火曜日, 4月 24, 2007

其角とその周辺(その八・七十二~八十)


画像:杉山杉風

謎解き八

(謎解き・七十二)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十一番
   兄 彫棠
 つたなさや牛といはれて相撲取
   弟 (其角)
 上手ほと(ど)名も優美なりすまひ取

判詞(自注)に、「句の裏へかけたり。これもすまふの一手たるべし。牛といふ字にかけて、上手も立ならぶべくや」とある。

下記のアドレスの「愛媛の偉人・賢人の紹介」の「松平定直」の記事の中に「彫棠」の名が見られる。この彫棠は其角派の主要俳人の一人で、この彫棠を通して、この定直(俳号・三嘯)やその重臣・粛山などとの接点が生まれたように解せられる(『田中・前掲書』)。

http://joho.ehime-iinet.or.jp/syogai/jinbutu/html/081.htm

(松平定直)
俳人。松山第4代藩主。江戸(現東京都)の今治藩邸に生まれる。度重なる天災の災害復旧と財政の立て直しのため、潅漑土木に藩費を投入し農業生産の安定化を図るとともに、定免制を復活させ、地坪制を遂行し、経済を安定させた。また、積極的に儒学の興隆を図ることで、松山を中心とする地方文化の発展を促した。自ら、和歌・俳諧をたしなみ、特に其角や嵐雪など江戸俳人の指導を受け、句作に興ずることが多かったことから、藩士の中から粛山・(青地)彫棠のような俳人が現れ、俳諧をたしなむ藩風を生んだ。

ここで、『去来抄』「修行」の下記のアドレスでの「同巣・同竈」のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#t

(「修行」二十三)

23、去来曰(きょらいいはく)、蕉門に同巣・同竈(どうさう)といふ事あり、是(これ)は前吟の鋳型に入て作りたる句の意に又入(またいり)て作(さく)する句也(くなり)。譬(たと)へば竿(さを)が長くて物につかゆるといふを、刀の小尻(こじり)が障子にさはる、或(あるい)は杖が短かくて地にとどかぬといふを・・・と吟じかゆる也(なり)、同じ巣の句は手柄なし。されど兄より生れ増(まし)たらんは、また手柄也(てがら)。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,69)

 パクリというのはいつの時代にもあるもので、それも、そのまんまではすぐにばれるから、たいていは一部分を微妙に変えて作る。音楽の世界では、コード進行を同じにしてメロディーを変えるだとかいうのはよくあるし、それを更にテンポを変えたり、リズムを変えたりすると、まったく別の曲のように聞こえる。ブルーハーツの「人に優しく」の、ドシラソミレドという下がってゆくメロディーを「木更津キャッツアイのテーマ」ではドシラソラシドという途中から上がってゆくメロディーにしているが、これはもちろん、ドラマの中でパクリの曲を作る場面で用いられている。だが、ヒット曲の中にも結構この手のものは多い。日本代表のサポーターソングにも採用されたボニーMの「ジンギスカン」はレレミミファーミレファファミレー、ドドドレミーレドミミレドー、レーレーレーレードーシーラードーミーーーうっ!はっ!だが、これをファファミミレーラーファファミレーーー、ミミレレドーソーミミレドー、レーレーレーレードーシーラードーミーーーうっ!はっ!とすると・・・♂。ただ、作曲の場合、この程度は認められている。
 和歌では、

 都をば霞とともにたちしかど
    秋風そ吹くしらかはのせき
                   能因法師
 都にはまだ青葉にてみしかども
    紅葉ちりしくしらかはのせき
                   前右京権大夫頼政

の類似がよく知られている。これなどは、蕉門でいう同竈(どうそう)(同巣(どうそう))と言っていいだろう。旅路の長さを季節の経過で表す発想は、いろいろなバリエーションで使うことが出来る。ただ、現代だと地球の裏側でも一日で行けるので、それほど長く旅することというのがあまりなく、かえって難しい。
 『去来抄』同門評12では、

 桐(きり)の木の風にかまはぬ落葉かな   凡兆(ぼんちょう)
 樫(かし)の木の花にかまはぬ姿かな    芭蕉

の類似が指摘されているが、この場合、言葉の続き具合が似ているだけで、前者は風もないのにちってゆく霧の葉を呼んだもので、発想としては、

 ひさかたの光のどけき春の日に
    しづこころなく花のちるらん
                    紀友則(きのとものり)

に近い。これに対して、芭蕉の句は三井秋風(みついしゅうふう)の別荘を尋ね、秋風の時代に流されない姿を比喩として呼んだものだから、発想は全く違う。
 同竈の句と言うのは、去来の説明によれば、「竿(さを)が長くて物につっかえる」というのを、「刀の小尻(こじり)が障子にぶつかる」としたり、また逆に「杖が短かくて地にとどかない」に代えるような、発想の類似なので、これを今でいうと、こういうことだろう。

 万緑の中や吾子(あこ)の歯生(は)えそむる   草田男(くさたお)

これをパクるとすれば、万緑のような、いかにも命の生き生きと輝くようなものに、子供などの成長と重ね合わせる発想をパクるのがいいだろう。たとえば、

 吾子立てり今盛りなる八重桜

何てのはどうだろうか。何も人間の赤ちゃんでなくてもいい。

 猫の仔の五匹生れて山笑う

何てのはどうだろうか。これを逆に命の衰退と老化というふうに組み合わせてはどうだろうか。だがこれだと、

 がっくりとぬけ初(そ)むる歯や秋の風   杉風(さんぷう)

になってしまう。してみると、草田男の句は杉風の句をひっくり返しただけの同竈(どうそう)の句なのだろうか。これを、

 秋風の中やわれの歯抜けそむる

とでもすれば完璧だろう。
 結局人間の発想なんてものは限られているし、本当のところ同竈なんてものはそう気にする必要はない。最後の去来の言葉が本音だろう。「されど兄より生れ増(まし)たらんは、また手柄也(てがらなり)。」要するに句が良ければそれでいい。


(謎解き・七十三)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十二番
   兄 宗因
 人さらにげにや六月ほとゝぎす
   弟 (其角)
 蕣(あさがほ)に鳴(なく)や六月ほとゝぎす

宗因の句の「六月」は老の象徴。其角の判詞(自注)に「あさがほのはかなき折にふれて、卯花・橘の香のめづらしき初声のいつしかに聞(きき)ふるされて、老となりぬるを取合(とりあわせ)て、老―愁の深思をとぶらひぬ」とある。談林派の宗因の風姿に対して蕉門の其角という風姿である。このように二句を並記し、鑑賞すると、両者の作風の違いが歴然としてくる。

宗因については、下記のアドレスの下記の紹介記事のほか、ネット関連でもその紹介記事は多い。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%AE%97%E5%9B%A0

西山宗因(にしやまそういん、慶長10年(1605年) - 天和2年3月28日(1682年5月5日))は、江戸時代前期の俳人・連歌師。本名は西山豊一。父は加藤清正の家臣西山次郎左衛門。通称次郎作。俳号は一幽と称し、宗因は連歌名。生れは肥後国熊本。談林派の祖。
15歳頃から肥後国八代城代加藤正方に仕えた。正方の影響で連歌を知り京都へ遊学した。里村昌琢(しょうたく)に師事して本格的に連歌を学んだが、1632年(寛永9年)主家の改易で浪人となる。1647年(正保4年)大阪天満宮連歌所の宗匠となり、全国に多くの門人を持つようになった。一方では、俳諧に関する活動も行い、延宝年間頃に談林派俳諧の第一人者とされた。俳諧連歌ははじめ関西を中心に流行し、次第に全国へ波及し、松尾芭蕉の蕉風俳諧の基礎を築いたが、宗因は晩年連歌に戻った。

ここで、『去来抄』「修行」の下記のアドレスでの「宗因は此道の中興開山也」(不易流行関連)のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#h

(「修行」九)

9、魯町曰(ろちゃういはく)、不易流行の句は古説にや、先師の発明にや。去来曰、不易流行は万事にわたる也(なり)。しかれども俳諧の先達是(せんだつこれ)をいふ人なし。長頭丸已来(ちゃうづまるいらい)手をこむる一体久しく流行し、角樽(つのだる)やかたぶけ飲(のま)ふ丑(うし)の年、花に水あけてさかせよ天龍寺、と云迄(いふまで)吟じたり。世の人俳諧は如此(かくのごとき)ものとのみ心得つめれば、其風(そのふう)を変ずる事をしらず。宗因(そういん)師一度(ひとたび)そのこりかたまりたるを打破(うちやぶ)り給(たま)ひ、新風を天下に流行し侍れど、いまだ此教(このをしへ)なし。しかりしより此(この)かた、都鄙(とひ)の宗匠たち古風を不用(もちひず)、一旦流々(いったんりうりう)を起せりといへども、又其風(またそのふう)を長く己が物として、時々変ずべき道を知らず。先師はじめて俳諧の本体を見付(みつけ)、不易の句を立(たて)、又(また)風は時々変(へん)ある事を知り、流行の句変ある事を分ち教へ給ふ。しかれども先師常に曰、上に宗因なくんば我々が俳諧、今以て貞徳の涎(よだれ)をねぶるべし。宗因は此(この)道の中興開山也(かいざんなり)といへり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,64~65)

 不易流行の発想自体は古くから東アジアの風土に根ざしたもので、たとえば『易経』にはこういう一節がある。

 「天地の道は、恒久にして已(や)まざるなり。…略…日月は天を得て能(よ)く久(ひさ)しく照らし、四時は変化して能く久しく成(な)し、聖人はその道に久しく天下化成す。その恒(つね)とするところを観(み)て天地万物の情見るべし。(天地之道、恒久而不已也。…略…日月得天能久照、四時変化能久成、聖人久於其道而天下化成。観其所恒而天地万物之情可見矣。)」『易経』「雷風恒」

 古代中国の文明は天地を生きたものとして捉え、絶えず変化する自然現象の中に変らない普遍的な道を求めた。それは西洋的な科学法則のようなものではなく、むしろ天地が情を持つものとして捉え、それを共感的に認識しようとした。季節(四時)の変化を生きとし生けるものの生命の循環に重ね合わし、春に生命の生じるのを喜び、秋に死ぬのを悲しむ。それは、芭蕉のみならず東アジアの詩の根底に常にある考え方だった。
 この考え方は、やがて朱子学によって理と気の二元論へと集大成された。変化してやまない日々の現象は「気」であり、その根底にある天地の道は「理」と呼ばれた。『中庸』に「誠は天の道なり」とあるように、「理」は同時に「誠」でもある。特に幕府が国教とした林羅山の朱子学は「誠」を重視するものだった。土芳編の『三冊子』の、

 「師の風雅に萬代不易有。一時の変化あり。この二ッに究り、其本一也。その一といふは風雅の誠也。」

もそうした朱子学思想による。
 芭蕉自身は「誠」という朱子学的な言葉より、老荘的な「造化(ぞうくゎ)」という言葉のほうを好んだのかもしれない。『笈の小文』の次の一文は、数少ない芭蕉自身が語る不易流行説といえよう。

 「西行の和歌における、宗祇(そうぎ)の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、其貫道(そのくゎんだう)する物は一(いつ)なり。しかも風雅におけるもの、造化(ぞうくゎ)にしたがひて四時(しいじ)を友とす。見る処花にあらずといふ事なし、おもふ所月にあらずといふ事なし。像(かたち)花にあらざる時は夷狄(いてき)にひとし。心花にあらざる時は鳥獣に類ス。夷狄(いてき)を出(いで、鳥獣を離れて、造化(ぞうくゎ)にしたがひ造化(ぞうくゎ)にかへれとなり。」『笈の小文』

 芭蕉の不易流行説は『易経』や朱子学の説のような、変化してやまぬ自然の流行に対して、その根底にある命の普遍性を説くだけでなく、様々な芸術の時代による風体や様式の変化にも拡大するところに大きな特徴がある。この考え方は『詩経』の変風変雅の思想との接合によるものだろう。西行、宗祇、雪舟、利休に貫通するものは、四時の変化に貫通するものとも一つである。

 「詩は志すところのものである。心にあるのを志といい、言葉にして発すれば詩になる。感情が心の中を動き、言葉となって形を表わす。言うだけでは足りなくて叫ぶ。叫んでも足りなくて歌う。歌っても足りなくて手は舞い、足はステップを踏む。感情は声によって発せられ、声は文章となる。これを音という。良く治まった世の中の音は安らかで楽しい。その政策が平和だからだ。乱世の音は怨みがこもって怒っている。その政策が民衆から乖離しているからだ。亡国の音は悲しくて思い詰めた調子だ。それは民衆が困窮しているからだ。故に政治の得失を正し、天地を動かし、鬼神を感応させること詩にまさるものはない。…略…為政者は詩でもって民衆を風化し、民衆は詩でもって為政者を風刺する。あくまで文によって遠回しに諌める。これを言うものには罪はなく、これを聞くものを戒めることもない。それゆえ風という。周の王道が衰え、礼儀が廃れ、政教も失われ、国ごとに異なる政治が行なわれ、家ごとに風俗が異なるようになって、変風変雅の作が生じた。国史はこれら政治の得失を明らかにし、人倫の廃れるのを傷み、刑政の過酷を哀れみ、情性を吟詠し、以てそれを風刺し、世の事々の変化に通じ、その旧俗を懐かしむのである。
 (詩者志之所之也。在心為志、發言為詩。情動於中、而形於言。言之不足、故嗟嘆之。嗟嘆之不足、故永歌之。永歌之不足、不知手之舞之、足之蹈之也。情發於聲、聲成文。謂之音、治世之音、安以楽。其政和。乱世之音、怨以怒。其政乖。亡国之音、哀以思。其民困。故正得失、動天地、感鬼神、莫近於詩。…略…上以風化下、下以風刺上、主文而譎諫。言之者無罪、聞之者足以戒。故曰風。至于王道衰、礼儀廃、政教失、国異政、家殊俗、而変風変雅作矣。国史明乎得失之迹、傷人倫之廃、哀刑政之苛、吟詠情性、以風其上、達於事変、而懐其旧俗者也。)」『詩経』「大序」

 変化するのは天地だけでなく、人の心も変化する。そのため、時代によって詩の作風は変ってくる。芭蕉は、こうした詩風の変化のなかにも不易のものを読み取ろうとした。その根底には儒教・仏教・老荘・神道もその根底は一つという当時の一般的な考え方があり、また実際に旅をし、いろいろな地方独自の文化に接しながらも人間は皆同じだという確信があったのだろう。直接的には、貞徳門の古めかしい俳諧に対し、宗因が現代的な風俗をリアルに描きだす新しい俳諧(談林俳諧)を開いたことに、まだ江戸に出てきたばかりの芭蕉がすっかり感化された、その時の経験によるもので、旅に生き旅に死んだ一所不住の生き方も宗因の影響である可能性が大きい。
 去来が、「不易流行は万事にわたる也」と言うのは、それが朱子学に基づく天地の本質であるからであり、ただそれを俳諧に応用したのは芭蕉が初めてだと言う。松永貞徳(長頭丸)が起こした俳諧も、複雑な言葉遊びを駆使した「手をこめた」スタイルで一世を風靡したが、世の人はただ俳諧というのはこういうものだと思うだけで、俳諧が時代とともに変わるということを知らなかった。宗因は庶民の生活をリアルに描き出して、またひとしきり流行を生み出したが、宗因にも不易流行の教えはなく、宗因の後継者達はやはり俳諧はこういうものだとばかりに、自分の一度習得した風体を後生大事に守るだけだった。芭蕉が始めて風体は時代とともに変わることを見抜き、一つのスタイルを確立してもそれに安住することなく、常により新しい風体を追い求める必要があることを悟ったという。
 これは今日でも多くのアーチストに当てはまることだろう。ひとたび功なり名を成し遂げると、人間はついつい守りに入る。もっとも、結局人間は年とともに頭が固くなるため、本当のところ単に生理的に変化について行けなくなってしまうだけなのかもしれない。頭が固くなるのは凡人に限ったことではなく、アインシュタインのような天才でさえも結局最後まで量子力学を認めることができなかった。ピカソもキュービズムの時代までは新しかったが、それ以降は急速に保守的になった。年取っても時代の変化に対応できるというのは、個々の努力を超えた資質によるのかもしれない。去来もまた、惟然の風にはついて行けなかったし、結局生涯芭蕉の風を守るだけで、自ら新風を起こすこともなかった。去来に限らず、その後の江戸の俳諧師たちは、蕪村・一茶を含めても、本当の意味での新風を起こすことはできず、次の新風は正岡子規の写生俳句の登場を待たなくてはならなかったと言ってもいいのかもしれない。
 皮肉なことに不易流行を説いた芭蕉の風はあまりにも完成度が高く、誰も越えられなかったがために、結果的に世人はみな俳諧とはこのようなものだと思い、芭蕉の後に新風を起こせなくなってしまったのだ。そして、正岡子規が近代俳句を起こすと、今度は「俳句」と言うのは写生に始まり写生に終わるものだと思い、いまだにそれを越えられなくなっている。

(謎解き・七十四)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十三番
   兄 東順
 夏しらぬ雪やしろりと不二の山
   弟 (其角)
 雪に入(る)月やしろりと不二の山

 判詞(自注)の「亡父三十年前句なり。風俗うつらざれども、古徳をしたふ心よりして、あながち句論に及ばず」のとおり、其角の父、竹下東順の句が兄の句である。『続俳人奇人談(中巻)』に東順について次のとおりの記述がある。

竹下東順
 竹下東順は江州の人、其角が父なり。若かりしより、医術をまなびつねの産とせしが、ほどなく本田候より俸禄を得て、妻子を養ふ。やうやく老いに垂(なんな)んとする頃、官路をいとひて市居に替へたり。俳事をたのしんで机をさらず、筆をはなさざる事十年あまり、その口吟櫃(ひつ)にみてりとかや。
  白魚や漁翁が歯にはあひながら
  年寄もまぎれぬものや年の暮
 蕉翁評して云く、この人江の堅田に生れて、武の江戸に終りをとる、かならず太隠は朝市の人なるべしと。

 『田中・前掲書』によれば、「竹下という姓が現れるのは『其角伝』が最初だと思うが、ここには竹内という異説も紹介されている。竹下・竹内のいずれも根拠不明だが、なぜか竹下説が定説となった。かりに竹下が正しいとしても、東順は妻の実家の姓を名乗ったのだから、彼の姓を竹下とするのは間違いである。今日流布する俳諧関係の文献はすべて竹下東順と記すが、榎下(「えのもと」ではなく「えのした」の読み)東順と記すべきであろう」としている。ここでは、こういう説もあるということにとどめたい。さらに、「元禄六年(一六九三)八月二十九日に父の東順が没した。其角が編集した父の追善集『萩の露』(元禄六)に『七十三歳の老医』と記されているが、芭蕉の『東順伝』(『句兄弟』)に『七十歳ふたとせ(七十二歳)』とあり、『類柑子』(宝永四)の『松の塵』に其角自身が『亡父東順七十二』と記しているから、東順の享年は七十二歳であろう。この年其角は三十三歳である」の記述もある。いずれにしろ、其角の父、東順は芭蕉に親しい俳人の一人であり、俳人・其角の生涯というのは、この東順が大きく影響していたということは確かなところであろう。この『句兄弟』に、亡き父の東順の句をもってきたのも、その判詞(自注)の「予(其角)は親(東順)にわかれて薬箱より此句を出すべしとはしらざりしに、思ひの外の追善也」と、亡き父・東順への追善という思いもあろう。

ここで、『去来抄』「先師評」の下記のアドレスでの「類想のいましめ」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」十)

10、 面梶(おもかじ)よ明石(あかし)のとまり時鳥(ほととぎす)    野水(やすゐ)
 猿ミの撰の時、去来曰、此(この)句ハ先師の野をよこに馬引むけよと同前也。入集(につしふ)すべからず。先師曰、明石(あかし)の時鳥(ほととぎす)といへるもよし。来曰、明石の時鳥はしらず。一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主(くぬし)の手柄(てがら)なし。先師曰、句の働(はたらき)におゐてハ一歩も動かず。明石を取柄(とりえ)に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。終(つい)に是(これ)をのぞき侍る。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,14)

 芭蕉の

 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす  芭蕉

の句は、『奥の細道』の文脈だと那須野で妖狐玉藻(ようこたまも)の伝説で名高い殺生石(せっしょうせき)を見に行く際の句だ。

 「是(これ)より殺生石(せっしゃうせき)に行(ゆく)。館代(くゎんだい)より馬にて送らる。此口付(このくちつき)のおのこ、『短冊(たんざく)得させよ』と乞。やさしき事を望侍(のぞみはべ)るものかなと、

 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす」

「やさしき」という言葉は本来両義的な言葉で、「やさしき」は「恥(やさ)し」から来た言葉で、良いにつけても悪いにつけても「恥ずかしくなるような」という感覚を表わす。一般的に此句は良いほうの意味にとって、こんな田舎のやまがつの類のような馬子でも俳諧をたしなむのかと感激して、一句したためたという意味に解されている。そのため、句自体は状況と切り離されて、独立したものとして読まれている。しかし、それでは「馬牽むけよ」という命令口調が生きてこない。この句は明かに馬子に向かって語りかけられている。もちろん芭蕉には、こんな田舎の馬子までが自分のことを 知っててくれて、発句の揮毫(きごう)を求めていることに感激するとともに、こんな所でいきなり気恥ずかしい、でも満更でもない、そういう両面を含めて「こんなところで短冊とはまた困ったことを言う人だ。それならせめて郭公の声がする所まで横道に入って連れて行ってくれ」と詠んだのではなかったか。
 これに類する句がもう一つ『奥の細道』の中にある。それは加賀の全昌寺(ぜんしょうじ)の場面だ。

 「けふは越前(ゑちぜん)の国へと、心早卒(さうそつ)にして堂下(だうか)に下るを、若き僧ども紙硯(かみすずり)をかゝえ、階(きざはし)のもとまで追来(おひきた)る。折節庭中(をりふしていちゅう)の柳散れば、

 庭掃(はき)て出(いで)ばや寺に散(ちる)柳」

この句も芭蕉が自ら庭を掃いて出たというふうに解されているが、それでは前後との文脈がわからなくなる。この句も那須野の句と同様に考えるべきだろう。確かに、お寺に一夜泊めてもらった以上、その庭を掃除して出て行くのは礼儀だろう。しかし、寺の子坊主に揮毫をせがまれたというのであれば、この句はこういう句となる。「ああ、庭を掃いて出て行かなくてはならないな、庭に柳が散っているぞ。庭掃きは本当は私の仕事だが、揮毫をしてくれというなら君たち、私の代わりに庭を掃いておいてくれないか。」
 しかし、問題なのは、『去来抄』のエピソードは『猿蓑』の撰の時のものであり、当時はまだ『奥の細道』そのものが書かれていなかった。だから、去来はこの句を前書きも何もなしでただ単に

 野を横に馬牽(ひき)むけよほとゝぎす  芭蕉

という句として理解していた。ひょっとしたら旅のエピソードとして何か聞いていたかも知れないが、ここでは句の作られた状況は問題になっていない。野水も果たして芭蕉のこの句を知っていて

 面梶(おもかじ)よ明石(あかし)のとまり時鳥(ほととぎす)    野水

の句を読んだのかどうかも定かではない。偶然の一致ではないかと思われる。
 去来の立場からすれば、同じ趣向の句であるとすれば師である芭蕉の句を優先させるのは人情として当然のことだろう。それゆえ「去来曰、此(この)句ハ先師の野をよこに馬引むけよと同前也。入集(につしふ)すべからず。」となる。それに対して芭蕉の方は冷静だ。「先師曰、明石(あかし)の時鳥(ほととぎす)といへるもよし。」明石の時鳥というのもまた一興ではないか。これに対し去来は「来曰、明石の時鳥はしらず。一句ただ馬と舟とかえ侍るのみ。句主(くぬし)の手柄(てがら)なし。」明石の時鳥なんて聞いたこともない。ただ馬と舟を入れ替えただけのパクリだ。こんな句を入集させるわけにはいかない、と強情に突っぱねる。仕方なく芭蕉はこう言う。「先師曰、句の働(はたらき)におゐてハ一歩も動かず。明石を取柄(とりえ)に入れば入なん。撰者の心なるべしと也。」句をとってみただけではどちらが優れているとも言い難い。あとは野水が明石の時鳥をどんな特別な意味をもって聞いていたかだ。「撰者の心なるべし」と言った以上、最後は去来自身の判断となる。「終(つい)に是(これ)をのぞき侍る。」
 これが果たして芭蕉の意図に沿うものだったのかどうかは定かでない。芭蕉からすれば、確かに「野を横に…」の句は旅の一つの思い出であり、愛着がある。だからこそ、野水の句にも何か事情があるのではないかと思うのは当然だろう。外見の類似だけ見て、単なる子弟愛という次元で事が処理されることは望まなかったに違いない。

(謎解き・七十五)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十四番
   兄 仙化
 つくづくと書図のうさぎや冬の月
   弟 (其角)
 つくづくと壁のうさぎや冬籠

 仙化(仙花とも)については、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/senka.htm

(仙化)
江戸の人。『蛙合』の編者。『あら野』、『虚栗』、『続虚栗』などに入句している。
(仙花の代表作)
一葉散(ちる)音かしましきばかり也 (『あら野』)
起起(おきおき)の心うごかすかきつばた (『猿蓑』)
おぼろ月まだはなされぬ頭巾かな (『炭俵』)
氣相よき青葉の麥の嵐かな (『炭俵』)
みをのやは首の骨こそ甲(かぶと)なれ (『炭俵』)
螢みし雨の夕や水葵 (『炭俵』)
一枝はすげなき竹のわかば哉 (『炭俵』)
三尺の鯉はねる見ゆ春の池 (『續猿蓑』)

この仙化は素性不明の人物だが、『蛙合』(貞享三)の編者として知られている。なお、『田中・前掲書』によれば、「仙花と仙化を同一人と断定してよいかどうか問題である。少なくとも仙化が仙花と改号した形跡はなく、本書では別人と考えておきたい」とされている(ここでは、同一人物として『炭俵』(仙花)所収の句もあげてにおくこととする)。

「判詞」(自注)には、「かけり(働き)過ぎたる作為」にて「本意をうしなふ興」にならないようにとの指摘も見られる。

ここで、『去来抄』「同門評」の下記のアドレスでの「本意の把握」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#j

(「同門評」十一」)

11、 鶯の身を逆(さかさま)にはつね哉(かな)   其角(きかく)
   鶯の岩にすがりて初音哉(はつねかな)     素行(そかう)
 去来曰、角が句ハ春煖(しゅんだん)の乱鶯(らんあう)也。幼鶯(ようあう)に身を逆(さかさま)にする曲(きょく)なし。初の字心得がたし。行(かう)が句ハ鳴鶯(めいあう)の姿にあらず。岩にすがるハ、或(あるい)ハ物におそはれて飛(とび)かかりたる姿、或餌(あるいはゑ)ひろふ時、又ハここよりかしこへ飛(とび)うつらんと、伝(つた)ひ道にしたるさま也。凡(およそ)物を作するに、本性(ほんじゃう)をしるべし。しらざる時ハ珍物新詞に魂を奪ハれて、外の事になれり。魂を奪るるは其物に着する故(ゆゑ)也。是(これ)を本意(ほい)を失ふと云(いふ)。角が巧者すら時に取(とつ)て過有(あやまちあり)。初学の人慎(つつし)むべし。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,33~34)

 句の姿は重要だし、誰もが「ある、ある。」というようなものや、「いかにもありそうな」というのは、句にリアリティーを与える。しかし、誇張しすぎると、いかにも作りっぽくなってしまう。
 ベタな漫画に「遅刻ー!」と言いながらパンをくわえて走る人がいたりするが、実際にこんな人を見た人がいるだろうか。TVアニメの「サザエさん」の主題歌に「お魚くわえたどら猫」という歌があるが、本当に裸足で猫を追っかけている主婦を見たなら感動ものだろう。
 鶯の初音だから、何か不慣れで、通常とは違う突飛なことをやりそうだ、という雰囲気はわかる。しかし、

 鶯の身を逆(さかさま)にはつね哉     其角

はいかにも大げさで、やはり去来に、これは春も爛漫で乱れ鳴く鶯ではあっても初音ではない、と突っ込まれてしまった。

 鶯の岩にすがりて初音(はつね)哉    素行

も同様、実際にそんな岩場の危なっかしいところで恋鳴きはしない。
 これらは鶯の初音という、初春の目出度い心を表現したものではなく、むしろ何か目新しい趣向を求めるあまりに、現実離れし、本来の目出度い情を逸してしまっている。俳諧は新味を命とするが、目新しさばかりを求めると、かえって荒唐無稽になってしまう。


(謎解き・七十六)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十五番
   兄 僧 路通
 大仏うしろに花の盛かな
   弟 (其角)
 大仏膝うづむらむ花の雪

「判詞」(自注)に、「東叡山の遊吟也」とあり、上野の森の「東叡山」(寛永寺)での作である。当時、東叡山付近に「上野大仏」があり、そのネット関連のものは、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.enjoytokyo.jp/OD003Detail.html?SPOT_ID=l_00004780

寛永八年(一六三一)当時越後の国、村上城主堀丹後守藤原直寄公がかつて自分の屋敷地として幕府から割当られたこの高台に土をもって釈迦如来の大仏像を創建し、戦乱にたおれた敵味方将兵の冥福を祈った。その後尊像は政保四年(一六四七)の地震で破損したが、明暦、万治(一六五五~六十)の頃、木食僧浄雲師が江戸市中を歓進し浄財と古い刀剣や古鏡を集め青銅の大仏を造立した。元禄十一年(一六九八)東叡山輪王寺第三世公弁法親王の命で、従来の露仏に仏殿が建立された。また堂内には地蔵、弥勒のニ菩藩も安置された。天保十ニ年(一八四一)葛西に遭い、天保十四年四月、末孫堀丹波守藤原直央公が大仏を新鋳し、また仏殿も再建された。慶応四年(一八六八)彰義隊の事変にも大仏は安泰であったが、公園の設置により仏殿が撤去されて露仏となった。大正十二年、関東大震災のとき仏頭が落ちたので寛永寺に移され、仏体は再建計画のために解体して保管中、昭和十五年秋、第二次世界大戦に献納を余儀なくされた。

路通については、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/rotsu.htm

八十村氏。露通とも。近江大津の人。三井寺に生まれ、古典や仏典に精通していた。蕉門の奇人。放浪行脚の乞食僧侶で詩人。後に還俗。元禄2年の秋『奥の細道』 では、最初同行者として芭蕉は路通を予定したのだが、なぜか曾良に変えられた。こうして同道できなかった路通ではあったが、かれは敦賀で芭蕉を出迎え て大垣まで同道し、その後暫く芭蕉に同行して元禄3年1月3日まで京・大坂での生活を共にする。路通は、素行が悪く、芭蕉の著作権に係る問題を出来し、勘気を蒙ったことがある。元禄3年、陸奥に旅立つ路通に、芭蕉は「草枕まことの華見しても来よ」と説教入りの餞の句を詠んだりしてもいる。 貞亨2年春に入門。貞亨5年頃より深川芭蕉庵近くに居住したと見られている。『俳諧勧進帳』、『芭蕉翁行状記』がある。
(路通の代表作)
我まゝをいはする花のあるじ哉 (『あら野』)
はつ雪や先(まず)草履にて隣まで (『あら野』)
元朝や何となけれど遅ざくら (『あら野』)
水仙の見る間を春に得たりけり (『あら野』)
ころもがへや白きは物に手のつかず (『あら野』)
鴨の巣の見えたりあるはかくれたり (『あら野』)
芦の穂やまねく哀れよりちるあはれ (『あら野』)
蜘(くも)の巣の是も散行(ちりゆく)秋のいほ (『あら野』)
きゆる時は氷もきえてはしる也 (『あら野』)
いねいねと人にいはれつ年の暮 (『猿蓑』)
鳥共も寝入てゐるか余吾の海 (『猿蓑』)
芭蕉葉は何になれとや秋の風 (『猿蓑』)
つみすてゝ蹈付(ふみつけ)がたき若な哉 (『猿蓑』)
彼岸まへさむさも一夜二夜哉 (『猿蓑』)

この路通の『俳諧勧進帳』(元禄四年刊)の「跋」は其角が草し、その文体は歌舞伎の台詞調に倣ったもので、いかにも洒落闊達な其角の面目躍如たるものである。

○俳諧の面目、何と何とさとらん。なにとなにと悟らん。はいかいの面目は、まがりなりにもやつておけ。一句勧進の功徳は、むねのうちの煩悩を舌の先にはらつて、即心即仏としるべし。句作のよしあしは、まがりなりにもやつておけ。げにもさうよ、やよ、げにもさうよの。

 この其角「跋」の「まがりなりにやつておけ」というのは「適当にやつておけ」ということで、形を整えるのは二の次で、即興性こそ俳諧の面目だということなのであろう。ここのところを、『田中・前掲書』では、「其角のいう作為とは、即興的な言い回しの中で言葉を効果的に用いることだと考えてよい。考えたすえの洒落が面白くないように、其角の句の多くは当意即妙に作られたことに面白さがある。其角晩年の俳風が後に洒落風と呼ばれた理由の一つは、彼が即興性を重んじたからであろう。即興性は洒落のもっとも重要な要素である」と指摘している。この「まがりなりにもやつておけ」ということは、例えば、この其角の『句兄弟』の換骨奪胎の具体例でも、まさに、其角の当意即妙な即興的なものと理解すべきなのであろう。

ここで、『去来抄』「修行」の下記のアドレスでの「しほり、細み」」(路通の句関連など)のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo4.html#ss

(「修行」四十六)

46、野明曰(やめいいはく)、句(く)のしほり、細(ほそ)みとは、とはいかなるものにや。去来曰(きょらいいはく)、句(く)のしほりは憐(あはれ)なる句(く)にあらず。細(ほそ)みは便(たよ)りなき句(く)に非(あら)ず。そのしほりは句(く)の姿(すがた)に有(あ)り。細(ほそ)みは句意(くい)に有(あ)り。是又證句(これまたしょうく)をあげて弁(べん)ず。
  鳥(とり)どもも寐入(ねいっ)て居(ゐ)るか余吾(よご)の海(うみ)   路通(ろつう)
先師曰(せんしいはく)、此句(このく)細(ほそ)み有(あり)と評(ひょう)し給(たま)ひし也(なり)。
  十団子(とうだご)も小粒(こつぶ)になりぬ秋(あき)の風(かぜ)   許六(きょりく)
先師曰(せんしいはく)、此句(このく)しほり有(あり)と評(ひょう)し給(たま)ひしと也(なり)。惣(そう)じて句(く)の寂(さ)ビ・位(くらゐ)・細(ほそ)み・しほりの事(こと)は、言語筆頭(げんごひっとう)に応(しる)しがたし。只(ただ)先師(せんし)の評有(ひょうあ)る句(く)を上(あ)げて語(かた)り侍(はべ)るのみ。他(ほか)はおしてしらるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,78~79)

 「しおり」は花などの「しおれる」から来た言葉で、花がしぼみ、散ってゆく哀れを連想させる。ただ、ここでも「さび」と同様、哀れな心を詠むのではなく、あくまで「句の姿」だという。つまり、哀れを感じさせる具体的な情景が描かれて初めて、「しおり」と言うことができる。

 十団子(とうだご)も小粒(こつぶ)になりぬ秋(あき)の風(かぜ)   許六(きょりく)

許六(きょりく)のこの句は、収穫直前の立秋の頃になると、米価が高騰し、街道の名物の十団子(とうだご)も小粒になる所に、秋風の物悲しさと世間の世知辛さを重ね合わせた句だが、句の「しおり」は「秋風」の情にではなく、「小粒な十団子」の姿にある。
 これに対し「細み」は句意にある。姿にではない。

 鳥(とり)どもも寐入(ねいっ)て居(ゐ)るか余吾(よご)の海(うみ)   路通(ろつう)

の句は、「鳥が寝ている」という姿が詠まれているわけではない。静かでただ波の音だけが聞こえてくる海の寂しげな景色に、鳥も寝てしまったのかと鳥のことを気遣う、その繊細な心遣いが「細み」だと言っていいだろう。
 そして、最後に去来は、「さび・位・細み・しおり」というのは、あくまで感覚的なもので、理屈で単純に説明できるものではないということを心に留めることで終っている。

(謎解き・七十七)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十六番
   兄 蟻道
 弥兵衛とハしれど哀や鉢叩
   弟 (其角)
 伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき

この兄の句の作者、蟻道とは、『俳文学大辞典』などでも目にすることができない。しかし、『去来抄』の「先師評(十六)」で、「伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)云有(いふあり)」との文言があり、「伊丹の俳人」であることが分かる。ここのところを次のアドレスのものでは下記のとおり紹介されている。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」十六)

16、 月雪や鉢(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)
 去来曰、猿ミの撰ノ比(ころ)伊丹(いたみ)の句に、弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)と云有(いふあり)。越が句入集(につしふ)いかが侍らん。先師曰、月雪といへるあたり一句働(はたらき)見へて、しかも風姿有(あり)。ただしれど憐やといひくだせるとハ各別也。されど共に鉢扣(はちたたき)の俗体を以(もつ)て趣向を立(たて)、俗名(ぞくみゃう)を以て句をかざり侍れば、尤(もっとも)遠慮有(あり)なんと也(なり)。

 鉢叩き(鉢扣)とは京都市中を陰暦の11月13日から大晦日まで、空也念仏を唱えながら托鉢して歩く修行僧だが、六波羅蜜寺や空也堂付近に形成された散所に住み、身分としては士農工商の下の非人の身分にあった。芭蕉も元禄2(1689)年の12月24日(旧暦)に、この鉢叩きを見ようと去来亭を訪れたが、風雨が強く、いくら待っても来ないので、去来が

 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢扣(はちたたき)    去来

と詠んだことが、去来の『鉢扣ノ辞』に描かれている。
 その鉢叩きも普段は杖の先の茶筅を挿し、茶筅やササラ竹などの竹細工を製造販売して生活していた。僧の格好をしているものもいたが、萌黄に鷹の羽に紋のついた衣を着ていることが多かったことから、越人はそのきりっとした茶筅売りの姿と空也念仏を唱える哀れな修行僧の姿との落差を面白く思い、

 月雪や鉢(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)    越人

と詠んだのだろう。しかし、同じことを考える人は他にもいて、『猿蓑』の撰のとき既に伊丹の上島鬼貫(うえしまおにつら)の一派の句に

 弥兵衛(やへゑ)とハしれど憐(あはれ)や鉢扣(はちたたき)

というのがあり、いわばネタがかぶってしまったわけだ。
 『月雪や』という上五は雪の夜の鉢叩きの姿が目の前にいるかのようで、その点では『哀れや』という言葉と違い、まさに『風姿有』というところだろう。正岡子規は蕪村を絵画的で芭蕉は地図的だと言ったが、芭蕉は決してその姿が眼前にあるかのような姿ある句を好まなかったわけではない。ただ、芭蕉の場合、それを最低限の言葉で表現しようとするところが『地図的』だといことなのだろう。その点では、「月雪や」の越人の上五は芭蕉の好むところなのだろう。
 結局、芭蕉は越人の句の「月雪や」の上五に風情があって、単に「憐れや」ですませてしまっている伊丹の句よりは優れていることを認めたものの、基本的に鉢たたきの俗体の面白さを甚之亟だとか弥兵衛とかいう俗名で表現するやり方は一緒なので、『猿蓑』には載せないほうがいいと判断した。 さて、先の『鉢扣ノ辞』だが、結局その日はあきらめて寝たのだけど、夜明けになって風雨も収まり鉢叩きの声を聞くこともできた。このときのことを後に芭蕉は

 長嘯(ちゃうしょう)の墓もめぐるか鉢叩き    芭蕉

と詠んだという。 長嘯は豊臣秀吉の正室ねねの甥にあたる木下勝俊のことで、古今伝授を受けている細川幽斎に和歌を学び、関が原の合戦以降は京都東山に隠棲していた。その長嘯の歌に

 鉢叩き暁方(あかつきがた)の一声は
    冬の夜さへも鳴く郭公(ほととぎす)

というのがあり、芭蕉もその歌を思い起こしたのだろう。

さて、其角の『句兄弟』の「蟻道」とは、このネット関連の解説の記事では、「伊丹の上島鬼貫(うえしまおにつら)の一派」の俳人ということになる。それを一歩進めて、『去来抄評釈』(岡本明著)の「註」を見てみると、「摂津伊丹の俳人森本蟻道」とある。そして、この『去来抄』の、ここのところは、「類想のいましめ」というところで、越人の句の「月雪や鉢(はち)たたき名は甚之亟(じんのじょう)」について、「芭蕉は(この)越人の句の『月雪や』の上五に風情があって、単に『憐れや』ですませてしまっている伊丹の句(蟻道の句)よりは優れていることを認めたものの、基本的に鉢たたきの俗体の面白さを甚之亟だとか弥兵衛とかいう俗名で表現するやり方は一緒なので、『猿蓑』には載せないほうがいいと判断した」というのである。其角は、こういう『猿蓑』の選をめぐっての芭蕉や去来の遣り取りを十分に承知しながら、その上で、「伊勢島を似せぬぞ誠(まこと)鉢たゝき」と、「甚之亟だとか弥兵衛とかいう俗名」の表現を避けて、「伊勢島」(「伊勢島節」のことで、「古浄瑠璃の一派。江戸初期、寛永(1624~1644)の末頃に江戸から京都に上った伊勢島宮内が語ったもの」)という固有名詞での換骨奪胎では、「類想」の句にはならないであろうというのが、其角の、この『句兄弟』での、一つの提示案なのである。この『句兄弟』が刊行されたのは、芭蕉没後の元禄七年(一六九四)であるが、その『句兄弟』の中巻には、芭蕉の「東順伝」を掲載するなどしており、それらのことを併せ考えると、その上巻の「句合わせ」(発句合わせ)の、その何らかの草案は、生前の芭蕉も目を通しているのではなかろうか。というのは、其角の、この『句兄弟』(上巻=句合わせ、中巻=東順伝など、下巻=諸家発句など)は、其角の唯一人の師の芭蕉に閲することを目的としてのもの、そして、其角の唯一人の示唆を請う師の芭蕉への問い掛けだったのではなかろうという思いなのである。即ち、蕉門の実質的なリーダーである其角にとって、去来も越人も蟻道も、彼らの考えや作風などについてそれほど眼中にはおいていなかってであろう。唯一人、其角の終生の師であり続けた芭蕉が、これらの一つの提示案について、どのような感慨を抱くものなのであろうか・・・、その一点に其角は集中していたのではなかろうか。しかし、これらの其角の問い掛けや提示案についての、芭蕉の感慨というのは何一つ形に遺されることもなく、芭蕉はこの世を去ってしまったのである。何故か、『去来抄』にも出てくる、其角のこの鉢叩きの句合わせを見て、つくづくとそのような思いに囚われたのである。というのは、上記のネット記事にもある通り、この『去来抄』に記述したもののほかに、去来は、別文の「鉢扣ノ辞」(『風俗文選』所収)を今に遺しているのである。

○師走も二十四日(元禄二年十月二十四日)、冬もかぎりなれば、鉢たゝき聞かむと、例の翁(芭蕉翁)のわたりましける(落柿舎においでになった)。(以下略。関連の句のみ「校注」などにより抜粋。)
 箒(ほうき)こせ真似ても見せむ鉢叩   (去来)
 米やらぬわが家はづかし鉢敲き (季吟の長子・湖春)
おもしろやたゝかぬ時のはちたゝき (曲翠)
鉢叩月雪に名は甚之丞 (越人・ここではこの句形で収載されている)
ことごとく寝覚めはやらじ鉢たゝき (其角・「去年の冬」の作)
長嘯の墓もめぐるか鉢叩き (芭蕉)

『去来抄』(「先師評」十六)はこの時のものであり、そして、『句兄弟』(「句合せ」二十五番)は、これに関連したものであった。さらに、この「鉢叩き」関連のものは、芭蕉没(元禄七年十月十二日)後の、霜月(十一月)十三日、嵐雪・桃隣が落柿舎に訪れたときの句が『となみ山』(浪化撰)に今に遺されているのである。

千鳥なく鴨川こえて鉢たゝき (其角)
今少(すこし)年寄見たし鉢たゝき (嵐雪)
ひやうたんは手作なるべし鉢たゝき (桃隣)
旅人の馳走に嬉しはちたゝき (去来)

これらのことに思いを馳せた時、其角・嵐雪・去来を始め蕉門の面々にとっては、「鉢叩き」関連のものは、師の芭蕉につながる因縁の深い忘れ得ざるものということになろう。そして、其角が『句兄弟』にそれを、そして、去来が『去来抄』などにそれを記述していることは、師の芭蕉との関連でこれらのことを記述しているということは、想像に難くないところのものであろう。すなわち、去来の『去来抄』が、師の芭蕉に捧げたものであるとするならば、其角の、この『句兄弟』も、師の芭蕉に捧げたものではなかろうかという思いも、それほど的を外してはいないと思えるのである。

(謎解き・七十八)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十七番
   兄 越人
 ちる時の心安さよ罌粟(けし)の花
   弟 (其角)
 ちり際は風もたのまずけしの花

 この二十七番の前の二十六番(兄 蟻道)が、『去来抄』に出てくる「鉢叩き」のもので、それは越人の「月雪や鉢たたき名は甚之亟」関連ものであることから、ここで、いよいよその主役でもある越人その人の登場ということになる。この「判詞」(自注)には、「中七字に風俗を立たるは荷兮越人等が好む所の手癖なり」とあり、其角としては、尾張蕉門を代表する俳人として、「荷兮・越人」の二人の名をあげ、それらの尾張蕉門の俳風の特徴の一つとして、この越人の句の中七の「心安さよ」という作為的な擬人化の見立てがそれであると指摘しているのであろう。それに続く、「是は別ル僧といふ前書有ゆへ一句のたより手くせながらも面白し」とあり、この「別僧」(ソウニワカル)の前書きを付して、『猿蓑』には入集になっている一句なのである。そして、この句は更に『去来抄』の「同門評」(前書きの効用)にも収載されているものなのである。その『去来抄』のものは、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#n

(「同門評」十五)

15、ちる時の心やすさよけしのはな   越人(ゑつじん)
 其角(きかく)・許六共曰(きょりくともにいはく)、此(この)句ハ謂不応故(いひおほせざるゆえ)に別僧(そうにわかる)と前書(まえがき)あり。去来曰、けし一体の句として謂応(いひおほ)セたり。餞別(せんべつ)となして猶見(なほけん)あり。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35)

 咲く花を悦び散る花を悲しむのは風雅の基本であり、生命に共感するというのはそういうことだ。生まれてくるのは目出度く、死ぬのは悲しい。それと同じだ。ただ、人はいつかは必ず死なねばならぬ運命ゆえに、散りぎわは安らかであるにこしたことはない。古くから桜の散りぎわの潔さは日本人にとって心に刻み込まれてきたものだった。(最近では「遺伝子に刻み込まれてきた」という言い方をする人が多いが、あまりいい比喩とはいえない。)「ちる時の」の句はその意味では散りぎわの潔さを感じさせる句ではある。
 しかし、この句が路通(ろつう)との別れの句だったという事情がわかると、話はややこしくなる。路通については「先師評」の3の「行く春を」の句のところで述べたが、破門された門人で、そのため『猿蓑』では名を出さずに「別僧(僧に別る)」という前書きをつけて掲載されていた。おそらくそのとき、選者の一人であった去来は、そんな前書きは要らない。芥子の花の句で十分だと主張したのだろう。去来はこの句が路通との別れの句だという暗示すら嫌ったのだろうか。路通と去来の間に何かよほどのことがあったのだろう。
 ただ、純粋に芥子の花の句としてしまうと、本来花が散るのは悲しいはずなのになんで「心安さよ」なのか、いくら潔いといっても落花は悲しいはずではないかと、疑問が残ってしまう。そこが「謂い応せぬ」所なのだろう。この状は、花そのものを詠んだ句ではなく、芥子の花が散るように潔く去っていった、と餞別句にした方が分りやすいのは確かだ。
 ところで、この路通だが、岡田喜秋(おかだきしゅう)の『旅人・曾良と芭蕉』(1991、河出書房新社)によれば、正徳元(1711)年に並河誠所と関祖衡の二人が書いた『伊香保道記』に、榛名神社で、昔芭蕉と旅したという仙人のような老人に会ったとあり、これが路通ではないかといっている。路通は蕉門を破門された後も諸国を放浪し、元文3(1738)年89歳まで生きたといわれている。(もっとも蕉門の一員ではなくなったというだけで、蕉門の興行に参加することはあった。)

 ここのところは、「前書きの効用」とか「謂不応(いひおほせざる)」(表現の不足)などのところなのであるが、それだけではなく、この句の背景が、路通への餞別吟であり、路通嫌いの去来と、路通をかばっている其角などとが、その背景にあり、極めて興味の尽きないところなのである。上記のネット記事に出てくる、「先師評」の三の「行く春を」のところも掲載をしておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#b

(「先師評」三)

3、 行春(ゆくはる)を近江(あふみ)の人とおしみけり   芭蕉
 先師曰(いはく)、尚白(しゃうはく)が難に近江は丹波にも、行春ハ行歳(ゆくとし)にも有べしといへり。汝いかが聞き侍るや。去来曰く、尚白が難あたらず。湖水朦朧(もうろう)として春をおしむに便(たより)有べし。殊(こと)に今日(こんにち)の上に侍るト申(まうす)。先師曰、しかり、古人も此国(このくに)に春を愛する事、おさおさ都におとらざる物を。去来曰、此一言(このひとこと)心に徹す。行歳近江(ゆくとしあふみ)にゐ給(たま)はば、いかでか此感(このかん)ましまさん。行春丹波(ゆくはるたんば)にゐまさば本(もと)より此情(このじゃう)うかぶまじ。風光の人を感動せしむる事、真成哉(まことなるかな)ト申(まうす)。先師曰、汝ハ去来共(とも)に風雅をかたるべきもの也と、殊更(ことさら)に悦(よろこび)給ひけり。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,11)

 この段は芭蕉に「行春を」の句のことを聞かれ、うまく答えられたことを去来が少々自慢気に語る場面だ。芭蕉が「尚白がこの句のことを近江を丹波にかえて『行春を丹波の人とおしみけり』にしたり、行春を行歳にかえて『行歳を近江の人とおしみけり』『行歳を丹波の人とおしみけり』にしても同じではないかとい言うのだが去来はどう思うか?」と尋ねる。これに対し去来は近江の国の春は琵琶湖の湖水が春の霞に朦朧として特別味わいがある、だから近江を丹波にかえたり行春を行歳にかえたりはできない、と答える。芭蕉は「その通りだ。昔の風流人たちも近江の春は都の春に劣らぬものとして愛した」と答える。
 去来は多分感覚的に近江の春だとその景色が浮かんでくるが、丹波の春だとか、丹波の歳の暮だとかいわれても、景色が浮かんでこないということが言いたかったのだろう。これに対し芭蕉は「古人」が愛した風景だからだという。これは実際は同じことを言っている。古人が愛し、古くから歌に名高いからこそ去来も近江の春と言われたとき、その風景が思い浮かぶのではないか。丹波の春だとか近江の歳末だとかいわれても、一般の人にはどういう風景なのか、他の地方の春と何が違うのかピンと来ない。景色が思い浮かぶかどうかは、古くから歌や物語に名高いかと密接に関係がある。いわゆる「本意本情(ほいほんじょう)」というのはそういうことだと去来は悟ったのだろう。
 近江といえば滋賀辛崎が古くから歌枕として名高い。辛崎はかつて天智天皇が造営した大津京があり、その跡形もなく消え去った都を詠んだ、柿本人麿(かきのもとのひとまろの「近江荒都歌」は有名だ。

 さざなみの志賀の辛崎さきくあれど
    大宮人の船待ちかねつ
                   柿本人麿(かきのもとのひとまろ)
 さざなみの国つ御神(みかみ)のうらさびて
    荒れたる京(みやこ)見れば悲しも
                   高市古人(たけちのふるひと)

それは壬申の乱で敗北した天智天皇の御霊を鎮める歌だったのだろう。後々、このはかなく消えた幻の都は、ぱっと咲いてぱっと散る桜のイメージと重なり、桜の名所として歌に詠まれるようになった。『千載集』の

 さざなみや志賀の都は荒れにしを
    昔ながらの山桜かな

の歌は、『平家物語』で平忠度(ただのり)が都落ちする際に俊成卿(しゅんぜいのきょう)に託したエピソードでも有名で、消えた志賀の都のイメージは、平家の滅亡のイメージにも重なる。さらに、滋賀辛崎の三井寺(みいでら)は一本松が有名で、謡曲『三井寺』では、愛児と生き別れた母親が、夢に三井寺に来れば我が子に逢えるというお告げを聞いてやって来て、感動の再開を果たす。そんなながい歴史への思いから、芭蕉も先の「辛崎の松は花より朧にて」の句を詠んでいる。花も朧だが、この悠久の歴史の流れからすれば常緑の松も春の霞の中で朧なはかない存在に見える。
 そんな特別な思い入れを尚白は理解しなかったが去来は理解したということで、去来は芭蕉に「共に風雅をかたるべきもの也」とまで言われ信頼されたわけだが、ここにはいろいろな人間ドラマがかいま見られる。
 この句は元禄3(1690)年の3月の終り頃、まさに「行春」の季節柄、路通(ろつう)との別れのさいに詠まれたものだ。路通は乞食僧となって行脚していたころ、ちょうど『野ざらし紀行』の旅をしていた芭蕉とこの近江の国で出会い、

 いざともに穂麦喰(ほむぎくら)らはん草枕   芭蕉

の句を送られ、行く末が期待されていた。『奥の細道』の旅でも敦賀まで出迎えに行き、病気の曾良に代わって共に旅をした。しかし、根っからの旅人で自由奔放な路通は、他の門人からもそのわがままさが嫌われ、俳諧の腕のほうも進歩がなく、結局破門されてしまった。おそらく急に蕉門の高弟として俳諧にスターになったため、誇大妄想に取り憑かれすっかり舞い上がってしまい、自分を見失ってしまったのだろう。

 草枕まことの華見(はなみ)しても来よ   芭蕉

もう一度苦労して旅をし、今の虚飾に満ちた華を捨て、本当の華を見つけなさい。それが芭蕉の最後の言葉だった。そして、

 行春を近江の人とおしみけり   芭蕉

の句もその時のものだった。この直後、芭蕉は滋賀国分山の幻住庵に入り隠棲生活を始める。
 近江には許六、李由、尚白といった新たな門人がいた。路通の過ぎ去った春を惜しんだ「近江の人」の中には、芭蕉のその時の頭の中には「尚白」の名もあったのだろう。その尚白が「近江は丹波にかえてもいいし、行春は行く歳にもかわる」なんて言ったのは、何とも皮肉なことだ。翌元禄4年秋には自撰句集『忘梅』の千那の序文をめぐって芭蕉と対立し、結局芭蕉の門を去っていった。大勢の人が芭蕉を慕って入門してくるが、その多くはやがて俳諧の方向性の違いから芭蕉のもとを離れて行く。特に、芭蕉は日々新しい俳諧を模索し、古い俳諧を否定してゆく中で、それについてゆけなくなった門人が脱落してゆく。そんなことを何度も繰り返して来た。最も、弟子の側からすれば、青春を芭蕉とともに過ごし、一世を風靡した作風には思い入れがあり、歳をとってもかつて芭蕉とともに時代をリードしたあの輝かしい日々の記憶を失いたくない、という気持ちだったのだろう。今日でいえば、ビートルズが青春だった世代が今のヒップホップについてゆけない、というようなものかもしれない。しかし、芭蕉は時代が変わると手のひらを返したようにもうあれは古い、これからはこれだ、という風に新しいものを求めてゆく。「『猿蓑』なんてもう過去のものだ。これからはもっと軽い句が流行る。」そう言われたとき、古い門人たちがついてこれなかった理由もわかる。
 其角、嵐雪、荷兮、路通、尚白、他にもたくさん去っていった門人たち、そんな中で数少ない芭蕉のもとに残った弟子の一人、去来に芭蕉が本当に言いたかったのは、近江の湖水朦朧の風景の中に去っていった弟子たちの姿を見て欲しいという思いが実はあったのではなかったか。

なお、『去来抄』には、越人に関係するものとして、「先師評」五(心の風雅)、「先師評」十一(落つきと重み)、「先師評」十六(類想のいましめ)などで収載されている。また、次のアドレスに下記のとおりそのプロフィールが紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/etsujin.htm

越人(明暦2年(1656)~没年不詳)
本名越智十蔵。『春の日』の連衆の一人、尾張蕉門の重鎮。『更科紀行』に同行し、そのまま江戸まで同道して一月後の作品『芭蕉庵十三夜』にも登場する。芭蕉の、越人評は『庭竈集』「二人見し雪は今年も降りけるか」の句の詞書に、「尾張の十蔵、越人と号す。越後の人なればなり。粟飯・柴薪のたよりに市中に隠れ、二日勤めて二日遊び、三日勤めて三日遊ぶ。性、酒を好み、酔和する時は平家を謡ふ。これ我が友なり」とある通り、実に好感を持っていた。『笈の小文』で伊良子岬に隠れている杜国を尋ねた時にも越人が同行し、かつ馬上で酔っ払ったことがある。
(越人の代表作)
霧晴れて桟橋(かけはし)は目もふさがれず  (『更科紀行採録』)
更科や三夜(みよ)さの月見雲もなし  (『更科紀行採録』)
山吹のあぶなき岨(そま)のくづれ哉  (『春の日』)
みかへれば白壁いやし夕がすみ  (『春の日』)
花にうづもれて夢より直(すぐ)に死んかな  (『春の日』)
藤の花たゞうつぶいて別(わかれ)哉  (『春の日』)
かつこ鳥板屋の背戸(せと)の一里塚  (『春の日』)
夕がほに雑水あつき藁屋哉  (『春の日』)
六月の汗ぬぐひ居る臺(うてな)かな  (『春の日』)
玉まつり桂にむかふ夕かな  (『春の日』)
山寺に米つくほどの月夜哉  (『春の日』)
行燈の煤けぞ寒き雪のくれ  (『春の日』)
下々(げげ)の下(げ)の客といはれん花の宿  (『あら野』)
おもしろや理窟はなしに花の雲  (『あら野』)
蝋燭のひかりにくしやほとゝぎす  (『あら野』)
雨の月どこともなしの薄あかり  (『あら野』)
名月は夜明るきはもなかりけり  (『あら野』)
はつ雪を見てから顔を洗けり  (『あら野』)
はつ春のめでたき名なり賢魚ゝ(かつおいお)  (『あら野』)
初夢や濱名の橋の今のさま  (『あら野』)
若菜つむ跡は木を割(わる)畑哉  (『あら野』)
むめの花もの氣にいらぬけしき哉  (『あら野』)
何事もなしと過行(すぎゆく)柳哉  (『あら野』)
つばきまで折そへらるゝさくらかな  (『あら野』)
あかつきをむつかしさうに鳴蛙  (『あら野』)
なら漬に親よぶ浦の汐干哉  (『あら野』)
柿の木のいたり過たる若葉哉  (『あら野』)
聲あらば鮎も鳴らん鵜飼舟  (『あら野』)
撫子や蒔繪書人(かくひと)をうらむらん  (『あら野』)
釣鐘草(つりがねそう)後に付たる名なるべし  (『あら野』)
ちからなや麻刈あとの秋の風  (『あら野』)
山路のきく野菊とも又ちがひけり  (『あら野』)
かげろふの抱(だき)つけばわがころも哉  (『あら野』)
はる風に帯ゆるみたる寐貌(ねがお)哉  (『あら野』)
もの數寄やむかしの春の儘ならん  (『あら野』)
花ながら植かへらるゝ牡丹かな  (『あら野』)
よの木にもまぎれぬ冬の柳哉  (『あら野』)
一方は梅さく桃の継木かな  (『あら野』)
から(殻)ながら師走の市にうるさヾい  (『あら野』)
七夕よ物かすこともなきむかし  (『あら野』)
夕月や杖に水(みず)なぶる角田川  (『あら野』)
天龍でたゝかれたまへ雪の暮  (『あら野』)
落ばかく身はつぶね共ならばやな  (『あら野』)
行年や親にしらがをかくしけり  (『あら野』)
妻の名のあらばけし給へ神送り  (『あら野』)
散(ちる)花の間はむかしばなし哉  (『あら野』)
ほろほろと落るなみだやへびの玉  (『あら野』)
たふとさの涙や直に氷るらん  (『あら野』)
何とやらおがめば寒し梅の花  (『あら野』)
君が代やみがくことなき玉つばき  (『あら野』)
月に柄をさしたらばよき團(うちわ)哉  (『あら野』)
雁がねもしづかに聞ばからびずや  (『あら野』)
うらやましおもひ切(きる)時猫の恋  (『猿蓑』)
稗の穂の馬逃(にが)したる気色哉  (『猿蓑』)
ちやのはなやほるゝ人なき霊聖女(れいしょうじょ)  (『猿蓑』)
※ちるときの心やすさよ米嚢花(けしのはな)  (『猿蓑』)
君が代や筑摩(つくま)祭も鍋一ツ  (『猿蓑』)
啼やいとヾ塩にほこりのたまる迄  (『猿蓑』)
稲づまや浮世をめぐる鈴鹿山  (『續猿蓑』)

これらの越人の代表作(※は『句兄弟』収載の句)を見ていくと、『更級紀行』での芭蕉との同行、芭蕉七部集の『春の日』・『あら野』・『猿蓑』などの入集状況などから見て、尾張蕉門のリーダー格であった荷兮よりも越人の方が、いわゆる「蕉門十哲」の一人として相応しいのかも知れない。ちなみに、この『猿蓑』に前後しての『ひさご』(珍碩編・元禄三年刊)の「序」は越人が草している。


(謎解き・七十九)

※ 『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html二十八番

   兄 玄札
 泥坊の中を出(いず)るや蓮葉者
   弟 (其角)
 泥坊の影さへ水の蓮(はちす)かな

 この玄札は未詳の俳人だが、芭蕉七部集の『あら野』に出てくる尾張の俳人・玄察(げんさつ)であろうか。尾張の俳人・越人の次ということでそんな感じでなくもない。その『あら野』に収載されている句は次のとおりである。

  石釣(つり)でつぼみたる梅折(おり)しける (『あら野』)
  絵馬(えうま)見る人の後(うしろ)のさくら哉 (『あら野』)
  ほとゝぎす神楽の中を通りけり (『あら野』)

 この「蓮葉者」については、その判詞(自注)に、「はすはもの、蓮葉笠をかづきたる姿のみぐるしく、目立たるより云るか」とあり、「蓮葉女」(浮気で軽薄な女)のような意であろうか。「泥坊」も「放蕩者」の意があり、文字通り、「泥水」とが掛けられているものと解したい。兄(玄札)の句の意は、「この蓮葉者(浮気で軽薄な人)は、この泥水の中の蓮のように放蕩者の中から抜け出した」のような意か。弟(其角)の句の方は、「その放蕩者の影は、この泥水の中で、その影は定かではなく、その清らかな蓮のような風情である」と、兄の句と同じような句意なのであろう。『古今和歌集(三)』の「はちす葉の濁りにしまぬ心もて何かは露を玉とあざむく」(僧正遍昭)の「泥水の中に育ちながらその濁りに染まらない蓮の花の清らかさ」が背景にある句なのであろう。いずれにしても、両句とも分かり難い句である。その判詞(自註)の「泥坊といふ五文字の今とて用られるべきこそ」の「泥坊」の用例の面白さに着眼してのものなのであろう。

ここで、『去来抄』「先師評」の下記のアドレスでの「尿糞の卑近な用例」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#kk

(「先師評」三十八)

38、 でつちが荷(にな)ふ水こぼしけり   凡兆(ぼんてう)
 初(はじめ)は糞(こえ)なり。凡兆曰、尿糞(ねうふん)の事申(まうす)べきか。先師曰、嫌(きらふ)べからず。されど百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん、凡兆水に改(あらた)ム。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,25)

 芭蕉にも

 蚤虱馬の尿(バリ)する枕もと
 鶯の餅に糞する縁の先

という句があるように、糞尿を詠んではいけないなんて決まりはない。『荘子』にも「道はし尿にあり」という言葉があるように、この宇宙の真理というのはあらゆるところに宿るのだから、糞尿といえども軽んずることはできない。しかし、単に笑いを取るための、いわゆる「下ネタ」として糞尿を持ち出すとなると、やはりそればっかり何句もあると俳諧の品も落ちるだろう。
 百韻のなかでは元来ネタの重複を避けるため、別にネタのきれい汚いに関係なく、一座一句物という百韻に一回しか使えない言葉があった。若菜、山吹、つつじ、カキツバタなどが『応安新式(おうあんしんしき)』に記されている。俳諧の場合、俗語で作るため、雅語の連歌に比べて語彙も豊富で、はるかにネタは重複しにくい。
 だから、芭蕉が「百韻といふとも二句に過ぐべからず。一句なくてもよからん」が果たして下ネタだから嫌っていったのかどうかはわからない。ただ、凡兆の句の場合、別にひっくり返したのが肥桶でなくても、水をこぼしただけでも面白いから、あえて糞(こえ)にこだわることはなかっただろう。糞でなくては意味が通らないような句なら、変える必要はあるまい。

(謎解き・八十)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十九番
   兄 女 秋色
 舟梁(ばり)の露はもろねのなみだ哉
   弟 (其角)
 船ばりを枕の露や閨(ねや)の外

 この兄の句の作者・秋色(しゅうしき)は、其角没後、其角の点印を譲られた其角門の第一人者の女流俳諧師であり、青流(後の祇空)らとともに其角の遺稿集『類柑子』(宝永四年刊)を刊行した(また、其角一周忌追善集『斎非時(ときひじ)』・七回忌追善集『石などり』も刊行した)。享保十年(一七二五)に五十七歳で没したという『名人忌辰録』(関根只誠編)の記事が正しいとするならば、元禄三年(一六九〇)に刊行された『いつを昔』(其角編)の時には、二十二歳と、天才・亀翁(十四歳)とともに、当時の其角門の若手の一角を担っていた。この秋色関連のネット記事は下記のアドレスのものが面白い。

http://www.o-sakaya.com/syuusiki1.htm

 さて、この秋色の「舟梁(ばり)の露はもろねのなみだ哉」の句は、「舟梁(和船の両舷側間に渡した太い間仕切りの材)の露は共寝を思いつつ待っているひとの涙である」というようなことであろう。それに対して、其角の「船ばりを枕の露や閨(ねや)の外」は、中七の「や切り」にして、典型的な二句一章のスタイルで、「船ばりを枕にして涙しているひとよ、閨の外であなたを恋しく思っている」というようなことであろうか。判詞(自註)の「枕のつゆもさしむかひたる泪ぞかしとこたへし也。返しとある哥の筋なるべし」と、兄の句への「返し句」の意なのであろう。この二句の背景は、下記の『去来抄』「和歌優美関連」などのような雰囲気である。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」二十三)

23、 猪(ゐのしし)のねに行(ゆく)かたや明(あけ)の月   去来
 此句(このく)を窺(うかが)ふ時、先師暫(しばら)く吟(ぎんじ)て兎角(とかく)をのたまハず。予思ひ誤(あやま)るハ、先師といへども帰り待(まつ)よご引(ひき)ころの気色(けしき)しり給はずやと、しかじかのよしを申(まうす)。先師曰、そのおもしろき処(ところ)ハ、古人もよく知れバ、帰るとて野べより山へ入鹿(いるしか)の跡吹(あとふき)おくる荻の上風(うはかぜ)とハよめり。和歌優美の上にさへ、かく迄(まで)かけり作(さく)したるを、俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄(てがら)なかるべし。一句おもしろけれバ暫く案じぬれど、兎角詮(とかくせん)なかるべしと也。其後(そののち)おもふに、此句ハ、時鳥(ほととぎす)鳴つるかたといへる後京極の和歌の同案にて、弥ゝ(いよいよ)手柄なき句也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,20)

 平安時代の恋は夜に女の元へと男が通い、明け方には帰ってゆく。そのため、明け方は切ない別れを連想させる。

 明けぬとて野べより山へ入(いる)鹿の
    跡吹(あとふき)おくる萩の下風
           源左衛門督通光(みなもとのさえもんのかみみちみつ)

は鹿もまた秋には恋の季節を迎え、妻訪う鹿の夜に悲しげに鳴く風情に共感したものだ。
 去来の句はそれを鹿ではなく猪にして、「夜興引(よごひき)」つまり犬を使った夜の猟の句にして新味を出そうとしたのだろう。これによって明けの月の情はむしろ

    罪のむくいもさもあらばあれ
 月のこる狩場の雪の朝ぼらけ  救済(きゅうせい)法師

に近くなる。狩りで獲物を必死に追っていた人が、雪の夜明けのこの世のものとも思えぬような美しい気色に、ふと狩られる動物の気持ちがわかったような気がして殺生(せっしょう)の罪のことを気にかけるといったものだが、去来の句はその情に近い。
 去来はたぶんにこの句に相当の自信を持っていたのだろう。だから、芭蕉がこの句をしばらく吟じてみて良い返事がなかったので、最初は明け方の「夜興引」の情がわからないのかと思って説明したところ、むしろ「俳諧自由の上にただ尋常の気色を作せんハ、手柄(てがら)なかるべし。一句おもしろけれバ暫く案じぬれど、兎角詮(とかくせん)なかるべしと也」という、つまり俳諧にふさわしい新しさ、面白さに欠ける、という返事だった。要するに、今の言葉でいえばベタだということだ。
 それでも去来はすぐには納得しなかったのだろう。後になってこれは

 時鳥なきつる方を眺むれば
    ただ有明の月ぞ残れる
             藤原実定

の等類だということで納得した。
 しかし、芭蕉がこの句に物足りなさを感じたのは、自身に

 明けぼのや白魚(しらうお)白きこと一寸
 おもしろうてやがて悲しき鵜舟(うぶね)哉

といった、同様の殺生の罪に目覚める句があったからではなかったか。狩が終わって猪がねぐらに帰ってゆく、その生命の脈動に共鳴したまではいい。そこに「明けの月」という古来より言い古された言葉を使ったことが面白くなかったのではなかったか。それが結局ベタということになってしまったのだろう。
 ところで、この最近よく使われるベタという業界言葉だが、これはおそらく俳諧で付きすぎることを嫌うところから来た言葉だろう。つまりベタッとついているベタ付けというところから派生した言葉だろう。
 しかし、狩場に明けの月は当時としては付きすぎだったにせよ、今日見れば狩場そのものが我々の日常から遠のいてしまったため、むしろ「猪の」の句はかえって新鮮な感じもする。少なくとも私はそんなに悪い句には見えないし、平凡には見えない。むしろ去来の傑作のひとつに数えてもいいように見える。

月曜日, 4月 23, 2007

柳ちりの巻 (延享・寛延年中、一七四四~一七五〇)



柳ちりの巻 (延享・寛延年中、一七四四~一七五〇
                                                  
 宝暦二年(一七五二)、その前の年に京へ帰っていた蕪村は、三十七歳であった。この年の七月に、蕪村の関東時代の実質的な後見者であり、同じ巴人門の先輩に当たる結城の砂岡雁宕そして関宿の箱島阿誰(あすい)が編集した『反古衾(ほごぶすま)』が刊行された。この『反古衾』は、その「襖・冬の季語」の表題が示すとおり、歌仙の立句を含めて、冬の発句ばかり集めた撰集である。                       

 その撰集者の雁宕と阿誰は、関東における夜半亭巴人門の中心的人物で、蕪村の先輩筋に当たる俳人ということになるが、巴人没後は、江戸座俳人グループとの交流を深めていった。そして、この『反古衾』は、その江戸座俳人の有力者・馬場存義(李井・りせい)が、序を、小原旨原(百万・ひゃくまん)が跋を担当した。そして、若き蕪村は、釈として登場する。                                    
 ちなみに、山下一海氏によれば、蕪村の俳諧の生涯を、次の六つの時期に分けている。          

① 元文二年(二十二歳) 江戸日本橋本石町の夜半亭宋阿(巴人)門の入門。         
② 寛保二年(二十七歳) 六月六日、師・宋阿の没。                         
③ 寛保四年(二十九歳) 春、下野宇都宮にあって『歳旦帖』編纂。                
④ 寛延四年(三十六歳) 秋、江戸を離れ京へ。                           
⑤ 明和三年(五十一歳) 六月二日、寺村鉄僧の大来堂において三菓社発句会発表。    
⑥ 明和七年(五十五歳) 夜半亭二世継承                               

 この区分において、蕪村の関東出遊時代とは、①から④までの、約十四年の歳月ということになる。この間の寛延三年(一七四三)、蕪村、二十八歳の時に、下野の芦野の歌枕で有名な遊行柳を詠じた開眼の一句、「柳ちり清水かれ石ところどころ」が誕生する。この句は晩年の自撰句集に至るまで愛着を持ち続けた自信作でもあった。そして、この開眼の一句の初出が、実に、雁宕と阿誰の撰集の『反古衾』(蕪村・二句、李井・十四句、百百・十三句・阿誰七句の四吟)の発句として収められている。                           

一 柳ちり清水かれ石ところどころ(☆)           蕪村                       

発句、「清水かれ」で冬の句と思われるが、蕪村は「蕪村自筆句稿貼交屏風」等で、秋の部に収載しており、「柳ちり」(秋)を季語として意識していたと思われ、ここは「柳ちり」で秋の句。  
〔句意〕西行が、芭蕉が訪ねた、この下野の遊行柳も、今は、柳は散り、清水は涸れ、石がごろごろしているばかりだ。                                                                                                  

( 柳ちり清水かれ石ところどころ(☆) )                                
二 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月             李井                                                                   

脇句、「月」で秋。月の定座は五句目だが、ここに引き上げている。発句が、「山高ク月小ニシテ水落チテ石出ル」(蘇東坡・『後赤壁賦』)をベースにしており、このことを受けてか、李井も、「詩に吼る月」と漢詩的な付けである。                                      
〔句意〕その寒々とした光景の中を、馬に乗り、月に向かって、漢詩を吟じて行きます。                                                               

( 馬上の寒さ詩に吼(ほゆ)る月 )                                 
三 茶坊主を貰ふて帰る追出(おひだ)シに       百万                                                                   

第三、雑の句(心は、前句を受け秋の季)。「追出シ」とは、芝居などの終わりなどに、その打ち出す太鼓の合図のことらしい。第三は、転じの妙というが、一気に場面転換という感じである。 
〔句意〕芝居も追い出しの太鼓の合図だ。芝居小屋の茶坊主と一緒に、家にでも帰り、芝居の話の続きなどをしよう。                                                                                                   

( 茶坊主を貰ふて帰る追出(おひだ)シに )                               四 ざらりざらり(☆)と納屋のこのしろ(☆)          村                                                                   

オ・四句目、雑の句。一順して蕪村の付けである。前句に対する、その状況の時宣の付けであろう。 原本には、「このしろ」は「〓」の漢字が用いられている。                    
〔句意〕芝居小屋から、ざらり、ざらりと、鮗(このしろ)のようにくっついて芝居見物の人達が出てきます。                                                     

( ざらりざらり(☆)と納屋のこのしろ(☆) )                           
五 大汐に足駄とられし庭の面                 井                                                                   

オ・五句目、雑の句。月の定座だが、二句目に引き上げられている。「ざらりざらりと」からの大潮の連想であろうか。                                             
〔句意〕ざらりざらりと大潮が、庭まで来て、下駄を取られて、どうにも困りました。                                                               

( 大汐に足駄とられし庭の面 )                                     
六 枕かいって起す邯鄲(かんたん)              万                                                                   

オ・折端、雑の句。先ほど、李井の漢詩的な脇に対して、その漢詩のニュアンスにそっぽを向いた百万が、ここは、「邯鄲の夢・蘆生の夢」などの古事を基にして句にしている。          
〔句意〕庭先で、大潮に下駄を取られたように、ふっと、枕をかえったら、丁度、夢で人生の栄枯盛衰の無情さを知った邯鄲の夢のような思いに囚われて眠れませんでした。                                                                      

( 枕かいって起す邯鄲(かんたん) )                                
七 余所(よそ)へ出ぬ土用の中も冬に似て           万                                                                   

ウ・折立、「土用」で夏。前句の邯鄲の夢のような思いに囚われたことからの連想であろうか。 〔句意〕なに、邯鄲の夢に囚われた--、それは、この暑い土用の暑さの中を、まるで、冬籠りのように、一歩も外に出ないから、そんなことに囚われるのだよ。                                                                               

( 余所(よそ)へ出ぬ土用の中も冬に似て )                             
 八 陳皮(ちんぴ)一味に薬研(やげん)ごしごし(☆)     井                                                                   

ウ・二句目、その人の姿情などを説明している其人の付けであろう。「陳皮」とは、蜜柑の皮などを乾かして作る薬用品。「薬研」とは、薬種を細かな粉末にする道具のこと。            
〔句意〕冬籠りのように、まるで、土用籠りをしている人は、それは、陳皮などを、汗をふきふき、薬研で  ゴシゴシ粉末にしている様のようですね。                                                                                    

( 陳皮(ちんぴ)一味に薬研(やげん)ごしごし(☆))                        
九 墨の手で拭(のご)ふ涙の手習ひ子             井                                                                   

ウ・三句目、雑の句。蕪村が抜けて李井と百万との両吟による進行なのだが、李井の,この句、前句とは、似ても似つかない、ほのぼのとした句に仕立てている。                   
〔句意〕薬研でゴシゴシしている様ね--、それは、手習い子が、墨の付いた手で、ゴシゴシ、涙を吹いている様にも思われますね。                                                                                            

( 墨の手で拭(のご)ふ涙の手習ひ子 )                                
 一〇 死ンだ雀を竹に埋(うめ)けり               万                                                                   

ウ・四句目、雑の句。抒情的な句に抒情的な付けである。                        〔句意〕その手習い子の腕白小僧は、死んだ雀を、やさしく、竹の根元に埋めてやりました。                                                        

( 死ンだ雀を竹に埋(うめ)けり )                                 
一一 萩すゝきひしこ(☆)の培(こえ)に色ぞよき        万                                                                   

ウ・五句目、「萩薄」で秋。「ひしこ」は背黒鰯の子供で、肥料の材料。原本は「異体字」の漢字。   〔句意〕竹の根元に、雀を埋めて肥やしになったように、ここの萩と薄は、ひしこの肥やしで、実に色が鮮やかです。                                                                                                   

( 萩すゝきひしこ(☆)の培(こえ)に色ぞよき )                            
一二 休意とついて楽らく(☆)の秋                井                                                                   

ウ・六句目、「秋」で秋。萩と薄からの連想の付けであろうか。「休意」とは、心を安んじること。 
〔句意〕萩と薄の風情のある所で、心を安んじて、安楽の秋を堪能しております。                                                      

( 休意とついて楽らく(☆)の秋 )                                 
一三 釜の坐にやつを隠して後の月                井                                                                   

ウ・七句目、「後の月」で秋。月の定座は次句であるが、一句引き上げている。恋の呼び出しの句とも。
〔注・「釜の坐」は京都三条通新町西入の町名で「かまんざ」との頭注がある。〕     
〔句意〕陰暦九月十三日の後の月の、安楽の秋を堪能なさっている方は、京都の釜の坐の別宅に、大事な人を。  

 ( 釜の坐にやつを隠して後の月 )                                    一四 酒で嗽(すすぐ)も床のたのしみ               万                 

ウ・八句目、雑の恋の句。月の定座は、前句に引き上げられている。                
〔句意〕その大事なお方と月見の後、お二人で酒を使って口を嗽ぎながら、お床でお楽しみになるのでしょう。

( 酒で嗽(すすぐ)も床のたのしみ )                                
一五 三途(さんず)川たばこに酔ふて渡る也           万                                                                   
ウ・九句目、雑の句。恋句は二句続けるとすれば、ここは、恋句か。                 

〔句意〕どうも、楽しみ過ぎて、三途の川を、煙草に酔って、ふらふら渡るような有り様でした。                                                          

( 三途(さんず)川たばこに酔ふて渡る也 )                               
一六 花には去らぬ毛氈の蛇                     井                                                                   

ウ・十句目、「花」で春。花の定座は次句だが、ここに引き上げている。                〔句意〕三途の川を、煙草に酔って渡るとは、それは、丁度、花見の席の赤い毛氈の所を、ここが良いと、そこを一歩も退かない蛇のようですね。                                                                                    

( 花には去らぬ毛氈の蛇 )     
一七 山吹に莚(むしろ)下ゲたる厠(かはや)の戸        井                                                                   

ウ・十一句目、「山吹」で春。花の定座だが、前句に引き上げられている。               〔句意〕その図々しい蛇に比べて、この山中の貧しい家の厠には、人目をはばかるように筵が下げられている。その脇の山吹が美しい。                                                                                           

( 山吹に莚(むしろ)下ゲたる厠(かはや)の戸 )                            
一八 つれづれ(☆)読(よみ)の笠も幾春             万                                                                   

ウ・折端、「春」で春。「つれづれ読」は、徒然草の講釈師の類であろうか。              〔句意〕その山中のあばら屋の、徒然草の講釈師の笠も古ぼけて、みるからに年輪を感じさせる。そして、また、幾度目かの春が来た。 

( つれづれ(☆)読(よみ)の笠も幾春 )                              
一九 橋守が人形売(うる)も古風なり                井                                                                   

ナオ・折立、雑の句。隠栖者から橋守の連想か。                           
〔句意〕その山中のあばら屋の徒然草の講釈師とどこか趣が似かよっているのだが、橋守をしながら人形を売っている人もいる。そして、それらの姿は、何やら古風で、何やら風情がある。                                                            

( 橋守が人形売(うる)も古風なり )                                  
二〇 振らする後へふらぬ大名                  阿誰                                                                   

ナオ・二句目、雑の句。ここで、阿誰が加わり、三吟となる。阿誰の最初の句、なかなか、意味の取り辛い句である。橋を大名行列が通っていくということからの其場の付けであろうか。    
〔句意〕その橋を、賑やかに、槍を振りながら行く大名がいるかと思えば、静かに、槍など振らず通り過ぎる大名もいる。それぞれ十人十色だ。                                   

( 振らする後へふらぬ大名 )     
二一 清水(きよみづ)も十日の上野ことさらに          万                                                                  

ナオ・三句目、雑の句。「清水」は、上野寛永寺の清水堂のこと。                   〔句意〕大名行列の賑わいといえば、この十日の花の盛りの頃は、上野寛永寺の清水堂の辺りも、非常な賑わいになりますね、                                                                                               

( 清水(きよみづ)も十日の上野ことさらに )                              
二二 唐縮緬のすみ染の尼                      井                                                                 

ナオ・四句目、雑の句。前句の「ことさらに」などの言葉のあやによる起情の付けと思われる。 〔句意〕花の盛りに終わりがあるように、その人も、唐縮緬などを着て華やかな時もあったが、今では、すみ染めの尼の姿になってしまいました。                                  

( 唐縮緬のすみ染の尼 )                                      
二三 松風と共に経る世のゆがみ形(な)リ             誰                                                                 

ナオ・五句目、雑の句。前句の人の姿情を見定め付ける其人の付けか。              〔句意〕その尼の人は、浜の松風を聞きながら、日々の暮らしをするまでに、生活が一変してしまいました。                                                   

( 松風と共に経る世のゆがみ形(な)リ )                              
 二四 面ンをかぶって掛乞(かけごひ)に逢ふ          万                                                                 

ナオ・六句目、雑の句。「掛乞」は、借金取りのこと。                        
〔句意〕その日暮らしの貧乏暮らしで、外に出ましたら、生憎と借金取りに出会っちゃいまして、思わず、面を被って、その場をしのぎました。                                                                                        

( 面ンをかぶって掛乞(かけごひ)に逢ふ )                             
二五 酒毒とてなかがひ(☆)ほどに出来にけり          井                                                                 

ナオ・七句目、雑の句。前句の「面ンをかぶって」からの連想であろう。原本には「なかがひ」は「異体字」の漢字。                                  
〔句意〕面を被ったのは、借金逃れではなく、酒の毒で、大きなおできが出来て、それで、面を被ったのでしょう。                                                                                                    

( 酒毒とてなかがひ(☆)ほどに出来にけり )                              
二六 眠るうなゐに神おはします                  誰                                                                 

ナオ・八句目、雑の句。「うなゐ」は、髪をうないにした幼子のこと。前句の人物に別人をもってくる向付であろう。                                              
〔句意〕親父は、酒毒でどうしょもないが、その幼子は、髪をゆないにしていて、すやすやと眠っていて、まるで、神様が側にいるようです。                                                                                         

( 眠るうなゐに神おはします )                                   
二七 夕蝉に土間で糸とる藁庇(わらびさし)           万                                                                 

ナオ・九句目、「夕蝉」で夏。親父、幼子ときて、その母親を出す向付か。               〔句意〕親父は酒毒、その幼子は神様のように眠っている。そして、その母親は、貧しい藁庇の家で、一心不乱に、糸を紡いでいます。どこからか夕蝉の声がします。                                                                           

( 夕蝉に土間で糸とる藁庇(わらびさし) )                               
二八 泣せて恋をしたる説教                    井                                                                 

ナオ・十句目、雑の恋の句。その母親の姿情を見定める其人の付けであろう。「説教」は中世に流行した説教節との類と思われる。
〔句意〕中世に流行した説教節にもあるではありませんか、「ホロリと泣かせて恋をした」とね-、あの糸を紡いでいる人は、あの酒毒の男の口説きにあって、ほろりとさせられて、それでいい仲になったのですよ。

( 泣せて恋をしたる説教 )                                     
二九 月影をよぎ(☆)ともおもふ仇まくら               誰                                                                 

ナオ・十一句目、「月影」で秋。月の定座での恋の句。原本の「よぎ」は、「異体字」の漢字。       〔句意〕その恋し合った二人は、月の美しい夜、その月影を夜着として、かりそめの一夜を過ごしたのです。                                                   

( 月影をよぎ(☆)ともおもふ仇まくら )                                
三〇 鎧のうへに米を背負フ露                   誰                                                                 

ナオ・折端、「露」で秋。これも、現在の境涯を句にしている時宣の付けであろう。          〔句意〕今では、その二人は、落武者が、鎧の上に米を背負って、荒野の露に濡れながら歩いているさまに似ています。                                                                                                   

( 鎧のうへに米を背負フ露 )                                    
三一 道閉(とづ)る戎境(えびすざかひ)の岩もみぢ      万                                                                 

ナウ・折立、「岩もみぢ」で秋。前句の落武者からの連想であろう。                  〔句意〕その落武者達の行手には、それは、人の住まわぬような辺境で、岩紅葉が幾重にも重なり、完全に道を閉ざしているのでした。                                                                                           

( 道閉(とづ)る戎境(えびすざかひ)の岩もみぢ )                           
三二 笹折敷(をりしき)て坐禅する僧               井                                                                 

ナウ・二句目、雑の句。落武者に対して座禅する僧をもって付ける向付であろう。         〔句意〕その苦難の落武者達と同じように、こちらの座禅僧も、これまた、笹を折り、それを敷いて、その上 の大変な苦行であります。                                                                                           

( 笹折敷(をりしき)て坐禅する僧 )                                
三三 剃刀に反古(ほうご)の文字の錆付(つき)て        誰                                                                 

ナウ・三句目、雑の句。ここは、関連するもので軽くあしらっている会釈の付けか。        
〔句意〕その座禅僧の痛ましい姿は、それは、剃刀に錆びたまま付いている反古紙の文字のように、もう、どうにもならない状況です。                                                                                           

( 剃刀に反古(ほうご)の文字の錆付(つき)て )                            
三四 波も俗なる湯屋の彫物                    万                                                                 

ナウ・四句目、雑の句。これも前句と同じように、会釈の付けと思われる。               〔句意〕その、どうしょうもない姿は、風呂屋の、あの俗ぽい、松とか波の彫り物と同じで、これは様になりませんね。                                                                                                   

( 波も俗なる湯屋の彫物 )                                     
三五 芝居見む花に云(いひ)し雨のひま             井                                                                 

ナウ・五句目、花の定座で、「花」で春。どうも、終盤にきて、其人付け、会釈の付けとかに終始したきらいもあり、その反省もこめ、遁句的な、最後の花の句とも解せられる。            
〔句意〕どうも、湿っぽい話ばかりで、雨もやみました。どうです--、花見と洒落て、その道筋で、芝居でも見物して、派手に、これまでの憂さでも晴らしませんか。                                                                           

( 芝居見む花に云(いひ)し雨のひま )                            
三六 小鮎を詰(つめ)てぬぐふ重箱                 誰

ナウ・挙句、「小鮎」で春。前句の句勢にぴったりの、拍子付けの挙句と解したい。
〔句意〕そうだ。そうだ。花見と、芝居見物と・・・、それは素晴らしい。さてと、小鮎を重箱に入れてね・・・、あれ、小鮎の出汁が・・・、それを拭ってと・・・、芝居よりも、花よりも、酒と小鮎と・・・、花より団子だね。

蕪村の連句(序)



 
  蕪村の連句(序)                                    

 俳諧史上三大俳人といわれる芭蕉・蕪村・一茶の俳句(発句)の数は、井本農吉著の『芭蕉とその方法』(「連句の変化とその考察」)によれば、芭蕉・約一千句、蕪村・約二千八百五十句、そして、一茶は、実に、約一万八千句という。そして、これが連句(俳諧)になると、芭蕉・約三百八十巻、蕪村・約百十二巻、そして、一茶二百五十巻となる。続けて、同著によれば、「大雑把であり伝存の限りのことだが、連句に対して発句の比重の高まる大勢は察せられる」としている。                                

 芭蕉・蕪村・一茶という、点から点を結ぶ俳諧史において、明治に入り、正岡子規の俳句革新によって、俳諧(連句)が葬り去られる以前において、俳諧(連句)から俳句(発句)へという道筋は、ほぼはっきりとしていたということであろうか。

 これらのことに関して、丸山一彦氏は、「蕪村を契機として、それ以後になると兼題(けんだい)・席題( せきだい)による発句の会が盛んとなり、連句の制作というのはむしろ敬遠される傾向にあり、一茶の連句になると、芭蕉や蕪村のそれと比べて付味も粗雑で作品としても整っていない」との指摘もしている(丸山一彦・「一茶集・連句編」・『完訳日本の古典 蕪村・一茶集』所収)。          

 ということは、俳諧(連句)というものは、芭蕉・蕪村・一茶という、点から点を結ぶ俳諧史において、それは、蕪村までで、それ以降のものは、芭蕉の俳諧(連句)鑑賞ほどに、その鑑賞に耐えるものは、ほとんど存在しないということがいえるのであろうか。                    

 それにしても、これら三人の俳句(発句)に関する鑑賞・解説の類はほぼ完備されつつあるのに比して、こと連句(俳諧)のそれになると、これは、芭蕉を除いて甚だ未開拓の分野といわざるを得ないのである。蕪村の連句(俳諧)のそれにしても、その全体像を明らかにし、それに、やや詳細な校注を加えたものは、昭和五十年代の、大谷篤蔵・岡田利兵衛・島居清校注・『蕪村集 全』(古典俳文学体系12)においてであった。そして、個人で、これらの鑑賞・解説の類の、ほぼ全容にわたって挑戦したものは、わずかに、これも、昭和五十年代の、野村一三著『蕪村連句全注釈』を数える以外に、それを例を見ない。                    

 そして、『蕪村集 一茶集』(暉峻康隆校注・完訳日本の古典58)の「蕪村 連句編」などで、芭蕉とは異質の、高踏的な文人趣味の、いわゆる蕪村調の連句(俳諧)の幾つかについて、それをかいま見るだけで、この文献の少なさが、逆に、無性に、蕪村一派のそれを見たいという衝動にかられてくる。            

 と同時に、これらの蕪村の連句(俳諧)の文献に接してみると、必ずや、昭和の初期の頃刊行された、潁原退蔵編著・『改定 蕪村全集』につきあたる。この著書の、この分野に与えた影響は、それは想像以上に大きなものがある。しかし、その原著に直接接するということも、その刊行以来、半世紀以上が立つ今日において、これもまた、はなはだ困難な状況にあるということも認めざるを得ない。                    

 また、蕪村一派の俳諧(連句)といわず、その一派の俳句(発句)の魅力にとりつかれると、どうしても、これまた、その発句に対すると同程度の連句の世界をかいま見たいという衝動にかられてくるのである。そして、夜半亭二世を継ぐ与謝蕪村は、夜半亭一世宋阿(早野巴人)そして夜半亭三世を継ぐ高井几菫とその周辺の俳人達には、実に、興味を駆り立てる群像が林立しているのである。                      

 いや、それだけではなく、蕪村の連句(俳諧)を知るということは、これは、芭蕉の連句(俳諧)が、どのように変遷していったのかか、さらにはまた、連句(俳諧)が省みられなくなった今日において、その連句(俳諧)の再生ということは可能なのであろうか等の問題点について、何かしら解答が、その中にあるような予感がしてならないのである。                                 
このような観点から、そしてまた、「芭蕉に帰れ」と中興俳諧の中心人物となった蕪村とその周辺の俳人達の群像はどうであったのか、そんなことを問題意識にしながら、蕪村の連句(俳諧)の概括を試みることとする。 この蕪村の連句(俳諧)の概括するに当たっては、その全体像の百十二巻のうちの五十六巻について頭注等を施している、この分野の唯一の古典たる潁原退蔵編著の『改定 蕪村全集(昭和八年改定増補版)』をその中心に据え、その私解的鑑賞を試みることとする。                

 (参考文献)                                           
① 『改定 蕪村全集』・潁原退蔵編著・更生閣・昭和八年改定増補版                ② 『蕪村集 全』(古典俳文学体系12)・大谷篤蔵・岡田利兵衛・鳥居清校注・集英社・昭和五〇     
③ 『蕪村連句全注釈』・野村一三著・笠間書院・昭和五〇
④ 『蕪村集 一茶集』(完訳日本の古典58)「蕪村 連句編」・暉峻康隆校注・小学館・昭和五八    
⑤ 『座の文芸 蕪村連句』・暉峻康隆監修・小学館・昭和五三                    
⑥ 『此ほとり 一夜四歌仙評釈』・中村幸彦著・角川書店・昭和五五                                
 (補注)                                             
① 参考文献の校注等については、右の文献等から適宜取捨選択をしており、必ずしも、統一はされていない。 また、⑤の『此ほとり 一夜四歌仙評釈・中村幸彦著』など、詳細な解説がなされているものは、極力、その 著書からの引用するように心がけている。                              
② 特殊文字等の幾つかについて、平仮名を使用している。その箇所については、☆印を付している。    

金曜日, 4月 20, 2007

其角とその周辺その七(六十六~七十一)


画像:森川許六

(謎解き・六十六)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十五番
   兄 許六
 人先に医師の袷や衣更
   弟 (其角)
 法躰も島の下着や衣更

 許六は、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kyoroku.htm

森川許六(もりかわ きょりく)
(明暦2年(1656)8月14日~正徳5年(1715)8月26日)
本名森川百仲。別号五老井・菊阿佛など。 「許六」は芭蕉が命名。一説には、許六は槍術・剣術・馬術・書道・絵画・俳諧の6芸に通じていたとして、芭蕉は「六」の字を与えたのだという。彦根藩重臣。桃隣の紹介で元禄5年8月9日に芭蕉の門を叩いて入門。画事に通じ、『柴門の辞』にあるとおり、絵画に関しては芭蕉も許六を師と仰いだ。 芭蕉最晩年の弟子でありながら、その持てる才能によって後世「蕉門十哲」の筆頭に数えられるほど芭蕉の文学を理解していた。師弟関係というよりよき芸術的理解者として相互に尊敬し合っていたのである。『韻塞<いんふさぎ>』・『篇突<へんつき>』・『風俗文選』、『俳諧問答』などの編著がある。
(許六の代表作)
うの花に芦毛の馬の夜明哉  (『炭俵』)
麥跡の田植や遲き螢とき  (『炭俵』)
やまぶきも巴も出る田うへかな  (『炭俵』)
在明となれば度々しぐれかな  (『炭俵』)
はつ雪や先馬やから消そむる  (『炭俵』)
禅門の革足袋おろす十夜哉  (『炭俵』)
出がはりやあはれ勸る奉加帳  (『續猿蓑』)
蚊遣火の烟にそるゝほたるかな  (『續猿蓑』)
娵(よめ)入の門も過けり鉢たゝき  (『續猿蓑』)
腸(はらわた)をさぐりて見れば納豆汁  (『續猿蓑』)
十團子も小つぶになりぬ秋の風  (『續猿蓑』)
大名の寐間にもねたる夜寒哉  (『續猿蓑』)

下記のアドレスでは、「蕉門十哲」について、下記(※)のとおりとしているが、これは、たとえ、晩年は芭蕉と袂を分かったが、「芭蕉七部集」のうちの、『冬の日』・『春の日』・『阿羅野』を編纂したといわれている「荷兮」を加えるべきなのではなかろうか。ということで、上記の「蕉門十哲」のうち、「維然」は「荷兮」と差し替えて理解したい。なお、路通・越人なども十哲候補の一人であろう。
 (蕉門十哲)
其角・嵐雪・杉風・去来・丈草・凡兆・許六・支考・野坡・荷兮

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/jittetsu.htm

※(蕉門十哲)諸説紛紛の蕉門の十哲であるが、実力からいって下記のようか????
其角・嵐雪・杉風・去来・丈草・凡兆・許六・支考・野坡・維然

上記のように、「蕉門十哲」を理解して、杉風(十一番)に次いで、この許六(十五番)が登場してくる。なお、去来(十六番)、十哲候補の、路通(二十五番)、越人(二十七番)は後に出てくる。『田中・前掲書』によれば、「野坡や孤屋を芭蕉に紹介したのは其角であろう。去来や許六も彼(其角)を介して芭蕉に入門している。曲翠も其角を介して芭蕉に入門したらしい。其角には、自分の勢力を拡大しようという気持ちはまったくなかったとみて間違いなかろう。彼にとって、自分の弟子はすべて芭蕉の弟子だったのである」(上記のネット記事では、許六が蕉門に入ったのは桃隣の紹介とあるが、その桃隣を支援しているのが其角であり「其角を介して芭蕉に入門」と解したい)と、蕉門十哲の主なメンバーは、其角を介して、芭蕉門に入り、後には、去来や許六は、芭蕉の側近となり、其角に対して、どちらかというと批判的傾向を強めていく(この傾向は、芭蕉没後に顕著になるが、そのことについては、去来のところで記述する)。ここでは、許六の『俳諧問答』(元禄十一年刊)の「俳諧自賛之論」の芭蕉と許六の問答について、『田中・前掲書』の意訳ものを次に掲げておきたい。
※『俳諧問答』所収「俳諧自賛之論」
芭蕉 君が俳諧を好きになったのは、俳諧を詠んでいると心が静かになり山林にこもるようになる、それが楽しいからではないか。
許六 その通りです。
芭蕉 私もその通りだ。だが其角の好みは違う。彼の俳諧は伊達(だて)風流であって、作為の働きが面白いというので俳諧が好きなのだ。そもそも俳諧が好きな理由が異なるから、君と其角の俳諧が異なるのだ。
許六 先生と其角の俳諧も異なりますが、一体、先生は其角に何を教え、其角は先生から何を学んだのでしょうか。
芭蕉 私の俳風は閑寂を好んで細い。其角の俳風は伊達を好んで細い。この「細い」(感性の細やかさ)というところが私の流儀で、これが私と其角の俳風の一致するところだ。

さて、掲出の許六の句、「人先に医師の袷や衣更」は、『芭蕉の門人』(堀切実著)によると、次のとおりの背景がある。

※翌(元禄)六年三月末、許六亭を訪れた芭蕉は、明日はちょうど四月一日の衣更えの日に当たるので、衣更えの句を詠んでみるように勧めた。許六は緊張して、三、四句を吟じてみたが、容易に師の意に叶わない。しかし、芭蕉の「仕損ずまいという気持ばかりでは、到底よい句は生まれるものではない。゛名人はあやふき所に遊ぶ ゛ものだ」という教えに、大いに悟るところがあって、直ちに、
  人先(ひとさき)に医師の袷や衣更え
と吟じ、師(芭蕉)の称賛を受けたのであった。衣更えの日、世間の人より一足先に、いちはやく綿入れを捨て袷を身に着けて、軽やかな足取りで歩いてゆく医者の姿が、軽妙にとらえられた句であった。

 これが、この許六の句の背景なのである。この芭蕉の称賛を受けた句を、其角は、「誹番匠」よろしく、「法躰も島の下着や衣更」と換骨奪胎をするのである。「医師」より「法躰」(俗体に対して、仏門に入り剃髪・染衣した姿。僧体)の方が面白い。さらに、「袷」よりも「島の下着」(この「島」は、例えば、英一蝶が流刑された八丈島などが連想されて、しかも、その「下着」となると、実にドラマチックですらある)の方が数倍面白い。其角の判詞に、「法躰と医師とのはれか(が)ましさは一色なれと(ど)も興ことにかはりあるゆへわさ(ざ)と一列にたてたり」と、「許六さん、どうせするなら、もっと大げさに」というところであろう。そもそも、許六は、その号の「許六」(きょりく)のとおり、六芸(りくげい)に秀でた風雅の現役の武士である。その六芸は、武門三代を誇る表芸の「鑓(やり)・剣・馬」の三術の他に裏芸の「書・画・俳」で、特に、「画」は、芭蕉をして「画はとつて予が師とし、風雅(俳諧)は教へて予が弟子となす」(「許六離別の詞」)と、芭蕉の師ともいうべき、その「画俳一致」の高い境地を、芭蕉は劇賞しているのである(堀切・前掲書)。「画」に秀でいるということは、「構成」に秀でているということで、その「構成」ということは、俳諧では、「取合わせ」ということで、許六は、ことのほか、この「取合わせ」を重視し、その「取合わせ」においては一家言持っている俳人であった。ここのところを、『堀切・前掲書』では、「取合わせはいわば一種の創造的モンタージュであり、そこには当然、作者の主体的な統一作用としての『とりはやし(結合)」が要求されるのである。一句は『金(こがね)を打延べたる』ごとき一まとまりの姿を得ることにもなる。『取合わせ』という方法自体は、茶道の道具の取合わせなど、さまざまなジャンルで使われるものだが、許六はこれを蕉風発句における句の案じ方――その発想法として定着させようとしたのであった」と記述している。更に続けて、「去来などはこれを、絵画の素養のある許六だけに説いたもので、芭蕉の門人の個性に応じた対機説法なのであり、句の案じ方としては一面的な教えに過ぎないとしているが、必ずしも的を得た反論になっていない。近代の大須賀乙字の『二句一章』の論や山口誓子のモンタージュ論なども、この骨法の流れを汲むものであろう。最近では、ドイツのボードマースホーフの『一対の極』の論など、国際的な俳句論にも、『取合わせ』の説が適用されているのである」と続けている。そして、問題はここからなのである。掲出の、其角と許六との二句を比較して、許六の「医師・袷・衣更」の「取合わせ」と、其角の「法躰・島の下着・衣更」との「取合わせ」とにおいて、格段に、其角の「取合わせ」の方が、秀逸であるという思いがするのである。と同時に、この二句を並列して鑑賞していくと、許六は「理論の人」であり、其角は「実作の人」という思いを深くするのである。すなわち、「誹番匠」(言葉の大工)という観点からは、業俳(プロ)の其角、遊俳(アマ)の許六との差は歴然としているという思いを深くするのである。

(謎解き・六十七)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十六番
   兄 去来
 浅茅生やまくり手下すむしの声
   弟 (其角)
 まくり手に松虫さか(が)す浅茅哉

 去来は、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kyorai.htm

向井去来(むかい きょらい)(慶安4年(1651)~宝永元年(1704.9.10)
肥前長崎に儒医向井玄升の次男として誕生。生年の月日は不祥。本名向井平次郎。父は当代切っての医学者で、後に京に上って宮中儒医として名声を博す。去来も、父の後を継いで医者を志す。 兄元端も宮中の儒医を勤める。去来と芭蕉の出会いは、貞亨元年、上方旅行の途中に仲立ちする人があって去来と其角がまず出会い、その其角の紹介で始まったとされている。篤実とか温厚とか、去来にまつわる評価は高いが、「西国三十三ヶ国の俳諧奉行」とあだ名されたように京都のみならず西日本の蕉門を束ねた実績は、単に温厚篤実だけではない卓抜たる人心収攬の技量も併せ持ったと考えるべきであろう。後世に知的な人という印象を残す。嵯峨野に落柿舎を持ち、芭蕉はここで『嵯峨日記』を執筆。『去来抄』は芭蕉研究の最高の書。
(去来の代表作)
※※一畦(ひとあぜ)はしばし鳴きやむ蛙哉(『蛙合』)
何事ぞ花みる人の長刀(ながかたな)(『あら野』)
名月や海もおもはず山も見ず (『あら野』)
月雪のためにもしたし門の松 (『あら野』)
鶯の鳴(なく)や餌(え)ひろふ片手にも (『あら野』)
うごくとも見えで畑うつ麓かな (『あら野』)
いくすべり骨おる岸のかはづ哉 (『あら野』)
あそぶともゆくともしらぬ燕かな (『あら野』)
筍の時よりしるし弓の竹 (『あら野』)
涼しさよ白雨(ゆふだち)ながら入日影 (『あら野』)
秋風やしらきの弓に弦(つる)はらん (『あら野』)
湖(みずうみ)の水まさりけり五月雨 (『あら野』)
榾の火に親子足さす侘(わび)ね哉 (『あら野』)
手のうへにかなしく消(きゆ)る螢かな (『あら野』)
ねられずやかたへひえゆく北おろし (『あら野』)
※鴨鳴くや弓矢を捨てて十余年(『いつを昔』)
※露(つゆ)烟(けぶり)此の世の外の身請け哉(『続虚栗』)
※いなづまやどの傾城とかり枕 (『梟日記』)
※※箒こせまねてもみせん鉢叩き (『いつを昔』)
※※一昨日(おととひ)はあの山越へつ花盛り (『花摘』)
※※花守や白きかしらを突あはせ(『蘆獅子集』・『炭俵』)
振舞や下座になをる去年(こぞ)の雛 (『猿蓑』)
あら礒やはしり馴たる友鵆(ちどり) (『猿蓑』)
※※尾頭のこゝろもとなき海鼠哉 (『猿蓑』)
ひつかけて行や吹雪のてしまござ (『猿蓑』)
うす壁の一重は何かとしの宿 (『猿蓑』)
くれて行(ゆく)年のまうけや伊勢くまの (『猿蓑』)
心なき代官殿やほとゝぎす (『猿蓑』)
たけの子や畠(はたけ)隣(となり)に悪太郎 (『猿蓑』)
つゞくりもはてなし坂や五月雨 (『猿蓑』)
百姓も麥に取(とり)つく茶摘哥(うた) (『猿蓑』)
螢火や吹とばされて鳰のやみ (『猿蓑』)
夕ぐれや屼(はげ)並びたる雲のみね (『猿蓑』)
はつ露や猪の臥(ふす)芝の起(おき)あがり (『猿蓑』)
みやこにも住まじりけり相撲取 (『猿蓑』)
君が手もまじる成べしはな薄 (『猿蓑』)
月見せん伏見の城の捨郭(すてぐるわ) (『猿蓑』)
かゝる夜の月も見にけり野邊送 (『猿蓑』)
一戸(いちのへ)や衣もやぶるゝこまむかへ (『猿蓑』)
柿ぬしや梢はちかきあらし山 (『猿蓑』)
梅が香や山路獵入ル犬のまね (『猿蓑』)
ひとり寝も能(よき)宿とらん初子日(はつねのび) (『猿蓑』)
鉢たゝきこぬよとなれば朧かな (『猿蓑』)
うき友にかまれてねこの空ながめ (『猿蓑』)
振舞や下座になをる去年の雛 (『猿蓑』)
知人にあはじあはじと花見かな (『猿蓑』)
鳶の羽も刷(かいつくろひ)ぬはつしぐれ (『猿蓑』)
鶏もばらばら時か水鶏なく (『猿蓑』)
春や祝ふ丹波の鹿も帰とて (『炭俵』)
朧月一足づゝもわかれかな (『炭俵』)
うのはなの絶間たゝかん闇(やみ)の門(かど) (『炭俵』)
すヾしさや浮洲のうへのざこくらべ (『炭俵』)
名月や掾(縁)取まはす黍(きび)の虚(から) (『炭俵』)
芦のほに箸うつかたや客の膳 (『炭俵』)
瀧壺もひしげと雉のほろゝ哉 (『續猿蓑』)
のぼり帆の淡路はなれぬ汐干哉 (『續猿蓑』)
萬歳や左右にひらひて松の陰 (『續猿蓑』)
立ありく人にまぎれてすヾみかな (『續猿蓑』)
寐道具のかたかたやうき魂祭 (『續猿蓑』)
凉しくも野山にみつる念仏哉 (『續猿蓑』)

 これらの蕉門関連の俳諧撰集に入集されている去来の句を見ていくと、そこには、ぽっかりと去来像が浮かび上がってくる。まず、「鴨鳴くや弓矢を捨てて十余年」(※)などは、其角の『いつを昔』の一句であるが、武人去来のイメージが浮かび上がってくる。しかし、武人一本槍ではなく、親しい友が心を通わせていた遊女の死に寄せて、「露(つゆ)烟(けぶり)此の世の外の身請け哉」(※)など遊里通いに明け暮れた洒落者像もまた去来の一面なのである。生涯正妻をもたなかった去来の唯一の女性・可南女(かなじょ)の前身も遊女であった(この可南女の『続猿蓑集』の句に「ぎぼうしの傍(はた)に経よむいとゞかな」など)。「いなづまやどの傾城とかり枕」(※)の句など洒落者・其角と相通ずるものがあろう。これまた、『いつを昔』の一句であるが、「箒こせまねてもみせん鉢叩き」(※※)と剽軽(ひょうきん)な像もまた、去来の一面であろう。この句は鉢叩きの真似事をして師の芭蕉を慰めるものであった。芭蕉の開眼の一句「古池や蛙飛び込む水の音」が入集されている『蛙合』の一句は、季下の「蓑うりが去年(こぞ)より見たる蛙哉」と番(つが)わされての、勝ちの一句で、その「一畦(ひとあぜ)はしばし鳴きやむ蛙哉」(※※)は、「作為濃(こま)やかなり」の評を得て、芭蕉書簡でも称賛を受けたものである。『蘆獅子集』の、「花守や白きかしらを突あはせ」(※※)の句は、芭蕉より「さび色よくあらはれ、悦び候ふ」(『去来抄』)と激賞され、『猿蓑』の「尾頭のこゝろもとなき海鼠哉」(※※)の、この洒脱なユーモラスの世界もまた、去来の一面なのである。其角の『花摘』入集の句、「一昨日(おととひ)はあの山越へつ花盛り」(※※)ついて、「芭蕉が『此の句は今はとる人も有るまじ。猶二、三年はやかるべし』(『旅寝論』)と、その時代に先駆けた新しみを評価し、吉野行脚の折にはこの句を口ずさみながら歩いたものだと報じて絶賛したというエピソードも伝わるように、その詩才は決して凡庸だったわけではない。一昨日あの山を越えたときとは違い、今は爛漫たる桜花が雲のように白くたなびいているという、吉野の山々を眺望した浪漫的な句風は、いかにも軽やかである」(『堀切・前掲書』)。このように、これらの代表作について一句、一句見ていくと、さまざまな去来のイメージというものが蘇ってくるが、全体として、『あら野』(荷兮編)・『猿蓑』(去来・凡兆編)・『炭俵』(野坡他編)・『続猿蓑』(沾圃編か支考編か)と、芭蕉の生涯の足跡と去来の足跡とは何と一致することか。芭蕉の俳諧の軌跡が、即、去来の俳諧の軌跡と言って決して過言ではなかろう。そのように去来の全体像をつかんで、一口に去来の俳風というのは、『田中・前掲書』の、次のような「花は三つ実は七つ」ということに要約できるのかも知れない。

※『俳諧問答』「同門評判」の中で、許六は去来の俳風について「花実をいはゞ、花は三つにして実は七つ也」とか「不易の句は多けれども、流行の句は少なし。たとへば衣冠束帯の正しき人、遊女町に立てるがごとし」と評している。支考も同様に「誠にこの人よ、風雅は武門より出づれば、かたき所にやはらみありて」(「落柿舎先生挽歌」)と述べており、芭蕉はそうした作風の傾向を抑えて、去来に対し常に「句に念を入るべからず」(『旅寝論』)と諭していたという。確かに「花」よりも「実」を重んずる去来の俳風は、とかく観念的になりがちな面があったのである。

 この「「花は三つ実は七つ」という観点から、掲出の『兄弟句』の十九番の去来の句、「浅茅生やまくり手下すむしの声」、そのの「まくり手下す」とは、いかにも「実は七つ」の武門出の去来らしい思いがする。これに対して、其角は、「まくり手に松虫さか(が)す浅茅哉」と、こちらは、「花は七つ実は三つ」という趣である。其角の判詞には、「野辺までも尋て聞し虫のねのあさち(浅茅)か(が)庭にうらめしきかな」(寂蓮)が、これらの句の背景にあるという。まさに、其角は定家卿の風姿である。

 そもそも、去来が芭蕉門に入ったのは、貞享元年(一六八四)の夏から秋にかけて京阪地方を遊吟した、当時二十四歳の其角との出会いがその切っ掛けであった。時に、去来、三十四歳、芭蕉、四十一歳であった。去来はそれまで和歌に親しんでおり(「去来先生行状」)、其角への紹介は、京洛から江戸へ移住してきた和田蚊足(ぶんそく)によるものだとされている(『堀切・前掲書』)。爾来、去来と其角とは親しい関係にあり、元禄三年(一六九〇)の、其角の編んだ『いつを昔』の「序」を去来が草し、翌元禄四年の、去来・凡兆が編んだ『猿蓑』の「序」を其角が草した(『猿蓑』「序」は第三十七、『いつを昔』「序」は第四十六で前述した)。この去来の『いつを昔』の「序」の「誹諧に力なき輩(ともがら)、この集へうちへかたく入るべからざるものなり」は、「去来の名を借りたのは其角の趣向であって、去来の預かり知らぬところであった」ともいわれている(『田中・前掲書)。この「序」ほど、其角の俳風をストレートに語りかけているものは他に例を見ないであろう。そして、この二人が、芭蕉没後、相互に齟齬を来すこととなる。ここのところを、『田中・前掲書』は次のとおり記述している。

※芭蕉が没して四年、師の教えが次第に忘れられてゆくことを憂いた去来は、師の教えに帰ることを訴えて其角に書簡を送った。其角は『末若葉』の跋文に、この書簡を掲げた。ただしそのまま掲げたわけではなく、部分的に原文の文句を生かしているが、全面的に書き直し(書き直したというより改竄)、分量も原文の役半分に縮めている。其角に送った去来書簡の原文は風国編『菊の香』(元禄十)に収録されているので、其角の改竄の実態が分かる。(中略)去来書簡の原文には、さらに次のような文言も見える。
  退いておもふに、其角子は力の行く事あたはざる者にあらず。かつ、才丸・一晶が輩のごとく、己が管見に息づきて道をかぎり、師を捨つるたぐひにあらず。
この文章で去来がいおうとしたことを簡単にまとめれば、其角は師の教えを実行する力は十分にあり、また彼は才丸(才麿)や一晶のように狭い世界に閉じこもって、師を捨てるような人物ではない。(中略) 其角にとってこの忠言は大きなお世話であったと思う。そして、去来書簡の原文にあった「暫く流行のおなじからざるも、又相はげむの便りなるべし」という芭蕉の言葉を、其角は「ともに風雅の神(しん)をしらば、晋(其角)が風興をとる事可なり」と改竄した。このように改竄することによって、其角は自分の立場を明言したといってよい。ここで、彼がいおうとしているのは、風雅の精神さえ忘れなければ、芭蕉流の俳諧を取るもよし、其角流の俳諧を取るもよし、ということである。芭蕉の後を追うことのみに固執している其角の批判が、この一文にこめられている。『俳諧問答』(元禄一一)において、許六は、去来の書簡に答えなかった其角を批判して、「生得(うまれつき)物にくるしめる志なく、人の辱しめをしらず。故に返答の詞なく」と述べているが、去来の書簡を改竄して『末若葉』に掲げたことが、去来に対する其角の返答だったのである。(後略)。

 年齢的には上の、去来も許六も、こと蕉門の実質的にリーダーである其角には、為す術を知らなかったということであろう。まして、年齢が下の支考などは、其角は眼中になかったことであろう。其角は終生芭蕉に対する敬慕は失わなかった。また、終生芭蕉に叩き込まれた「風雅の精神」を堅持した。其角は終生「翁の心を得て」いたことも事実であろう。しかし、其角は「先師(芭蕉)ノ枯澹(あっさりしている中に深いおもむきのあること)ヲ以テ範トセズ」、「翁(芭蕉)ノ心ヲ得テ、翁ノ跡ヲ踏マザル者」(其角編『三上吟』「跋」)であったのである。其角在世中は、蕉門はまだその体裁を保っていた。しかし、其角没(宝永四年)後は、蕉門のそれぞれは、それぞれに、芭蕉の「風雅の精神」を矜持しながら、それぞれ己の俳諧へと邁進していったのである。


(謎解き・六十八)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十七番
   兄 介我
 海棠の花ハ満(ち)たり夜の月
   弟 (其角)
 海棠の花のうつゝやおぼろ月

介我については、次のアドレスに下記のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kaiga.htm

佐保介我/普舩(さほ かいが/ふせん)
(~享保3年(1718)6月18日、享年67歳)
大和の人だが江戸に在住。通称は孫四郎。天和期に蕉門に入ったらしい。『猿蓑』・『いつを昔』などに入句。
(介我の代表作)
海棠のはなは滿たり夜の月  (『猿蓑』)
金柑はまだ盛なり桃の花  (『續猿蓑』)

「轍士」が匿名で論評した『花見車』では、「こうし」(格子)の格付け(太夫に次ぐ)で次のように記述されている。

晋(其角)さまについていさんしたゆえ、手跡(筆跡)までよう似せさんす。

其角の直弟子の一人である。蕪村の師の早野巴人に近い俳人で、蕪村の俳詩「北寿老仙を悼む」(「晋我追悼曲」)の「北寿老仙」こと、早見晋我(結城の俳人)の師筋にあたるともいわれている。

さて、『兄弟句』の十七番の、介我の句(兄)は、『猿蓑』入集の句で、これを以てするに、其角は、「海棠の花のうつゝやおぼろ月」と、この「うつゝや」が何とも其角らしい。その判詞には、「(介我の句が)一句のこはごはしき所あれば自句にとがめて優艶に句のふり分(わけ)たり。趣向もふりも一つなれども、みちたり夜のと云(いえ)る所を、うつゝや朧と返して吟ずる時は、霞や煙、花や雲と立のびたる境に分別すべし」とある。


(謎解き・六十九)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十八番
   兄 (其角)
 花ひとつたもとにすか(が)る童かな
   弟 (其角)
 花ひとつ袂に御乳の手出し哉

其角の判詞(自注)には、「たもとゝいふ詞のやすらかなる所」に着眼して、「花ひとつたもと(袂)に」をそれをそのままにして、句またがりの「すか(が)る童かな」を「御乳の手出し哉」で、かくも一変させる、まさに、「誹番匠」其角の「反転の法」である。この「反転の法」は、後に、しばしば蕪村門で試みられたところのものであるという(『俳文学大辞典』)。ちなみに、伝蕪村筆とすわれる『続俳家奇人談』(天保三年)の「書賛物」に記載されている「蕉門十哲」の俳人は「其角・嵐雪・去来・丈草・杉風・野坡・越人・支考・北枝・許六」である。ちなみに、「荷兮」の名が見られるのは、『風俗文選通釈』(安政五年)と数は少ない。

ここで、『去来抄』「先師評」の下記のアドレスでの「荷兮の凩の句」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」六)

6、 凩(こがらし)に二日(ふつか)の月のふきちるか   荷兮(かけい)
   凩(こがらし)の地にもおとさぬしぐれ哉   去来
 去来曰、二日の月といひ、吹ちるかと働たるあたり、予が句に遥か勝(まさ)れりと覚(おぼ)ゆ。先師曰、兮(けい)が句は二日の月といふ物にて作せり。其名目(そのみゃうもく)をのぞけばさせることなし。汝が句ハ何を以(もっ)て作(さく)したるとも見えず。全体の好句也。ただ地迄(ちまで)とかぎりたる迄(まで)の字いやしとて、直(なほ)したまひけり。初は地迄(ちまで)おとさぬ也。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,12~13)

 夕暮れのようやく陽の沈んだ空にうっすらと針のようにとがった月を見たとき、これが二日の月かと思ったが、あとでカレンダーを見ると旧暦の3日だったということがある。果たして二日の月というのは本当に見えるのだろうか。見えないからこそ「吹き散るか」なのだろう。
 「か」も「かな」も今日の関東の言葉ではどちらも疑問の意味しかない。だから「吹き散るか」と言われると「吹き散るか?」の意味に聞こえてしまう。しかし、かつては「か」も「かな」も詠嘆の意味で用いられていた。もっとも純粋な詠嘆というよりは多少想像を含んだ「!?」のニュアンスが込められている。

 ほろほろと山吹散るか滝の音   芭蕉

の「か」も「かな」と同様に詠嘆の意味だ。この用法は今日でも関西のほうでは「が」や「がな」という濁った形で残っている。「二日の月が吹き散るがな」「山吹が散るがな」「そうでんがな」「そうやが」の「が」「がな」だ。
 荷兮の句はその意味では、あるはずのない月を木枯らしで吹き散ったことにしたもので、月が吹っ飛んだという奇抜な発送、突拍子もない想像の面白さが生命の句だ。
 去来の句も、木枯らしに時雨の雨が吹っ飛んで地面に落ちない、という実際にはありえない想像を交えた句だが、月が吹っ飛ぶほどの想像力の飛躍はない。その差から、荷兮の句は世間にもてはやされて、「木枯らしの荷兮」の名までもらったが、去来の句はさしたる話題にもならなかったのだろう。去来自身、荷兮の句の勝れていることは認めていた。それに対し、芭蕉は去来をなぐさめて言ったのだろう。
 芭蕉の評「兮(けい)が句は二日の月といふ物にて作せり。其名目(そのみゃうもく)をのぞけばさせることなし。」というのは、要するに木枯らしそのものより二日の月が吹っ飛ぶという奇抜な空想のほうに重点が移り、「木枯らし」のもつ伝統的な情(本意本情)を必ずしも的確に捉えていないということなのだろう。それに比べれば、去来の句のほうは地味だが、風に砕け散ってゆく冷たい雨粒に、冬の厳しい寒さが感じられ、蓑笠でも時雨を防ぎ切れない旅人の哀れさも感じられる。人目を引くような言葉の鋭さはないが、これが良いにつけ悪いにつけ去来の句の持ち味なのだろう。「汝が句は何を以て作したるとも見えず。全体の好句也。」という芭蕉の評価は適切だ。


(謎解き・七十)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十九番
   兄 亀翁
 寝た人を跡から起(き) て衾かな
   弟 (其角)
 酒くさき蒲団剥(ぎ)けり霜の声

この亀翁については、先に触れた(第六十)。ここで、再掲しておきたい。

『田中・前掲書』では、亀翁について次のとおり記述している。
(再掲)
※亀翁は岩翁の息子で、元禄三年は十四歳であった(『俳諧勧進牒』)。元禄六年刊行の『流川集』(露川編)に彼の元服を祝う支考と其角の句があるから、元禄五年に元服したのであろう。年は若かったが『いつを昔』以後其角派の一員として活躍し、元禄七年には父の岩翁や横几(おうき)・尺草(せきそう)・松翁(しょうおう)らと其角の供をして関西旅行に出かけている。『猿蓑』(元禄四)に三句、『俳諧勧進牒』(同)に五十一句入集しており、将来を嘱望されていた若手の一人であったと思われるが、どういうわけかこの関西旅行以後は俳壇から姿を消す。楠元六男氏の「芭蕉俳文『亀子が良才』の成立をめぐって」(「連歌俳諧研究」五四)によると、元禄七年以後の亀翁の作は、『有磯海・となみ山』(元禄八)に発句一、『洗朱』(元禄一一)に付句一があるだけである。
次のアドレスのネット記事は次のとおりである。

http://apricot.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kioh.htm

多賀谷亀翁(たがや きおう)(生年不詳)
江戸の人。多賀谷岩翁の息子。通称万右衛門。天才のほまれ高く、14歳のときの句が猿蓑に入集するという天才振りを発揮した。
(亀翁の代表作)
茶湯とてつめたき日にも稽古哉(猿蓑)
春風にぬぎもさだめぬ羽織哉(猿蓑)
出がはりや櫃にあまれるござのたけ(猿蓑)

其角が芭蕉門に入門したのも、十四歳の頃とされているが、この亀翁も十四歳で、『猿蓑』に入集するという、「天才・亀翁」の名も冠せられている早熟の俳人である。介我と同じく、其角の直弟子で、其角の『いつを昔』には、この亀翁に大きなページを割いている。其角は、この亀翁に、自分のデビュー当時のことを重ね合わせながら、芭蕉が其角に大きな期待を寄せていたように、その将来を嘱望していたことであろう。しかし、この『句兄弟』が刊行された元禄七年(一六九四)以降には、その名を見ないという。その元禄七年は、芭蕉が没した年でもあった。その意味では、天才・亀翁は、天才・芭蕉と共に、日本俳壇史から、消え去ったという趣でなくもない。亀翁の、「寝た人を跡から起(き) て衾かな」の句に対して、酒好きの其角は、「酒くさき蒲団剥(ぎ)けり霜の声」とは、これまた、其角らしい換骨奪胎である。この「霜の声」の季語の活用も其角好みであろう。

ここで、『去来抄』「同門評」の下記のアドレスでの「少年の句」関連のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo2.html#m

(「同門評」一四)

14、 嵐山(あらしやま)猿のつらうつ栗のいが   小五郎(こごらう)
    花ちりて二日おられぬ野原哉(かな)
 正秀曰(まさひでいはく)、嵐山ハ少年の句にして、しかも風情あり。落花ハわる功の入たる処見えて、少年の句と謂がたし。去来曰、二日おられぬといへるあたり、他流の悦ぶ処にして、蕉門の大ひに嫌ふ事也。 (岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,35)

 「嵐山」の句は上五の「嵐山」と下七五の「栗のいが」が羅列された感じで稚拙な感じがするし、栗のいがが猿の面を打つという趣向も絵が浮かんで面白いし無邪気な感じがするが、想像力は豊かでも、それほどリアリティーはない。そういう点では子供の考えそうな、ということになるのだろう。
 「花ちりて」の句は、花が散ってしまった殺風景な野原には二日といられないという意味なのだろうが、花というのは散る様も風情があり、散った後の名残を惜しみ、花は散っても心の花は散らないというところに風流の心がある。花が散ったからもう用はないというのはいかにも非情で無風流な感じだ。
 この二句は浪化(ろうか)編の『有磯海(ありそうみ)』の句で、どちらも子供の句だという。前者は野明息十一歳とあり、後者は嵯峨農十二歳市とあり、句風の違いは親の教え方の違いか。去来は「他流の悦ぶ処にして、蕉門の大ひに嫌ふ事也」とはいうものの、浪化も一応北陸蕉門の中心人物で、なぜこのような句を採ったのかはわからない。子供ならこの程度でいいかというところか。


(謎解き・七十一)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

二十番
   兄 赤右衛門 妻
 嚔にさへ笑ハゝ(バ)いかにほとゝき(ぎ)す
   弟 (其角)
 さもこそハ木兎(みみずく)笑へほとゝき(ぎ)す

 この「赤右衛門 妻」は未詳である。其角の「判詞」(自注)に、「此の句はをのが年待酔の名高き程にひびきて人口にあるゆへ、更に類句の聞こえもなく一人一句にとどまり侍る」(濁点等を施す。以下、同じ)とあり、当時は、よく知られた句の一つであったのだろう。「鶯の花ふみちらす細脛を大長刀にかけてともよめりければ、是等は難躰の一つにたてて、かの妻に笑へるを見しと答しを興なり」と、その換骨奪胎の種明かしをしている。そもそも、この『句兄弟』は、其角が、当時余りにも露骨な類想句を目にしての、その「類想を逃るる」ための、換骨奪胎の具体例を示すために、編まれたものであった。こういう、当時のよく知られた句を素材にして、全然異質の世界へと反転させる、その腕の冴えは見事だという思いと、「これ見よがし」の自慢気な其角の風姿が見え見えという思いも深くする。

ここで、『去来抄』「先師評」の下記のアドレスでの「類想のいましめ」のものを付記しておきたい。

http://www.h6.dion.ne.jp/~yukineko/kyoraisyo.html#g

(「先師評」八)

8、 清瀧(きよたき)や浪(なみ)にちりなき夏の月
 先師難波(なには)の病床に予を召て曰、頃日園女(このごろそのじょ)が方にて、しら菊の目にたてて見る塵(ちり)もなしと作す。過し比(ころ)ノ句に似たれバ、清瀧の句を案じかえたり。初(はじめ)の草稿野明(やめい)がかたに有べし。取(とり)てやぶるべしと也(なり)。然(しか)れどもはや集々(しふしふ)にもれ出(いで)侍れば、すつるに及ばず。名人の句に心を用ひ給ふ事しらるべし。(岩波文庫『去来抄・三冊子・旅寝論』P,13)

 元禄7(1694)年5月11日、芭蕉は故郷伊賀へと旅立ち、これが最後の旅となる。伊賀を中心にして伊勢、京都、彦根などの旧来の門人の所を回った芭蕉は、6月15日頃、京都落柿舎に滞在し、この「清瀧や」の句を詠んだ。その後9月8日に芭蕉は伊賀から大阪へと向かう。この旅は西国・九州への旅立ちとされてきたが、直接的には大阪での酒堂・之道との不仲を仲裁に行くという動機もあり、事情は定かではない。いずれにせよ、10月12日大阪で芭蕉は帰らぬ人となった。
 奈良を過ぎたあたりから既に芭蕉の病状は悪化し、大阪にたどり着くのもやっとのことだった。大阪で、芭蕉は病気を押して俳諧興行を重ね、9月27日の園女(そのめ(そのじょとも言う)亭での興行の発句として、

 白菊の目に立てて見る塵(ちり)もなし  芭蕉

の句を詠む。白菊は晩秋の季題であるとともに美人にも例えられる。園女が果たして美人だったかどうかはともかくとして、そんな気にすることはないじゃないか、白菊ということにしておいてあげて、という句だ。座を盛り上げるための有りがちな冗談とも取れるが、芭蕉も男だから、何か惹かれるものがあったのかもしれない。この興行は大勢でにぎやかに楽しんだ芭蕉の最後の興行だった。
 何となく病床で死期を悟った芭蕉は、このときの発句が「清瀧や」の句に似ていることが気にかかったのは当然のことだった。自分の最期を飾る大切な思い出の句が等類というのはいただけない。各務支考(かがみしこう)の『芭蕉翁追善之日記』によれば、芭蕉は「その句、園女が白菊の塵にまぎらはし。是も亡き跡の妄執と思へば、なし替え侍る。」と支考に語ったという。10月9日のことだった。
 そのときの改作が

 清滝や波に散り込む青松葉  芭蕉

で、前日に詠んだあの有名な

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉

の句とともに芭蕉の絶筆となった。

金曜日, 4月 06, 2007

其角とその周辺・六(五十六~六十五)


画像:西山宗因

(謎解き・五十六)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

五番
   兄 信徳
 雨の日や門提(げ)て行(く)かきつばた
   弟 (其角)
 簾まけ雨に提(げ)来(る)杜若

この五番手の伊藤信徳(~元禄十一年没)については、下記のアドレスで、次のとおり紹介されている。

http://apricot.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/shintok.htm

※京都新町通り竹屋町の商人。助左衛門。若かった時分、山口素堂とも親交があつかった。貞門俳諧から談林俳諧に進み、『江戸三吟』は、この芭蕉・素堂・信徳の三人による。梨柿園・竹犬子は別号。享年66歳。

この『江戸三吟』は、京の信徳が延宝五年(一六七七)の冬から翌年の春にかけて江戸滞在中に、桃青(芭蕉)・信章(素堂)と興行した三吟百韻三巻を収める。「三人の技量が伯仲し、軽快で才気あふれる諧謔のリズムに乗って展開しており、江戸談林や京の高政一派に見られるような難解奇矯の句は少なく、当時の第一線の作品となっている」(『俳文学大辞典)。その百韻三巻の表の三句のみを抜粋して見ると次のとおりである。

※ あら何共なや(百韻) 延宝五年
発句 あら何共(なんとも)なやきのふは過(すぎ)て河豚(フクト)汁 桃青
脇  寒さしさつて足の先迄                     信章
第三 居あひぬき(合抜)霰の玉やみだ(乱)すらん          信徳
※ 物の名も(百韻) 延宝六年
発句 物の名も蛸(凧)や故郷のいかのぼり               信徳
脇  あふ(仰)のく空は百余里の春                 桃青
第三 嶺に雪かねの草鞋(ハランヂ)解(とけ)そめて         信章
※ さぞな都(百韻) 延宝六年
発句 さぞな都浄瑠璃小哥(うた)はこゝの花             信章
脇  霞と共に道外(化)人形                     信徳
第三 青いつら笑(わらふ)山より春見えて              桃青

また、掲出の信徳の句については、潁原・前掲書で次のとおり解説されている。

※この句はかつて芭蕉が江戸から書を寄せて、信徳に上都の風体を問うた時、信徳は和及・我黒等と日々相会して討論した結果、遂にこの吟を得て答へたものであるといふ。さうした逸話の真偽はともかくとして、句は誠に素直に嘱目のまゝに叙してゐる。貞享三年の作とすれば、芭蕉はすでに古池の吟に心眼を開いたといはれる頃であるから、あへて信徳に都の俳風を問ふまでもなかつたも知れぬが、この句は俳諧がもはや詞花言葉の弄びではなく、自然を素直に見る所から生るべきものだといふ第一義的態度を表明したものと思はれる。たゞ惜しい哉、信徳はなほ時代がやゝ早く生れすぎた為か、それともその天分が足りなかつた為か、なほこれらの作を最上とする程度に終つた。  

桃青・信章・信徳の『江戸三吟』が興行された延宝五年当時は、芭蕉、三十四歳、其角、十七歳のときで、其角は、この年、『桃青門弟独吟廿歌仙』(延宝八年刊)所収の作品を手がけている(其角年譜)。この当時の其角は、この『江戸川三吟』の三人の師匠の作風、すなわち、貞門俳諧から談林俳諧への新風を、己がものにしていく日々であったことであろう。しかし、掲出の信徳の句が公表される貞享三年(一六八六)には、若干、二十六歳にして、「日の春をさすがに鶴の歩み哉」の歳旦句を発句にして、『初懐紙』の百韻一巻が巻かれ、蕉門筆頭の地位を歩き始めている。いかに、其角が、若くして、蕉門の中にあって、群れを抜いていたかということについて、この延宝五年から貞享三年までの、その年譜を見ただけでも驚かされるのである。いずれにしろ、この信徳とこの掲出句については、其角ネットワーク関連のものというよりも、これまた、芭蕉ネットワーク関連のものと理解すべきなのであろう。

さて、この信徳の掲出句を換骨(古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる)するに、「花の雫をそのまゝに色をも香をも厭ひけるさまをすた(だ)れまけと下知したるなり」と、いかにも「道具立て」の煌びやかな、趣向の俳人、其角らしいという趣である。この二句を見比べて、其角の句(弟)は、信徳の句(兄)の「焼き直し」の句というのよりは、其角その人の「独自の作品」として、「類想」・「等類」・「同素」の域を超えているものという思いを深くする。まさに、「句兄弟」という趣である。


(謎解き・五十七)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

六番
   兄 曲水
 三弦やよしのの山を佐月雨
   弟 (其角)
 三味線や寝衣(ネマキ)にくるむ五月雨

菅沼曲水(曲翠)については、下記のアドレスでは次のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kyokusui.htm

※曲翠とも。本名菅沼外記定常。膳所藩重臣。晩年奸臣を切って自らも自害して果てる。『幻住庵の記』の幻住庵は曲水の叔父菅沼修理定知の草庵。曲水は、近江蕉門の重鎮でもあり、膳所における芭蕉の経済的支援をした。高橋喜兵衛(怒誰)は弟。

『俳句講座二』所収「菅沼曲翠」(榎坂浩尚稿)は、次の文面で始まる。
※元禄二年冬、奥の細道の旅を終えてから、元禄四年十月、江戸に帰りつくまでの三年間、大津、膳所といった湖南の地に滞在した芭蕉は、江戸帰着早々、膳所の曲翠に宛てて、
誠(まこと)三とせ心をとゞめ候はこれたれが情ぞや。何とぞ、今來江戸にあそび候はゞ又また貴境と心構候間、偏へん膳所之旧里のごとくに存候。
と書いた。「三とせ心をとゞめ候はこれたれが情ぞや」・・・言う通り、三年の滞在は、一に湖南の門人たちの暖かい心づかいによるものであった。芭蕉が「旧里のごとく」と懐かしみ、一・二年の中に再び行きたいと漏らす、この湖南の地は、数多くの門弟たちがいた。丈草・正秀・木節・千那・乙州・酒堂・曲翠・昌房・探志・怒誰など、その数はほぼ二十名に及ぶ。しかも、中でも、一夏、旅のつかれを休め、旅中の数々の感銘を反芻整理すべき、恰好の住まい・・・幻住庵を提供した曲翠の暖かい心づかいは、芭蕉にとっては、何よりも嬉しいことであったにちがいない。

 この曲翠の芭蕉入門は、上記の図書によれば、「貞享四年頃と推定される。そして、その後の曲翠の句は多く其角系の俳書に載っていることとか、其角との両吟が少なくないことなどから、江戸において、其角を通じての入門であったと考えられる。曲翠は藩務のため、毎度何度か東下しているから、こうした機会が想定されて当然といってよいだろう」としている(この「其角を通じての入門であったと考えられる」については、後述したい)。
また、その最期について、「享保二年、同輩家老の曽我権太夫が、主君の寵を恃んでしばしば不正を働いていたのを責めて斬り、自らも自刃するという、いかにも武人らしい最期を遂げた曲翠の、非を憎む純粋の人柄は、いわば以上のごとき由緒正しい武人の系譜の中に考えられるべきことであったのである」と、実に悲劇的な最期であった。その家族については、「妻は、和泉岸和田藩士の娘で、誠実純粋な夫の人柄にふさわしく、夫の没後、薙髪して破鏡尼と名乗り、筑紫琴の名手として破鏡流を創始し、岸和田に隠棲して、貞節の生涯を終えたといわれる(『近世畸人伝』)。また、子息の内記は、父の自刃後、江戸にて死を賜り、十八歳の若さで死んだ。なお、芭蕉の書簡にしばしば名を見せる竹助は、この内記の兄に当り、早世したらしい」と記述されている。この曲翠も、その蕉門入門こそ其角を介在してのこととしても、其角ネットワークの人物というよりも、芭蕉ネットワークの、膳所藩重臣と身分の高い近江蕉門の重鎮と位置づけられるであろう。

さて、この膳所藩重臣の由緒正しい家柄の曲翠の掲出の句は、「三弦」の句であっても、何処にも女性を侍らしての艶っぽい世界のものが感知されないのに比して、其角の「三味線」の句は、同じ「三弦(三味線)と五月雨」の句であっても、この中七の「寝衣(ネマキ)にくるむ」で、放蕩生活に明け暮れた其角その人の自画像が浮かび上がってくる。先に紹介した、其角の俳諧撰集『いつを昔』は、当初、『誹番匠(はいばんしょう)』という名で刊行される予定であったが、この『誹番匠』とは「俳諧の大工」というようなことで、同じ主題・言葉を用いても、大工の腕次第で、別世界の、句が善くも悪くもなるというようなことを意図したものであろう。いかにも、この掲出の二句を見比べて、其角の判詞の「寝巻にといふ品にかはりて閨怨の音にかよはせ侍る」とは、つくづく、其角とは、「俳諧の名工」という感を大にするのである。


(謎解き・五十八)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

七番
   兄 (其角)
 禅寺の華に心や浮蔵主
   弟 (其角)
 客数寄や心を花にうき蔵主

これまでの、貞室→拾穂軒(季吟)→素堂→粛山→信徳→曲水(曲翠)と、ここに来て、作者名が空白(其角)で、それが七番・八番と続き、九番が岩翁、十番がまた空白(其角)となっていく。これらの順序なども何か意図があるのかも知れないが、これまでのものを振り返って見て、いわゆる、発句合わせ(句合わせ)の、兄・弟との両句の優劣を競うという趣向よりも、前回に触れた、兄の句の主題・言葉を使って、いかに、弟の句を「誹番匠」(言葉の大工)よろしく、換骨奪胎するか、その腕の冴えを見せるという趣向が濃厚のように思われるのである。この掲出の二句でも、「華(花)・心・浮蔵主(うき蔵主)」は同じで、違うのは、上五の「禅寺」(兄)と「客数寄」(弟)との違いということになる。それだけで、この兄の句と弟の句は、まるで別世界のものとなってくる。この兄の句は、「禅寺にも花が咲き、経蔵を管理する老僧の心も華やいでいる」という対して、弟の句は、「茶の湯の客人は、禅寺の経蔵管理の老僧で、数寄者に相応しく、この庭の花を心から愛でている」とでもなるのであろうか。兄の句は、中七の「華に心や」切り、下五の「浮(き)坊主」と、この判詞にある「古来は下へしたしむ五文字を今さら只ありに云流したれは(ば)」というのを、弟の句では、上五の「客数寄や」切りにして、「心を花にうき坊主」と「心を花にうき」と「うき坊主」と「うき」を掛詞として、「花見る庭の乱舞によせたり」という世界を現出しているということなのであろう。これらは、今にいう「添削」(主に作者以外の人が言葉を加えたり、削ったりして句を改めること)・「推敲」(作者自身による修正)の問題なのであろうか。これらに関して、芭蕉書簡の「点削」は、「評点を加え、添削するの意」で使われているとのことであるが(『俳文学大辞典』)、この其角の『句兄弟』のこれらのものは、この「点削」の要領に近いものを感ずるが、その「点削」そのものではなく、いわば、その兄の句の「主題・言葉」を使用して、また、別の句を作句するという、いわゆる、「反転の法」(ある句の語句の一部や発想を転じて、新たな趣意の句を詠ずる句法、もと漢詩の手法から想を得て、其角が『句兄弟』で等類を免れるために実践した法)の具体例というようなことなのであろうか(「反転の法」の説明は『俳文学大辞典』による)。この「反転の法」というのは、例えば、掲出の二句についていえば、兄の句を「反転の法」により、新しい別の弟の句を作句するということで、この兄の句と弟の句とは、「兄弟句」の関係にあるという理解でよいのかも知れない。なお、「等類」というのは、「先行の作品に作為や表現が類似していること」をいう。そして、「連歌では、心敬などは別にして、むしろこれに寛容な傾向が強いが、新しみを重んじる俳諧では、『毛吹草』以下とりわけ批判の対象となり、『去来抄』などに見られるように、蕉門では特に厳密な吟味がなされた」とされ、「去来は先行の句に発想を借り、案じ変えたものを同巣(どうそう)」といい、「近現代俳句では『類句』とも呼ばれる」(『俳文学大辞典』)。この「兄弟句」と「等類(句)」との一線というのは、はなはだその区別の判断は難しいであろうが、其角は、「漢詩の点化句法(『詩人玉屑』などに所出)をもとに」にしての「反転の法」により「等類」とは似て非なるものという考え方なのであろう。そもそも、連歌・俳諧というのは、「座の文学」であり、「連想の文学」であり、一句独立した俳句(発句)として、「独創性」を重んじるか「挨拶性」を重んじるか、その兼ね合いから個々に判断されるべきものなのであろうが、こういう其角の「反転の法」のような作句法も、これらの『句兄弟』の具体例を見ていくと、確かに、誰しもが、この種の、「推敲」なり「添削」を、無意識のうちに、それも日常茶飯事にやっているということを痛感する。と同時に、「兄弟句」と「等類」(「類句」)とは違う世界のものという感も大にする。また、この「反転の法」というのは、この句合わせの一番などに見られる「云下しを反転せしものなり」、そして、それは「句を盗む癖とは等類をのか(が)るゝ違有」ということで、この一番の解説での「換骨」(古人の詩文の発想・形式などを踏襲しながら、独自の作品を作り上げること。他人の作品の焼き直しの意にも用いる)と同趣旨のものと解したい。そして、それは、其角の代表的な撰集『いつを昔』の前題名として予定されていた「誹番匠」(言葉の大工)という用語に繋がり、そして、それは横文字でいうと、「レトリック」(①修辞学。美辞学。②文章表現の技法・技巧。修辞。)という用語が、そのニュアンスに近いものであろう。その意味では、其角というのは、「レトリック」と「テクニシャン」(技巧家)の合成語ともいうべき「レトリシャン」(修辞家)の最たる者という思いがする。いや、もっと「マジック」の「マジシャン」ということで、「言葉の魔術師」とでもいうべきネームを呈したいような思いを深くするのである。


(謎解き・五十九)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

八番
   兄 (其角)
 蔭惜(し)き師走の菊の齢かな
   弟 (其角)
 秋にあへ師走の菊も麦畑

さて、「言葉の魔術師・其角」の「反転の法」による「兄弟句」の二句である。この中七の「師走の菊」が、其角の判詞の「中七字珍重(もてはや)すへ(べ)し」ということで、この中七字は、「師走の菊の」(兄)の「の」と「師走の菊も」(弟)の「も」との一字違いだけである。この中七を活かして、いわゆる「反転の法」によって、それぞれ別世界を創出するというのが、「誹番匠」の其角師匠の腕の冴えの見せ場なのである。
まず、兄の句を見ていくと、「蔭惜(し)き師走の菊の齢かな」と、いわゆる「一物仕立」の「発句はただ金を打ちのべたる様に作すべし」(『旅寝論』)なのに対して、弟の句は、「秋にあへ師走の菊も麦畑」と「師走の菊」と「麦畑」の、いわゆる「取合せ」の「発句は畢竟取合せ物とおもひ侍るべし。二ツ取合せて、よくとりはやすを上手と云(いう)」と、そのスタイルを変えて、いわゆる「反転の法」によって、換骨奪胎を試みているのである。そして、其角は、この換骨奪胎を「句を盗む癖とは等類をのか(が)るゝ違有」と「句を盗むところの等類」を「逃るる」もので、これは「等類」ではなく、いわば「兄弟句」であるとするのである。弟の句の「秋にあへ」は「秋に敢へ」(秋の冷たい霜などにも堪え)と解して、判詞で言う「霜雪の潤むにおくるゝ対をいはゝ(ば)わつ(づ)かに萌出し麦の秋後の菊をよそになしけん姿」の句に変転した、「誹番匠」の其角師匠の腕の冴えは、只々脱帽せざるを得ないという思いを深くするのである。
こうして見てくると、この『句兄弟』の一番最後(三十九番)に、兄の句、「聲かれて猿の歯白し峯の月」(其角)、弟の句、「塩鯛の歯茎も寒し魚の店」(芭蕉)として、その判詞で、「予が句先にして師の句弟を分(わかつ)。其換骨をさとし侍る」というのは、「其角の師の芭蕉こそ、反転の法の雄であり、その換骨奪胎の腕の冴えを、その教えに続くものは、これをマスターして、自家薬籠中のものにすべし」というのが、其角の真意であって、このことを例にして、『悪党芭蕉』(嵐山光三郎)の「これより、蕉門は分裂に分裂を重ねることになる。その引きがねをひいたのは、まぎれもなく其角である。其角は芭蕉の『軽み』など屁とも思っていなかった。かくして、芭蕉没後、蕉門は四分五裂をくりかえすことになる」というのは、其角の、この『句兄弟』の真意を曲解しての、其角にしては、「ためにする論理」ということで、どうにもやり切れない思いがすることであろう(このことについては、この三十九番などで、折に触れて記述していきたい)。


(謎解き・六十)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

九番
   兄 岩翁
 達磨忌や朝日に僧の影法師
   弟 (其角)
 達磨忌や自剃にさくる水鏡

一・貞室→二・拾穂軒(季吟)→三・素堂→四・粛山→五・信徳→六・曲水(曲翠)→七(其角)→八(其角)→九(七)・岩翁と、岩翁は実質・七番手として登場する。『元禄の奇才 宝井其角(田中善信著)』(以下『田中・前掲書』)では、岩翁について次のとおり記述されている。

※『続虚栗』に岩翁(がんおう)が初めて一句入集する。彼は多賀谷長左衛門と称する幕府御用を勤める桶屋であったという。其角は元禄四年(一六九一)の大山・江ノ島・鎌倉の小旅行で岩翁親子(子は亀翁)と同行し、元禄七年の関西旅行でも岩翁親子と同行している。岩翁は『桃青門弟独吟二十歌仙』のメンバーの一人だが、一時俳諧から離れていたらしい。『続虚栗』以後は其角派の一員として活躍するが、其角のパトロンの一人であったと思われる。

次のアドレスのネット記事は次のとおりである。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/gannoh.htm

※多賀谷岩翁(たがや がんおう)(~享保7年(1722)6月8日)
 江戸の人。通称は、長左衛門。亀翁はその息子で、ともに其角の門弟で芭蕉にとってはいわば孫弟子にあたる。
(岩翁の代表作)
隈篠の廣葉うるはし餅粽 (猿蓑)
 
『田中・前掲書』では、亀翁について次のとおり記述している。

※亀翁は岩翁の息子で、元禄三年は十四歳であった(『俳諧勧進牒』)。元禄六年刊行の『流川集』(露川編)に彼の元服を祝う支考と其角の句があるから、元禄五年に元服したのであろう。年は若かったが『いつを昔』以後其角派の一員として活躍し、元禄七年には父の岩翁や横几(おうき)・尺草(せきそう)・松翁(しょうおう)らと其角の供をして関西旅行に出かけている。『猿蓑』(元禄四)に三句、『俳諧勧進牒』(同)に五十一句入集しており、将来を嘱望されていた若手の一人であったと思われるが、どういうわけかこの関西旅行以後は俳壇から姿を消す。楠元六男氏の「芭蕉俳文『亀子が良才』の成立をめぐって」(「連歌俳諧研究」五四)によると、元禄七年以後の亀翁の作は、『有磯海・となみ山』(元禄八)に発句一、『洗朱』(元禄一一)に付句一があるだけである。

次のアドレスのネット記事は次のとおりである。

http://apricot.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kioh.htm

※多賀谷亀翁(たがや きおう)(生年不詳)
江戸の人。多賀谷岩翁の息子。通称万右衛門。天才のほまれ高く、14歳のときの句が猿蓑に入集するという天才振りを発揮した。
(亀翁の代表作)
茶湯とてつめたき日にも稽古哉(猿蓑)
春風にぬぎもさだめぬ羽織哉(猿蓑)
出がはりや櫃にあまれるござのたけ(猿蓑)

さて、掲出の兄(岩翁)と弟(其角)の句についてであるが、今度は、上五の「達磨忌や」をそのままにして、反転の法により、換骨奪胎の「兄弟句」の作句の具体例ということになる。この判詞に「俳句ヲ論ズルニ禅ヲ論ズルガ如シ」と、いかにも若くして臨済宗の大顛(だいてん・俳号、幻吁)和尚に詩や易を学んだ其角らしいものである。「口で語るのは不可能である」というのであろう。それにしても、「自剃にさくる水鏡」とは、華麗な作為の「誹番匠」其角という思いがする。ここにいう「華麗な作為」とは、其角をして、「洒落・磊落・新奇・壮麗・多能・俊哲・多才」などという言辞が弄されるが、これらの諸々の意味においての「誹番匠」其角という思いである。

(謎解き・六十一)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十番
   兄 (其角)
 干瓜や汐のひか(が)たの捨小舟
   弟 (其角)
 ほし瓜やうつふけて干す蜑小船

この掲出の二句で、兄の句の「干瓜や汐のひか(が)たの捨小舟」のイメージはつかみ易い。それにしては、この弟の句の「ほし瓜やうつふけて干す蜑小船」の「うつふけて」の表現・言葉が、どうにもつかみ難い。「うつ」は、「棄つ」で「葦船に入れて流し棄つ」(『古事記(上)』)などの「捨てる」の意なのかどうか。それとも、「全」(接頭語)で、「まるまる」の意なのかどうか。次の「ふけて」は、「蒸けて」で「蒸されてやわらかくなって」の意であろう。「うつ」は、「まるまる」の意にとって解しておきたい。
この二句の具体例では、上五の「干瓜」(ほし瓜)は、そのままにして、下五の「捨小舟」(「蜑小船」)は「小舟」(「小船」)は、そのままにして、中七の「汐のひか(が)た」を「うつふけて干す」に変転することによって、「等類」の世界ではなく「句兄弟」の世界に変身しているかどうかというのが、この二句を提示している、「誹番匠」其角の狙いであろう。
この中七字の変転の工夫については、いわゆる「取合せ」論の許六の『俳諧問答』「自得発明弁」に出てくる次の推敲例が思いだされてくる。

梅が香や精進なますに淺黄椀
梅が香やすゑ並べたるあさぎ椀
梅が香やどこともなしに浅黄椀
梅が香や客の鼻には浅黄椀 (最終案)

これらは、この最後の最終案を得るための創作のプロセスであって、これらが、それぞれに一個独立した異次元の世界のものと把握するのは困難であろう。これらは、「梅が香」と「浅黄椀」との「よきとり合わせ」を、中七の表現によって、いかに、その「取合せ」を「ふれぬ」(「ふる」・「ふれぬ」)ものにしていくかという視点での推敲例である。それに比して、掲出の其角の二句については、その判詞でいう「舟の形容汐と云(ふ)一字のはたらきを反転せり」、それによって、弟の句は「古ヲ懐(いだ)キ古ヲ弔フ」の兄の句とは異次元の世界のものとなっているとする「反転の法」の具体例なのである。丁度、下記の有名な剽窃句(類想句)なのか、それとも、剽窃句ではない(句兄弟)ものなのかどうかという問題にも換言されるであろう。

獺祭忌(だっさいき)明治は遠くなりにけり (不明子)
  降る雪や明治は遠くなりにけり (草田男)

これらに関しては、「多行形式俳句」の実践者で優れた俳論家の一人である高柳重信氏の「『書き』つつ『見る』行為」という俳論がある(この俳論も、次のアドレスでネットで見ることができる)。

http://www.h4.dion.ne.jp/~fuuhp/jyusin/jyusintext/jyuusinkakimiru.html

 この俳論の要点(原文そのままに)は下記のとおりとなる。

一 たとえば、俳壇には、こんな説がある。手みじかに言えば、中村草田男の有名な俳句に「降る雪や明治は遠くなりにけり」があるが、それに先立ち、某氏によって「獺祭忌明治は遠くなりにけり」という句が書かれており、「降る雪や」は、その盗作、あるいは剽窃だ--という説である。
二 これくらい愚かしい議論はないと思うし、その愚かしさの理由についても、すでに一度ならず書いてきている。もともと「明治は遠くなりにけり」という言葉は誰彼の独占的な所有を主張できるようなものではなかったはずである。この「明治」という言葉は、少なくとも明治から大正にかけて生れてきた日本人にとって、作為的にも無作為的にも、実に、しばしば、多くの喚起を生んできたものである。したがって、その明治が遠くなってゆくという感懐も、かなり普遍的で共通なものであり、しかも、その喚起は、きわめて自然に「明治は遠くなりにけり」という言葉と、ほとんど同じ言葉で、随時、随所に行なわれたと思われる。それは、また、この言葉が、随時、随所に、その場、その時の感情的な限定を受けて、やや鮮明な感懐となり、自他ともどもに対して喚起カを発揮していたことを意味する。しかし、この言葉だけを、まったく無限定な状態で客観的に眺めるときには、かなり雑多な感情を未整理のまま包含していて、その方向も定まらぬように揺れ動いていると思わざるを得ない。人によっては、「明治」という言葉に、それぞれ正反対な感情を喚起される場合も考えられるから、それが遠ざかってゆくという感懐にも、おのずから対立したものが生まれてきて、何の不思議はないのである。
三 問題は、この「明治は遠くなりにけり」に、如何なる詩的限定、あるいは俳句的限定を加えるかにかかってくるわけだが、それを某氏のように「獺祭忌」としてしまったのでは、連想範囲が正岡子規とその周辺に限られて、この言葉の内包しているものを、非常に小さな時のなかに閉じこめてしまうことになる。こうして、みずから小さな枠のなかに閉じこめておきながら、やや大袈裟に言えば、当時の日本人の大多数の普遍的で共通な感懐を盛るにふさわしい「明治は遠くなりにけり」という青葉を、某氏一人の所得にしようとしても、それは、はじめから無理な願望であった。そこへゆくと、中村草田男の「降る雪や」は、この「明治は遠くなりにけり」という言葉が、その裾野を最大限にひろげてゆけるように、見事な詩的限定を行なっている。それは、本来、「明治は遠くなりにけり」という言葉が内包していた感懐のすべてを、少しも失なうことなく、やや情緒的に過ぎるけれど、鮮明なイメージを持った一個の表現としての客観性を、はっきりと獲得しているのである。この結果、「明治は遠くなりにけり」という言葉が、中村草田男の占有すべきところとなったのは、理の当然であろう。しかも、それにとどまらず、この「明治は遠くなりにけり」は、この中村草田男の作品が書かれて以後は、それによっていっそう鮮明となったイメージを伴ないながら、もう一度、日本人すべての手許へと帰ってきたのである。
四 現在の僕は、「獺祭忌明治は速くなりにけり」と「降る雪や明治は遠くなりにけり」の二つの俳句について、僕なりの弁別は出来るけれど、その先へは一歩も進むことは出来ないのである。もちろん、僕は、「獺祭忌」から「降る雪や」までは、幾つもの海や山を越えてゆかねば行きつかぬほどの距離があることを書くことも出来る。また、某氏の俳句は、言いとめると同時に簡単に言いおおせてしまっているから、そこに書かれた文字を通して、その向こう側に何も見えてこないので、要するに駄目なのだ、などと言うことも出来るだろう。そして、更には、やや、したり顔で「獺祭忌」から「降る雪や」までの距離のなかに、俳句表現に関する一切の問題が包含されている、などと説くことも出来るにちがいない。
五 たしかに、そうにちがいないのだが、もし、本当に実用的で有効な俳論を書こうとするならば、この「獺祭忌」にかわる「降る雪や」を、どうしたら発見できるかということを、はっきりと言いとめなくてはいけないはずである。だが、おそらくは、現在の僕のみならず、明日の僕も、明後日の僕も、まず不可能であるにちがいない。もっとも、俳壇では、この段階に至ると、誠心誠意だとか、感動に忠実であれだとか、あるいは、泥にまみれるまで対象に没頭せよだとか、きわめて精神主義的な言葉が安直に乱発され、それが、そのまま、有益な俳論として通用してしまうようである。しかし、それを言っている当人が、その説をどれほど信じているのか疑わしいし、現実に彼等の書きあげる俳句を見ると、その御利益のほども、軽々しくは信じられないような気がするのである。

 この長々と引用した、その最後(要点五)の「この『獺祭忌』にかわる『降る雪や』を、どうしたら発見できるか」という、この視点こそ、この「誹番匠」其角が、この『句兄弟』でさまざまに実践をしていることに他ならない。と考えてくると、「誹番匠」其角の狙いというのは、「等類」とか「等類を逃るる」とかという次元の問題なのではなく、一句を作るという、「素材(道具・見入れ)・構想(趣向)・表現(句作り)」の全てに関わる実践的な具体例ということになる。この意味において、この其角の『句兄弟』の、これらの「句合せ」(「発句合せ」)の具体例というのは、実に、それらの全てについて多くの示唆を含んでいることを痛感するのである。


(謎解き・六十二)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十一番
   兄 杉風
 屋形舟上野の桜散(り)にけり
   弟 (其角)
 屋形舟花見ぬ女中出(で)にけり

先に、其角は「貞享三年(一六八六)には、若干、二十六歳にして、『日の春をさすがに鶴の歩み哉』の歳旦句を発句にして、『初懐紙』の百韻一巻が巻かれ、蕉門筆頭の地位を歩き始めている」(第五十六)と記述したが、ここのところを、『田中・前掲書』では、「本来芭蕉が出すべき一門の歳旦帳を、其角が代行した形になっている。この当時の江戸蕉門の形態を今日の組織にたとえると、芭蕉は会長、其角は社長という関係になる。其角のグループは芭蕉門其角派であって独立した一門ではない。この形態は芭蕉が死没するまで続いている」と、「芭蕉(四十三歳)は会長、其角(二十六歳)は社長」とユニークして適切な指摘をしている。これに、嵐雪(三十三歳)と杉風(四十二歳)を付け加えると、嵐雪は専務(元禄元年に立机か)、杉風は副会長(後に、去来が西日本担当、杉風が東日本担当の二人制)というような位置付けであろうか。それよりも、この杉風は、其角・嵐雪が「業俳」(職業的点者)とすれば、杉風は「遊俳」(趣味的俳人)ということになり、芭蕉没後は、この「業俳」グループの「其角」派・「嵐雪」派、そして「遊俳」グループの「杉風」派と江戸蕉門は分裂していくこととなる。そして、それが顕著になるのは、芭蕉没後というよりも、宝永四年(一七〇七)の其角没後ということになろう。その江戸蕉門の一派を形成していく、「杉風」派の元祖の杉風のプロフィールは、次のアドレスで、以下のように紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/sanpu.htm

杉山杉風(1647~1732)
江戸幕府出入りの魚問屋主人。正保4年(1647年)生れ。蕉門の代表的人物。豊かな経済力で芭蕉の生活を支えた。人格的にも温厚篤実で芭蕉が最も心を許していた人物の一人。芭蕉庵の殆どは杉風の出資か、杉風の持ち家を改築したものであった。特に奥の細道の出発に先立って芭蕉が越した杉風の別墅は、現江東区平野に跡が残っている採荼庵(さいだあん)である。早春の寒さを気遣った杉風の勧めで旅の出発が遅れたのである。一時5代将軍綱吉による生類憐の令によって鮮魚商に不況がおとずれるが、総じて温和で豊かな一生を送った。ただ、師の死後、蕉門の高弟嵐雪一派とは主導権をかけて対立的であった。享保17年(1732年)死去。享年86歳。なお、杉風の父は仙風で、享年は不詳だが芭蕉はこれに追悼句「手向けけり芋は蓮に似たるとて」を詠んでいる。
(杉風の代表作)
影ふた夜たらぬ程見る月夜哉 (『あら野』)
肩衣は戻子(もぢ)にてゆるせ老の夏 (『あら野』)
襟巻に首引入(ひきいれ)て冬の月 (『猿蓑』)
年のくれ破れ袴の幾くだり (『猿蓑』)
がつくりとぬけ初(そむ)る歯や秋の風 (『猿蓑』)
手を懸ておらで過行(すぎゆく)木槿哉 (『猿蓑』)
子や待(また)ん餘り雲雀の高あがり (『猿蓑』)
みちのくのけふ関越(こえ)ん箱の海老 (『炭俵』)
紅梅は娘すまする妻戸哉 (『炭俵』)
めづらしや内で花見のはつめじか (『炭俵』)
挑(提)灯の空に詮なしほとゝぎす (『炭俵』)
橘や定家机のありどころ (『炭俵』)
菊畑おくある霧のくもり哉 (『炭俵』)
このくれも又くり返し同じ事 (『炭俵』)
雪の松おれ口みれば尚寒し (『炭俵』)
昼寐して手の動やむ團(うちは)かな (『續猿蓑』)
枯はてゝ霜にはぢづやをみなへし (『續猿蓑』)
一塩にはつ白魚や雪の前 (『續猿蓑』)
菊刈や冬たく薪の置所 (『續猿蓑』)

これらの杉風の代表作を見ていって、杉風の作風は大雑把に、この「炭俵」(軽み)調のということになろう。「軽み」調とは、「素直な自然観照による平明な表現を志向」(『俳文学大辞典』)しているものといえよう。掲出の杉風の「屋形舟上野の桜散(り)にけり」は、この「軽み」調そのものの見本のような句である。これに対して、其角の「屋形舟花見ぬ女中出(で)にけり」とは、杉風(兄)の句が、「桜散(り)にけり」で、その「花見ぬ女中」の句へと転じているのである。それは「素直な自然観照」より生まれ出てくるものではなく、「さまざまな細工」(作為的工夫)を施して、この掲出句でするならば、「花見ぬ女中ちりなん後に悔しからまし」との作為を施し、「平明な表現を志向」するというよりも「詞の持つ幻術性の発揮を志向」し、この掲出句でするならば、「出(で)にけり」と、一編のドラマ風の仕立ての措辞で、換骨奪胎をしているのである。この二句を並記して、この其角の句(弟)は、杉風の句(兄)の「等類」の句と見る人はいなかろう。これは、杉風の景気(叙景)の句(兄)に接して、其角は、ドラマチックに、人事の句に転換してのものと理解すべきなのであろう。そして、こういう、予想もしない異質の世界へと転換させることが、「番匠たるものの器量のいたす」(『いつを昔』跋)ところであり、そういう作為を施すのが、業俳として、プロの俳諧師としての務めなのだということなのかも知れない。この十一番の兄弟句は、杉風の作風と其角の作風を知る上で恰好のものといえるであろう。

(謎解き・六十三)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十二番
   兄 杜国
 馬ハぬれ牛は夕日の北しく(ぐ)れ
   弟 (其角)
 柴ハぬれて牛はさなか(が)ら時雨かな

杜国については、次のアドレスで、以下のように紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/tokoku.htm

坪井杜国(つぼい とこく)(~元禄3年(1690)2月20日)
本名坪井庄兵衛。名古屋の蕉門の有力者。芭蕉が特に目を掛けた門人の一人(真偽のほどは疑わしいが師弟間に男色説がある)。杜国は名古屋御薗町の町代、富裕な米穀商であったが、倉に実物がないのにいかにも有るように見せかけて米を売買する空米売買の詐欺罪(延べ取引きといった)に問われ、貞亨2年8月19日領国追放の身となって畠村(現福江町)に流刑となり、以後晩年まで三河の国保美(<ほび>渥美半島南端の渥美町)に隠棲した。もっとも監視もない流刑の身のこと、南彦左衛門、俳号野人または野仁と称して芭蕉とともに『笈の小文』の旅を続けたりもしていた。一説によると、杜国は死罪になったが、この前に「蓬莱や御国のかざり桧木山」という尾張藩を讃仰する句を作ったことを、第二代尾張藩主徳川光友が記憶していて、罪一等減じて領国追放になったという。元禄3年2月20日、34歳の若さで死去。愛知県渥美郡渥美町福江の隣江山潮音寺(住職宮本利寛師)に墓があるという。
(杜国の代表作)
つゝみかねて月とり落す霽かな (『冬の日』)
曙の人顔(がお)牡丹霞にひらきけり (『春の日』)
足跡に櫻を曲る庵二つ (『春の日』)
馬はぬれ牛ハ夕日の村しぐれ (『春の日』)
この比の氷ふみわる名残かな (『春の日』)
麥畑の人見るはるの塘かな (『あら野』)
霜の朝せんだんの實のこぼれけり (『あら野』)
八重がすみ奥迄見たる竜田哉 (『あら野』)
芳野出て布子賣おし更衣 (『あら野』)
散(る)花にたぶさ恥けり奥の院 (『あら野』)
こがらしの落葉にやぶる小ゆび哉 (『あら野』)
木履(ぼくり)はく僧も有けり雨の花 (『あら野』)
似合しきけしの一重や須广の里(『猿蓑』)

この「杜国の代表作」から、掲出の句は『春の日』所収の杜国の一句ということになる。芭蕉七部集の『冬の日』・『春の日』・『あら野』は、尾張(名古屋)蕉門のトップリーダーを担った山本荷兮の編纂とされている。そして、杜国は、この荷兮らのもとにあっての、尾張蕉門の有力俳人の一人であったということになろう。杉風は芭蕉が最も信頼を置いていた後援者のような遊俳の一人とするならば、杜国は芭蕉が最も親近感を抱いた愛弟子のような遊俳の一人ということになるであろう。また、杉風が不作為の無技巧派の俳風とするならば、杜国は作為の技巧派の作風ということになろう。そして、其角の作風は、この杜国、そして、その親玉格の荷兮の、作為の技巧派の作風に極めて近いということができよう。この掲出の、いわば作風的に同じグループとも思える杜国の句(兄)と其角の句(弟)とは、「馬」を「柴」に変え、上五を「柴ハぬれて」と字余りの「て」留めにして、中七を「牛はさなか(が)ら」とその焦点化と比喩的な措辞を配して、其角らしい彩りを施してはいるが、十一番の杉風に施した彩りほどは、この其角の彩りは鮮やかではない。これでは、この二句は、「兄弟句」というよりも、「類想句」と解する方が多いのではなかろうか。これらのことを念頭に置きながら、次の其角の判詞を見るのも一興である。

※此(この)二句はからびを云とりし迄にて類想多く聞(きこえ)侍れども、馬とく進み牛緩(ゆる)ク歩(あゆみ)て、斜陽のこれと見し風景としつ(づ)くおもく成(なり)て、牛はさなか(が)ら時雨をしらせたるあゆみとそ(ぞ)けしきつき侍る也。句の面にて兄弟たしか成(なる)へ(べ)し。


(謎解き・六十四)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十三番
   兄 神叔
 うつ(づ)火に土器(かはらけ)ふせし匂かな
   弟 (其角)
 埋火やかはらけかけていちりやき

「神叔」についての活字情報はほとんど目にすることができないが、『田中・前掲書』では、「俳系略図」で「神叔(嵐雪系) 江戸住」とあり、「『萩の露』によれば、(略)集まったのは、仙化・嵐雪・神叔(しんしゅく)・(略)」と、神叔(しんしゅく)の読みらしい。また、同著では、『炭俵』の入集者の一人として、「神叔は其角・嵐雪二派に属していたと考える」、「『末若葉』下巻の発句の部に、嵐雪をはじめ、嵐雪の門人で其角とも親交があった神叔・氷花・序令などの句が見えないのは、本書が其角一門の撰集として編まれたからであろう」との記述が見られる。

ネット関連では、次のアドレスの、俳書『東遠農久(とおのく)』(百里編)で「神叔 跋」
とのものを目にすることができる。

http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2002/042.html

ちなみに、このネット関連は、「東京大学総合図書館の俳書」の「大野洒竹文庫」関連のもので、下記のアドレスで、其角編『いつを昔』の図録を見ることができる。(其角編。刊本、半紙本1冊。去来序。湖春跋。後補題簽、中央双辺「いつを昔 誹番匠/其角」)。

http://www.lib.u-tokyo.ac.jp/tenjikai/tenjikai2002/031.html

この其角の『兄弟句』の三十八番に出てくる「轍士」が匿名で論評した『花見車』(元禄十五年)には、「こうし」(格子)の部で、「晋さま(其角)や雪さま(嵐雪)のやり手なりしが、よろづきやうな御人(おひと)にて、いまはこうし(格子)にならんした。さりながらぶたごな(無単袴な=不恰好で不作法なこと)ほどに、立身はあるまいと」との記述が見られる。「格子」は、遊女の階級の一つで、江戸吉原で太夫につぎ、局女郎より上の位の女郎である。この『花見車』には、京・大坂・江戸の三都および諸国の点者二一五名が「太夫」「天神」などと遊女の位に見立てて、その評判記が記述されており、神叔は江戸の其角・嵐雪(太夫で記述されている)につぐ業俳(職業俳人)の一人のようである。この『兄弟句』には嵐雪は登場しないので、嵐雪の代理のようなことで、其角はここに登場させたのかも知れない。

さて、この神叔の「うつ(づ)火に土器(かはらけ)ふせし匂かな」の句に、其角は、「炉辺の閑を添(へ)て侘年の友をもてなしたり冬こ(ご)もりのありさま」ととらえ、「言外弟て(で)いへるいちり焼いりものしてと書けん古人の興を今の俗言にとりなして」、「柴火三盃たのしみうらやむ所に品かはれり」と、すなわち、「埋火やかはらけかけていちりやき」と変転させるのである。そして、これは、「冬夜即時の反転なり」と嘯くのである。この「いちりやき」は、「弄り焼き(いじりやき)」(餅などをせわしく幾度も裏がえし焼くこと。ここは酒の肴を弄り焼きしているか)と解して、この変転の仕方は、いわゆる「匂付け」(前句の言外の余情を感じとっての付け)の趣である。例えば、「前句に接する→その言外の余情を感じとり→新しい転じの句を創案する」、こういう「匂付け」的な、発句の創案というのは、その程度の差はあれ、誰しも経験するところのものではなかろうか。そして、こういう「匂付け」的なものは、本句(付句的には前句)と別次元の世界へ転じており、これは「等類」の世界のものではなかろう。この十三番の、両句(兄・弟)に接して、これは「等類」ではなく、其角のいう、まぎれもなく、「等類を逃るる」ところの「兄弟句」という思いを深くする。

(謎解き・六十五)

※『句兄弟』 http://kindai.ndl.go.jp/index.html

十四番
   兄 古梵
 この村のあはう隙(ひま)なき鳴子哉
   弟 (其角)
 あはうとは鹿もみるらんなるこ曳(ひき)

古梵(こぼん)については、下記のアドレスに、次のとおり紹介されている。

http://www.ese.yamanashi.ac.jp/~itoyo/basho/whoswho/kobon.htm

(古梵・生没年不詳)
尾張の僧。『あら野』などに入句。
(古梵の代表作)
たれ人の手がらもからじ花の春 (『あら野』)
笠を着てみなみな蓮に暮にけり (『あら野』)

この古梵は「尾張の僧」という。何か、芭蕉七部集の『冬の日』・『春の日』・『あら野』を編んだ、山本荷兮が思い起こされてくる。もし、十三番の神叔が、雪門の嵐雪の代理での登場ということになると、この古梵は、尾張(名古屋)蕉門のトップリーダーの荷兮の代理登場という趣でなくもない。この荷兮について、先の「轍士」が匿名で論評した『花見車』では、次のように記述されている。

※尾張 荷兮  身のねがひありてみやこにのぼり、太夫の位にならんとしたけれど、今はあとへもさきへもゆかず、松尾屋のむかしこそなつかしけれ。(この「身のねがひありてみやこにのぼり」は、「元禄十二年青葛葉を刊行した後、連歌師昌達として、連歌に精進し、やがて里村家を頼って上京し、法橋となった」をことを指すとの註がある。また、「松尾屋のむかしこそなつかしけれ」は、「芭蕉に師事していたことがなつかしい」との註がある。これらから、この荷兮は、「本来ならば、太夫なれた俳人であるが、芭蕉門を離脱して、今では、連歌師となって、さぞかし、芭蕉門の居た頃を懐かしんでいることだろう」のような意味であろう。)


 其角は、この作為派の荷兮を高く評価していた。先に触れた『いつを昔』では、荷兮の代表作の「凩に二日の月の吹ちるか」の句を、巻頭の露沾の「春も来ぬ南の誉レ星の道」に続いての二番手に持ってきている。そして、その荷兮の次に、芭蕉の「あかあかと日は難面(つれなく)も秋の風」と続くのである。この『いつを昔』が刊行されたのは、芭蕉在世中の、元禄三年(一六九〇)で、その頃から、芭蕉と荷兮との関係はこじれていたのであろう。そして、『句兄弟』が刊行されたのは、芭蕉が没した元禄七年で、それが日の目を見たのは、芭蕉が没した後であった。もう、この頃は、荷兮は芭蕉と袂を分かっていたのであろう。芭蕉没後の元禄十二年に刊行した、荷兮の『青葛葉』は、芭蕉に離反して古風に帰った『ひるねの種』『はしもり』に次ぐ最後の撰集とのことである(『俳文学大辞典』)。
これらのこともあって、「芭蕉十哲」の一人として、この荷兮を入れているのは見かけないが、やはり、蕉門の全体の流れから見ていって、その頂点に位置する『猿蓑』を築き上げる原動力となったのが、荷兮ということで、たとえ、轍士の『花見車』の記事のとおり、「松尾屋のむかしこそなつかしけれ」という状態にあったとしても、この荷兮は、忘れてはならない存在であろう(そして、其角も、『いつを昔』などでの荷兮への傾倒ぶりなどを見ると、そんな思いをしていたようにも思えるのである)。

さて、この掲出の句(兄・弟)の「あわう」とは「粟生(あわふ)」(粟のは生えている畑。粟畑)と解する。そして、この古梵の「この村のあはう隙(ひま)なき鳴子哉」の句は、何と、荷兮の「凩に二日の月の吹(き)ちるか」の句に似通っていることか。「隙(ひま)なき鳴子哉」の、この大げさな見立てが、荷兮の「二日の月の吹(き)ちるか」の、この大げさな見立てに通じているのである。こういう大げさな見立ては、其角も得意とするところであった。「切られたる夢はまことか蚤のあと」(『花摘』)と、ここまで来ると、芭蕉が、この句を評して、「しかり、彼(其角)は定家の卿なり、さしてもなきことをことごとしく言ひつらねはべるときこえし評に似たり」(『去来抄』)と、「何でもないことに奇想を構へて、人を驚かさうといふ考へが、実にありありと看取される」(潁原退蔵『俳句評釈』)ということになる。こういう作風を、芭蕉は『猿蓑』以降において、排斥していくこととなる。そして、それらを排斥していくとともに、「軽み」(気取りや渋滞のない、平淡でさらりとした作風)へと重心を移していく。こういう芭蕉の姿勢に反旗を翻したのが、荷兮その人である(其角も内心では荷兮と同じであったろうが、其角は荷兮と違って、そのスタートの時点から芭蕉と共にしており、「師は師、吾は吾」と相互に許容仕合える環境下にあった。極端にいえば、其角は芭蕉に対して「面従腹背」であったが、荷兮はそれが出来なかったということであろう。それは、荷兮が武家出身という其角との環境の違いに大きく起因していることなのかも知れない。ともあれ、荷兮は公然と芭蕉と袂を分かったということで、轍士の『花見車』に出てくるように、蕉門の荷兮ではなく、尾張の荷兮ということで、他の蕉門の面々とは一線を画されることとなる。こういう荷兮を其角がどう見ていたかは、大きな関心事の一つである)。この其角好みの作為の一句を換骨奪胎するのに、其角は、芭蕉の指摘した定家の卿よろしく、和歌の雅の象徴のような「鹿」を配して、
「あはうとは鹿もみるらんなるこ曳(ひき)」と俳諧的というよりも連歌的な一句に仕上げたのは、やはり、「誹番匠」其角の腕の冴えであろう。また、この判詞に見られる「農ヲ憐レム至誠」というのは、当時の「士農工商」という身分制度に批判的であった其角の底流に流れていたということを付記して置く必要があろう。