金曜日, 4月 07, 2017

雪舟と探幽の「瀟湘八景」そして蕪村の「夜色楼台図」(その三)



 
雪舟と探幽の「瀟湘八景」そして蕪村の「夜色楼台図」(その三)











21  狩野探幽筆 雪中梅竹遊禽図襖 四面 紙本淡彩金泥引 各一九一・三×一三五・七cm  名古屋城(上洛殿三の間)







22  円山応挙筆  雪松図屏風 六曲一双 紙本金地着色 各一五五・〇×三六二・〇2㎝ 三井記念美術館蔵



 名古屋城上洛殿の「雪中梅竹遊禽図襖」(21)は、寛永十一年(一六三四)、探幽、三十三歳の時のもので、安土桃山時代の狩野永徳の「豪華壮麗」の世界を、探幽様式の「瀟洒淡泊」の世界へと一変させた作品として、夙に知られているものである。


 この「瀟洒淡泊」の探幽様式は、その後の江戸狩野派を規定するばかりではなく、江戸絵画の母体を規定する時代様式になったとまで評さられている(『別冊太陽 江戸絵画入門(河野元昭監修))


 この探幽様式は、「水墨技法の初発性」(雪舟水墨画技法の帰傾・筆墨飄逸)、「豊穣な余白」(減筆体と相まって無限の空間を創出する「余白の美」)とが、その大きな特色とされている

(『日本の美術№194狩野探幽(河野元昭編))


具体的に、その「水墨画の初発性」というのは、この二等辺三角形(右隻一・二面と左隻

一面)の中に描かれている老梅の墨の濃淡や筆割れや掠れは、先に触れた、画体の「真行

草・省」体の意識的な混交が見られ、緩急自在に「付立」(下絵などに頼らずじかに一筆の運びで表現する)や「片ぼかし・外隈」(雪を表現する時によく用いられ、枝の片側に墨を施し、その外側空間の部分にも墨を掃いて積雪を表現する)を多用している。

 それにも増して、この襖四面の、金泥引きに胡粉の白を刷毛掃きしたような「余白の美」は、これこそが「瀟洒淡泊」のネーミングの底流を流れているものであろう。雪・梅・竹・遊禽(雀・尾長・雉など)が「言葉のある空間」とすると、この余白は「言葉のない空間」という雰囲気で無くもない。


 この探幽の「瀟洒淡泊」は、「江戸文化を象徴する粋(いき)という言葉には、軽みが付随

する」(『別冊太陽 江戸絵画入門(河野元昭監修)』と関連し、その「粋」と「軽み」は「秘すれば花/秘せずは花なるべからず」(『花伝書(世阿弥著))に通じているのであろう。



 さて、次に「雪松図屏風」(22)なのであるが、一見すると、先の探幽の作品(22)

姉とするならば、この応挙の作品は妹の、姉妹関係にあるようにも思われる。しかし、両

者を仔細に見ていくと、一見、同じような志向で、同じような技法とで為されていると見

えるものが、実は、この応挙の作品は、この探幽の作品の、その真逆に近いいものを意図してのものということが察知される。



[「雪松図屏風」は、近くで観察すると筆の省略が見られるなど、いわゆる精密な写生図ではない。しかし「遠見の絵」として鑑賞されるとき、画面の向こうに広がる雪世界にあたかも実際に松が生えているかのような印象を与える。この「本物らしさ」こそ、応挙が目指した新画風である。本図の地には金泥が引かれているが、これは単なる装飾ではない。応挙が描いたのは、陽光によって金色に照り輝き、身を引き締めるほどに冴えわたった大気なのである。また、松の樹下に光る金砂子とて、伝統的・工芸的な装飾技法ではありえない。朝の光を祝福して踊るかのように燦めく雪の結晶なのである。() 牧谿をはじめとする中国の水墨画が、日本で規範として受容され、独自の変容をとげ、日本の水墨画となっていった。円山応挙「雪松図屏風」の光り輝く大気が充溢する空間は、日本水墨画史の系譜上に位置している。 ] (「聚美《20111》特集円山応挙と呉春」所収「雪松図屏風の空間と形式の成立―円山応挙の大画面構成について―(樋口一貴稿))



 ここで、両者の顕著なる異同やその感想などについて触れておきたい。



一 探幽の「余白」は、「言葉のない空間」(語らない空間)に比して、応挙のそれは「言葉のある空間」(上掲の引用ですると、「陽光によって金色に照り輝き、身を引き締めるほどに冴えわたった大気なのである」「朝の光を祝福して踊るかのように燦めく雪の結晶なのである」と「語っている空間」)ということになる。


二 探幽の「省筆」(減筆体)は、上記の「余白」の「言葉のない空間」と一体を為しているものとすると、応挙のそれは、まさしく、「言葉のある空間」と一体を為していて、それぞれ意味のある「省筆」(減筆体)なのである。それは、「何も描かない」(省筆=減筆体)で「雪」そのものを写生()しているのである。


三 探幽の「写実」(写生)は、後に「探幽縮図」として膨大な遺産を遺すほどに、いわゆる「本絵」を描くための「下絵」的な従たる世界のものに比して、応挙のそれは「写生=写実=『実体らしきもの』の描写=究極的世界」と、それこそが、主たる世界のものとして、その創作活動の基本に据えて、隅々まで、その「写実」(写生)を徹底させている。


四 探幽の「空間」が平面的な空間とすると、応挙のそれは立体的な空間で、「中央に余白を設け、右隻では右上方奥から左下方手前へ、左隻では左下方手前から右上方手前へという大きな動きが看守される。() 全体として時計回りの立体的循環が生じ、余白が立体的空間として把握されるようになる」(「樋口一貴前掲稿」)。応挙は若年時玩具商に奉公し、「眼鏡絵」制作に携わった経験があり、そこで得た「遠近法的画面構成法」が、応挙の立体的空間作りの源となっている。


 探幽の絵が「近見の絵」(近くで鑑賞する細密描写に気を配ったもの)とすると、応挙のそれは「遠見の絵」(遠くから見て真価を発揮するもの)ということになる。
探幽の「雪中梅遊禽図襖」の右隻一面に、老梅にたむろしている雀の上に一羽の雀が空中に飛んでいる。そして、左隻の二面に、空中に飛んでいる尾長が、左隻一面の老梅の細い枝の先端を振り返って見ている。中央の右隻二面に、枝に留まっている雉か尾長の尻尾が描かれている。その胴体が失われているが(完成後、損傷し修復したのかどうか不明)、その胴体が空間の中に隠れている感じすら受ける。右隻一面の老梅の枝先に、三本の若梅の枝が垂直に空間の上に伸びきっている。その下方に雪を被った竹の枝と葉が描かれている。この全体の、詩情性豊かな軽やかな、余白空間には圧倒される。


六 応挙の「雪松図屏風」については、「樋口一貴前掲稿」の中で、次のように細かく描写の記述の後に、「遠見の絵」であることを述べられている。

「松は輪郭線を用いない没骨法を描かれおり、枝には付立の技法も使用され、モチーフの立体感を表現している。樹皮には筆を幾重にも重ねることでごつごつとした質感を表現し、松葉はその一条に張った様子が描き込まれている。右扇には直線的で力強い松が唯一本あるばかりで、一方左隻には曲線的で柔らかい二本の若木が配される。雪のハイライトが眩しい松叢の描写も、左隻では直線的、右隻では曲線的と、樹幹の形態と対応している。雪の部分は、紙の地そのままを生かして効果的に表現されている」。続けて、「『雪松図屏風』は、近寄ってみると松葉が存外粗い筆遣いで描かれているのだが、十分に間を取って見た場合には雪原の中に松樹が立体的に浮かび上がってくる。まさに『遠見の絵』である」としている。
 これを先に触れた探幽様式の、「水墨技法の初発性」(雪舟水墨画技法の帰傾・筆墨飄逸)、と「豊穣な余白」(減筆体と相まって無限の空間を創出する「余白の美」)(『日本の美術№194狩野探幽(河野元昭編))とで比較検討すると、両者の相違点が浮き彫りになってくる。
 すなわち、探幽が「水墨画の初発性」という偶発性の厭わないのに比して、応挙のそれ
は、それを回避するように「筆を幾重にも重ねることでごつごつとした質感を表現し、松葉はその一条に張った様子が描き込まれている」と、全て「写生()」の、その「実体らしきもの」を描出するための、あたかも実験的且つ作為的な技法を露出そのものなのである。これは、探幽と同じ視点の「近見の絵」として鑑賞すると、どうにも「重い」という印象は拭えない。


七 同じように、探幽の「豊穣な空間」に比すると、応挙のそれは、これまた、「光」とか「大気」とかの、その「実体らしきもの」を描出するための、すなわち、実験的な試行錯誤の末の作為に作為を重ねている、「人為の極の空間」という印象を深くするのである。
 それは、この屏風一扇一扇は、それぞれ一枚の紙に描かれていて、画面に紙の継ぎ手のないものを使用していることや、その紙の地肌の真っ白さを利用して塗り残して表現していること、さらに、墨の滲みを抑える紙を使用し、墨の濃淡であたかも紙に墨が滲んでいるような印象を与える描法を取っていることなど、「人為の極の空間・紙の選択・描法」等を駆使していることからも裏付けられるものであろう。


八 この「雪松図屏風」に使われている紙の大きさや滲まないものは、当時の日本製の和紙ではなく、中国南部からの輸入紙であったろうとされている(「聚美《20111》特集円山応挙と呉春」所収「紙の万華鏡(増田勝彦稿))

 そもそも、「雪松図屏風」のような大画面を描く場合に、「遠見の絵」を目指したというのは、応挙の言葉が多数抄録されている、応挙の支援者であった、三井寺円満院の祐常門主の『萬志』に書き留められているものであって、それは、応挙の創出した画法の一つと理解すべきなのであろう。


  「真物を臨写して新図を編述するにあらずんば、画図と称するに足らんや」(『仙斎円山先生伝(奥文鳴著))、この「真物臨写」が、応挙が目指した「写生」とされているが、応挙が編み出した「写生」は、「(真物)らしきもの」の飽くなき追及で、それはまた、若き日に身に着けた「眼鏡絵」の「からくり絵」的描写を根底に有するように思えるのである。


十 いずれにしろ、三代将軍徳川家光が上洛する折の名古屋城上洛殿の一角を飾った「雪中梅竹遊禽図襖」を有する探幽と、今に続く三井財閥の惣領家・北三井家(京都の豪商)の宮参りや正月などの祝いの席を飾ったとされている「雪中梅竹遊禽図襖」を有する探幽とが、前者は、膨大な「探幽縮図」を、そして、後者は、懐帖形式の「写生帖」や浄写形式の「草花禽獣写生帖」等を今に遺し、この両者は、無類の「模写・臨写・写生・写実」のテクニシャンであったということは、単に、この「雪中梅竹遊禽図襖」と「雪中梅竹遊禽図襖」との二点を見ただけでも察知出来るであろう。


十一 最後に、この大画面構成たる「雪中梅竹遊禽図襖」と「雪中梅竹遊禽図襖」とを、付かず離れず見て行くと、これは、名古屋城とか三井記念美術館とかの「晴れの場」には相応しいかも知れないが、日常手元に置いて、普段の日常生活の「褻の場」には、どうにもしっくり来ないということは、どうにも拭えないのである。


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