふともなく」という言葉がはっきりと飲みこめない。次にこれを十七日の月とすると、「きのふともなく」の解釈がいささかはっきりとして来るようでもある。それにまた考えてみると、今年の十六夜は天候に妨げられて月を仰ぐことが出来なかった。これは此句の解釈に何等権威のあることではないが、十七日と解するには甚だ都合のよい事実である。(後略)
虚子 「きのふともなく」という言葉は、「きのふともなく、きょうともなく」という意味になるのであって、十五夜の清光は申す迄もないことであるが、十六夜も亦きのふに変わらぬ月明であったということを言ったのであろう。「きのふともなく、きょうともなく、同じ位の月の明るさであった」という意味だろう。「きのふともなく」という言葉を使用したところにしおりがある。「きのうと同じく」と言ったのでは其しおりがない。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)

△青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評である。ここで、昭和五年から六年にか
けての「ホトトギス」の年譜は次のとおりで、昭和五年に、秋桜子は『葛飾』を、そして、青畝はその翌年に『万両』を刊行して、名実ともに、この両者は、単に「ホトトギス」の有力俳人というよりも、その時代を代表する俳人として登場してくる。そして、秋桜子は、昭和六年の十月に、「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表して、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなる。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和五年(1930)
二月 「山会の記」として文章会の記録を載せはじめる。芝不器男没。
四月 秋桜子句集『葛飾』刊、連作の流行。
六月 「玉藻」「夏草」「旗」創刊。虚子「立子へ」を「玉藻」に連載。
八月 第一回武蔵野探勝会。
十一月 第四回関西俳句大会(名古屋)にて虚子「古壷新酒」を講演。
昭和六年(1931)
一月 「プロレタリア俳句」創刊。「俳句に志す人の為に」諸家掲載。
五月 虚子選『ホトトギス雑詠全集』(全十二巻.花鳥堂)刊行始まる。
四月 青畝句集『万両』刊。
六月 「句日記」連載、虚子。
十月 秋桜子「自然の真と文芸の真」を「馬酔木」に発表、ホトトギスを離脱。

 さて、その秋桜子の「自然の真と文芸の真」の骨子については、次のようなことである。

http://www.uraaozora.jpn.org/mizusize.html

※文芸の上に於て、「真実」といふことは繰り返し巻き返し唱へられて来た言葉である。さうしてこれは文芸の上に常に重大なる意義を持つてゐるのである。然しながら、この「真実」といふ言葉に含まれた意味は、時代の推移と共に、また変遷せざるを得なかつた。例へば十九世紀の終から二十世紀の初にかけて勢力のあつた自然主義に於ては、「真実」といふ言葉はたゞ「自然の真」といふ意味に用ゐられてゐた。「自然科学が自然の真を追究する学問であると同じやうに、芸術も自然の真を明かにするのを目的とする。」と、此派の人々は唱へてゐたのである。現今の文壇に於て、此の自然主義を認める者はない。「真実」といふ言葉は、今、専ら「文芸上の真」といふ意味を以て用ゐられてゐるのである。「あの文芸には真実がない」といふのは、「文芸上の真」が無い謂ひであつて、決して「自然の真」がない謂ひではない。而して「文芸上の真」とは、後に詳しく説く如く、「自然の真」の上に最も大切なエツキスを加へたものを指すのである。俳句の上に於ても、此の「真実」といふ言葉は常に唱へられた。又今後に於ても、これを忘れんとする人々を警しむる為めには、何回も繰り返されて差支へがない。然しながら、その「真実」の持つ意味は、常に「文芸上の真」でなければならぬと僕は思ふのである。

 ここで、あらためて、青畝の掲出句に対する、秋桜子と虚子との評を読み返してみると、明らかに、秋桜子のそれは、「自然の真」という観点からの評であり、虚子のそれは、「文芸の真」という観点のものであるということに、思い至るのである。すなわち、秋桜子は、虚子・素十らの「客観写生」というは、「自然の真」に立脚するものであって、「文芸の真」に立脚するものではないとして、ホトトギスを離脱し、虚子と袂を分かつこととなるのであるが、少なくとも、掲出句の「きのふともなく」という、虚子のいう「しおり・しをり」の世界に足を踏み入れている青畝の俳句というのは、秋桜子の俳句以上に、「文芸の真」に立脚するものであるし、また、この青畝の句の、「きのふともなく」に、芭蕉の俳句理念(芭蕉の根本的な精神はさび、しをり、細みである。さびは、閑寂な観照態度から生まれる情調であり、しをりはさびに導かれて表現される余情をいい、自然の風物に作者の心が微細に通い合う姿勢を細みと呼ぶのである)の、その「しおり・しをり」を見てとった、虚子には、単に秋桜子のいう「自然の真」だけではなく、それこそ、秋桜子のいう「文芸の真」に立脚したものであったという思いを深くするのである。さらに、付け加えるならば、秋桜子と素十とは、ともに、西洋医学という自然科学という世界がその背景にあるのに比して、虚子と青畝とは、ともに、「花鳥に情(じょう)を労じて、しばらく生涯のはかりごととさへなれば、つひに無能無才にしてこの一筋につながる」(「幻住庵記」)という、東洋的な俳諧精神というものが、その背景に色濃く宿っているいるように思えるのである。

阿波野青畝の俳句(十)

○ 座について庭の万両憑きにけり (青畝・昭和六年)
○ 降る雪や明治は遠くなりにけり (草田男・昭和六年)
○ しんしんと雪降る空に鳶の笛 (茅舎・昭和六年)

△この青畝と草田男の句は、「ホトトギス」(昭和六年五月)の「雑詠句評会」に掲載されたものである。この年、秋桜子が「ホトトギス」を離脱して、いわゆる 四S(秋桜子・誓子・青畝・素十)の、次の世代の、「草田男・茅舎・たかし」が台頭してくることとなる。
この時の、句評などは次のとおりである。

※(青畝の句)花蓑 万両がつやつやと赤らんでいるだけで外には格別目につくものもない冬枯の庭である。万両の赤い色は光線の加減で変化して見える程に艶々しい。偶々客となって座敷に通され、座についてみると恰度まともに万両が見えて、つやつやした赤い色が自分にのりうつっているようであると云うのでしょう。静かで而もけやけやしい万両の趣をしみじみ味わうことが出来る。この作者の今度の句は万両ばかり詠んでいるが、どの句にもそれぞれ万両の深い味が捉えられている。
(草田男の句)秋桜子 同じ雪を題材として、これは又別の深い趣のある句である。雪が所謂鵞毛に似て降りしきる空を仰いでいると、何となく遠い昔を思う感じが胸に湧いて来る。今から二十年余り前、明治の頃にはよく深い雪が降った。そうして子供であった我々は外套を着、脛を埋めて学校へよろこび出掛けものである。今はそういう大雪には逢うよしもないが、今空を埋めて降って来る雪を眺めていると、あの子供の頃の明治時代が偲ばれる。思えば明治は遠くなったものだという感慨が作者の胸に湧き起って、此の句が出来たものだと思う。此の句は全体として隙きがないが、殊に「降る雪や」という五字が巧みだと思う。これは目の飛雪の光景をよく現わし、その空の暗さを現わし、従って自然に昔を追憶する心を引き出すもとになっているのである。
虚子 降る雪に隔てられて明治という時代が遠く回想されるというのである。情と景とが互いに助けて居る。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)

阿波野青畝の俳句(十一)

○ 夕遍路奪衣婆(だつえぼ)のゐるうしろより (昭和十八年)

※虚子 閻魔王の祭っている傍に奪衣婆の像がある。其辺をうろうろしていた遍路が、其奪衣婆のうしろから出て来た、というのである。夕遍路という言葉は既に使い古るされているが、此場合よく利いている。(『ホトトギス 雑詠句評会抄』)
△「ホトトギス」の昭和十四年から二十年までの年譜は下記のとおりである。昭和十四年には、草田男・波郷・楸邨らの「人間探求派」が登場してくる。また、「京大俳句弾圧事件」が勃発し、俳句もまた思想統制の時代に突入していった。昭和十六年には、「日本俳句作家協会自由律.無季の句を俳句の一支流として容認。京大俳句関係者の判決、新興俳句壊滅」とあり、「自由律・無季俳句」も俳句の一分野と容認されるけれども、それらのものも含め、反「ホトトギス」的傾向の強い「新興俳句」は壊滅状態となっていく。昭和十七年に、かって「ホトトギス」の有力俳人であった日野草城が俳壇を去り、「ホトトギス」を離脱した、秋桜子の「馬酔木」の有力俳人の、加藤楸邨・石田波郷らも「新興俳句」系俳人とも見なされ、その「馬酔木」を離脱していく。虚子、そして、「ホトトギス」周辺も、これらの戦時下の影響を色濃く受容することとなるが、そういう戦時下での中での、青畝の一句である。どことなく陰鬱な「奪衣婆」と、どうにも疲れ切ったような「遍路」と、青畝の句としては、何とも陰鬱な句の部類に入ろう。やはり、当時の陰鬱な時代相というものが見え隠れしている一句である。

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昭和十四年(1939)
一月 ホトトギスで難解俳句が問題となる。
二月 蒲郡にて第一回「日本探勝会」。四月、熱帯季題から地名を除く。素逝句集『砲車』刊。
五月 俳諧詩「池内庄四郎九州四国武者修業日記」虚子(「誹諧」)。「花鳥」創刊。茅舎句集『華厳』刊。
六月 「はがき句会」(七十回連載)はじまる。
八月 「俳句研究」の座談会「新しい俳句の課題」、これより人間探求派の呼称起る。
九月 泉鏡花没。
十月 虚子編『支那事変句集』刊(三省堂)。田中王城没。
昭和十五年(1940)
一月 『ホトトギス雑詠選集・夏の部』刊(改造社)。「連句礼賛」虚子。
二月 京大俳句弾圧事件。日本俳句作家協会設立、虚子会長に就任。
四月 「天香」創刊(三号で潰される)。
六月 虚子編集『季寄せ』刊(三省堂)。
八月 三鬼検挙さる。
十月 種田山頭火没。「寒雷」創刊。「俳話新涼」代表的俳句作家約五十名。
昭和十六年(1941)
二月 日本俳句作家協会自由律.無季の句を俳句の一支流として容認。京大俳句関係者の判決、新興俳句壊滅。
五月 虚子選『新選ホトトギス雑詠全集一』刊(中央出版協会・昭和十七年までに全九冊刊)。
六月 虚子満鮮旅行。虚子編『子規句集』刊(岩波文庫)。虚子の句の翻訳(仏・英・独)にポルトガル語・中国語加わる。
七月 川端茅舎没。
八月 虚子選『ホトトギス雑詠選集・秋の部』刊(改造社)。
十二月 大平洋戦争始まる。
昭和十七年(1942)
一月 草城俳壇から退く。
二月 「子規の句解釈」連載、虚子。
三月 虚子『句日記』(昭和十一~十五年)刊(中央出版協会)。
五月 楸邨・波郷「馬酔木」を離れる。虚子『立子へ』刊(桜井書店)。
六月 日本俳句作家協会が日本文学報国会俳句部会に改組、虚子部長となる。
七月 虚子編『武蔵野探勝上』刊(甲鳥書林・昭和十八年三月までに全三冊)。
八月 脚本「時宗」虚子(九月に中村吉右衛門、歌舞伎座、昭和十八年五月南座上演)。八月、「夏炉」創刊。
九月 「ひいらぎ」創刊。
十二月 「連句も亦花鳥諷詠-年尾へ-」虚子(「誹諧」)。虚子『俳句の五十年』刊(中央公論社)。
昭和十八年(1943)
二月 大谷句仏没。
三月 用紙不足のため雑詠三段組となる。
六月 『ホトトギス雑詠選集冬の部』刊(改造社)。
十月 虚子『五百五十句』刊(桜井書店)。東大ホトトギス会学徒出陣壮行会。
十一月 虚子脚本「嵯峨日記」上演(吉右衛門、歌舞伎座)。虚子森田愛子を訪ひ伊賀で芭蕉二百五十年忌。
十二月 芦屋月若町の年尾居にて『猿蓑』輪講開始(旭川・鹿郎・年尾・蘇城・大馬・三重史・青畝・涙雨・九茂茅)。
昭和十九年(1944)
六月 「玉藻」「誹諧」資材不足のため「ホトトギス」に合併。
九月 虚子小諸小山栄一に高木晴子とともに疎開。
十月 「鹿笛」「京鹿子」合併し「比枝」となる。
昭和二十年(1945)
三月 立子小諸へ疎開。
六月 戦局急迫のため「ホトトギス」休刊(九月まで)。
八月 芦屋の年尾居空襲で全焼、和田山古屋敷香葎方へ疎開。終戦。
九月 虚子、姨捨の月を見る。
十月 ホトトギス仮事務所岡安迷子宅に、発行所は丸ビル。
十一月 虚子北陸・但馬・丹波の旅。
十二月 「俳句ポエム」連載、佐川雨人。

阿波野青畝の俳句(十二)

○ 芽柳に焦都やはらぎそめむとす (昭和二十一年)
※戦禍に灰燼となった都市を焦都という。造語である。柳も黒柳だと思った。根が生きていたので芽を出した。私も柳によって復興の元気が湧いた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 伐口に大円盤や山笑ふ (昭和二十一年)
※森林は伐採されて急に明るい天地に変じた。ぷんと木の香をはなつ伐口は汚れなき円盤をならべる。まことに陽気な山になった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 端居して濁世なかなかおもしろや (昭和二十二年)
※混乱した敗戦の世相には私のような者の手のつけようがない。生きられるように飯を食うしかないこの世を達観し、いやに澄ましていた。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 夜燕はものやはらげに羽ばたきぬ (昭和二十三年)
※燕は夜になると巣にやすらぐ。そして産卵もする。子がかえれば親が席をゆずる。巣のへりにとまりながら哺育する親の姿勢は尊い。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 手より手へわたされてゆき雲雀の巣 (昭和二十三年)
※麦畑の多いところを歩いていた。雲雀の鳴くまひるは明るい。一人が巣を発見して手にとった。雲雀の巣にちがいないといって渡された。軽かった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 枯るるもの枯るるならひに石蕗枯るる (昭和二十四年)
※石蕗が咲けば黄がひき立つ。長く咲いたあとは絮がついて汚れて見える。そのじぶんどんな草も木も茶いろに枯れるのだ。石蕗も同じこと。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝の戦後(昭和二十一~二十四年)の「自註自解」の六句である。これらの六句は、戦時中の陰鬱な調子とは違って、明るい調子の、青畝の、「この世を達観し、いやに澄ましていた」と、俳人特有の戯けにも似た自画像が浮かび上がってくる。しかし、下記の「ホトトギス」の年譜にあるとおり、桑原武夫の「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)や「現代俳句協会設立」など、日本俳壇は、新しい転換期の最中にあった。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和二十一年(1946)
一月  「春燈」「笛」「濱」創刊。
二月  「祖谷」創刊。
五月  「雪解」創刊。「風」創刊。新俳句人連盟発足。
六月  小諸の山廬に俳小屋開き「小諸雑記」開始。
八月  夏の稽古会(小諸)はじまる。渡辺水巴没。
十月  長谷川素逝没。「萬緑」「柿」創刊。虚子『贈答句集』刊(青柿堂)。
十一月  「俳句人」創刊。桑原武夫「第二芸術-現代俳句について」(「世界」)発表。
十二月  虚子、『小諸百句』刊。(羽田書店)。「蕪村句集講議雑感」虚子。中塚一碧楼没。
昭和二十二年(1947)
一月  「踏青」創刊。
二月  虚子『六百句』刊。(青柿堂)。「誹諧」に二句の連句開始。
三月  「極楽の文字」虚子(「玉藻」)。
四月  「風花」「早蕨」創刊。
六月  新俳句人連盟分裂。
九月  現代俳句協会設立。ホトトギス社合資会社となる。(代表社員年尾)。
十月  虚子小諸から鎌倉へ帰る。
十一月  虚子比叡山にて亡母五十年忌。琵琶湖船上句会。
十二月  虚子『虹』刊(苦楽社)。誓子「馬酔木」脱退。
昭和二十三年(1948)
一月  「天狼」「勾玉」「諷詠」「七曜」創刊。
三月  「游魚」「木の実」創刊。年尾「句帖」開始。
四月  『虚子京遊句録』刊。(富書店)。
六月  虚子・年尾・立子ら氷川丸で北海道旅行。
八月  朝日俳壇復活し虚子選者となる。
十一月  「山火」創刊。
昭和二十四年(1949)
一月  「みそさざい」創刊。
二月  虚子「雑詠解」連載、『喜寿艶』刊(創元社)。
三月  青木月斗没。「郁子」創刊。
四月  「雨月」創刊。
六月  「雑詠解」「俳画」一般募集開始。佐藤紅録没。
十月  「裸子」「青玄」創刊。
昭和二十五年(1950)
一月  「樟」創刊。
四月  第二芸術論に対し「俳句も芸術になりましたか」と虚子答える。
七月  鎌倉虚子庵にて東西稽古会(新人会.春菜会)。
十月  「誹諧」終刊。

阿波野青畝の俳句(十三)

○ 春空に虚子説法図描きけり (昭和四十年)
※かすむ大空が映写幕のようにさまざまな思い出をうかべて亡師を慕った。釈迦説法図があるごとく虚子からの教えがまざまざと感じられる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝年譜中、「昭和26年 52歳 虚子の「ホトトギス」選者引退、投句をやめる。長女死去」・「昭和34年 60歳 虚子死去」の、その虚子を主題とした句である。青畝の代表句の「葛城の山懐に寝釈迦かな」(昭和三年)にも見られる仏教と深く係わりのある「虚子説法図」というのが青畝の世界という趣である。と同時に、青畝の俳句というのは、この昭和三年当時の、初期の作句姿勢を微動だにさせていないのは、驚異的ですらある。

○ 一章の聖句を附して日記果つ (昭和三十八年)
※一年を経過した日記はさすがによごされ他人の目にふれさせたくないものだ。ぱらぱらと操ってみて懐旧する。最後へ箴言ょ附して締め括った。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 燭を持ち黒き我ある野分かな (昭和三十九年)
※停電して困った。たよりない蝋燭を手にして台風の用心に立ってゆく。畳の浮くような足許に自分の影法師がお化けめいて動きだすさま。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝俳句の特色の「涅槃会・釈迦説法図」などの仏教関連の用語と共に、青畝年譜の「昭和22年 48
歳 カトリック入信、霊名アシジ聖フランシスコ」の、カトリック関連の用語が、戦後の青畝の俳句に見られるようになる。この「仏教・カトリック」と、それらが渾然としている境地も、青畝ならではという思いを深くする。そして、青畝の俳句というのは、その作句の主題を、単に「仏教」とか「カトリック」とかに峻別することなく、それらが、広義の「信仰」という世界と宥和していて、それらが、あたかも、虚子の言う「俳句は極楽の文字」(下記年譜の「昭和二十八年一月」)と極めて近い世界のものという思いを深くするのである。
なお、「ホトトギス」年譜(昭和二十六年~昭和三十四年)は次のとおりである。

http://www.hototogisu.co.jp/

昭和二十六年(1951)
一月 「みちのく」創刊。俳文学会発足。
三月 年尾雑詠選者に。「句日記」虚子、「句帖」年尾。
六月 虚子『椿子物語』刊(中央公論社)。「春潮」創刊。
七月 山中湖畔で稽古会。
八月 竹下しづの女没。
九月 子規五十年式典。
十一月 臼田亜浪没。
十二月 原石鼎没。『年尾句集』刊(新樹社)。「ホトトギス五百号史」宵曲.虚子。
昭和二十七年(1952)
一月 虚子選「雑詠選集予選稿」開始。昭和三十四年四月まで連載(昭和十二年十月~二十年二月の雑詠の再選)。
三月 久米三汀没。
四月 「随問随答」再開(虚子・年尾のち真下善太郎)。
六月 角川書店「俳句」創刊。
十一月 『虚子秀句』刊(中央公論社)。
十二月 山本健吉『純粋俳句』刊。
昭和二十八年(1953)
一月 「俳句は極楽の文字」虚子(「玉藻」)。
四月 子規・虚子師弟句碑建立(須磨)。
九月 点字版『喜寿艶』『椿子物語』刊(毎日新聞社)。
十月 虚子逆修法会(比叡山横川)。
昭和二十九年(1954)
一月 「思ひ出・折々」年尾(昭和三十年十二月まで連載)。
八月 前田普羅没。寒川鼠骨没。
九月 中村吉右衛門没。
十月 『虚子自選句集』四季四冊刊(創元文庫)。
十一月 虚子文化勲章受賞。
昭和三十年(1955)
一月 虚子『俳句への道』刊(岩波書店)。「陽炎」創刊。
四月 虚子朝日新聞に「虚子俳話」を連載。
五月 『虚子自伝』刊(朝日新聞)。「藍」創刊。草城同人に復帰。雑詠投句、二句から三句にふえる。
六月 「恵那」創刊。虚子『六百五十句』刊(角川書店)。
八月 「雪舟」創刊。
十月 「草紅葉」創刊。「能登塩田」沢木欣一(「俳句」)、社会性俳句論議。
昭和三十一年(1956)
一月 日野草城没。
二月 「思ひ出づるままに」連載、年尾。
四月 「雑詠句評」始まる。「運河」創刊。兜太「本格俳句-その序」を「俳句研究」に書く、これより造型俳句論始まる。
五月 松本たかし没。
九月 「ゆし満」創刊。
十月 関西稽古会(堅田)。
十一月 虚子『虹、椿子物語他三篇』刊(角川書店)。
昭和三十二年(1957)
一月 「年輪」「桃杏」創刊。
五月 「芹」創刊。
十月 柳原極堂没。
十二月 『年尾句集』刊(大正五年以後の句、新樹社)。
昭和三十三年(1958)
二月 『虚子俳話』刊(東都書房)。
三月 「俳句評論」創刊。独訳『虚子俳句集』刊(東京日独協会)。
五月 「菜殻火」(朱鳥)「青」(爽波)「山火」(蓼汀)「年輪」(鶏二)四誌連合を作る。
十二月 『自選自筆短冊図譜虚子百句』刊(便利堂)。
昭和三十四年(1959)
四月 一日十時二十分、虚子脳幹部出血。八日、虚子没。立子、年尾朝日俳壇臨時選者となる。永井荷風没。
五月 虚子選「雑詠選集予選稿」、昭和二十三年三月号分で終了。安保闘争。


阿波野青畝の俳句(十四)

○ 寒波急日本は細くなりしまま (昭和三十一年)
※気象語の寒波を季語とした。子供部屋の地球儀を廻すと日本は小さい。敗戦以後痩せ細ったのは人間だけでなく、国も寒波の寒さにうちふるえる。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△同じ虚子の信頼の厚かった素十の「近景俳句」に比して、青畝のそれは「大景・遠景俳句の趣でなくもない。そして、虚子・素十の俳句に比して、青畝俳句は、俳諧が本来的に有していた滑稽味というものをその底流に宿しているという感を深くする。

○ しらべよき歌を妬むや実朝忌 (昭和三十三年)
※詩歌はつねに声調を主にする。金槐集は万葉調を復活して朗々と吟じられる。これは俳句においても変りないはずである。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△虚子の俳句観というのは、「花鳥諷詠」と「客観写生」との、この二つによって支えられていると言って良いであろう。そして、「客観写生」ということは、素十的な、リアリズムの極致のような「客観写生」もあれば、青畝的な極めて底流に主観的なものを宿しての表面的な「客観写生」と、そのニュアンスは様々である。そして、もう一つの「花鳥諷詠」というニュアンスも千差万別なのであるが、青畝のそれは「花鳥諷詠」の「諷詠」にウェートが置かれたもののような、そんな印象を受けるのである。それは、端的に、掲出句の措辞の「しらべよき句」ということになろう。この「しらべよき句」ということは、青畝俳句の大きな特徴の一つである。

○ 時雨忌や言を容れざる一人去る (昭和三十七年)
※芭蕉の命日に句友があつまって修したあとで論争をしたことがあった。昔なら破門といったかもしれぬが、黙ってその人は席を蹴って去った。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△四Sの俳人は、東の秋桜子・素十に対して、西の誓子・青畝という図式になろう。同時に、論の秋桜子・誓子に比して、作の素十・青畝という図式もあろう。特に、知的な構成派の誓子に比して、青畝は情的な非構成派という印象でなくもない。しかし、虚子がそうであったように、こと、芭蕉派ということになると、青畝もその一人ということになろう。掲出句の「時雨忌」と「言を容れざる一人去る」というのが、虚子と袂を分かった、どちらかというと、蕪村派の秋桜子の印象でなくもないのが、この掲出句に接しての感想である(勿論、この「言を容れざる一人去る」の席を蹴った俳人は、秋桜子ではなかろうが、こと、虚子と秋桜子との図式を想定すると、そんな思いがしてくるというだけである)。

○ イースターエッグ立ちしが二度立たず (昭和四十年)
※復活祭に鶏卵をいろどる習慣がある。こころみに玉子を立てたが偶然に立ったので喝采される。も一度立てようと工夫しても駄目だった。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
△青畝がカトリックに入信したのは、戦後間もない昭和二十二年(青畝、四十八歳)、そして、虚子が「ホトトギス」選者引退に伴い、その投句を止めたのが、昭和二十六年(青畝、五十二歳)、そして、終世の師の虚子が亡くなった、昭和三十四年(青畝、六十歳)は、青畝年譜上重要な特記事項であろう。青畝の俳句の世界は、虚子の俳句信条の「花鳥諷詠」と「客観写生」との、青畝流の一実践であったとう思いを深くするが、こと、この掲出句に見られるような、カトリック的な世界は、虚子とは無縁のもので、虚子没後は、虚子以上に、虚子が晩年に唱えた「極楽としての俳句」の世界というのを、身を呈して実践していったという印象を深くするのである。

阿波野青畝の俳句(十五)

○ 寒明けば七十の賀が走り寄る (昭和四十四年)
※大寒が明けてまもなく二月十日の誕生日。しかも古稀が記念されるとは駆足のようだ。わが健康をしみじみ感謝した。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 鯥五郎鯥十郎も泥仕合 (昭和五十年)
※有明海の干潟をみると鯥がはねている。まことに活発なのでふと曽我五郎十郎の敵討ちという語呂合せをして右の句を成した。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)
○ 病葉(わくらば)の一つの音の前後かな (昭和五十年)

※しずかな天地だった。周囲の木立はひそやかなたたずまいである。ふと夏の落葉が地上に舞い落ちた。その瞬間のひびきを耳にした。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 福笑大いなる手で抑えられ (昭和五十一年)
※お多福の目や口をならべる遊びで目隠しでやるから変な顔ができる。演者が大きな手でひろげながら模索するのを見ると笑いころげるのだ。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

○ 噴水に人生縮図まのあたり (昭和五十二年)
※オスロ市内のフログネル公園に珍しい噴水が多い。グスタフ・ピーケランの創った彫刻群は人間の一生をまとめた。噴水は西洋が秀れている。(自註現代俳句シリーズ『阿波野青畝集』)

△青畝の昭和五十年代の句である(その年譜は下記のとおり)。青畝は、九十三歳と長命であったが、その晩年の作風も、この掲出句のように、虚子が晩年に唱えた、「極楽の文芸」として「俳句」の世界に悠々と身を置いていたことは想像に難くない。虚子の言う「極楽の文芸としての俳句」ということは、「俳句は花鳥諷詠の文学であるから勢ひ極楽の文学になる。如何に窮乏の生活に居ても如何に病苦に悩んでゐても、一度心を花鳥風月に寄する事によつてその生活苦を忘れ、仮令一瞬時と雖も極楽の境に心を置く事が出来る。俳句は極楽の文芸であるといふ所以である」(『俳句への道』)ということに要約できるであろう。虚子の終生の俳句信条というのは、「客観写生」「花鳥諷詠」「存問」「極楽の文芸」ということに要約することができるのであるが、この虚子の最後に到達した、「極楽の文芸」としての「俳句の世界」の一つの典型が、青畝の俳句に脈打っているということは、管見ではあるが、そんな思いを深くするのである。

(青畝の晩年の年譜)
昭和50年 76歳 4月勲四等瑞宝章受賞、俳人協会関西支部長、大阪俳人クラブの初代会長に就任。
昭和60年 86歳 兵庫県文化賞受賞。
平成 2年 91歳 「かつらぎ」主宰を森田峠に譲り名誉主宰に退く。
平成 4年 93歳 第7回日本詩歌文学館賞受賞、12月22日心不全のため兵庫県尼崎病院にて死去、告別式は夙川カトリック教会で行われた。

金曜日, 10月 12, 2007

川柳の群像(その一~その十)

川柳の群像(その一 R・H・ブライス)

○木の裏に青き夢見る蝸牛(かたつむり) 不来子
○ 山茶花に心残して旅路かな      ブライス

田辺聖子監修・編、東野大八著『川柳の群像』(明治・大正・昭和の川柳作家一〇〇人)
において、川柳作家の一人として、英国人のレジナルト・ホーレス・ブライスを取り上げ、
掲出の二句が紹介されていた。「不来子」という号は、禅の大家の鈴木大拙氏の命名に因る
という。その由来は「遊びに来いと言っても来ない人」という意とのことである。ブライ
スは川柳作家というよりも、俳句・川柳の研究家として、そして、それらの海外への紹介
者として夙に知られている。吉田機司氏との共著の『世界の風刺詩川柳』という著もある。
「川柳は日本独特の人生詩で、日本民族が生んだ世界に大いに誇ることのできる傑れた風刺
詩である」と、その共著の一人の吉田機司氏に語ったとか。このブライスは現天皇の皇
太子の頃の家庭教師としても知られており、また、昭和二十一年元日の昭和天皇の人間宣
言の詔書にも深いかかわりを持つ一人としても紹介されている(星野慎一著『俳句の国際
性』)。掲出の一句目は新聞等にも発表されたもので、「下闇に青き夢みるかたつむり」の句
形のものもあり(尾藤三柳編『川柳総合事典』)、どちらが再案のものなのか不明であるが、
「不来子」という号での代表作の一つなのであろう。二句目は、ブライスの絶句ともいう
べきもので、お見舞いに来られた近所の奥様に英語で漏らされたものとか(東野・前掲書)。
一八九八年(明治三一)生まれ、一九六四年(昭和三四)に没した。このブライスについては、
殆ど、ネットの世界では紹介されていない。次のものは、禅の研究家・ブライスに焦点を
あてたもので、俳人・川柳人の研究家であると共に作家としてのブライスの紹介は、もっ
と、もっと成されて然るべきであろう。

http://atlantic.gssc.nihon-u.ac.jp/~ISHCC/bulletin/01/106.pdf

川柳の群像(その二 東野大八)

○ 番傘の傘には人が多すぎる
○ 姿なきわが手がある夜肩でなく
○ 空っぽの袖へ秋風ばかり吹く
○ 引揚げの眼に花だけが美しい
○ ふっくらと幸せな日が丸くなる

田辺聖子監修・編、東野大八著『川柳の群像』(明治・大正・昭和の川柳作家一〇〇人)
の、その百人の川柳作家の中には、「川柳塔」の川柳作家・東野大八氏の名は出てこない。
田辺聖子監修・編で集英社から刊行された『川柳の群像』の著者その人なのである。しか
し、川柳作家としても研究家としても忘れ得ざる一人のこの大八氏が、何故か、『川柳総合
事典(尾藤三柳編)』にも、その名を見いだすことができない。『道頓堀の雨に別れて以来な
り』というタイトルで、岸本水府氏の人生と「大阪の、ひいては近代の川柳文学」を浮き
彫りした、その著者・田辺聖子さんが、監修と編者の二役を兼ねて、東野大八氏が「川柳
塔」に昭和五十七年より平成十三年八月まで連載していたものを、田村義彦氏が綿密に原
典と照合するという労の多い作業を通して、この大八氏の労作が完成されたのである。田
辺聖子さんは、その「序」で「本書はまた、東野大八氏の川柳人生のすべてを挙げて、川
柳と川柳作家に捧げた頌歌ともいえよう」と賛辞を呈している。
さて、掲出の一句目、同人千人という大所帯の「番傘」への大八氏の挨拶句である。二
句目は、中国戦線に駆り出され、左腕切断の手術を受けたとき、軍医が「ふるさとが待っ
てるよ」とささやいてくれたときの一句とか。三句目は引き揚げてきての氏の句集の中の
雙手老残十三句」のうちの一句とか。四句目は、これまた、「式辞きく三々九度が死出の
旅」の、その三々九度を交わした奥様との再会のときの一句とか。これらは、全て、田辺
聖子さんの、その「序」での紹介のものである。そして、最後の五句目は、「父、大八のこ
と」と題しての古藤愛子さんのものに紹介されている一句である。それによると、「母の描
いた墨絵を包み込むように」、この一句が書き添えられているという。
東野大八氏は一九一四年(大正三年)生まれ、二〇〇一年(平成一三)に没した。ネットの世
界では、その著『川柳の群像』の紹介のものだけで、その作品については殆ど紹介されて
いない。そのネット(グーグル)のものを見ていたら、私の『一つの昭和俳句史(桑原月穂の
軌跡)』と題しての、東野大八氏の句集の『川柳共栄圏』の一句も紹介されているようなの
だが、そのホームページはアドレスの変更などで画面に出てこない。その一句は、次のア
ドレス(昭和一七年の項)に、ひっそりと眠っている。

http://members.at.infoseek.co.jp/yahantei/haikushi.PDF

川柳の群像(その三 前田雀郎とその周辺)

○ 帰去来の文を柳にとじん哉 前田雀郎

東野大八氏は、この句をして「俳諧亭雀郎は、鬼貫の言ではないが、『又( また)臨終の夕
までの修業』をモットーにすべてを燃焼した作家であった」との鋭い指摘をしている(東野・
前掲書)。雀郎氏は「川柳丹若会」を創立し、川柳六大家の一人とも、三太郎氏・周魚氏と
並んで東京の三巨頭とも呼ばれていた。ネット(グーグル)関連では、どうにも、まだ未完の
ままに掲載している私関連のものが多いというのは何とも淋しい限りである。なお、先に、
「前田雀郎の世界」として、この「俳諧鑑賞広場」でも取り上げている。また、雀郎門の
尾藤三柳氏らが、精力的にネットにも取り組まれているので、そのうちに、ネットの世界
でもより多くの情報が交流できるようになるであろう。

○ 雀郎年譜
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/nenpu.pdf

○ 前田雀郎の風姿とその俳論
http://www66.tok2.com/home2/yahantei/hairon.pdf

○ 前田雀郎の世界(『榴花洞日録』鑑賞」) 新年・春の部、春その二、夏その一、夏その
二秋、冬・歳末、その他(現在進行形で改訂中で、句意などは改訂前の素案のものである。)

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/haru1.pdf

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/haru2.pdf

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/natsu1.pdf

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/natsu2.pdf

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/aki.pdf

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/fuyu.pdf

○ 翻訳を手古ずる孫の新造語 阿部佐保蘭

『川柳と翻訳』(中央公論社・昭和四一年刊行)の著を持つ阿部佐保蘭氏のネット関連の紹
介ものは未だなされていない。ただ、東野大八著の『川柳の群像』が下記に紹介され、そ
の中で、佐保蘭氏の一句も例句の一つに取り上げられている。佐保蘭氏は敬愛する雀郎氏
の自選三十六句を、この冒頭で紹介した、R・H・ブライスに英訳を依頼したということな
どが、上記の『川柳の群像』で紹介されている。氏は明治三十九年(一九〇六)生まれ、昭和
四十九年(一九七四)に没した。

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/hb/ootu/wshosea.cgi?W-NIPS=9978015434

○ 阿達義男 新潟大学で教鞭をとられ、その博士論文は「江戸川柳の史的研究」で、川
柳の世界では忘れ得ざる人。前田雀郎門ともいえる大野風柳氏らと「新潟川柳社」の設立
も携われたとか(東野・前掲書)。ネットの世界では全く情報がない。しかし、大野風流氏の
ものなどは見られる。

http://www.chat761.com/personality/ouno.html

○ 岡田 甫 前田雀郎氏も『川柳と俳諧』(昭和一一刊行)などの著を持つ俳諧研究家とし
て知られているが、古川柳研究家として名高く、多くの研究家を育成した岡田甫氏につい
ても、東野第八氏は『川柳の群像』の中でとり上げている。岡田甫氏については、次のネ
ットのものなどで情報を得ることができる。

http://www.kanwa.jp/xxbungaku/Publisher/Sengo/Syobun/Toc/Syobun.htm

川柳の群像(その四 川上三太郎とその周辺)

○ 孤独地蔵花ちりぬるを手に受けず 川上三太郎

この句が収載されている昭和三十八年刊行の『孤独地蔵』の「序」の「わが川柳五十年」
には、こう記されているという(東野・前掲書)。
「同じ十七音字でも俳句は自然鑑賞であり花鳥諷詠であるが、川柳はこれと反対に人間探
求・人間追求である。それは丁度人間とその生活よりほかに見聞することの出来ない私に、
実にピッタリ来ている。私はこの川柳以外には何もない。かくして私は川柳に走った。そ
れは私の十三歳の時であった」。三太郎は「川柳研究社」を統率して、昭和十年代には「詩
性川柳」の名のもとに黄金時代を築き上げ、一方、伝統川柳にも優れた手腕を発揮して、「二
刀主義」とも称されていた。川柳生活六十五年、門下から多くの第一線の作家を輩出して
いった。その第一線の作家の一人として時実新子氏のネット(「時実新子の川柳大学」)は充
実したものであるが、こと、川上三太郎氏その人のネット関連のものは未だしという感じ
である。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://shinyokan.ne.jp/sk/senken/index.html

http://shinyokan.ne.jp/syoten/hon/86044_169.html

○ 真夜中に酒さめ果てていた孤独 佐藤正敏

大正二年(一九一三)生まれ、平成十二年没。川上三太郎没後は「川柳研究」の幹事長とし
て、その遺髪を継いだ。生前の一冊の句集『ひとり道』についての東野大八氏の正敏川柳
の核心をついている(東野・前掲書)。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/Masatosi/Masatosi-Front.htm

○ ふす肌に百夜の秋をもてあます 田辺幻樹

明治四十一年(一九〇八)生まれ、昭和十九年に三十七歳で夭逝した。「田辺幻樹とは、戦
前の『川柳研究』誌の黄金時代、主宰者・川上三太郎を支え、師三太郎から門下随一の詩
川柳家と嘱望されていた」との記載が見られる(東野・前掲書)。

http://www.mmjp.or.jp/jst/index/jst10386.htm

○ いつまでも生きている気でいた不覚 渡辺蓮夫

大正八年(一九一九)生まれ、平成十年に没。田辺田辺幻樹より九歳年下で、幻樹氏のよき
理解者であると共に、川上三太郎亡き後の『川柳研究』の編集発行人として、佐藤正敏氏
とともに、その中心となった柳人であった。構造社から発刊された川柳全集五『川上三太
郎』は渡辺蓮夫氏が担当している。

http://www.asahi-net.or.jp/~xb9y-tkhs/books11.html

川柳の群像(その五 椙本紋太とその周辺)

○ よく稼ぐ夫婦にもあるひと休み 椙本紋太

「触るれば川柳となり、うごけば川柳となる。我々の唾は飛んで川柳となり、我々の眼
光凝っては川柳となるところまで往かなくてはならぬ、則ち自分自身が川柳ではないか」
(「ふあうすと」昭和五年三月)。明治二十三年(一八九〇)生まれ、昭和四十五年没。川柳六
大家の一人。「番傘」の西田當百氏と若き頃から親交があった。昭和四年に「ふあうすと川
柳社」を興し、柳誌「ふあうすと」を創刊した。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www.ne.jp/asahi/myu/nakahara/write/written/007.html

http://forum.nifty.com/fmellow/monta.html

○ 子と友になる日もう幾とせと想う 泉 淳夫

「写実に始まり私の伝習は、心象作品をも望んでいるが、写実のつくるゆらめきを、ど
う結ぶかを念じて現在があり、『見える』もの即ち『在る』ものが、句にいのちを与えると
いう信念に変わることはない」(第三句集『風涛』あとがき)。明治四十一年(一九〇一)生ま
れ、昭和六十三年没。「番傘」出身。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 壺やきの芋のぬくさにある郷愁 大井正夫

明治三十六年(一九〇六)生まれ、昭和五十五年没。「番傘」出身で、「ふあうすと」の同人
となるが、堀口塊人氏、東野大八氏らに近い柳人である。

○ 新茶あまくいのちしずかに揺れて居り 大山竹二

明治四十一年(一九〇八)生まれ、昭和三十七年没。「番傘」出身。昭和八年に「ふあうす
と」同人。独特のリリシズム溢れる川柳で「竹二調」ともいわれ、前田雀郎氏とも親交が
あった。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga016.html

○ 世渡りの下手許し合う小さな膳 小池鯉生

明治四十六年(一九〇七)生まれ、昭和六十二年没。「浦和在憚りながら紋太弟子」と椙本
紋太氏の弟子を自称しているが、川上三太郎氏らとも近い柳人である。

○ 爪切つて故郷のことを思う朝 田中好啓

大正二年(一九一三)生まれ、平成十年没。「番傘」(岸本水府主宰)にも「川柳雑誌」(「川
柳塔」・麻生路郎主宰)にも関係したが、昭和十一年の「ふあうすと」同人以来、椙本紋太氏
を師と仰いだ。

http://homepage2.nifty.com/mikio-san/kouza5.htm

○ 作文としては見事な無心状 延原句沙弥

明治三十年(一八九七)生まれ、昭和三十四年没。昭和十年から「ふあうすと」同人。俳人・
内藤丈草の研究家でもある。

○ 水車小屋戸が開いていて一人いる 房川素生

明治三十三年(一九〇〇)生まれ、昭和四十四年没。昭和四年の「ふあうすと」創刊から椙
本紋太氏と歩を共にしている。

http://homepage2.nifty.com/mikio-san/katakoto1.htm

川柳の群像(その六 村田周魚とその周辺)

○ 花生けて己れ一人の座に悟る 村田周魚

日本川柳界の名門「川柳きやり社」の総帥・村田周魚氏は明治二十二年(一八八九)生まれ、
昭和四十二年に没した。掲出の句は周魚氏の辞世の句とされている。周魚氏は窪田而笑子
選の読売柳擅で活躍し、氏の知遇を受けるとともに、坂井久良伎氏・川上三太郎氏・八十
島勇魚らと親交を重ね、大正四年に「川柳きやり社」が創立され、その柳誌「きやり」は
その年の四月にスタートした。きやり一筋の周魚氏は、六大家と呼ばれた人びとのなかで
は比較的地味な存在であり、その作句姿勢は「人間描写の詩として現実的な生活感情を重
んずる」という平淡な姿勢といえるであろう(『川柳総合事典』)。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://forum.nifty.com/fmellow/murata.html

○ 血圧が承知をしない酒の量 窪田而笑子

慶応二年(一八六六)の生まれ、昭和三年に没した。氏は明治四十年に読売新聞社の川柳選
者として、久良伎社・柳樽寺とともに明治川柳界を三分した、「きやり社」というよりも「読
売派」の総帥という立場の柳人であるが、周魚氏の育成者として、周魚氏の次にその名を
連ねることとした。「滑稽文学」なども主宰した。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/Quize.htm

○ 落花生入歯の穴へ身をのがれ 塚越迷亭

明治二十七年(一八九四)の生まれ、明治四十年に病没した。大正九年の「きやり」第三号
から同人となる。飄逸奇行の風刺人として知られ、川上三太郎氏・近藤飴ン坊らと親交が
あった。

http://www.kodansha.co.jp/yoshikawa/dayori/nanpo/nanpo_1.htm

○ 蚊帳つれば子供のはしゃぐ一しきり 高須唖三味

明治二十七年(一八九四)の生まれ、昭和四十年に没した。氏は「きやり」の塚越迷亭氏と
親交が厚く、その関係から「きやり」を支援していたが、個人的に「あざみ吟社」を持ち、
独自の川柳活動を続けていたが、迷亭氏との関連から、迷亭氏の次にここにその名をあげ
ることとした。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/senryu25.html

○ 赤んぼの欠伸家中笑わせる 西島〇丸(れいがん)

明治十六年(一八八三)深川霊岸(れいがん)町生まれ、昭和三十三年没。本人は「○丸」(ま
るまる)の意味の号とのことであったが、周りが「霊岸町」生まれで「れいがん」にされて
しまったとか(東野・前掲書)。大正九年に「きやり」の客員に迎えられ、同十五年に発行人
となり、周魚氏の兄貴分というよりも、「東京柳界の父」ともいわれた人で、晩年にはすべ
てを打ち込んだ「きやり吟社」を退いて一社に属することはなかったたという(『川柳総合
事典』)。

○ 川柳がある君がいる君もいる 野村圭祐

明治四十二年(一九〇九)生まれ、平成七年没。構造社から発刊された『川柳全集第一巻・
村田周魚』は氏が担当した。「伝統川柳の家元格で知られる川柳きやり吟社の主幹野村圭祐
は、創立者の村田周魚子飼の社人として五十年間、きやり調に徹し、晩年はきやり吟社の
顔であった」という(東野・前掲書)。

○ ふるさとのゆきもきえたりかなだより 藤島茶六

明治三十四年生まれ、昭和六十三年没。『川柳全集第三巻・西島○丸』は氏が担当した。
村田周魚氏との関係よりも、より以上に、西島○丸氏との友誼の厚かった柳人であったと
いう(東野・前掲書)。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/mikasa.html

川柳の群像(その七 麻生路郎とその周辺)

○ 子よ妻よばらばらになれば浄土なり 麻生路郎

明治二十一年(一八八八)生まれ、昭和四十年没。「専門家のなき世界は発展せず」と昭和
十一年七月に、川柳人初の「川柳職業人」を宣言をおこなった。雀郎・三太郎・紋太・周
魚・水府と他の五大家はそのような宣言はしなかったが、ここに「路郎らしい潔癖さと川
柳一筋の情熱ぶりがうかがえる」(東野・前掲書)。「川柳雑誌社」を興し、「川柳の雑誌」を
刊行した。門下生は五百名を超すという。掲出の句は葭乃夫人の最も推奨する一句である。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://forum.nifty.com/fmellow/jirou.html

○ さらば さらば まだ私は夢を見ています 麻生葭乃

明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和五十六年没。「私は路郎の内弟子第一号兼女房です」
(東野・前掲書)。掲出の句はその路郎氏への追悼句の一句である。

http://homepage2.nifty.com/ONO_MICHI/MENU/Sannichi/20010512a.htm

○ 灯台の夕陽神話を抱きよせる 尼緑之助

明治四十年(一九〇七)生まれ、昭和六十三年没。路郎氏の「人間陶冶の詩」・「生命のある
一句を作れ」の路郎氏の川柳イズム一筋を貫いた。「川柳いづも」を発刊する。

http://www.web-sanin.co.jp/orig/sight/bunka/22b.htm

○ 照る日曇る日女房の顔を見る 小川静観堂

明治二十一年(一八八八)生まれ、昭和五十年没。元陸軍大佐の軍医で、後に小川伊丹病院
院長とか(東野・前掲書)。『川柳総合事典』などには何らの記載がない。

○ 思い出の道は避けたし通りたし 川村好郎

明治三十五(一九〇二)年生まれ、昭和六十三年没。路郎氏の「川柳の雑誌」は路郎氏の死
後、「川柳塔」に改称されるが、その「川柳塔社」のまとめ役でもあった。

○ 酒癖の噂が先に着任し 北川春巣

大正二年(一九一三)生まれ、昭和五十年没。昭和四十年七月十八日の麻生路郎葬儀の葬儀
委員長をつとめたという(東野・前掲書)。

○ 今にして子が膝に居た頃はよし 小出智子

大正十五年(一九二六)生まれ、平成九年没。「川柳塔のお母ちゃん」とか「肝っ玉智子さ
ん」と慕われたという(東野・前掲書)。

○ ひとすじの春は障子の破れから 三条東洋樹

明治三十九年(一九〇六)生まれ、昭和五十八年没。「ふあうすと」の創立同人で「ふぁう
すと」の柳人であったが、昭和三十二年に「時の川柳」を創刊した。路郎氏が「番傘」出
身から「川柳の雑誌」を創刊して独立していったと軌を一にし、その点で路郎氏と東洋樹
氏とは相互に親近感があったという(東野・前掲書)。

http://www.hinocatv.ne.jp/~rikam/126.TXT

○ 暮れてゆく如き往生したいもの 須崎豆秋

明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和三十六年没。豆秋作品には一句たりとも駄句はない
という(東野。前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga020.html

○ 空漠を分け入るように耳そうじ 高鷲唖鈍

明治四十一年(一九〇八)生まれ、平成元年没。『川柳の雑誌』に独特の詩川柳論を執筆し
ていた。川柳詩人・須崎豆秋論もある(東野・前掲書)。

○ 母が死ぬまで母が死ぬとは思わない 中尾藻介

大正六年(一九一七)生まれ、平成十年没。小出智子さんの句には、この藻介調の影響を色
濃く宿しているという(東野・前掲書)。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-09.html

○ 浮き草は浮き草なりに花が咲き 中島生々庵

明治三十一年(一八九八)生まれ、昭和六十一年没。医師で後に日本川柳協会の理事長など
もつとめた。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga005.html

○ 一歩出ずれば吾れ旅人となる心 西尾 栞

明治四十二年(一九〇九)生まれ、平成七年没。川柳塔社理事長、日本川柳協会の常任理事
などもつとめた。

http://www.asahi-net.or.jp/~ky4k-mgt/index2001.3.24.html

○ 水道の音で書留待たされる 橋本緑雨

明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和四十五年没。麻生路郎氏の顧問格的な柳人で、事実
上の「川柳の雑誌」の編集長であったという(東野・前掲書)。

○ 押入のついでに拭きたかった肺 福田山雨楼

明治三十一年(一八九八)生まれ、昭和三十年没。川上三太郎氏が麻生路郎氏に「山雨楼君
を『川柳研究』に譲ってくれ」と懇請されたほどの柳人(東野・前掲書)。

○ 意地だけで金もなければ夢もなし 不二田一三夫

明治四十年(一九〇七)生まれ、昭和五十五年没。「一三夫の漫才の師匠は秋田実。川柳は
麻生路郎である」と漫才作家でもあった(東野・前掲書)。

○ なんぼでもあるぞ滝の水は落ち 前田伍健

明治二十二年(一八八九)生まれ、昭和三十五年没。「伍健の川柳における信念というか信
念は『川柳は真情美』」であったとか(東野・前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/hon/86044_212.html

○ 草餅と温い言葉てのひらに 丸山弓削平

明治四十年(一九〇七)生まれ、平成二年没。歯科医師。弓削川柳社初代会長で名誉町民(岡
山県久米南町)と地方文化振興に先鞭をつけた(東野・前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga026.html

川柳の群像(その八 岸本水府とその周辺)

○ 電柱は都へつゞくなつかしさ 岸本水府

明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和四十年没。「岸本水府」と「番傘川柳社」について
は、かって、この「俳諧鑑賞広場」で「岸本水府とその周囲の柳人たち(道頓堀の雨に別れ
て以来なり)」で、田辺聖子さんの著書を鳥瞰的に鑑賞したことがあった。今回、この岸本
水府氏や麻生路郎氏と親交のある東野大八著の『川柳の群像、明治・大正・昭和の川柳作
家一〇〇人』(田辺聖子監修・編)に接して、同人八百人という最大の「番傘」集団を目の当
たりにして圧倒される思いがしたのである。そして、同著の「岸本水府」の項については、
詳細な「田辺註」があり、水府氏自身「番傘」を脱退して、「番傘新社」の設立を意図した
というが、その志半ばにして倒れたという(東野・前掲書)。その目指すものは「我々はいま
こそ協力して川柳の文学たることを世に知らしめなければいけない。これが川柳の第四運
動である」。

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/suifu.htm

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://forum.nifty.com/fmellow/suihu.html

○ 小便だ大便だとて人の末 浅井五葉

明治十五年(一八八二)生まれ、昭和七年没。五葉氏は麻生路郎氏より六歳、岸本水府氏よ
り十歳年長であった。大正二年創刊の「番傘」発刊の創立同人で、掲出の句は臨終の一句
とされている。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~rangyo/999/2002/kashiwa/12/

○ 物忘れ甲乙がない老夫婦 榎本聡夢

明治四十年(一九〇七)生まれ、平成九年没。何事によらず「スジを通す」人柄で、「先生
嫌い」で「川柳界に先生の二字はない」とか。平成元年十一月の日本川柳人クラブの創立
に携わり、満場一致で会長に推されたという(東野・前掲書)。

○ 心妻まだ独り身で茶を教え 近江砂人

明治四十一年(一九〇八)生まれ、昭和五十四没。岸本水府氏の最初の奥様は十九歳の若さ
で長男吟一氏をもうけて産後の肥立ちが悪く亡くなってしまって、その三年後に賢夫人の
名の高い信江さんと再婚した。近江砂人氏はその信江さんの実弟である。水府氏亡き後も
主幹として「番傘」の興隆に尽くし、晩年は日本川柳協会の設立にもかかわった。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 酒の燗きょう一日の愚を溶かす 奥田百虎

大正五年(一九〇七)生まれ、平成元年没。「番傘」幹事長を七年つとめるかたわら『川柳
歳時記』(創元社刊)を完成させた。「川柳は古川柳のみに非ずと、世に現代の川柳の価値を
問いかけた価値」は計り知れないと激賞されている(東野・前掲書)。

http://homepage2.nifty.com/yasinden-sakurasou/zatugaku.html

○ 馬鹿な子はやれずかしこい子はやれず 小田夢路

明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和二十年没。「外務は水府、内務は夢路、夫唱婦随、
車の両輪の如き二人によって番傘は発展した」(東野・前掲書)。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html

○ 頬杖の指うるわしき中宮寺 片岡つとむ

大正十一年(一九二二)生まれ、平成十年没。「川柳はくつろぎの文芸である」(福田山雨楼
氏の「番傘」投稿の「川柳の定義」)を信条として作句し続けたという(東野・前掲書)。

http://www16.big.or.jp/~mokuba/cn1/anq.cgi

○ 全国で落ちてうれしいのが落ちる 片山雲雀

明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和五十七九年没。弁護士を職とて、昭和四十九年十二
月の日本川柳協会の発足には、推されて初代の理事長となっている。

○ 投機株おんなに稀なよい度胸 金泉満楽

明治三十二年(一八八九)生まれ、昭和六十二年没。「この人の句は軽妙洒脱ユーモアと軽
味にかけては番傘社中で『散二(高橋)川柳』と好一対だろう」(東野・前掲書)。

○ 夜具を敷く事が此の世の果てに似つ 川上日車

明治二十年(一八八七)生まれ、昭和三十四年没。岸本水府氏が唱えた第四運動(昭和二九
年)とは、その一つの動きを、「田中五呂八・川上日車らの川柳革新運動で、川柳の文学性を
唱(い)うもの」としてとらえており、その川柳革新運動の担い手の一人として、日車氏らは
「番傘」を離脱して行く(東野・前掲書)。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 叱られて寝る子が閉めてゆく襖 木下愛日

明治四十年(一九〇七)生まれ、平成九年没。「愛日は番傘作家中の変り種である。別に本
格川柳を逸脱していないが、伝統の流れのうちで、思想の先端を認識し、はっきりした個
性が作品に現れている」(東野・前掲書)。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~ossenryu/sozai-ichiman-s58nen/1-1.tensyou.html

○ どうしたか今宵は嘘のあざやかさ 食満(けまん)南北

明治十三年(一八八〇)生まれ、昭和三十二年没。南北氏は「松竹の座付役者で劇団人とし
て既に著名」で、特に、「先代中村雁治郎の座付作者」として活躍したという(東野・前掲書)。

http://forum.nifty.com/fmellow/nanboku.html

○ 娘の恋の進む七夕立ててやり 笹本英子

明治四十三年(一九一〇)生まれ、昭和三十年没。この掲出の句が絶筆で、「昭和四十年松
江番傘は笹本英子句集『土』を刊行、序文題字は水府がその死の四日前に書いた」(東野・
前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga034.html

○ 米をとぐ大胆不敵なる妻よ 定金冬二

大正三年(一九一四)生まれ、平成十一年没。昭和二十三年に「津山番傘川柳会」を創立し
ているが、昭和三十一年に「川柳みまさか吟社」を創立し、独自の道を歩む。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ メリケン粉つけても海老はまだ動く 高橋散二
明治四十二年(一九〇九)生まれ、昭和四十六年没。「番傘の歴史の中で、あなたほどたく
さんの秀句を世に示した方はいない。あなたの句風は當百(西田)にも五葉(浅井)にも似てい
ます。大変通な芝居の川柳、読む者を吹き出せる滑稽な川柳は他の追随を許さない」(近江
沙人の高橋散二遺句集『花道』の「序」)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga015.html

○ 旧友と酔ふて別れて淋しくて 西田當百

明治四年(一八七一)生まれ、昭和十九年没。「當百の驕らず誇らず、大声叱呼することな
く、後進をみちびくのに慈愛と徳望を以てした、というような人格の薫染は、そののち、『番
傘』の色をも染めていったように思われる。懇親宥和、という気分がつねに『番傘』に揺
曳していて、それは切磋琢磨のきびしさからやや遠いが、それだけにグループが永続した
わけでもあったろう」(田辺聖子著『道頓堀の雨に別れて以来なり』)。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~rangyo/999/2002/kashiwa/12/

○ 初恋はみな美しい人でよし 平賀紅寿

明治二十九年(一八九六)生まれ、平成三年没。「還暦を過ぎたばかりの水府先生、五十代
であった紅寿さんと共に男ざかり、川柳ざかり、相反するように見える個性も魅力的で、
大作家という印象は強烈であった。『川柳の化けもの』という紅寿さんの化けものぶり魅か
れて今日まで、不思議に暑い暑い京番(京都番傘)の八月へご縁をいだいている」(東野・前
掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga008.html

○ 五千余の蓮華へ神はどう詫びる 広瀬反省

大正五年(一九一六)生まれ、平成七年没。掲出の句は阪神大震災の折の句で、朝日新聞の
特集の見出しにもとりあげられているという。「反省先生も晩年は番傘川柳と絶縁というよ
り、やむを得ず時事川柳に専念」と、「よみうり時事川柳」などの時事句の選に没頭された
(東野・前掲書)。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~ossenryu/sozai-ichiman-s58nen/1-1.tensyou.html

○ 旅はよしここの地酒にここの唄 森 紫苑荘

明治四十一年(一九〇八)生まれ、平成二年没。「この人は宇和島刑務所長を最後に退官し
たので、四国との縁が深く、晩年には松山に居を定め、愛媛県大洲市の『川柳水郷』には
山紫水明録を連載。また長崎川柳社顧問で『ながさき』誌をはじめ、岐阜の「柳宴」誌に
も鑑賞文をこまめに寄せ、各地の柳恩に報いており、その温厚篤実の人柄と、鑑賞の披露
の冴えは多くの紫苑荘ファンを魅了した」(東野・前掲書)。

http://www.emc.ehime-np.co.jp/04mokuroku.html

○ 疲れたと言わぬお日様お月様 山田良行

大正十一年(一九二二)生まれ、平成十一年没。医師を職とし、平成元年に日本川柳協会の
理事長に選任されている。昭和四十四年当時、番傘本社同人を辞して、金沢で北国川柳社
を興し、柳誌「きたぐに」を創刊した。

http://www.nissenkyou.or.jp/syoseki/gunzou.htm

○ おみくじが大吉と出ただけのこと 堀口塊人

明治三十六年(一九〇三)生まれ、昭和五十五年没。大正十五年番傘同人。昭和十年に番傘
を退会し、「昭和川柳」を創刊。昭和四十九年の日本川柳協会設立に尽力。明治・大正・昭
和柳界の生字引として各柳誌に健筆を揮った。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/kosho/info/57/5708hai.htm


川柳の群像(その九 井上剣花坊とその周辺)

○ 我ばかり燃えて天地は夜の底 井上剣花坊

明治三年(一八七〇)生まれ、昭和九年没。井上剣花坊についても、この鑑賞広場で、「坂
井久良伎と井上剣花坊の連句」で既に触れた。ここでは、岸本水府氏が唱えた「第四運動」
(「番傘」昭和二九・三)との関連で触れておきたい。水府氏は柳界に四つの運動があったと
いう。その一は田中五呂八氏らの「川柳革新運動」であり、その二が坂井久良伎氏らの江
戸川柳回帰の「川柳啓蒙運動」であり、その三が近藤飴ン坊氏らの古い川柳の名称を変更
しての「草詩・寸句」などの提唱運動である。そして、水府氏が第四運動として力説する
のは、「川柳への世俗の偏見の是正」ということであった。この関連でいくと、自らは「川
柳王道論」という水府氏の「第四運動」と視点を異なにするものであったが、その一の「川
柳革新運動」の良き理解者であり、剣花坊門からこの運動の中心になっていた柳人を数多
く見ることができる。とにもかくにも、明治・大正・昭和の柳擅の「柳樽寺」系俳句の元
祖であり、その影響は今に至って大きいものがある。

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/huraki-kenkabou.pdf

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www.city.kamakura.kanagawa.jp/stroll/culture/inoue.htm

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-05-ishibe02.html

http://terasan.web.infoseek.co.jp/senryukan.htm

http://forum.nifty.com/fmellow/kenkabou.html

○ 一人去り二人去り仏と二人 井上信子

明治二年(一八六九)生まれ、昭和三十三年没。井上剣花坊の奥様であり、掲出の句は剣花
坊への追悼の一句である。井上信子さんについても、この鑑賞広場の「鶴彬の句」で触れ
たが、川柳界に大きな足跡を残したということは再度特記しておきたい。

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/tsuruakira.htm

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga031.html

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 政治家の脳天を射る星一つ 大石鶴子

明治四十年(一九〇七)生まれ、平成十一年没。剣花坊・信子御夫妻の次女にあたる柳人で
ある。掲出の句は、「市川房枝の死」に関連しての一句である。剣花坊の「柳樽寺」系俳句
を今に伝えている一人といえよう。

http://www.freeml.com/message/haikai-kannsyou@freeml.com/0000285

○ 謝恩会先生だけが古い服 桂枝太郎

明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和五十三年没。落語家で川柳人という異才を放つ柳人。
「おれの川柳の先生は、井上剣花坊だよ。長い間番傘の同人にもなりご厄介をかけたが、
こんな素養でわしは古典落語などはやらず、オール川柳の下地で新作落語ばかりやってき
た」(東野・前掲書)。

http://www.h3.dion.ne.jp/~utaroku/0014/

○ 人生へあてる定規の右ひだり 北夢之助

明治二十九年(一八九六)生まれ、昭和五十四年没。剣花坊の「柳樽寺」派の柳誌「川柳人」
の島田雅楽王らと行動を共にした柳人。戦後は新潟川柳クラブ会長などを経て地方俳壇の
興隆に尽くした。

http://www.nissenkyou.or.jp/map/17niigata/8niigata.html

○ この道やよしや黄泉に通ふとも 小島六厘坊

明治二十一年(一八八八)生まれ、明治四十二年、二十一歳で夭逝した。「明治三十八年七
月二十四日の日本新聞新題柳樽の末尾に曰く、大阪柳樽寺建立、六厘社の同人が住職たり」
と、しかし、六厘坊は柳誌「新編柳樽」を三号でやめたという。その理由は「六厘坊が、
関東の糟粕をなめるのをいさぎよしとしなかったからであろう」という(東野・前掲書)。

http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/35_haiku.html

○ あきらめて歩けば月も歩き出し 小林不浪人

明治二十五年(一八九二)生まれ、昭和二十九年没。「遠く青森から常に雑詠(井上剣花坊主
宰の柳誌「大正川柳」の「雑詠」)を投句していた小林不浪人君から『今度青森県から川柳
の雑誌を出したいと思うがどうであろう』と相談をかけられた。雉子郎(吉川英治)と話合っ
た結果『いいでしょうできるだけ応援します』という返事を上げ、やがて『みちのく』創
刊号が生まれた」(川上三太郎・「東奥日報、昭和四一・五・一二」)。

http://www.plib.net.pref.aomori.jp/museum/senryu.html

○ 泣いてゆく中に位牌の子が笑ひ 近藤飴ン坊

明治十年(一八七七)生まれ、昭和八年没。「飴ン坊が剣花坊との出会いは、剣花坊が新聞
『日本』に柳擅を開設した明治三十六年七月三日の投書からで、彼が応募の第一号であっ
た。柳号を京号としたのだが、剣花坊が飴ン坊とつけた」(東野・前掲書)。その「日本」柳
擅の入選句が掲出の句である。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html

○ 降るだけの雪積もらせて山眠る 白石朝太郎

明治二十六年(一八九三)生まれ、昭和四十九年没。「剣花坊は大正十一年十月から柳樽寺
派機関誌『大正川柳』の同人制を廃し、私人から新川柳新興のための公共的結社柳誌の発
足を宣言し、大震災という一大試練を切り抜けた直後から、同誌誌面を革新している。そ
のつねに『前へ、前へ』の剣花坊の気迫に応えて白石維想楼(朝太郎)は、師のたのもしき右
腕として新川柳運動に挺身したのであった」(東野・前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/hon/86044_192.html

○ 原子力さて人間よ何処へゆく 高木夢二郎

明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和四十九年没。「昭和四十六年剣師生誕百年記念事業
『井上剣花坊伝』を発刊。同四十八年『川柳人』五百号記念集を刊行。『川柳人』三一六号
から手を染め五一一号をもって終わる。すなわち同誌を一八五号にわたり手がけたわけで、
その編集実績は長期療養を除きまる十五年にわたることになる」(東野・前掲書)。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html

○ 火に狂う巷に遠き魚の夢   田中五呂八

明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和十二年没。「彼の川柳趣味は剣花坊の『大正川柳』
にはじまる」。「川柳界の純詩派として哲学的新生命主義を唱え、『新興川柳』なる呼称を掲
げた田中五呂八は、大正・昭和期をよぎる一閃の火花にも似た川柳人であった」(東野・前
掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga030.html

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 暁を抱いて闇にいる蕾    鶴 彬

明治四十二年(一九〇九)生まれ、昭和十三年没。鶴彬については、この鑑賞広場で、「鶴
彬の句( 反戦・反軍の川柳)」ということで既に触れた。そして、今回の東野大八著の『川柳
の群像、明治・大正・昭和の川柳作家一〇〇人』に触れてみて、鶴彬は、その百人の中で
特記すべき柳人というよりも、時の権力の弾圧と、その獄中死ともいえる凄惨な二十九年
という短い生涯からのイメージが強い柳人であって、作品全体の完成度ということになる
と、これからの人であったという思いを強くする。

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/tsuruakira.htm

http://www.freeml.com/message/haikai-kannsyou@freeml.com/0000297

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ あまつさえ涙は女の武器などと   三笠しづ子

明治十五年(一八八二)生まれ、昭和七年没。「『川柳人』は昭和七年十二月号を『三笠しづ
子追悼号』として、十一頁にわたり特集を組み、井上剣花坊以下夫人信子、半文銭ら十人
が心からの悼文を寄せ、追悼吟四十三句を添えている」(東野・前掲書)。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga017.html

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 冷たさは末期の水に尽きにけり   森田一二

明治二十五年(一八九三)生まれ、昭和五十四年没。「大正十年ごろから昭和十年ごろにか
け、川柳界を駆けぬけていった革新運動の光芒は、新興川柳の名において、一閃に過ぎな
かったが、その量感と迫力において、永久に川柳史上から忘却することはできない。この
輝かしい新興川柳運動の旗手は森田一二であった」(東野・前掲書)。掲出の句はその絶句と
もいうべきものである。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

○ 書いて消す生死一字や紙の上   木村半文銭

明治二十二年(一八九九)生まれ、昭和二十八年に没。「番傘」出身であるが、その「番傘」
から「川柳革新運動」の旗手となり、「氏は森田一二氏、川上日車氏と共に新興柳擅の生ん
だ短詩擅的名作家の一人である」という(東野・前掲書)。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www2u.biglobe.ne.jp/~rangyo/999/2002/kashiwa/12/

○ あめつちの中に我あり一人あり   吉川雉子郎

明治二十五年(一八九二)まれ、昭和三十七年没。「剣花坊は『日本』柳擅の投句者と糾合
して明治三十八年十一月柳誌『川柳』を創刊。同四十五年大正に年号が改まるや『大正川
柳』と改題。柳樽寺は東京柳擅の一大拠点となった。川柳人雉子郎として川柳に最もみが
きをかけ、あぶらの乗り切った時期はこの頃で、『大正川柳』の編集まで手伝っている」(東
野・前掲書)。ここに登場する川柳人雉子郎こそ、昭和三十五年に文化勲章を受章した作家・
吉川英治その人である。

http://www.kodansha.co.jp/yoshikawa/dayori/senryu/senryu_03.htm

http://page.freett.com/DoctorSenryu/sakuhin-meidi-taisyou.html


川柳の群像(その十 坂井久良伎他忘れ得ざる柳人たち)

○ 広重の雪に山谷は暮かかり   坂井久良伎

明治二年(一八六九)生まれ、昭和二十年没。この「鑑賞広場」で「坂井久良伎と井上剣花
坊の連句」という珍しい二人の連句らしきものの鑑賞を試みたとき、この両者は互いにど
んな感慨をもって接していたのであろうかと、そんな思いにとらわれたことがあった。多
分に、この二人は、久良伎氏にとっては「剣花坊は長州の田舎者」という意識が心の片隅
にあったろうし、一方、剣花坊氏にとっても、「久良伎は江戸の遊冶郎」という意識が頭の
何処かにあったのではなかろうかと、そんな思いをしたのであった。この二人と「俳句革
新」を成し遂げた正岡子規氏とが、同じ「日本」という新聞で同時期に籍を置いていたと
いうことは、日本の新しい短詩型の文学の「俳句・川柳」は、この「日本」という新聞を
媒体として誕生していったといっても過言ではなかろう。それにしても、剣花坊山脈に比
して、久良伎山脈というのは、どうしても見劣りがするということは、これまで見てきた
ところが明瞭なことであろう。久良伎は、明治三十七年に「久良伎社」を創立し、「五月鯉」
を創刊した。その巻頭に「古句を研究し、古句の快楽味を味わい、ここに現代を超越した
別天地を味わう」と宣言している。剣花坊が「革新派」とするならば、久良伎は「守旧派」
であるといえるし、しかしながら、この二人が、「狂句百年の負債を返す」という一点にお
いては、共通していたということは特記しておくことであろう。

http://www66.tok2.com/home2/yahantei/huraki-kenkabou.pdf

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www.geocities.co.jp/Berkeley-Labo/1993/kuraki-kuhi.html

http://forum.nifty.com/fmellow/kuraki.html

○ 日曜日馬鹿々々しくも大掃除   今井卯木

明治六年(一八七三)生まれ、昭和三年没。「卯木は伝統川柳一辺倒で、古川柳を宝典とし、
新川柳を極度に嫌悪し、特に剣花坊や角恋坊の句は『見ても虫ずが走る』と蛇蝎の如く嫌
い抜いたという。その反動として、久良伎には肉親のように傾倒した」という(東野・前掲
書)。『川柳江戸砂子』などの研究家としても知られている。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/sanmitu/1701.html

○ 踏切で故郷へ行く汽車を見る   冨士野鞍馬

明治二十八年(一八九五)生まれ、昭和九年没。川柳久良伎社幹事で、久良伎派の重鎮で、
古川柳の造詣も深く、それでいて、昭和四年に番傘川柳本社の同人にもなっている。晩年
は郷里の京都に帰り、「京都新聞」柳擅選者などを務める。

http://www5a.biglobe.ne.jp/~ossenryu/sozai-ichiman-s58nen/1-1.tensyou.html

○ 漂浪のあてもなく世に疲れけり   安藤幻怪坊

明治十三年(一八八〇)生まれ、昭和三年没。出発は久良伎門であるが、明治四十一年に「新
川柳」を創刊して、不偏不党を声明し、大正四年にはそれを「短詩」と改称し、幻怪坊の
死後も続けられたという。古句研究などでも知られている。

http://page.freett.com/DoctorSenryu/Quize.htm

○ 「考えない」葦ジクザグとせめられる   石原青竜刀

明治三十一年(一八九一)生まれ、昭和五十四年没。久良伎門とか剣花坊門とか、そのよう
なジャンルではなく、「柳俳一如、柳主俳従」の新ジャンルの「諷詩」を提唱した。昭和二
十四年に「人民川柳」を創刊して、昭和三十二年に廃刊となるが、さらに、「諷詩人」を刊
行して、川柳呼称の改称を目指したが、志半ばで他界した。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www.tssplaza.co.jp/sakuhinsha/book/zui-bekan/tanpin/8730.htm

○ 夏の実の春ある土をうたがわず   今井鴨平

昭和三十一年(一八九八)生まれ、昭和三十九年没。「鴨平は川柳は民衆的文芸であると確
信して、短歌を離れ、川柳に傾倒し新しい短詩型の一行詩としての川柳革新に打ち込んだ」
(東野。前掲書)。石原青竜刀氏と同じく革新川柳を目指したが、晩年は俳誌 「青玄」(日野
草城主宰)で作句した。

http://shinyokan.ne.jp/syoten/maga/maga038.html

○ 鉄拳の指をほどけば何もなし   大嶋涛明

明治二十三年(一八九〇)生まれ、昭和四十五年没。「大嶋涛明は大陸川柳界の発展に尽く
した重鎮として、いまなお川柳界ではよく知られている」(東野・前掲書)。掲出の句に対し
て、涛明氏を父に持つ現代歌人・来島靖生氏は「鉄拳を父は詠みたれ不肖の子われの拳は
硬くはあらず」と詠んだという(東野・前掲書)。

http://www.geocities.jp/rosemidi/senryu.html

○ 廻る陽の無限に春の一つづつ   大谷五花村

明治二十四年(一八九一)生まれ、昭和三十三年没。白河町長(現在・市)、貴族院議員とな
った地方の名士。それでいて、「新川柳こそ庶民の文学」と東北地方に革新川柳の灯を絶や
さなかった。井上剣花坊・信子御夫妻に近い柳人でもあった。

http://www.goka-e.fks.ed.jp/haiku/gokason01.html

○ 引き際の美学なんにも語らずに   北川絢一郎

大正五年(一九一六)生まれ、平成十一年没。「京都川柳社」の創立にかかわり「川柳平安」
の中心的柳人であった。この「川柳平安」は昭和五十二年に「京かがみ」・「都大路」・「川
柳新京都」と三分裂してしまった。分裂後は「川柳新京都」に属した(東野・前掲書)。

○ おれのひつぎは おれがくぎうつ   河野春三

明治三十五年(一九〇二)生まれ、昭和五十九年没。岸本水府氏の「番傘」、そして、麻生
路郎氏の「川柳の雑誌」と並んで、昭和三十一年に「天馬」を創刊した。そして、これが、
現在の「川柳ジャーナル」に引き継がれている。

http://ww3.tiki.ne.jp/~akuru/mano-meikan.html

http://www.jomon.ne.jp/~ayumi/goroku.HTM

○ 蒼空の下で草苅る鎌の音   草刈蒼之助

大正二年(一九一三)生まれ、平成四年没。異色の俳人・今井鴨平氏との出会い、そして、
鴨平氏亡き後は、またしても、異色の俳人・河野春三氏との出会いと、時実新子さんは彼
をして、「ニヒルで豪胆でそのくせ繊細な神経の青鬼」とよんでいるとか。また、掲出の句
は、自分の号に対するものとか(東野・前掲書)。

http://www.ne.jp/asahi/myu/nakahara/write/written/005.html

○ お薬を素直にのんで母逝けり   斎藤松窓

明治十八年(一八八五)生まれ、昭和二十年没。「京風川柳の家元であり、京都柳擅の大御
所だった」(東野。前掲書)。

○ 心臓が弱かったとは父に似し   清水白柳

明治三十八年(一九〇伍)生まれ、昭和四十五年没。東野大八氏らが関係した「川柳塔」で
活躍した柳人。掲出の句は、息子さんを亡くしたときの一句である。

○ 大空のあまりの青き病み疲れ   谷垣史好

大正十四年(一九二五)生まれ、平成五年没。「川柳塔」の柳人。掲出の句は亡くなった病
室にあったメモの一句(辞世)という(東野・前掲書)。

○ 桜ちりぢりに水に浮かぶは片思い   寺尾俊平

大正十四年(一九二五)生まれ、平成十一年没。「川柳塔」の橘高薫風氏などと親交のあた
柳人。薫風氏は「私は俊平さんから、川柳はやさしさであることをおしえられた」という(東
野・前掲書)。

http://www16.big.or.jp/~mokuba/cn1/anq.cgi

○ わが国でありわが国が嫌になり   永田帆船

大正三年(一九一四)生まれ、平成八年没。堀口塊人氏らと親交の深かった柳人。掲出の句
は遺作の中の一句である。

http://kyo3ho.hp.infoseek.co.jp/p2-sen-binbo.html

○ 良心の唇青しカンニング   岡田三面子

明治元年(一八六八)生まれ、昭和十一年没。刑法学者の法学博士で東大教授などを歴任し
た。「柳樽の母胎である万句合を古川柳研究の先駆的役割を果たした」(東野・前掲書)。

http://forum.nifty.com/fmellow/okada.htm

○ 鞍置いた馬のさまよう須磨の浦   西原柳雨

慶応元年(一八六五)生まれ、昭和五年没。岡田三面子と共に古川柳研究家として名高い。

http://homepage2.nifty.com/t-michikusa/senryuu_top.htm

○ 日輪を一つ残して幕を引キ   山路閑古

明治三十三年(一九〇〇)生まれ、昭和五十二年没。俳句は高浜虚子氏、川柳は坂井久良伎
氏、そして、連句にも関心があり鴫立庵十九世庵主を名乗った。古川柳研究家としても名
高い。

http://www.kanwa.jp/xxbungaku/HihonEngi/Kanko/Kaisetsu.htm

○ 寝ても春起きても春の暖かさ   本田渓花坊

明治二十三年(一八九〇)生まれ、昭和六十二年没。昭和二年に柳多留百六十七篇を発見す
るなど、古川柳の古書の蒐集家として名高い。

http://www.library.pref.osaka.jp/nakato/shotenji/35_haiku.html

○ 田中蛙骨

明治十五年(一八八二)生まれ、昭和十七年没。濃尾川柳界の草分けの一人で、古川柳研究
誌「やなぎ樽研究」の尽力者として名高い。

http://www.jic-gifu.or.jp/np/g_news/200404/0401.htm

月曜日, 10月 08, 2007

水原秋桜子の俳句(一~十五)



水原秋桜子の俳句

(一)

○高嶺星蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり (『葛飾』)

 大正十四年作。この大正十四年のごろから、秋桜子の作風は、これまでの「ホトトギス」的な写生句を脱して、「作者の感情の起伏を、いかにして一句の調べのうえに表わすか」という主観的傾向を帯びてくる。この掲出句でいうならば、「蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり」という把握は、「ホトトギス」流の自然を客観的に描写する写生の句というよりも、「高嶺星」(高嶺の空に輝いている星)の下に、夜更けの灯り一つない「蠶飼(こかい)の村は寝しづまれり」と、秋桜子のこの時の心を強く刺激した感動のようなものを見事に表現している。秋桜子は、「ホトトギス」の作家で、原石鼎の「淋しさに又銅鑼うつや鹿火屋守」などに惹かれたというが、石鼎の「景情一致」というような姿勢がうかがえる。

(二)

○ 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (『葛飾』)

 大正十五年作。秋桜子の第一句集『葛飾』は、葛飾の土地が多くその主題になっていることに由来があることは、その「序」に記されている。秋桜子は東京神田の生まれの、生粋の江戸っ子という面と、それが故の近郊の葛飾の地への愛着というものは想像以上のものがある。そして、それは、「水郷の風趣があり、真間川から岐れる水が、家々の前に掘をつくって、蓮が咲き、垣根に桃や連翹の咲き乱れる」と幼年時代に足を伸ばした回想の土地・葛飾という思いであろう。この掲出句も、決して、昭和十五年当時の現実の葛飾の風景というよりも、秋桜子の心の奥底に眠っている瑞穂の国の日本の原風景ともいうべきそれであろう。

(三)

○ 桑の葉の照るに堪へゆく帰省かな (『葛飾』)

 大正十五年作・神田生まれの、生粋の江戸っ子の秋桜子に帰省(故郷に帰る)ということがあてはまるのかどうか、はなはだあやしいという思いがしてくる。この句は夏の季語の「帰省」の題詠なのであろう。当時の「ホトトギス」のものは、この種の題詠によるものと思われるのである。秋桜子はこの種の連想しての句作りを得意とする俳人であった。この句集『葛飾』の「葛飾」に由来がある句についても、過去の経験などに基づく連想で、秋桜子らしく一幅の風景画に仕立てている句が多いようである。この掲出の句についても、「桑の葉の照る」夏の猛暑の中を「堪えて」帰省するという帰省子の姿が髣髴としてくる。
こういう実景というよりも、秋桜子のイメージの中に再構成された景は、この種の実景よりも、リアリティを持ってくるのは不思議なことでもある。

(四)

○ 青春のすぎにしこころ苺喰ふ  (『葛飾』)

 大正十五年作。絵画に風景画と人物画という区分けがある。この区分けですると、秋桜子は風景画を得意とする俳人であって、人物画や自分の心の内面を表白するとことを得意とする俳人ではないということはいえるであろう。そういう中にあって、この掲出句は秋桜子には珍しい感情表白の句といえるであろう。時に、秋桜子は三十五歳で、本業の方においては医学博士の学位を受け、俳句の方においても、虚子より「ホトトギス」創刊三十周年記念の企画などを委託されるなど、順風満帆という趣の頃である。しかし、そういう中にあって、やはり「青春は終わった」という感慨であろうか。この年、東大俳句会・ホトトギスで一緒に活動していた山口誓子が東大を卒業し、関西の住友合資会社に勤務することとなる。この掲出句には、秋桜子よりも十歳前後若い誓子などの影響も感知される。

(五)

○ むさしのの空真青なる落葉かな (『葛飾』)

大正十五年作。上田敏訳『海潮音』の「秋の日の/ヴィオロンの/ためいきの/身にしみて/ひたぶるに/うら悲し」(ベルレーヌ「落葉」)のように、「落葉」の句というのも「うら悲し」のものが多い。そういう中にあって、秋桜子の掲出の「落葉」の句は、「空真青」の中のそれであって、「うら悲し」というような感情表白の句ではなく、色彩の鮮やかな風景画を見るような思いがしてくる。上五の「むさしのの」という流れるようなリズムと相俟って、当時の黄葉・紅葉の雑木林の武蔵野の一角が眼前に浮かんでくるようである。もし、秋桜子のこの時の感情の動きのようなことに着眼すると、青春の甘い感傷というよりも、幼年・青春期を通じて、慣れ親しんだ、葛飾、そして、武蔵野へのノスタルジー(郷愁)のようなものであろう。

(六)

○ 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (『葛飾』)  

 昭和二年作。赤城山での句で、秋桜子の代表作の一つである。山本健吉の『現代俳句』で次のように紹介されている。「彼の作品が在来の俳句的情から抜け出ていかに斬新な明るい西洋画風な境地を開いているかと言うことだ。これらの新鮮な感触に満ちた風景画は、それ以後の俳句の近代化に一つの方向をもたらしたことは、特筆しておかなければならない。在来の寂(さび)・栞(しおり)ではとらえられない高原地帯の風光を印象画風に描き出したのは彼であった。これは一つの変革であって、影響するところは単なる風景俳句の問題ではなかったのである」。確かに、「風景俳句」とか「写生俳句」とかではなく、新しい感覚の西洋画的な「印象俳句」というものが感知される。葉を落ちつくした樹木に啄木鳥が叩いている音すら聞こえてくるようである。

(七)

○ 追羽子に舁(か)きゆく鮫の潮垂りぬ  (『葛飾』)

 昭和二年作。この年の一月に山口青邨・高野素十らと共に三浦三崎に吟行した時の作品である。「せまい町筋では追羽子が盛で、林檎の上には紅い凧もあがってゐた。まづ魚市場へゆき、漁船から魚を揚げる景を見たのち、渡し舟で城ヶ島へ渡った。砂浜には蒲公英が咲き、いま潮から引き上げたゆうな鮫がころがってゐた」(石田波郷・藤田湘子著『水原秋桜子』)。この秋桜子の回想文からすると掲出の句は実景での作ではないことが了知される。追羽子の光景は三崎港のものであり、鮫の光景は城ヶ島でのものである。その鮫も実際は、「潮から引き上げたゆうな鮫がころがってゐた」ということなのであるが、それを「舁(か)きゆく鮫の潮垂りぬ」と、実景以上に現実感のある表現で一句を構成しているのである。こういう句作りが、秋桜子が最も得意とし、最も多用したものであったということは、特記しておく必要があろう。

(八)

○ 来しかたや馬酔木(あしび)咲く野の日のひかり (『葛飾』)

 昭和二年作。和辻哲郎の『古寺巡礼』を読んで、大和路の古寺と仏像に深く心にうたれ、大和吟行を思いたったという。秋桜子の大和吟行関連の作には秀句が多い。この句は東大寺の一名法華堂ともいわれている三月堂での作という(藤田湘子・前掲書)。しかし、この句には、その三月堂もその仏像も詠われてはいない。万葉集以来この古都、この古寺周辺の馬酔木の花とその日の光をとらえて、いかにも秋桜子らしい格調のある一句に仕立てている。大和路の春は馬酔木の花盛りである。その花盛りの中にあって、この古都、この古寺を巡る、さまざまな「来し方」に思いを巡らして、こういう懐古憧憬の抒情味の風景俳句は、秋桜子の独壇場であるとともに、秋桜子が主宰する「馬酔木」俳句の一つの特徴でもあろう。

(九)

○ 蟇(ひき)ないて唐招提寺春いづこ (『葛飾』)

 昭和三年作。前年に続く大和路での句。この年には大和路に吟行した記録がないので回想句であろうという(藤田湘子・前掲書)。この句について、「この句は山吹のほかに何ひとつ春らしい景物のない講堂のほとりを現し得ているつもりであるが、『春いづこ』だけは感傷があらわに出すぎていけないと思っている」(俳句になる風景)と作者が言っているのに対して、この「作者(秋桜子)の考え方とは反対に、私(山本健吉)は『春いづこ』の座五は動かぬ」との評がある(山本・前掲書)。作者自身は、唐招提寺の「春らしい景物のない講堂のほとり」の景に主眼を置いて、「春いづこ」は不満なのであろうが、この「春いづこ」の詠嘆が、唐招提寺の栄枯盛衰を物語るものとして、この「座五は動かぬ」との評を是といたしたい。実際に蟇が鳴いたかという穿鑿は抜きにして、ここに「蟇ないて」の上五を持ってきたのは、やはり、秋桜子ならではであろう。

(一〇)

○ 利根川のふるきみなとの蓮(はちす)かな (『葛飾』)

 昭和五年作。この句は大利根から江戸川に分かれる千葉の関宿での作という(藤田・前掲書)。「『とねがわの……』という大らかな詠い出しが、すでに懐旧の情をさそう。つづいて『ふるきみなとのはちすかな』と叙述的ながら大景をしだいに絞りあげて、蓮の花に焦点を集中していく手法は、起伏を抑えたリズムと相俟って実に効果的である。秋桜子俳句は、構成的で構成の華麗に目を奪われることがしばしばである」(藤田・前掲書)。まさに、秋桜子の俳句はその中心に「素材を巧みに構成する」ということを何よりも重視していることは、この句をもってしても明瞭なところであろう。そして、秋桜子とともに「四S」の一人の山口誓子も、この「素材を巧みに構成する」ということには群れを抜いている俳人であった。ともすると、秋桜子俳句は、「短歌的・抒情的・詠嘆的」(山本健吉)と見なされがちだが、基本において、「構成的・知的」であることにおいて、誓子と共通項を有していることは、ここで強調しておく必要があろう。

(一一)

○ 鳥総松(とぶさまつ)枯野の犬が来てねむる (『新樹』)

昭和六年作。「鳥総松」は新年の季語、そして、「枯野」は三冬の季語。秋桜子にしては珍しい季重なりの句である。山口誓子にも、「土堤を外れ枯野の犬となりゆけり」(昭和二十年作)と「枯れ野の犬」の名句があり、秋桜子の句と「枯野の犬」の双璧とされている(藤田・人と作品)。掲出の秋桜子の句について、「作者としては、あまりそれらしい構図も考えず、見たものを見たものとして写生したと思う。つまり無心の一句。それだけに、ゆっくりと渋味が滲み出るような趣がある」(藤田・秋桜子の秀句)との評もある。しかし、この掲出の句も、秋桜子らしい構成的に工夫した句で、「鳥総松」と「枯野の犬」との取り合わせは、無心の写生の一句とは思われない。そもそも、「枯野の犬」というのが、芭蕉の絶吟の「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の「枯野」と、俳諧・俳句の象徴的な季語と結びついて、想像以上のイメージの拡がりを見せてくれる。そういう、イメージの拡がりを狙っての、季重なりの構成的な一句として理解をいたしたい。そして、そのことが、後に、即物・構成派の山口誓子の掲出の「枯野の犬」の句と併せ、その双璧として、今に、詠み繋がれているその中核にあるもののように思われる。

秋桜子の俳句

(一二)

○ 白菊の白妙甕(かめ)にあふれけり (『秋苑』)

 昭和九年作。「菊は秋桜子にとって欠かせぬ素材で、全句集にのこる菊の句は、菊日和など類縁の作を含めると百五十二句にのぼる。これは梅の句の百七十六句に次ぐ多さで、春秋の双璧をなしている。ちなみに桜は五十九句と、意外に少ない」(藤田・秋桜子の秀句)。

○ 白菊の白妙甕(かめ)にあふれけり
○ 菊かをりこゝろしづかに朝に居る
○ 菊かをり金槐集を措きがたき
○ 菊しろし芭蕉も詠みぬ白菊を
○ 菊の甕藍もて描きし魚ひとつ

 『秋苑』に収載されている昭和九年の菊連作の五句である。この五句のなかでは、やはり、掲出の句が「リズム・構成・色彩感覚」の面において群を抜いていよう。「白菊の白妙」とはいかにも秋桜子らしい「きれい寂」(山本謙吉の「秋桜子の俳句の『きれい寂』で使われた言葉で、「寂の本質の中に含む華麗さ」などの用例)を感じさせる一句である。秋桜子の代表句の「冬菊のまとふはおのがひかりのみ」(昭和二十三年作)と双璧をなす句といっ
てもよかろう。

(一三)

○ 狂ひつつ死にし君ゆゑ絵のさむさ (『岩礁』)

 昭和十二年作。『水原秋桜子遺墨集』所収「きれい寂(さび)」(山本健吉稿)に次のような一節がある。
「彼が『葛飾』でうち立て、また連作俳句さえ試みて、現実よりも純粋な主情の色と光とを描き出そうとしたのは、(略) ヨーロッパの印象派、それに学んで日本でも多彩な洋画の世界を創り出した、安井曾太郎や梅原龍三郎や佐伯祐三などの世界を知り、強く惹かれる心を持っていたからだ。あるいはまた、(略) 琳派の絵や工芸が秋桜子の好みに近い、それも、宗達、光悦、乾山と並べてみて、秋桜子の世界は光琳だろう。」
 掲出の句は、「佐伯祐三遺作展」と題する八句連作のうちの一句である。佐伯祐三は昭和三年にパリ郊外で客死している。ともすると、秋桜子の俳句は、「きれい寂」の「寂の本質の中に含む華麗さ」という面で鑑賞されがちだが、佐伯祐三らの「現実よりも純粋な主情の色と光」という面での鑑賞がより要求されてくるであろう。

(一四)

○ 初日さす松はむさし野にのこる松 (『蘆刈』)

 昭和十四年作。『水原秋桜子遺墨集』所収「きれい寂(さび)」(山本健吉稿)は、次のように続く。
「もう一つ、これは畫ではないが、利休の寂を逸脱して大名茶にしてしまったとして責められる利休門の高弟、古田織部、織部門の高弟で「きれい寂」の評判を取った小堀遠州などの世界である。「きれい寂」とは、寂の本質の中に含む華麗さを取り出して言うので、本来利休の侘数寄の中にも潜むものであるが、取り立てては小堀遠州の好みを指す。利休の侘数寄は、織部の大名数寄を経て、遠州で「きれい寂」に到達する。(略)織部好みの角鉢や角蓋物や、茶碗などを見て、これこそ「きれい寂」を創り出す基であり、これは秋桜子の目指す理想的芸境に近いのではないかと思う。」
 秋桜子の陶器趣味や茶道趣味は、その句を追っていくだけでも十分に察せられるのであるが、この掲出の句は陶器作家の富本憲吉の工房の裏の林の見事な赤松を想像しつつの一句という(藤田・「人と作品」)。この掲出句でも鮮明なように、秋桜子俳句の根底には、佐伯祐三らの油絵的な世界ではなく、極めて高雅・典麗な「きれい寂」に通ずる日本画的な世界であるということができよう。ここには、佐伯祐三的な世界の影はない。

(一五)

○ 陶窯(かま)が噴く火の暮れゆけば青葉木莵(あおばずく) (『古鏡』)

 昭和十六年作。当時、秋桜子は富本憲吉の陶房をよく訪れている。先に触れた「初日さす松はむさし野にのこる松」について、次のような自解をのこしている。「陶器工房の側に、高い赤松が立っていた。雑木林の中からただ一本空にのびているもので、武蔵野にのこる美しい松の中でも、これほどのものはすくないであろうと思われた。先生は仕事に疲れると、いつも梢を眺めておられた」(藤田・秋桜子の秀句)。この掲出の句もその陶房でのものであろう。この頃は、同時に、中西悟堂の「日本野鳥の会」の探鳥行に同行して、野鳥の句を多く残している。この作の前年の昭和十五年には、いわる、京大俳句弾圧事件が起こり、第二次世界大戦の勃発の前夜のような状態であった。当時の秋桜子の陶窯や野鳥の句などが多くなるのも、そのような当時の思想弾圧などの社会的風潮と大きく関係しているのかも知れない。                                                                                                                                                                                                       

高野素十の俳句



高野素十の俳句(一)

一 春水や蛇籠の目より源五郎

初出「ホトトギス」(大正十五・三)。春(春水)。春になって涸れていた川に水
が豊かに流れはじめた。溢水を防ぐために蛇状に編み石を入れて置いてある籠
の荒い目、この中から源五郎が出てきた。「春水」と「源五郎」の取り合わせ
の句。

高野素十の俳句(二)

二 ひとすぢの畦の煙をかへりみる

初出「ホトトギス」(昭和三・四)。春(畦焼)。畦焼きの一筋の煙りを振り返りつつ見る。虚子は昭和三年十一月に「秋桜子と素十」の一文を書く。そこで、「この作者(素十)の心は、夫ら実際の景色に遭遇する場合、その景色の美を感受する力が非常に強い。同時にその感受した美を現はす材料の選択が極めて敏捷に出来るのである」と指摘する。何の変哲もない景色に遭遇して、その何の変哲もない景色の美を感じとり、それを即座に一句に仕立てている。

高野素十の俳句(三)

三 甘草の芽のとびとびのひとならび

初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(甘草の芽)。甘草の芽、その芽がとびとびで、それに興味が惹かれた。客観写生句。この句を念頭において、水原秋桜子は、昭和六年十月の「馬酔木」に、「自然の真と文芸上の真」を書き、そこで、「元来自然の真ということ・・・例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」として、虚子らの客観写生句に対立することになる。即ち、この秋桜子発言を契機に、反「ホトトギス」の運動がおこり、やがて、その運動は新興俳句運動として多面的な展開を見ることとなる。

高野素十の俳句(四)

四 風吹いて蝶々迅(はや)く飛びにけり

初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(蝶)。春風に乗り蝶が飛んでいる。その春風のせいか速く飛んでいるように見える。眼に見えない風に蝶を配することによってあたかも眼に見えるようにしたところにこの句の眼目があろう。この句について、日野草城は、「すべて特徴あるもの、山のあるものは否定されて、平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。(中略)かつてホトトギスに発表された高野素十君の『風吹いて蝶々はやくとびにけり』の如きはこの弊害をもつともよく表はしたもので、けだし天下の愚作と断定して憚りません」(昭和五年二月「山茶花」)と評している。この素十のような句作りを「天下の愚作」と見るか、それとも「平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる」と見るか、それは、即、「素十の俳句を否定するか、それとも肯定するか」の分岐点となろう。

高野素十の俳句(五)

五 百姓の血筋の吾に麦青む

初出「ホトトギス」(昭和十五・五)。春(麦青む)。素十の生れは茨城県北相馬郡。自分の生家は農家で、血の中には土への郷愁がある。麦が青むころになると、土や自然をなつかしむ思ひがひとしおである。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

高野素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、日本の俳人、医学博士。山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。本名は高野与巳(よしみ)。

(生涯)1893年(明治26年)茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。新潟県長岡市の長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)、東京の第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手をつとめ秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。
1918年(大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始める。
1923年(大正12年)『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。血清学を学ぶためにドイツに留学。帰国後の1935年(昭和10年)新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、その後、学長となる。
1953年(昭和28年)60歳で退官。同年、俳誌『芹』を創刊し主宰する。退官後は奈良県立医科大学法医学教授を1960年(昭和35年)まで勤める。
1976年(昭和51年)没、享年83。千葉県君津市の神野寺に葬られた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高野素十の俳句(六)

六 方丈の大庇より春の蝶

初出「ホトトギス」(昭和二・九)。春(蝶)。寺院の本堂の大きな庇が視野を左右に横ぎり、空を見上げる自分の視野の半ばを、占めて大きくのしかかってくる。そのとき、小さく弱々しい感じの蝶が明るい空の部分に現れた。一点の動と明るさ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

この句について秋桜子は、「これは恐らく竜安寺の有名な泉石を詠んだ句だらうと思ふ」「その大きな庇から泉石の上へ蝶が一つひ下りたといふ景色で春昼の影のよく出てゐる作であると思ふ」「かへすがへすもも『春の蝶』といふ言葉をつかつた作者の用意に感服する」と評している。一方、虚子は、「此の句が単純な写生ではなくて、竜安寺といふものの精神をとらへ得た俳句であることを言ひ度い為であつた。たとへ写生の句であつても、それが作者の深い深い瞑想を経て来た写生句であると言ひ度い」「唯目に映じた一個の景を写生したものでもよい。其景を写生するといふ頭にはこれだけの瞑想が根底をなしてゐるのである」。(『現代俳句評釈』)

高野素十の俳句(七)

七 翅わつててんたう虫の飛びいづる

初出「ホトトギス」(大正十四・八)。夏(てんたう虫)。てんとう虫をみつめる。七つの黒点のある硬くつややかな翅。突然、その円形の翅が二つにわれ、てんとう虫は飛び去った。「翅わつて」によって虫を主体とした飛翔直前の姿を描写。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

この句には感情の動きはほとんどなく、姿態が客観的かつ的確に描かれている。このような態度について、素十は、「俳句とは四季の変化によって起る吾等の感情を詠ずるものである。などと、とんでもない事を云ふ人がおります」、「感情を詠ずるとは、どんな事になるのか、想像もつかぬのであります」、現代は科学の発達した時代で「科学を究める人の態度は、素直に自然に接し、忠実に之を観察する点にあらふかと存じます」、「俳句も亦結論はありませぬ。それで結構です。忠実に自然を観察し写生する。それだけで宜しいかと考へます」(「狂い花」、「ホトトギス」昭和七・十)。これが、素十の基本的な俳句観ともいうべきものであろう。 

高野素十の俳句(八)

八 ひつばれる糸まつすぐや甲虫

初出「ホトトギス」(昭和十三・十)。夏(甲虫)。子どもらがとってきた甲虫の一匹に糸をつけ、逃げないようにつないでいる。甲虫は何とか逃げようとする。そのたび糸は切れんばかりに張った一線となる。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

甲虫と一本の糸の作りなす線、日常見受ける平凡事だが、その線の力感がすがすがしく描きとれて、黒白の色彩大将とともに単純化の極致の美しさとなっている。並々ならぬ芸の力である。(中略)「ひつばれる糸まつすぐや」は平易な言葉である。そういえばこの作者の句はいずれも平易な日常語でなされている。ただそれが所を得て、抜きさしならぬものとなっているからかがやくのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(九)

九 づかづかと来て踊子にささやける

初出「ホトトギス」(昭和十一・十)。秋(踊)。踊りも巧み盆踊りの輪の中でも目立つ一人の女性。このとき一人の男がやってきて、何のためらいもなく、皆の見ている前で踊り子に歩みより何事かをささやいた。人前ではためらうものなのにあの男性の勇気は。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

一刷毛の荒々しいデッサンで盆踊り風景の一齣を力強く鮮明に描き出した。ドガのように動きの一瞬を捕えたデッサンである。その動きをとらえただけで、その男女の説明は何一つ不用なのである。何をささやいたかも不用である。だがリズムに乗った踊り場の秩序を乱すある空気の動揺は確実に捕えられている。さらに、二人の表情も・・・。言はば、フィルムの回転を突然止めた映写幕の、動きをやめた人物像といった感じである。主情を殺した、作者の目の動きとデッサンの確かさとを、この句から受けとることができる。
(中略)後記 この句は作者が外遊中の作と言う。ではこの句からわれわれが日本の盆踊り風景を思い描くのは誤りであろうか。私はそうは思わない。作者自身季語として「踊子」を使っている以上、盆踊りの句として鑑賞されることを期待しているのである。だが提出された作品は、そのような事実から移調された世界である。いわんや作者はこの句において、西洋を暗示するようないかなる言葉も用いていないのだから、鑑賞の対象は飽くまでも作品であって、背後の事実ではない。作品はその背後の経験よりも、いちだん高い次元に結晶されたものである。写生とは、決して事実を尊重するということではないはずだ。
(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十)

十 糸瓜忌や雑詠集の一作者

初出「ホトトギス」(大正十四・十一)。秋(糸瓜忌)。糸瓜忌は子規の忌日。子規は明治三十五年九月十九日に没した。庭に糸瓜を植え痰切りに用いた。自分も子規に始まる近代俳句の流れに立つという思い。「雑詠集の一作者」という言い方には、芭蕉が「無能無才にしてこま一筋につながる」の語にこめた自負と、同旨のものがひそむ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

高野素十の俳句(十一)

十一 蘆刈の天を仰いで梳(くしけづ)る

初出「ホトトギス」(昭和十六・二)。秋(蘆刈)。芦刈りの姿が見える。あの芦刈りは時折天を仰ぐ動作をする。なぜあんなことをしているのか。よく見ると、髪をすいているのだ。奇妙なあの動作はそのためなのか。見通しのよい景、空を背景にして立つ芦刈りの姿を浮き上がらせつつ焦点をしぼってゆく写生。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

ここにも描かれたのはたった一人の蘆刈女の動作である。ここでも作者の魂は写生の鬼と化している。広々とした蘆原に、夕日の逆行線を浴びて立った一人の女性の、天を仰いだ胸のふくらみまで、確実なデッサンで描き出している。素十には動詞現在形で結んだ句に秀作が多い。この形は説明的・散文的になりやすいが、それを防いでいるものは彼の凝視による単純化の至芸だ。抒情を拒否して、彼は抒情を獲得している。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十二)

十二 生涯にまはり灯籠の句一つ

「須賀田平吉君を弔ふ」と前書がある。いったい素十には前書のある句は寥々として少ない。これは一面においては彼が純粋俳句の探求者であることを証している。前書にもたれかからず、ただ十七字において表現は完了するという強い信念である。だがその反面、それは芭蕉のような境涯の作家でなく、要するに吟行俳人、写生俳人、手帳俳人にすぎぬということを物語っているのである。旅の詩人芭蕉と吟行の俳人素十との差違は決定的である。彼は一句一句の完成に賭けてているが、生活や人間を読者に示そうはしないのである。これは彼の唯一の句集『初鴉』を通読してのどうにもならぬ焦燥である。さて、この句はしみじみとした情懐のこもった挨拶句である。句が人々の中に残るということはたいへんなことである。思い出されない名句というものが何の意味があろう。この俳句の下手に故人は、下手の横好きで熱心でもあったが、「まはり灯籠」の句によってたった一度人々を賛嘆させたことがあった。故人と言えば、思い出すのは「まはり灯籠」の句一つである。持って瞑すべし。それが「花」の句とか「月」の句とかではなく、「まはり灯籠」の句であることが面白い。軽いユーモアを含んだ明るい弔句である。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十三)

十三 歩み来し人麦踏をはじめけり

早春の農村風景の一カットである。畦道を麦踏まで歩いて来た農夫が、そのままの歩調で畑土を踏み歩きながら、黙々と麦踏みをやっているのだ。畦道をやってきたのも麦踏みも同じ歩行動作であり、歩行の延長として麦踏みの動作があるにすぎない。農夫が足を一歩畑へ踏み入れた瞬間、動作の意味が変質するのだ。無表情な農夫の動作に何の変化もないが、それがある地点に来て突然ある意味をになうようになったその突然変異に、作者は郷趣を抱いたのだ。運動する線上の一点を捕らえたのである。これは描かれた俳句である。作者は手帳を持ってよく吟行に出かけるらしく、農村風景の句が多い。いわゆる手帳俳句には違いないが、この作者が他の吟行俳人と異なる点は、見て見て見抜く眼の忍耐を持っていることである。「無心の眼前に風景が去来する。そうして五分・・・十分・・・二十分。眺めている中にようやく心の興趣といったものが湧いてくる。その興趣をなお心から離さずに捉えて、なお見つめているうちにはっきりした印象となる。その印象をはじめて句に作る」と言っている。自然に接して内なる興趣をわかし、凝視のうちに印象がはっきりとした形となり句となるまでのゆったりとした成熟が、彼の作品にうかがわれる。つまりそれはとろ火で充分煮詰められた俳句である。彼の心は眼に憑(の)り移って、自然の一点を凝視する。人物をも自然と同じ機能で見る。この麦踏の句も凝視によって成った俳句である。凝視のうちにある一点へ心の焦点が集中するのである。あえて大自然への凝視とは言うまい。自然の限られた一点であり、時にそれはトリヴィアリズムに堕して「草の芽俳句」と言われるようにもなるのである。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十四)

十四 大榾をかへせば裏は一面火

「榾」(冬)の句。鮮やかな暗転が一句になされている。「榾」は掘り起こした木の根株などのよく乾燥したものや、割らない木切のごろっとしたみので、榾は火力が強いうえに日持がよいので、炉にはかかせない。この句、そうした榾の表面燃えていないのを、何の気なしに裏返したら一面火だったというのだ。「大榾をかへせば裏は」という、どちらかといえば説明的な叙述があるので、この「一面火」という端的な把握が一層鮮やかに迫ってくる。作者の驚きの呼吸が、そのまま「もの」の把握の中に裏付けられ、表現となっているのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(十五)

○ せゝらぎや石見えそめて霧はるゝ  
○ 秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴
○ 門入れば竃火見えぬ秋の暮
○ 月に寝て夜半きく雨や紅葉宿

素十の「ホトトギス」初出は大正十二年(一九二三)の十二月号。この年の九月に関東大震災があった。この掲出句の二句目の「くわらん」は「がらん」とあったのを水原秋桜子が手入れをしたものである。秋桜子と素十は、秋桜子が一年先輩であるが、共に、医学を専門とする同胞であった。そして、当時の秋桜子は、「ホトトギス」の新進作家として注目される存在であり、「ホトトギス」の投句を薦めたものも秋桜子であり、その始めての投句で、虚子に四句を選句されたということは、快挙といっても差し支えなかろう。このときの、秋桜子が素十に四句が選句されたことを告げた場面が、村山古郷の『大正俳壇史』(角川書店)に、次のとおり記述されている。

○ 玄関に出て来た素十に、四句入選だよと話すと、素十は本気にせず、「からかうなよ。そんな話があるものか」と取り上げなかった。「ホトトギス」雑詠欄は厳選で、一句入選さえ容易でないと、春桐や秋櫻子が話しているのを聞いていたからであった。素十は秋櫻子が自分を担ごうとしているのだろうと思った。「いや本当なんだよ。俺も初めは何かのまちがいかと思った位だが、本当に四句入選だよ」と、秋櫻子は真面目に答えた。秋櫻子でさえ、信じられないことであった。秋櫻子の真面目な顔を見て、素十は初めてこの僥倖を知った。そして額をぽんと叩き、畳の上ででんぐり返しを打って、その喜びを身体で現した。

高野素十の俳句(十六)

○ 蓼の花豊(とよ)の落穂のかかりたる (素十 大正十五年)
○ 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (秋桜子 大正十五年)
○ 郭公や韃靼(だつたん)の日の没(い)るなべに (誓子 大正十五年)

 素十が秋桜子の手引きで、大正十二年に「ホトトギス」に登場して以来、大正十五年までの、「ホトトギス」の年譜は次のとおりである。そして、大正十二年十二月号の「ホトトギス」巻頭は秋桜子、続いて、十三年十月号では山口誓子が巻頭。十五年九月号では素十が巻頭を得た。この「ホトトギス」の次代を担う作家達は、大正十一年に復興した東大俳句会のメンバーであり、その東大俳句会は、関西の日野草城らの京大三高俳句会を意識してのものであった。それらの大学俳句会と関係なく大和から大坂に移り住んだ阿波野が、大正十五年十二月号の「ホトトギス」の巻頭作家となる。これらの「秋桜子・誓子・素十・青畝」の、そのイニシャルから、「四S」と呼ばれるに至った(山口青邨の命名)。さらに、
下記の年譜を見ると、大正十三年(五月)の「原田浜人、純客観写生に反発」というは特記すべきもので、後に、秋桜子・誓子も虚子の「純客観写生」と距離を置き、「ホトトギス」を離脱することとなる。そして、この虚子の「純客観写生」の立場を継承し続けたその人こそ、素十であったといえるであろう。

大正十二年(1923)
一月 発行所を丸ビル六百二十三区へ移転。
九月 関東大震災。「凡兆小論」虚子。越中八尾に虚子第一句碑建立。
八月 島村元没。
大正十三年(1924)
一月 第一回同人二十三名、課題句選者九名を置く。
五月 原田浜人、純客観写生に反発。九月、虚子満鮮旅行。
十月 「写生といふこと」連載、虚子。
大正十四年(1925)
三月 「三昧」創刊。
十月 「雑詠句評会」開始。吉岡禅寺洞・芝不器男ほか、九大俳句会結成。
大正十五年(1926)
二月 内藤鳴雪没。
四月 尾崎放哉没。
六月 「俳句小論(上)」虚子。
十二月 「俳句小論(下)」虚子。秋桜子「プロレタリア俳句」、「層雲」に掲載。

高野素十の俳句(十七)

○ 方丈の大庇より春の蝶 (素十)
○ 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (秋桜子)
○ 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 (誓子)
○ 葛城の山懐の寝釈迦かな (青畝)

『現代俳句を学ぶ』所収の「昭和前期の俳壇・・・昭和の革新調」(原子公平稿)では、いわゆる「四S」について、掲出の句を例示しながら、「虚子の『客観写生』の指導下に育ちながら、秋桜子には叙情性が、誓子には現代感覚が、素十には写実性が、青畝には情感が、特色としてよく現れていると思う」と、この四人の俳人について記述している。この「四S」
時代が大正から昭和に移行する昭和初期の俳壇の寵児とするならば、次の昭和十四年当時の昭和俳壇の寵児は、いわゆる、「人間探求派」の、中村草田男・石田波郷・加藤楸邨ということになろう。そして、この「人間探求派」というネーミングに倣うと、掲出句を見ての、これらの「四S」は、あたかも、「自然探求派」というネーミングを呈することも可能であろう。すなわち、素十のこの句の作句するときの関心は、「方丈の大庇・春の蝶」であり、秋桜子のそれは、「啄木鳥・落葉・牧の木々」、誓子は、「七月の青嶺・溶鉱炉」、そして、青畝は、「涅槃会」の「葛城山・寝釈迦」と、作句する関心事が、「人間そのもの」というよりも「自然そのもの」への方に重心が置かれているということはいえるであろう。そして、その「自然そのもの」への関心事が、素十の場合は、「即物重視の写実主義」的であり、秋桜子の場合は、「美意識重視の叙情主義」的であり、誓子の場合は、「現代感覚重視の構成主義」的であり、青畝の場合は、「情感重視の諷詠主義」的という特徴があるということも可能であろう。そして、「ホトトギス王国」を築き上げた虚子の、その因って立つところの「客観写生・花鳥諷詠」主義という立場からして、素十の「即物重視の写実主義」や、青畝の「情感重視の諷詠主義」の立場を、秋桜子の「美意識重視の叙情主義」や、誓子の「現代感覚重視の構成主義」の立場よりも、より親近感あるものとして、より是としたということも、これまた当然の筋道であったということはいえるであろう。

高野素十の俳句(十八)

ネット関連情報で、素十のものは少ないが、「秋桜子と素十・・・カノンの検証」(谷地快一稿)は貴重なものである。そこでの、素十の句を掲載すると下記のとおりである。そして、この副題にある「カノンの検証」(主題の検証)の意味するところのものは、「秋桜子と素十との再評価」、そして、特に、ともすると等閑視されている感じがなくもない、「素十の再評価」の検証というようなことであろう。そして、このことについては、丁度、子規門における守旧派の虚子と革新派の碧梧桐との関係のように、虚子門における守旧派の素十と革新派の秋桜子という図式が、そのヒントになるように思えるのである。とにもかくにも、下記のアドレスのものを、じっくりと味読しながら、それらの検証をすることも、これまた一興であろう。

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2007_04.html 

007 雪片のつて立ちて来る深空かな (素十・雪・ABC)
008 雪あかり一切経を蔵したる   (素十・雪明かり・B)
011 雪どけの子等笛を吹き笛を持ち (素十・春・B)
013 湖につづくと思ふ雪間かな   (素十・雪間・B)
014 泡のびて一動きしぬ薄氷    (素十・薄氷・C)
016 片栗をかたかごといふ今もいふ (素十・片栗の花・B)
021 春水や蛇籠の目より源五郎(素十・春水・B)
022 この空を蛇ひつさげて雉子とぶと(素十・雉子・B)
023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
027 折りくれし霧の蕨のつめたさよ (素十・蕨・B)
031 花吹雪すさまじかりし天地かな (素十・花・B)
032 ある寺の障子細目に花御堂   (素十・花御堂・A)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)
039 苗代に落ち一塊の畦の土    (素十・苗代・B)
046 春の月ありしところに梅雨の月 (素十・梅雨・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
049 早苗饗の御あかし上ぐる素つ裸 (素十・早苗饗・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
053 蟻地獄松風を聞くばかりなり  (素十・蟻地獄・AB)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
056 翅わつててんたう虫の飛び出づる(素十・天道虫・A)
057 引つぱれる糸まつすぐや甲虫  (素十・甲虫・A)
061 端居してただ居る父のおそろしき(素十・端居・C)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
082 くらがりに供養の菊を売りにけり(素十・菊供養・B)
083 また一人遠くの蘆を刈りはじむ (素十・芦刈・BC)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)
085 街路樹の夜も落葉を急ぐなり (素十・落葉・A)
087 翠黛の時雨いよいよはなやかに(素十・時雨・B)
090 鴨渡る明らかにまた明らかに (素十・鴨・B)
093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)
094 僧死してのこりたるもの一炉かな(素十・炉・B)

(註)上記の整理番号は、秋桜子と素十の句(一月~十二月に区分しての九十五句)のうちの、素十の句のみ抜粋してのものである(従って、欠番のものは秋桜子の句ということになる)。また、A・B・Cは下記のものの表記記号である。なお、上記の「季題」についても、暫定的との注意書きがある。
A:『俳句大観』S46年10月刊/明治書院/著者(麻生磯次・阿部喜三男・阿部正美・鈴木勝忠・宮本三郎・森川昭)/近代執筆は阿部喜三男(秋櫻子30句、素十13句)
B:『近代俳句大観』S49年11月刊/明治書院/監修者(富安風生・水原秋桜子・山口青邨)/編集者(秋元不死男・安住敦・大野林火・平畑静塔・皆吉爽雨)/秋櫻子執筆は能村登四郎(秋櫻子40句)、素十執筆は沢木欣一(素十30句)
C:『日本名句集成』H03年11月刊/学燈社/編集委員(飯田龍太・川崎展宏・大岡信・森川昭・大谷篤蔵・山下一海・尾形仂)/秋櫻子執筆は倉橋羊村(秋櫻子8句)、素十執筆は長谷川櫂(素十8句)

高野素十の俳句(十九)

ネット関連の高野素十ものでは、次のアドレスのものも、多くの示唆を含んでいる。

http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jsuju.shtml
「俳句の歴史(高野素十)」(四ツ谷龍稿)

その中で、「素十の作品の重要な特徴は、彼が近景の描写に意を尽くしたところにある。
彼の俳句はしばしば近景のみによって構成されている。これは、大正ホトトギスの作家の作品の多くが遠景と近景の組み合わせによって構成され、彼らの創作の主な意図が遠景の描写にあったことと、きわめて鋭い対照をなしている」という指摘は鋭い。この指摘に加えて、「素十の作品は、この近景の描写に、あたかも、写真のレンズのピントを絞りこむように、焦点化する」(感動の焦点化)というところに大きな特徴があるといえるであろう。

035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)

まず、素十のカメラアングルは、龍安寺の方丈を映し出す。次に、その方丈の大庇をとらえ、そして、それらはボカして、そこから飛び立てくる、春の蝶、一点に的を絞って、それを映し出す。「蝶」は春の季語だが、それを強調するため、わざわざ、「春の蝶」と、敢て「季重なり」をも厭わない。

093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)

根株のような大きな榾。その表面は燃えてはいない。その大きな榾を裏返すと、真っ赤な火と、「一面火」に焦点を合わせて、鮮やかな暗転の対比を見せつける。ここに、素十の真骨頂があろう。

この「近景描写・感動の焦点化」に続き、先のアドレスのものでは、「素十の俳句は、一般に客観写生のおしえを忠実に実践したものと考えられている。だが彼は近代的な意味でのリアリズムの作家ではない。彼はことばが(特に季語が)内包している象徴的なニュアンスを尊重し、それらのニュアンスの作り出すスクリーンの上に事物の映像を映しだすような創作態度をとった。そのため素十の俳句は、近景を描いている場合でも、どぎつく事物を浮き上がらせるのではなく、自分の視点をどこか遠くに置いて、そこから逆に近景を見つめ直しているような淡々とした印象を与える。これは、素十の同時代人である中村草田男が、徹底したリアリストであり、ことばからニュアンスをはぎ取ることに精力を費やしたのと、好対照をなしている。日本語の象徴機能を最大限に活用した素十の俳句は、ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つと見ることができる」と、素十俳句について、高い評価を与えている。

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)

この句もまた、「近景描写。感動の焦点化」の素十俳句の典型であろう。しかし、この句になると、先に触れた、「元来自然の真ということ・・・例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」(秋桜子の「自然の真と文芸上の真」・昭和六年十月号「馬酔木」)という、秋桜子の批判を是としたい衝動にかられてくる。これらのことに関しては、先のホトトギス年譜の「大正十三年(五月)の『原田浜人、純客観写生に反発』」と大きく関係し、当時の「ホトトギス」の主観派の有力作家であった原田浜人の「無感動・無内容の写生」句という思いを深くするのである。ここに、今なお、素十評価が、大きく二分されるところの、大きな背景があることを特記しておこう。

高野素十の俳句(二十)

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)

これらの句は、素十の句の特徴の一つの、助詞「の」の多用されているものの抜粋である。この「の」の多用は、「の」を重ねながら、最後の結句まで畳みかけるように、焦点を引き絞っていく手法である。そして、同時に、この手法は、「単純化の極地」・「単純化の至芸」ともいえるものなのであるが、同時に、これまた、「瑣末主義」(トリピアリズム)に陥り易いという面もあるということも、しばしば指摘されるところのものであろう。
さて、これまで見てきた、素十俳句を、「草の芽」俳句の、「無感動・無内容」の典型的にものと見るか、それとも、「ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つ」として、虚子がいわれた「雑駁な自然の中から或る景色を引き抽(ぬ)来つてそこに一片の詩の天地を構成する」ものと見るか、一にかかって、それは、これらの句に接するものの「こころ」次第ということになろう。
 としたうえで、秋桜子山脈が、虚子山脈に対比して、燦然と輝いている今日、素十山脈は虚子山脈の一峰として、その大きな虚子山脈の影でその姿を屹立させていないのは、やや「今こそ、素十俳句の再評価」という思いは拭い去れないのである。

○ 秋晴の第一日は家に在り (素十)

 たまたま、(平成十九年)十月七日付けの地方紙の「季(とき)のうた」(村上護稿)で、掲出の素十の句が取り上げられていた。そこで、「物事の順序を表すのが『第』の意。おもしろいのは秋晴れの一番初めの日、と決めつけていることだ。実際の日限となればいつごろだろうか。九月から十月初旬までは秋の雨期で、台風がくることが多い。秋霖(しゅうりん)ともいうが、これが終われば本格的な秋となる。秋晴れとは空気が澄んで空が抜けるように青い晴天。そのような好天の続きそうな第一日は浮かれて出て歩くのでなく、家に在って気を引き締めたか」とある。この句は、素十には珍しく、「自然諷詠」というよりも「人事諷詠」の、素十の「自画像」の句であろう。そして、この句もまた、「秋晴の第一日」は、意味上は、「秋晴れの一番初めの日」と、素十が最も得意とするところの、「の」の多用の形式の変形ともいうべきものであろう。とにもかくにも、この句の面白さは、下五の、「家に在り」という、やや仰々しい、そして、ややユーモアのある、この結句にあろう。そして、素十にも、こういう一面があったのかと、思わず、脱「草の芽俳句」という思いを深くするのである。と同時に、こういう素十の句の発見もまた、「素十俳句の再評価」という思いを深くするのである。












高野素十の俳句(一)

一 春水や蛇籠の目より源五郎

初出「ホトトギス」(大正十五・三)。春(春水)。春になって涸れていた川に水
が豊かに流れはじめた。溢水を防ぐために蛇状に編み石を入れて置いてある籠
の荒い目、この中から源五郎が出てきた。「春水」と「源五郎」の取り合わせ
の句。

高野素十の俳句(二)

二 ひとすぢの畦の煙をかへりみる

初出「ホトトギス」(昭和三・四)。春(畦焼)。畦焼きの一筋の煙りを振り返りつつ見る。虚子は昭和三年十一月に「秋桜子と素十」の一文を書く。そこで、「この作者(素十)の心は、夫ら実際の景色に遭遇する場合、その景色の美を感受する力が非常に強い。同時にその感受した美を現はす材料の選択が極めて敏捷に出来るのである」と指摘する。何の変哲もない景色に遭遇して、その何の変哲もない景色の美を感じとり、それを即座に一句に仕立てている。

高野素十の俳句(三)

三 甘草の芽のとびとびのひとならび

初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(甘草の芽)。甘草の芽、その芽がとびとびで、それに興味が惹かれた。客観写生句。この句を念頭において、水原秋桜子は、昭和六年十月の「馬酔木」に、「自然の真と文芸上の真」を書き、そこで、「元来自然の真ということ・・・
例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」として、虚子らの客観写生句に対立することになる。即ち、この秋桜子発言を契機に、反「ホトトギス」の運動がおこり、やがて、その運動は新興俳句運動として多面的な展開を見ることとなる。

高野素十の俳句(四)

四 風吹いて蝶々迅(はや)く飛びにけり

初出「ホトトギス」(昭和四・六)。春(蝶)。春風に乗り蝶が飛んでいる。その春風のせいか速く飛んでいるように見える。眼に見えない風に蝶を配することによってあたかも眼に見えるようにしたところにこの句の眼目があろう。この句について、日野草城は、「すべて特徴あるもの、山のあるものは否定されて、平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる。(中略)かつてホトトギスに発表された高野素十君の『風吹いて蝶々はやくとびにけり』の如きはこの弊害をもつともよく表はしたもので、けだし天下の愚作と断定して憚りません」(昭和五年二月「山茶花」)と評している。この素十のような句作りを「天下の愚作」と見るか、それとも「平々凡々たるものが何かしら含蓄の深い味わひのあるものゝやうに見過られる」と見るか、それは、即、「素十の俳句を否定するか、それとも肯定するか」の分岐点となろう。

高野素十の俳句(五)

五 百姓の血筋の吾に麦青む

初出「ホトトギス」(昭和十五・五)。春(麦青む)。素十の生れは茨城県北相馬郡。自分の生家は農家で、血の中には土への郷愁がある。麦が青むころになると、土や自然をなつかしむ思ひがひとしおである。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

高野素十(たかの すじゅう、1893年(明治26年)3月3日 - 1976年(昭和51年)10月4日)は、日本の俳人、医学博士。山口誓子、阿波野青畝、水原秋桜子とともに名前の頭文字を取って『ホトトギス』の四Sと称された。本名は高野与巳(よしみ)。
(生涯)1893年(明治26年)茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。新潟県長岡市の長岡中学校(現・新潟県立長岡高等学校)、東京の第一高等学校を経て、東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手をつとめ秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。1918年(大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始める。1923年(大正12年)『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。血清学を学ぶためにドイツに留学。帰国後の1935年(昭和10年)新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、その後、学長となる。1953年(昭和28年)60歳で退官。同年、俳誌『芹』を創刊し主宰する。退官後は奈良県立医科大学法医学教授を1960年(昭和35年)まで勤める。1976年(昭和51年)没、享年83。千葉県君津市の神野寺に葬られた。出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

高野素十の俳句(六)

六 方丈の大庇より春の蝶

初出「ホトトギス」(昭和二・九)。春(蝶)。寺院の本堂の大きな庇が視野を左右に横ぎり、空を見上げる自分の視野の半ばを、占めて大きくのしかかってくる。そのとき、小さく弱々しい感じの蝶が明るい空の部分に現れた。一点の動と明るさ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

この句について秋桜子は、「これは恐らく竜安寺の有名な泉石を詠んだ句だらうと思ふ」「その大きな庇から泉石の上へ蝶が一つひ下りたといふ景色で春昼の影のよく出てゐる作であると思ふ」「かへすがへすもも『春の蝶』といふ言葉をつかつた作者の用意に感服する」と評している。一方、虚子は、「此の句が単純な写生ではなくて、竜安寺といふものの精神をとらへ得た俳句であることを言ひ度い為であつた。たとへ写生の句であつても、それが作者の深い深い瞑想を経て来た写生句であると言ひ度い」「唯目に映じた一個の景を写生したものでもよい。其景を写生するといふ頭にはこれだけの瞑想が根底をなしてゐるのである」。(『現代俳句評釈』)

高野素十の俳句(七)

七 翅わつててんたう虫の飛びいづる

初出「ホトトギス」(大正十四・八)。夏(てんたう虫)。てんとう虫をみつめる。七つの黒点のある硬くつややかな翅。突然、その円形の翅が二つにわれ、てんとう虫は飛び去った。「翅わつて」によって虫を主体とした飛翔直前の姿を描写。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

この句には感情の動きはほとんどなく、姿態が客観的かつ的確に描かれている。このような態度について、素十は、「俳句とは四季の変化によって起る吾等の感情を詠ずるものである。などと、とんでもない事を云ふ人がおります」、「感情を詠ずるとは、どんな事になるのか、想像もつかぬのであります」、現代は科学の発達した時代で「科学を究める人の態度は、素直に自然に接し、忠実に之を観察する点にあらふかと存じます」、「俳句も亦結論はありませぬ。それで結構です。忠実に自然を観察し写生する。それだけで宜しいかと考へます」(「狂い花」、「ホトトギス」昭和七・十)。これが、素十の基本的な俳句観ともいうべきものであろう。 

高野素十の俳句(八)

八 ひつばれる糸まつすぐや甲虫

初出「ホトトギス」(昭和十三・十)。夏(甲虫)。子どもらがとってきた甲虫の一匹に糸をつけ、逃げないようにつないでいる。甲虫は何とか逃げようとする。そのたび糸は切れんばかりに張った一線となる。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

甲虫と一本の糸の作りなす線、日常見受ける平凡事だが、その線の力感がすがすがしく描きとれて、黒白の色彩大将とともに単純化の極致の美しさとなっている。並々ならぬ芸の力である。(中略)「ひつばれる糸まつすぐや」は平易な言葉である。そういえばこの作者の句はいずれも平易な日常語でなされている。ただそれが所を得て、抜きさしならぬものとなっているからかがやくのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(九)

九 づかづかと来て踊子にささやける

初出「ホトトギス」(昭和十一・十)。秋(踊)。踊りも巧み盆踊りの輪の中でも目立つ一人の女性。このとき一人の男がやってきて、何のためらいもなく、皆の見ている前で踊り子に歩みより何事かをささやいた。人前ではためらうものなのにあの男性の勇気は。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

一刷毛の荒々しいデッサンで盆踊り風景の一齣を力強く鮮明に描き出した。ドガのように動きの一瞬を捕えたデッサンである。その動きをとらえただけで、その男女の説明は何一つ不用なのである。何をささやいたかも不用である。だがリズムに乗った踊り場の秩序を乱すある空気の動揺は確実に捕えられている。さらに、二人の表情も・・・。言はば、フィルムの回転を突然止めた映写幕の、動きをやめた人物像といった感じである。主情を殺した、作者の目の動きとデッサンの確かさとを、この句から受けとることができる。
(中略)後記 この句は作者が外遊中の作と言う。ではこの句からわれわれが日本の盆踊り風景を思い描くのは誤りであろうか。私はそうは思わない。作者自身季語として「踊子」を使っている以上、盆踊りの句として鑑賞されることを期待しているのである。だが提出された作品は、そのような事実から移調された世界である。いわんや作者はこの句において、西洋を暗示するようないかなる言葉も用いていないのだから、鑑賞の対象は飽くまでも作品であって、背後の事実ではない。作品はその背後の経験よりも、いちだん高い次元に結晶されたものである。写生とは、決して事実を尊重するということではないはずだ。
(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十)

十 糸瓜忌や雑詠集の一作者

初出「ホトトギス」(大正十四・十一)。秋(糸瓜忌)。糸瓜忌は子規の忌日。子規は明治三十五年九月十九日に没した。庭に糸瓜を植え痰切りに用いた。自分も子規に始まる近代俳句の流れに立つという思い。「雑詠集の一作者」という言い方には、芭蕉が「無能無才にしてこま一筋につながる」の語にこめた自負と、同旨のものがひそむ。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

高野素十の俳句(十一)

十一 蘆刈の天を仰いで梳(くしけづ)る

初出「ホトトギス」(昭和十六・二)。秋(蘆刈)。芦刈りの姿が見える。あの芦刈りは時折天を仰ぐ動作をする。なぜあんなことをしているのか。よく見ると、髪をすいているのだ。奇妙なあの動作はそのためなのか。見通しのよい景、空を背景にして立つ芦刈りの姿を浮き上がらせつつ焦点をしぼってゆく写生。(「高野素十集・初鴉」・松井利彦稿)

ここにも描かれたのはたった一人の蘆刈女の動作である。ここでも作者の魂は写生の鬼と化している。広々とした蘆原に、夕日の逆行線を浴びて立った一人の女性の、天を仰いだ胸のふくらみまで、確実なデッサンで描き出している。素十には動詞現在形で結んだ句に秀作が多い。この形は説明的・散文的になりやすいが、それを防いでいるものは彼の凝視による単純化の至芸だ。抒情を拒否して、彼は抒情を獲得している。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十二)

十二 生涯にまはり灯籠の句一つ

「須賀田平吉君を弔ふ」と前書がある。いったい素十には前書のある句は寥々として少ない。これは一面においては彼が純粋俳句の探求者であることを証している。前書にもたれかからず、ただ十七字において表現は完了するという強い信念である。だがその反面、それは芭蕉のような境涯の作家でなく、要するに吟行俳人、写生俳人、手帳俳人にすぎぬということを物語っているのである。旅の詩人芭蕉と吟行の俳人素十との差違は決定的である。彼は一句一句の完成に賭けてているが、生活や人間を読者に示そうはしないのである。これは彼の唯一の句集『初鴉』を通読してのどうにもならぬ焦燥である。さて、この句はしみじみとした情懐のこもった挨拶句である。句が人々の中に残るということはたいへんなことである。思い出されない名句というものが何の意味があろう。この俳句の下手に故人は、下手の横好きで熱心でもあったが、「まはり灯籠」の句によってたった一度人々を賛嘆させたことがあった。故人と言えば、思い出すのは「まはり灯籠」の句一つである。持って瞑すべし。それが「花」の句とか「月」の句とかではなく、「まはり灯籠」の句であることが面白い。軽いユーモアを含んだ明るい弔句である。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十三)

十三 歩み来し人麦踏をはじめけり

早春の農村風景の一カットである。畦道を麦踏まで歩いて来た農夫が、そのままの歩調で畑土を踏み歩きながら、黙々と麦踏みをやっているのだ。畦道をやってきたのも麦踏みも同じ歩行動作であり、歩行の延長として麦踏みの動作があるにすぎない。農夫が足を一歩畑へ踏み入れた瞬間、動作の意味が変質するのだ。無表情な農夫の動作に何の変化もないが、それがある地点に来て突然ある意味をになうようになったその突然変異に、作者は郷趣を抱いたのだ。運動する線上の一点を捕らえたのである。これは描かれた俳句である。作者は手帳を持ってよく吟行に出かけるらしく、農村風景の句が多い。いわゆる手帳俳句には違いないが、この作者が他の吟行俳人と異なる点は、見て見て見抜く眼の忍耐を持っていることである。「無心の眼前に風景が去来する。そうして五分・・・十分・・・二十分。眺めている中にようやく心の興趣といったものが湧いてくる。その興趣をなお心から離さずに捉えて、なお見つめているうちにはっきりした印象となる。その印象をはじめて句に作る」と言っている。自然に接して内なる興趣をわかし、凝視のうちに印象がはっきりとした形となり句となるまでのゆったりとした成熟が、彼の作品にうかがわれる。つまりそれはとろ火で充分煮詰められた俳句である。彼の心は眼に憑(の)り移って、自然の一点を凝視する。人物をも自然と同じ機能で見る。この麦踏の句も凝視によって成った俳句である。凝視のうちにある一点へ心の焦点が集中するのである。あえて大自然への凝視とは言うまい。自然の限られた一点であり、時にそれはトリヴィアリズムに堕して「草の芽俳句」と言われるようにもなるのである。(『現代俳句』・山本健吉著)

高野素十の俳句(十四)

十四 大榾をかへせば裏は一面火

「榾」(冬)の句。鮮やかな暗転が一句になされている。「榾」は掘り起こした木の根株などのよく乾燥したものや、割らない木切のごろっとしたみので、榾は火力が強いうえに日持がよいので、炉にはかかせない。この句、そうした榾の表面燃えていないのを、何の気なしに裏返したら一面火だったというのだ。「大榾をかへせば裏は」という、どちらかといえば説明的な叙述があるので、この「一面火」という端的な把握が一層鮮やかに迫ってくる。作者の驚きの呼吸が、そのまま「もの」の把握の中に裏付けられ、表現となっているのである。(『近代俳句の鑑賞と批評』・大野林火著)

高野素十の俳句(十五)

○ せゝらぎや石見えそめて霧はるゝ  
○ 秋風やくわらんと鳴りし幡の鈴
○ 門入れば竃火見えぬ秋の暮
○ 月に寝て夜半きく雨や紅葉宿

素十の「ホトトギス」初出は大正十二年(一九二三)の十二月号。この年の九月に関東大震災があった。この掲出句の二句目の「くわらん」は「がらん」とあったのを水原秋桜子が手入れをしたものである。秋桜子と素十は、秋桜子が一年先輩であるが、共に、医学を専門とする同胞であった。そして、当時の秋桜子は、「ホトトギス」の新進作家として注目される存在であり、「ホトトギス」の投句を薦めたものも秋桜子であり、その始めての投句で、虚子に四句を選句されたということは、快挙といっても差し支えなかろう。このときの、秋桜子が素十に四句が選句されたことを告げた場面が、村山古郷の『大正俳壇史』(角川書店)に、次のとおり記述されている。

○ 玄関に出て来た素十に、四句入選だよと話すと、素十は本気にせず、「からかうなよ。そんな話があるものか」と取り上げなかった。「ホトトギス」雑詠欄は厳選で、一句入選さえ容易でないと、春桐や秋櫻子が話しているのを聞いていたからであった。素十は秋櫻子が自分を担ごうとしているのだろうと思った。「いや本当なんだよ。俺も初めは何かのまちがいかと思った位だが、本当に四句入選だよ」と、秋櫻子は真面目に答えた。秋櫻子でさえ、信じられないことであった。秋櫻子の真面目な顔を見て、素十は初めてこの僥倖を知った。そして額をぽんと叩き、畳の上ででんぐり返しを打って、その喜びを身体で現した。

高野素十の俳句(十六)

○ 蓼の花豊(とよ)の落穂のかかりたる (素十 大正十五年)
○ 葛飾や桃の籬(まがき)も水田べり (秋桜子 大正十五年)
○ 郭公や韃靼(だつたん)の日の没(い)るなべに (誓子 大正十五年)
 素十が秋桜子の手引きで、大正十二年に「ホトトギス」に登場して以来、大正十五年までの、「ホトトギス」の年譜は次のとおりである。そして、大正十二年十二月号の「ホトトギス」巻頭は秋桜子、続いて、十三年十月号では山口誓子が巻頭。十五年九月号では素十が巻頭を得た。この「ホトトギス」の次代を担う作家達は、大正十一年に復興した東大俳句会のメンバーであり、その東大俳句会は、関西の日野草城らの京大三高俳句会を意識してのものであった。それらの大学俳句会と関係なく大和から大坂に移り住んだ阿波野が、大正十五年十二月号の「ホトトギス」の巻頭作家となる。これらの「秋桜子・誓子・素十・青畝」の、そのイニシャルから、「四S」と呼ばれるに至った(山口青邨の命名)。さらに、
下記の年譜を見ると、大正十三年(五月)の「原田浜人、純客観写生に反発」というは特記すべきもので、後に、秋桜子・誓子も虚子の「純客観写生」と距離を置き、「ホトトギス」を離脱することとなる。そして、この虚子の「純客観写生」の立場を継承し続けたその人こそ、素十であったといえるであろう。

大正十二年(1923)
一月 発行所を丸ビル六百二十三区へ移転。
九月 関東大震災。「凡兆小論」虚子。越中八尾に虚子第一句碑建立。
八月 島村元没。
大正十三年(1924)
一月 第一回同人二十三名、課題句選者九名を置く。
五月 原田浜人、純客観写生に反発。九月、虚子満鮮旅行。
十月 「写生といふこと」連載、虚子。
大正十四年(1925)
三月 「三昧」創刊。
十月 「雑詠句評会」開始。吉岡禅寺洞・芝不器男ほか、九大俳句会結成。
大正十五年(1926)
二月 内藤鳴雪没。
四月 尾崎放哉没。
六月 「俳句小論(上)」虚子。
十二月 「俳句小論(下)」虚子。秋桜子「プロレタリア俳句」、「層雲」に掲載。

高野素十の俳句(十七)

○ 方丈の大庇より春の蝶 (素十)
○ 啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々 (秋桜子)
○ 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉 (誓子)
○ 葛城の山懐の寝釈迦かな (青畝)
『現代俳句を学ぶ』所収の「昭和前期の俳壇・・・昭和の革新調」(原子公平稿)では、いわゆる「四S」について、掲出の句を例示しながら、「虚子の『客観写生』の指導下に育ちながら、秋桜子には叙情性が、誓子には現代感覚が、素十には写実性が、青畝には情感が、特色としてよく現れていると思う」と、この四人の俳人について記述している。この「四S」
時代が大正から昭和に移行する昭和初期の俳壇の寵児とするならば、次の昭和十四年当時の昭和俳壇の寵児は、いわゆる、「人間探求派」の、中村草田男・石田波郷・加藤楸邨ということになろう。そして、この「人間探求派」というネーミングに倣うと、掲出句を見ての、これらの「四S」は、あたかも、「自然探求派」というネーミングを呈することも可能であろう。すなわち、素十のこの句の作句するときの関心は、「方丈の大庇・春の蝶」であり、秋桜子のそれは、「啄木鳥・落葉・牧の木々」、誓子は、「七月の青嶺・溶鉱炉」、そして、青畝は、「涅槃会」の「葛城山・寝釈迦」と、作句する関心事が、「人間そのもの」というよりも「自然そのもの」への方に重心が置かれているということはいえるであろう。そして、その「自然そのもの」への関心事が、素十の場合は、「即物重視の写実主義」的であり、秋桜子の場合は、「美意識重視の叙情主義」的であり、誓子の場合は、「現代感覚重視の構成主義」的であり、青畝の場合は、「情感重視の諷詠主義」的という特徴があるということも可能であろう。そして、「ホトトギス王国」を築き上げた虚子の、その因って立つところの「客観写生・花鳥諷詠」主義という立場からして、素十の「即物重視の写実主義」や、青畝の「情感重視の諷詠主義」の立場を、秋桜子の「美意識重視の叙情主義」や、誓子の「現代感覚重視の構成主義」の立場よりも、より親近感あるものとして、より是としたということも、これまた当然の筋道であったということはいえるであろう。

高野素十の俳句(十八)

ネット関連情報で、素十のものは少ないが、「秋桜子と素十・・・カノンの検証」(谷地快一稿)は貴重なものである。そこでの、素十の句を掲載すると下記のとおりである。そして、この副題にある「カノンの検証」(主題の検証)の意味するところのものは、「秋桜子と素十との再評価」、そして、特に、ともすると等閑視されている感じがなくもない、「素十の再評価」の検証というようなことであろう。そして、このことについては、丁度、子規門における守旧派の虚子と革新派の碧梧桐との関係のように、虚子門における守旧派の素十と革新派の秋桜子という図式が、そのヒントになるように思えるのである。とにもかくにも、下記のアドレスのものを、じっくりと味読しながら、それらの検証をすることも、これまた一興であろう。

http://www.basho.jp/ronbun/ronbun_2007_04.html 

007 雪片のつて立ちて来る深空かな (素十・雪・ABC)
008 雪あかり一切経を蔵したる   (素十・雪明かり・B)
011 雪どけの子等笛を吹き笛を持ち (素十・春・B)
013 湖につづくと思ふ雪間かな   (素十・雪間・B)
014 泡のびて一動きしぬ薄氷    (素十・薄氷・C)
016 片栗をかたかごといふ今もいふ (素十・片栗の花・B)
021 春水や蛇籠の目より源五郎(素十・春水・B)
022 この空を蛇ひつさげて雉子とぶと(素十・雉子・B)
023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
027 折りくれし霧の蕨のつめたさよ (素十・蕨・B)
031 花吹雪すさまじかりし天地かな (素十・花・B)
032 ある寺の障子細目に花御堂   (素十・花御堂・A)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)
039 苗代に落ち一塊の畦の土    (素十・苗代・B)
046 春の月ありしところに梅雨の月 (素十・梅雨・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
049 早苗饗の御あかし上ぐる素つ裸 (素十・早苗饗・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
053 蟻地獄松風を聞くばかりなり  (素十・蟻地獄・AB)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
056 翅わつててんたう虫の飛び出づる(素十・天道虫・A)
057 引つぱれる糸まつすぐや甲虫  (素十・甲虫・A)
061 端居してただ居る父のおそろしき(素十・端居・C)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
082 くらがりに供養の菊を売りにけり(素十・菊供養・B)
083 また一人遠くの蘆を刈りはじむ (素十・芦刈・BC)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)
085 街路樹の夜も落葉を急ぐなり (素十・落葉・A)
087 翠黛の時雨いよいよはなやかに(素十・時雨・B)
090 鴨渡る明らかにまた明らかに (素十・鴨・B)
093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)
094 僧死してのこりたるもの一炉かな(素十・炉・B)

(註)上記の整理番号は、秋桜子と素十の句(一月~十二月に区分しての九十五句)のうちの、素十の句のみ抜粋してのものである(従って、欠番のものは秋桜子の句ということになる)。また、A・B・Cは下記のものの表記記号である。なお、上記の「季題」についても、暫定的との注意書きがある。
A:『俳句大観』S46年10月刊/明治書院/著者(麻生磯次・阿部喜三男・阿部正美・鈴木勝忠・宮本三郎・森川昭)/近代執筆は阿部喜三男(秋櫻子30句、素十13句)
B:『近代俳句大観』S49年11月刊/明治書院/監修者(富安風生・水原秋桜子・山口青邨)/編集者(秋元不死男・安住敦・大野林火・平畑静塔・皆吉爽雨)/秋櫻子執筆は能村登四郎(秋櫻子40句)、素十執筆は沢木欣一(素十30句)
C:『日本名句集成』H03年11月刊/学燈社/編集委員(飯田龍太・川崎展宏・大岡信・森川昭・大谷篤蔵・山下一海・尾形仂)/秋櫻子執筆は倉橋羊村(秋櫻子8句)、素十執筆は長谷川櫂(素十8句)

高野素十の俳句(十九)

ネット関連の高野素十ものでは、次のアドレスのものも、多くの示唆を含んでいる。

http://www.big.or.jp/~loupe/links/jhistory/jsuju.shtml
「俳句の歴史(高野素十)」(四ツ谷龍稿)

その中で、「素十の作品の重要な特徴は、彼が近景の描写に意を尽くしたところにある。
彼の俳句はしばしば近景のみによって構成されている。これは、大正ホトトギスの作家の作品の多くが遠景と近景の組み合わせによって構成され、彼らの創作の主な意図が遠景の描写にあったことと、きわめて鋭い対照をなしている」という指摘は鋭い。この指摘に加えて、「素十の作品は、この近景の描写に、あたかも、写真のレンズのピントを絞りこむように、焦点化する」(感動の焦点化)というところに大きな特徴があるといえるであろう。

035 方丈の大庇より春の蝶     (素十・蝶・ABC)

まず、素十のカメラアングルは、龍安寺の方丈を映し出す。次に、その方丈の大庇をとらえ、そして、それらはボカして、そこから飛び立てくる、春の蝶、一点に的を絞って、それを映し出す。「蝶」は春の季語だが、それを強調するため、わざわざ、「春の蝶」と、敢て「季重なり」をも厭わない。

093 大榾をかへせば裏は一面火  (素十・榾・ABC)

根株のような大きな榾。その表面は燃えてはいない。その大きな榾を裏返すと、真っ赤な火と、「一面火」に焦点を合わせて、鮮やかな暗転の対比を見せつける。ここに、素十の真骨頂があろう。

この「近景描写・感動の焦点化」に続き、先のアドレスのものでは、「素十の俳句は、一般に客観写生のおしえを忠実に実践したものと考えられている。だが彼は近代的な意味でのリアリズムの作家ではない。彼はことばが(特に季語が)内包している象徴的なニュアンスを尊重し、それらのニュアンスの作り出すスクリーンの上に事物の映像を映しだすような創作態度をとった。そのため素十の俳句は、近景を描いている場合でも、どぎつく事物を浮き上がらせるのではなく、自分の視点をどこか遠くに置いて、そこから逆に近景を見つめ直しているような淡々とした印象を与える。これは、素十の同時代人である中村草田男が、徹底したリアリストであり、ことばからニュアンスをはぎ取ることに精力を費やしたのと、好対照をなしている。日本語の象徴機能を最大限に活用した素十の俳句は、ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つと見ることができる」と、素十俳句について、高い評価を与えている。

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)

この句もまた、「近景描写。感動の焦点化」の素十俳句の典型であろう。しかし、この句になると、先に触れた、「元来自然の真ということ・・・例えば何草の芽はどうなつてゐるかということ・・・は、科学に属することで、芸術の領域に入るものではない」(秋桜子の「自然の真と文芸上の真」・昭和六年十月号「馬酔木」)という、秋桜子の批判を是としたい衝動にかられてくる。これらのことに関しては、先のホトトギス年譜の「大正十三年(五月)の『原田浜人、純客観写生に反発』」と大きく関係し、当時の「ホトトギス」の主観派の有力作家であった原田浜人の「無感動・無内容の写生」句という思いを深くするのである。ここに、今なお、素十評価が、大きく二分されるところの、大きな背景があることを特記しておこう。

高野素十の俳句(二十)

023 甘草の芽のとびとびのひとならび(素十・萱草の芽・ABC)
033 百姓の血筋の吾に麦青む    (素十・麦青む・B)
048 代馬の泥の鞭あと一二本    (素十・代掻・B)
052 くもの糸一すぢよぎる百合の前 (素十・蜘蛛・B)
055 みちのくの朝の夏炉に子が一人 (素十・夏炉・A)
068 八朔は歌の博士の誕生日(素十・八朔・B・「合津先生」との前書き)
069 桔梗の花の中よりくもの糸   (素十・桔梗・C)
074 雁の声のしばらく空に満ち   (素十・雁・AB)
084 もちの葉の落ちたる土にうらがへる(素十・落葉・B)

これらの句は、素十の句の特徴の一つの、助詞「の」の多用されているものの抜粋である。この「の」の多用は、「の」を重ねながら、最後の結句まで畳みかけるように、焦点を引き絞っていく手法である。そして、同時に、この手法は、「単純化の極地」・「単純化の至芸」ともいえるものなのであるが、同時に、これまた、「瑣末主義」(トリピアリズム)に陥り易いという面もあるということも、しばしば指摘されるところのものであろう。
さて、これまで見てきた、素十俳句を、「草の芽」俳句の、「無感動・無内容」の典型的にものと見るか、それとも、「ホトトギス俳句がたどり着いた頂点の一つ」として、虚子がいわれた「雑駁な自然の中から或る景色を引き抽(ぬ)来つてそこに一片の詩の天地を構成する」ものと見るか、一にかかって、それは、これらの句に接するものの「こころ」次第ということになろう。
 としたうえで、秋桜子山脈が、虚子山脈に対比して、燦然と輝いている今日、素十山脈は虚子山脈の一峰として、その大きな虚子山脈の影でその姿を屹立させていないのは、やや「今こそ、素十俳句の再評価」という思いは拭い去れないのである。

○ 秋晴の第一日は家に在り (素十)

 たまたま、(平成十九年)十月七日付けの地方紙の「季(とき)のうた」(村上護稿)で、掲出の素十の句が取り上げられていた。そこで、「物事の順序を表すのが『第』の意。おもしろいのは秋晴れの一番初めの日、と決めつけていることだ。実際の日限となればいつごろだろうか。九月から十月初旬までは秋の雨期で、台風がくることが多い。秋霖(しゅうりん)ともいうが、これが終われば本格的な秋となる。秋晴れとは空気が澄んで空が抜けるように青い晴天。そのような好天の続きそうな第一日は浮かれて出て歩くのでなく、家に在って気を引き締めたか」とある。この句は、素十には珍しく、「自然諷詠」というよりも「人事諷詠」の、素十の「自画像」の句であろう。そして、この句もまた、「秋晴の第一日」は、意味上は、「秋晴れの一番初めの日」と、素十が最も得意とするところの、「の」の多用の形式の変形ともいうべきものであろう。とにもかくにも、この句の面白さは、下五の、「家に在り」という、やや仰々しい、そして、ややユーモアのある、この結句にあろう。そして、素十にも、こういう一面があったのかと、思わず、脱「草の芽俳句」という思いを深くするのである。と同時に、こういう素十の句の発見もまた、「素十俳句の再評価」という思いを深くするのである。