木曜日, 8月 07, 2008

「たかし楽土」の世界(一~十)



「たかし楽土」の世界



○ 山越えて伊豆へ来にけり花杏子 

 松本たかしの、昭和六年刊行の『日本新名勝俳句』(高浜虚子選)の「帝国風景院賞」に輝いた句である。そのときの応募投句数は十万三千二百七句、入選作は一万句、さらにその中の「帝国風景院賞」(「優秀句・金牌賞」の百三十三句のうちの最優秀句)を射止めたものが二十句で、この句は、その二十句のうちの一句ということになる。
 「日本新名勝」の百三十三景のうちの「温泉」の部の「熱海温泉」の句である。「熱海温泉」の句というよりも「伊豆・天城山」の句という感じでなくもない。川端康成の名作「伊豆の踊子」は、昭和元年(一九二六)の作。上五の「山越えて」も、「伊豆へ来にけり」も、そして、下五の季語が、「花杏」の措辞ではなく「花杏子」というのも、どことなく、康成の「伊豆の踊子」を連想させる。
「たかし」は、明治三十九年(一九〇六)生れ、昭和三十一年(一九五六)没。東京都神田猿楽町出身で神奈川県鎌倉市浄明寺に住んでいた事もある。高浜虚子に師事し、「ホトトギス」の同人となる。能役者の名家に生まれたが、病身のため能役者を断念。平明な言葉で、気品に富む美しい句を残した。昭和二十八年(一九五三)、第五回読売文学賞の詩歌俳句賞を『石魂』で受賞。弟に能楽師の松本惠雄(人間国宝)。
 
○ 温泉(ゆ)煙のまた濃くなりし椿かな

 この句も、『日本新名勝俳句』の「温泉」の部の「熱海温泉」の句で、こちらは入選句である。とりたてて、熱海温泉での句というよりも、とある温泉に浸りながら印象鮮明な椿の花を見たという句であろうか。たかしは、川端茅舎とともに、「四S」(秋桜子・誓子・青畝・素十)以後の「ホトトギス」を背負う俳人と称されるが、この二人は、確かに、「四S」の俳人達とは異質の世界での、いわば、茅舎が「茅舎浄土」(穢れのない美的世界)とするならば、たかしは「たかし楽土」(夢幻の感覚的な美的世界)という印象を深くするが、この句の、この感覚的に鋭い椿の把握は、その後の「たかし楽土」の世界の片鱗を垣間見せてくれる思いを深くする。
 虚子は、和三年(一九二八)四月に、大阪毎日新聞社講演で始めて、「花鳥諷詠」ということを提唱して、爾来、亡くなる昭和三十四年(一九五九)まで、「俳句は花鳥諷詠詩」ということの提唱とその実践をし続けてきた俳人であるが、虚子が胸中に抱いて「花鳥諷詠」の世界というのは、いわゆる、「四S」の世界のものではなく、茅舎の「茅舎浄土」(穢れのない美的世界)、そして、たかしの「たかし楽土」(夢幻の感覚的な美的世界)に、より近いものだったのではなかろうか。

○ チチポポと鼓打たふよ花月夜

 昭和十三年(一九三八)の作。たかしは宝生流能役者松本長(ながし)の長男。松本家は代々幕府に仕える能役者の名門である。たかしは大正三年(一九一四)、九歳のとき初舞台を踏んだという。その舞台稽古をつけてくれた方は、宝生流の家元、宝生九郎という。そして、能の稽古一筋に歩み、中等教育は全て私塾に通って習得したという。十五歳の頃、身体に異変を感じ、「肺炎カタル」ということで、専心療養の途につく。そして、父の手引きで、大正七年(一九二二)、十七歳の頃、高浜虚子の門に入り、「ホトトギス」に投句するようになる。たかしは、将来を能役者の道ではなく、俳人の道へと歩むこととなる。しかし、その胸中には、能役者の松本家の思いがたぎっていたことであろう。この掲出句の「チチポポ」は鼓の擬音語であると共に、能の象徴的な用語ということになろう。そして、「花月夜に、鼓を打ち、能を舞いながら、一夜過ごさん」と、これこそ、「たかし楽土」の象徴的な句であろう。

○ 夢に舞ふ能美しや冬籠
 
 昭和十六年(一九四一)作。もはや、能楽の道を断念したたかしにとっては、「夢の中で舞う」ほかは術がなかったのであろう。というよりも、たかしにとって能楽とは終生まとわりついて離れない妄執のようなものであったろう。その妄執の夢幻の中で、「能を舞う」、その「美しさ」に、さぞかし、「現実に能を舞うことのできない」吾が身を、責め立てたことであろう。しかし、そういう悲愁は、一切、胸中に閉じこめて、夢幻の境地に彷徨うような「たかし楽土」となって、いわば、夢幻能のような美的世界を訴えかけてくる。この季語の「冬籠」の、「堪え忍ぶ」たかしが、即、「さればこそ、『たかし楽土』」という、その「楽土」の正体なのであろう。

○ 金魚大鱗夕焼の空の如きあり

 『松本たかし句集』(昭和十年刊行)の中の一句。茅舎とたかしとは、共に、「如し」の直喩を得意とする作家で、その多用と共に、その句境から、しばしば、「茅舎浄土」、「たかし楽土」と並称される。山本健吉は、「茅舎が形象の中に寓意を含んで絢爛たるのに対して、たかしはただひたすら感覚的と言えるかも知れない。つまりたかしの比喩は『物の見えたるひかり』(芭蕉)をずばりととらえた時出てくるのだ。比喩とは言わば間接的な叙法であるが、そのような間接叙法を直接叙法以上に直接的、端的に駆使し得た時、それは始めて生きるのである」(『現代俳句』)と指摘している。豪華な一匹の金魚を、「夕焼の空」(夕焼けの鮮やかな色彩の変化)の「如きあり」(それを目の当たりにしている)と、「たかしの直喩の代表的な作品」であろう。確かに、こういう句に接すると、芭蕉の「物の見えたるひかり」をとらえた句ということを実感する。

○ 芥子咲けばまぬがれがたく病みにけり

 『松本たかし句集』の昭和七年作。当時の年譜に、「春から梅雨にかけて神経症で弱る。ホトトギス雑詠への投句もこの三、四ヶ月は怠るといふことが、凡そ毎年の例となる」との記述がある。たかしの宿痾は、この神経症(ノイローゼ)と結核(肺炎カタル)とであった。芥子の花は濃厚に見えて淡泊な美しい花だ。そして、芥子の花は、たかしの宿痾が毎年昂じる頃咲く花だ。この句の「まぬがれがたく」とは、「今年もまた」という、たかしの絶叫でもあろう。しかし、その絶叫は、悶え苦しむ絶叫ではなく、淡泊な可憐な一日花の芥子の花のように、己の傷つきやすいことを知りながら、その傷つきやすいことを愛隣しているような、溜め息にも似た吐息のような雰囲気である。すなわち、「楽土」の吐息とでも言うのであろうか。たかしは決して絶叫はしない。また、その病的な神経から来る歪んだ異常性の強い句もない。たかしの句は、内面の葛藤を止揚したような、安らぎの「楽土」の世界のものであるという思いを深くする。

○ 萩むらに夕影乗りし鶏頭かな
○ 我去れば鶏頭も去りゆきにけり
○ 鶏頭の夕影並び走るなり

『松本たかし句集』(昭和十年刊行)の中の鶏頭の三句。一句目、「夕日の中の白い花の萩叢の中の赤き鶏頭」、二句目、その「観照を尽している我とその客体の鶏頭との極み」、そして、三句目、「並び走るのは、鶏頭を染めた夕日とその影」、この三句を見ただけでも、たかしの美的感覚というのを、まざまざと見せつけられる思いがする。と同時に、師の虚子の、「客観写生」、そして、「花鳥諷詠」の一典型という思いがしてくる。虚子は、茅舎をして、「花鳥諷詠真骨頂漢」という名を冠したが、たかしもまた、「花鳥諷詠真骨頂漢」という名を冠することができよう。秋桜子去り、誓子去った、昭和十年代に、虚子が、「茅舎とたかしを得た」というのは、当時の虚子の偽らざる心境であろう。それにしても、「茅舎浄土」の茅舎に比して、「たかし楽土」のたかしの影が薄いのが、どうにも気になるところでもある。

○ まひまひの円輝きて椿泛(う)く

 『鷹』所収の昭和十二年作。「まいまい」は鼓虫。関東では「水澄し」ともいう。ところが、「関西」では「水澄し」を「あめんぼ(水馬)」ともいう。偶然なのかどうか、能役者の家系に生まれたたかしが「鼓虫」(まいまい)の句というのは、何か因縁めいてくる。たかしは、この「鼓虫」(まいまい)に、真紅の落花して水に浮いている椿の花を対比して、一句にしている。「鼓虫」(まいまい)は、六・七ミリの光沢のある黒い瓜実状の虫で、ここにも、たかしの感性的な色彩的な視点がある。そして、ここにもまた、「たかし楽土」という世界が顕現化してくる。これが、茅舎になると、茅舎は「あめんぼ(水馬)」の句で、「水馬大法輪を転じけり」(「大法輪とはお釈迦様が説かれた偉大なる教え(法・真理)」)と、こちらは、「茅舎浄土」という世界という雰囲気である。しかし、この両者は、師の虚子の「客観写生」・「花鳥諷詠」の教えのもとに、小さな小さな水虫の実景をそのままに写して、「たかし楽土」、そして、「茅舎浄土」という、独特の世界を構築しているのが、何とも、ここでも、「花鳥諷詠真骨頂漢」という名を冠したくなる。

○ 微禄しつつ敢て驕奢や寒牡丹

 昭和十三年の作。微禄は貧乏、驕奢は贅沢くらいの意であろうか。寒牡丹に託してのたかしの自画像の一句か。昭和十一年(一九三六)の二・二六事件を切っ掛けとして軍部の独裁が進行しつつある暗い時代であった。そういう時代にあっても、「たかし楽土」の世界は終始そのペースを崩していない。たかしは生涯生業には就かなかった。病弱の身で、家産を譲られたわけでもなく、生活は、それこそ、「微禄」という現状にあって、終始、「驕奢」を好む江戸っ子的な浪費者でもあった。たかしは能役者の途を閉ざされ、俳人としてその生涯を全うすることとなるが、その俳句をとおして、多くの庇護者に恵まれていた。思えば、川端茅舎の「茅舎浄土」の「浄土」は、「穢れ・不浄」に比するものとすると、松本たかしの「たかし楽土」の「楽土」は、「苦悩・煩悩」にでも比するものであろうか。と共に、当時の満州国建国の理念とされた「王道楽土」(理想国家・ユートピア・楽園)の、その「楽土」ということもその背景にあろうか。それよりも何よりも、虚子は晩年に至って、「俳句は極楽の文学である」ということを提唱するのであるが、この虚子の「極楽の文学」の、その中味は、茅舎の「浄土」と、たかしの「楽土」が、その背景にあるように思えてならない。

○ 夜長星低くぞ燃ゆる崎を高み 
○ 宵闇に漁火鶴翼の陣を張り
○ 灯台光指揮し鯖火の動きそむ
○ 海(わだ)中に都ありとぞ鯖火もゆ
○ 漁火の海の都も夜中かな

 『火明』(昭和二十八年刊)所収の「足摺岬」二十九句のうちの五句である。戦後、たかしは病弱の身を呈して、たびたび遠出の旅をしている。昭和二十八年(一九五三)には、名古屋・岐阜・中津川・下諏訪・松山、そして、高知の足摺岬まで足を伸している。掲出の句はその時の作である。もうこの時には、僚友の川端茅舎はいない(昭和十六年に没している)。何故か、茅舎亡き後の、昭和十六年以降に、たかしの遠出の旅行吟が生彩を放ってくる。昭和十九年(一九四四)の戦時中に、名古屋・豊橋・飯田を経て、冬の天竜渓谷を訪れ、そこで「天竜渓谷」二十三句を得る。「冬山の我を挟みて倒れ来る」・「冬山の倒れかかるを支え行く」・「冬山の囲みを破り射す日あり」など、真冬の天竜渓谷の厳しい姿を、激しい気迫をもってとらえている。たかしは、これらの俳句を持って、これが自分の戦争俳句だと揚言したとか。とにもかくにも、これらの旅行吟には、いわゆる、虚子流の「花鳥諷詠俳句」に見られない、気息の充実感と緊迫感とにみなぎっている。 そして、戦後の、たかしの旅行吟、例えば、掲出の「足摺岬」での句なども、まさしく、戦時下にあっての、たかしの旅行吟の集大成の句といっても過言ではなかろう。茅舎は、師の虚子の絶頂期に、「花鳥諷詠真骨頂漢」のまま没したが、たかしは、師の虚子の晩年を仰ぎ見ながら、脱「たかし楽土」という世界の一端を垣間見せながら、昭和三十一年(一九五六)に五十歳で没した。虚子はその三年後の昭和三十四年(一九五九)に、その八十六年の生涯を閉じた。